25『美作の野は晴れて』第一部、田植えの頃
5月から6月にかけては耕起(田起こし)から田植えの季節である。梅雨であるが、梅雨は7月の半ばの梅雨明けまで続く、長い時期とされている。天気予報で高気圧が日本列島に居座っている訳だ。家の仕事の手伝いを始めたのはいつの頃だったろうか。小学校に上がる前の私も家族労働力として働いたものだ。
さて、田圃の水温はまだ冷たさが抜けていない。苗床から苗を引き抜くのは、腰掛けて作業をしたので比較的に楽であった。それを拳大にして藁1本でクルクルと束ねる。それらを竹駕籠に入れる。そして、田圃のあぜ道までもっこに担いだり、両手に目一杯つかんで運んだ。農業を生業(なりわい)にするというのは、経営としては大変なことなのである。私の家を含めて、当時の近くの農家では、自宅で作った「堆厩肥(たいきゅうひ)」を使っていた。麦を植えなかった田圃には冬の間に有機堆肥をばらまいておく。
麦の収穫が終わった田圃にも、家族総出で牛糞を主体とした有機堆肥を撒いておく。牛は糞を藁にまぶして発酵させたもので、家の別庭の肥え積みの藁をくずしてもってきたものだ。人糞に比べるととそんなに臭いものではない。そいつをヤツデと呼ばれる引っ掛け爪の付いた道具を使って堆肥を掴んで持ち上げ、次の動作で杖を旋回させてその遠心力で堆肥をばらまいていく。
こうしておけば、稲にとって自分の養分となるばかりでなく、肥料が発酵で分解するときに還元状態となる。この酸素の欠乏によってコナガやヒエなどの雑草の発芽を抑えることができる。田植え時で見る限り、肥料は牛糞を主体につくった堆肥で作った有機肥料を用い、それを補うものとして、田植え直前の最後の仕上げに化学肥料を用いていたようである。
春の雪解けの頃より、水路や田圃には雨水がたまっている。この間まで蓮華が生えていた田圃にも水が張られていた。マルタニシやヒメタニシが温かくなって、泥の中から這い出て来る。水路の水たまりにいるモノアラガイやヒラメキガイは小さくひしめき合って冬を越してきたものと思われる。辺りには鷺に食い散らかされた彼らの遺骸も目にできる。カエルたちは赤いのや青いのや、泥色のやら、いろいろと居る。ヘビがそれを追いかけている姿も見えた。
夜のとばりが降りると、そこかしこのカエルたちが「ゲロゲロ」、「グゥグゥ」、聞きようによっては「グァグァ」とか鳴き出す。空には美しい月がかかっていた。
「日は日くれよ 夜は夜明けよと 啼く蛙」(与謝蕪村)
そんな我が家の田んぼに、朝の太陽がやってくる。「耕起」の作業には、私が低学年の頃までは、我が家の牛が動力として用いられていた。田植えをする日、早起きの父は牛に鋤を引かせて麦の根株の残ったままの田を耕す。
我が家では、「耕起」は二段階で行われていた。まず鋤の大きい農具で土を深くえぐっていく。土を反転させて耕耘するもので、「牛ん鍬」(「うしんぐわ」が「うしんが」と発音される)と呼ばれており、ほどよい曲がりのネリという堅めの木にクレを取り付けてある。その台木には厚めの鋭い刃がとりつけてあって、固い土を深いところでえぐり、掘り返しやすくなっている。その次にロータリ耕耘といって肌を見せた土をかき混ぜる。こちらの鋤はその上に人間が乗って牛に轢かせるスタイルをとっていた。
これらの作業は彼が小学校の3年生くらいになる頃には、耕耘機による耕起に変わっていったようである。これでやっと、我が家の親牛は苦しい限りの労働から解放されたようである。一通り、また一通りと刃を取り替えて、耕耘機による土の耕起が行われる。そうして耕起が終わると、田圃に水が引かれる。それでも足らない分だけ水がポンプを使って引かれる。水を引いたり、注いだりして田圃の面を一杯に満たす作業を「灌漑」(かんがい)という。その後には、父の手によって、硫安を主体とした化学肥料がばらまかれる。今度は人間が牛に馬鍬(まぐわ)を轢かせる。飛騨の白川郷辺りでは「まぐわ」がなまって「マンガ」と称されていたらしいが、8本であったか、太い鉄製の歯の付いた農具のことである。これを牛や馬に引かせる作業をたしか「代かき」(しろかき)と呼んでいた。
牛は、後ろから鞭でたたかれながら、何度も何度も田圃(たんぼ)を往復し代(しろ)かきをする。この作業は、「まんが」と呼ばれる鉄の串が何本も沢山備わったものを、牛に引かせるものであった。牛は相当の労働力を発揮することになる。白い泡を口のあたりによだれをたらすように吹いていたあの牛、びっしょり汗をかいていたあの牛、あの苦しげで悲しげな大きな2つの眼は今も私の脳裏にある。おそらく、これからも忘れることはないだろう。
この作業についても、牛の力によるものから、やがて耕耘機に置き換わっていった。その当時、代かきをなぜするのかと問われれば、私たちが田植えをできるように土を柔らかくするのが一つ、もう一つの目的は土の粒を細かく砕いて稲の苗を植えた田圃から水が漏れないようにすることだと答えただろう。これは後に知ったことだが、代かきをすると今一つの効用があって、代かきで草をすき込んだり、同じく土の中の酸素を少なくして雑草の発芽や成長を抑える役割がある。これには荒代と植え代と2回の作業があった。
二度の代かき(しろかき)を済ませると、それからは、父が化学肥料の硫安をつかんでは、ばらり、ばらりと撒いて歩く。それが終わった田圃に裸足で入ると、生ぬるく、足の裏にトロトロ、ツルツルのなめらかな土の感触があったものだ。これを稲作栽培では「トロトロ層」と呼んで、深いものでは十センチメートル以上に達するという。この泥の層が厚いことが稲の生育と深い関係にあることは後に知った。当時は、そんなことは学ばなかったが、そうした農業技術が採用されていたことは想像に難くない。
それが済むと、父は巧みに鍬を操って畦(あぜ)を造っていく。使う鍬は、普通は掘りの深い普通のもので土手を造るのであるが、もうひとつ刃先のそこが広平べったい「ジョレン」があって、こちらを仕上げに使う場合もある。畦に泥を塗りつけて壁を造り、水が漏れないようにするのであった。畑に、真上からみて平たい畝を作っていくのと異なり、こちらは斜め45度くらいに田んぼの外側にせり出すような形に、土の土手を作っていく。そんな作業だが、2014年の今は、それ専用機械を農機具メーカーが開発しているのをテレビで拝見した。それによると、その頃は全部一の手でやっていて、父が「バッ」と泥をかきあげ、「シャー」と上塗りしてゆく様はまるで職人芸であった。
父が朝早くからの田圃の用意を仕上げると、いよいよ田植えが始まる。このあたりでも、昔は朝のうちに「田の神様」にお供えをし、その神様に柏手をうって挨拶してから、作業にとりかかることをやっていたところもあったようだ。だが、我が家ではそのような風習はほとんど廃れていたようだ。それからは働き手としての子供の出番であった。苗を入れた二つの「もっこ」を天秤棒の前後に担いで、「ひょっこら、ひょっこら」とあぜ道にはいっていく。田植えをする田圃まで運んでいくと、「やれやれ」という気分で重たい荷物を畦の降ろす。それから一息入れてから、苗がまんべんに行き渡るように、それを3つ程度一掴みにして振り子のように腕を振りアンダーハンドで投げる。均一な密度でばらまかないといけないので、コントロールが大事になる。遠くへ投げるときは、「梃子(てこ)の原理」よろしく、思い切り後ろに振り上げてから投げた。
それらの作業をしている間に雨がふってくることも少なくなかった。そのときはみんな菅笠と簑、後にはビニロン製の雨カッパを着用して、仕事を続けた。作業を続けるうちには、痛む腰を尻目になんとな元気をつけようと、「茜たすきにすげの傘」とでも歌いたくなっていたものだ。雨の中で仕事を続けるのは一つ一つの動作がスムーズにいかないばかりでなく、体温もだんだんに奪われていくので、とても嫌であった。ブルブルと震えが来るときもあった。これに加えて、我が家の西の田んぼを田植えるときは、2枚の一反を超える田の他は、大半が棚田であった。その一枚あたりの面積は、傾斜が上にゆくに従い、だんだんに狭小なものになっていた。
我がのでの棚田は、それはとるに足らない小規模なものであったし、高度成長期が終わる頃にはしだいに耕されなくなっていった。今では、棚田は日本の原風景と言われ、カメラ雑誌などに頻繁に紹介される。その理由は、人々の郷愁を誘うばかりでなく、学術的にも芸術的にも価値が高いからなのだろうか。これらの日本の美しい棚田、県内ではさしあたり久米郡久米南町北庄の棚田が有名だ。ちなみに、久米の棚田を直接目にしたことはないのだが、写真での説明によると、2015年現在も標高300~400メートルの山合いに、2700枚、合わせて88ヘクタールもの棚田が広がっている。これだけの棚田はどのようにしてつくられたのだろうか。おそらくは、数百年来、人々がここにへばりつくように暮らしてきた人々が親から子へ、そして孫へと少しずつ鍬を入れ続けてきた。石ころだらけの土を掘り、それを階段状にならして堰をつくり、次々と開削してきたものに違いない。また、棚田というと斜面をびっしりと埋めているように思われがちである。しかし、2015年7月30日のテレビ朝日の番組『棚田』では、倉敷市児島宇野津のものはやや小規模であった。夜の闇の中に浮かび上がる仕掛けがしてあって、全体に荘厳さを称えていた。それにアイルランドの民謡ロンドンデリーのフルート演奏がつくというあでやかさがあった。その棚田に立ってカメラのアングルからこちら手前から南の方角を覗くと、その奥には水島コンビナートの光が瞬いている。その情景には、近代技術を体現したコンビナートがつくる光芒とのコントラストでもって視聴者を魅せようとの意気込みが感じられた。
さて、田植えの合間には、あたりに自生しているイタドリ(「サイジンコと呼んでいた)をとり、皮を剥いて食べた。酸味が強いものであるが、塩をまぶして食べるとおいしかった。田圃の中には池の方角からカエルがさらに産卵のためにやってくる。おたまじゃくしやその卵、そしてさまざまな小動物も見かけた。とはいえ、この頃の天候は梅雨の合間という類であって、安定しない。
「五月雨(さみだれ)を 集めて速し 最上川」(松尾芭蕉『奥の細道』)
ここで「五月雨」とあるのは、実は新暦の6月の頃の梅雨をいうが、さみだれと言う方がなんだか風情が出るから不思議だ。新暦の6月は「さつき」というが、「さつきを・・・・・」と言ってしまうと、流動感が出てこないし、そんなことも考えて俳句を見るとなんだか楽しい。
ともかくも、梅雨の合間には晴れ間が見える。土に湿り気が出てきた。その間をねらって豆を植える。幾晩か水に浸した豆を撒くには絶好のチャンス到来なのだ。田植えを済ませた田んぼの畦の内側には、既に田植えの時鍬による壁当てが施されている。その傾斜しているうねというか、壁には「あぜまめ」といって大豆と小豆を植えた。小豆とは小豆のことである。2つに分岐した棒を土中に押し込んで、穴を30センチメートルくらい間隔を置いて造っていく。その後から豆を2粒ずつ放り込む。その後を足先で土を寄せて穴を塞いだ。
(続く)
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