新18『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎1
当時は、野菜類は給食のおばさんたちの指導で、交代で家から野菜を持参していた。当番の日には早く来て、持参の野菜を給食室の前ではかりにかけて掛かりの委員にはかってもらう。委員はその結果をノートに記入する。
当番のときには、何学年かを問わず、1キログラムから2キログラムは持参していた。
昼の時間がくると、給食当番が白い服に着替えて給食室に行き、パンとミルクとおかずの入った箱やバケツを運んでくる。エレベーターはないので、階段を上がるときは、ミルクなどは「チャップンチャップン」という音に乗って液面が揺り立てられる。
「いけない。こぼれてしまうぞ」。
途端に、おそるおそる、ゆっくりゆっくりの足取りに変える。あわてて立ち止まり、息が整うまでの間小休止をする。蓋も密閉できるほどのものではなく、随分と用心して運んだ。
それでも、失敗することが小学6年生までの間に少なくとも二度くらいあった。一番危ないのは給食室を出発した直後で、まだ緊張感が足りないからそうなりやすい。次は教室への階段を昇ってテラスに出たところ、やっとたどりついたという解放感でそれまでの緊張がゆるんだのか、つるりとすべてしまうことがたまにあった。
その途端、
「アーっ、しまった・・・・・やってしまった!」
と、バサーッと廊下一杯にミルクをこぼしたこともあった。手が離れたのか、いまもってけつまづいた(転んだ)のかは分からない。
「仕方がないなあ」とか、
「あーあ」
とか、がっかり、それまでの緊張が解けて、気が抜けたようなの声が隣でした。
当番の一人が、さっそくぞうきんを取りに教室に急ぐ。二人目は、きびすを返して給食室に立ち戻り、おばさんたちの前で頭を垂れて「○年○組の当番の者です。すべってミルクをごぼしてしまいました。すみません」などと言い、代わりのミルクの配給を請うたのはいうまでもない。残りの当番が、そのままミルク以外を教室へと運んでいった。
毎日の給食が配膳されるまで、待つ間に、専制の言いつけで、二年から三年生のときには紙芝居をする役を仰せつかっていたときがあった。昼の給食の仕度が整うまで、何人かが交代でクラスのみんなに紙芝居を読んで、見てもらっていたのである。本館の校長室の隣であったろうか、放送室があって、その隅かどこかに書棚がしつらえてあって、そこに紙芝居が沢山収蔵されていた。
自分の版の時は、授業が終わると、足早にそこに出掛けて、好みのものを一つ選んでくる。日本のものでは、「浦島太郎」とか「野口英世」くらいであったろうか。浦島太郎は、初めは浮かれて他の楽しいのだが、最後に故郷へ帰りたい思いが角って、ついに失敗してしまう。後年知ったのだが、この物語は奈良時代の頃からすでにあったのだとか。せっかく不老不死の身の上であったのに、「愚かな奴」ということなのだろうか。
「常世辺に住むべきものと剣太刀汝が心からおそやこの君」(『万葉集』巻九、一七四一、作者は高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)、ちなもに一句前の一七四〇に長歌が収録される)
外国のものでは色々あって、『アルプスの少女ハイジ』では、クララが立って歩き出すシーンは感動ものだった。『宝島』や『トムソーヤの冒険』、それに『ウィリアムテルの物語』では手に汗握るような思いのするシーンに幾つも出くわした。『アリハバと50人の盗賊達』では、その帰り路、屏風のような切通しの前で、「ひらけーゴマ」とやっていたし、『アンクル・トムの小屋』は紙芝居をめくりながら涙がこぼれ落ちそうな時があった。『ガリバー旅行記』については、当時は、ガリバーに秘められた当時のイギリス社会への深い風刺の意味などは知る由もなかった。
伝記ものでは、ジェンナーの『種痘物語』を自分で読みあげながらも、大変な感動を覚えた。『ガリバー旅行記』は、クラスみんなの一番の人気だったといっていい。この話の肝どころは、ガリバーが小人国と巨人国の両方にとって異邦人であったことだ。後に知ったことだが、そこには、当時のイギリス社会への深い風刺の意味が込められていた。
『トムソーヤの冒険』は、とある島に流れ着いた男の物語である。必要なものは、座礁した船から持ってくることができる。缶詰のような長持ちのする食料もある。中には、おあつらえむきに豚とか山羊のような動物もいたっけ。だから、飢え死にしないだけの食料は溜置きとその都度の分を調達できる。だから、当分、飢え死にする心配はない。
時々は地味なものから、『アンクルトムの小屋』なんかを選んでいた。これには泣けた。これは、アメリカの作家であるストー夫人がまだ西部開拓時代にあって、発表したものである。あまりにもお人好し過ぎる。元の優しい主人が没落して、ミシシッピ川から船でニューヨークだったか、そこのとある「奴隷市場」に連れていかれ、1200ドルで買われた。新しい主人から奴隷たちの監督をやれと命令された。彼はその命令を拒否して、ひどく殴られてしまう。老人の体はその傷に耐えられず、やがて昔の主人の子と再会したところで力尽きる。
1863年11月、リンカーン大統領が南北戦争の激戦地、ペンシルバニア州ゲティスバーグで演説をした。「人民の人民による人民のための政治」と紙芝居に書かれていた。アメリカの南北戦争(1961~64年)は、稀に見る凄惨な戦場となった。なんでも、この日本の首相は元首ではないが、アメリカ大統領は元首である。かの国で大統領になる人は、国民の直接選挙で選のだということくらいは、知っていたのではなかろうか。
「それにしても、人民っていうのは、不思議な響きじゃなあ。」
「大統領より偉いのが人民なんじゃろうか?」
国の政治は、実生活から距離がありすぎて、突っ込んだことはわからない。民主主義について体験したり、教わったりすることがなかったとは言えないまでも、系統的に学ぶ機会がなかった。欧米でのような子供議会があったらよかったのかもしれない。
紙芝居に、リンカーンが劇場で背後から銃で撃たれる場面がある。その部分を読む時は、口が毎回重くなってしまう。舞台のドンチョーの後ろから何者かが機会を窺っている。そこまで読み上げながら、「なぜ気がつかないのか、早く逃げて」と、もどかしくて仕方がない。紙芝居を観ているみんなの中でも、緊張して、どうなるのかと固唾を呑んで見守っている人もいたのかもしれない。次の場面は、ベッドに頭を打ち抜かれた大統が横たわっている。彼はひどく苦しみ、呻いている。当時は弾の摘出手術もできなかったらしい。最後から2枚目はだったろうか、彼の亡骸を乗せた列車が故郷のイリノイ州の州都スプリングフィールドに向かっている。その列車には彼の棺が載せられている。大勢の人々が彼の死を悼んだ。
1年くらい前、何かの番組でアメリカ建国200年にまつわる記念番組がテレビで放映されていた。その中で、記者がニューヨークにある「リンカーン記念堂」から出てきたアメリカの小学生にマイクを向けていた。
「歴代のアメリカの大統領の中で、きみが一番尊敬できる大統領は誰ですか?」
その問いに、その子供は「エイブラハムだよ」と答えていた。もし今の日本の小学生が同じ質問をされたなら、何と答えるだろうか。その話の中には、もちろん、彼が黒人のことを「黒人種」と呼んで、白人と区別したことは含んでいないし、奴隷解放をすることによってして国の統一を果たせない、との信念の由来も語られていないのだが。今日はどのタイトルにするかの選択が済むと、いそいそと腕に抱えて教室に持ち帰り、教壇のに座って読んだ。時間は15分くらいか、なかには予定時間内に終わらない紙芝居もあった。そのときは途中で取りやめとした。
そのうち、給食係の人が、給食の用意ができたと教えてくれる。配膳が全部済んだところで、給食当番の一人が顔を輝かせて進み出る。そのときは、大抵は、丸い容器の中にまだミルクが残っていたに違いない。
「みなさん、今日はミルクのおかわりが出来ます。もう少しほしい人は、手を上げて」とやる。
その途端、
「わあ、ミルク、ミルク」と男子の小さな喊声が上がる。
「はあーい」
と言って、さっそく何人かが手を挙げる。給食係は、それらの人に近づいて、「お玉杓子」に少し掬ってミルクをつぎ足して回る。
大盛りが入れてもらえた人は、みんなうれしそうにしていた。
ひととおりの配膳が終わると、当番が全員進み出てこちらに向かい、「じゃあ、いただきまーす」と高らかに音頭をとる。先生も私たちも「いただきまーす」と言ってから食べていた。いの一番にミルクをのみ込んでいたのではないだろうか。ミルクは、脱脂粉乳を湯に溶かしたもので、国際連合のユニセフから善意でもらっていたらしい。これに加えて、米軍から戦後復興物資として無料で供給してもらっていた小麦粉でパンを焼くことができる。これで二品が揃うので、後はおかずを用意すればよいことになっていた。これには、アメリカの製品になじませるための「餌付け」も含まれていたという向きもあって、今振り返ると、なかなか複雑な思いだ。ミルクには、育ち盛りの子供にとって健康であるための不可欠の栄養素が含まれていたのではないだろうか。というのも、母乳をいつ頃まで飲ませてもらっていたのかしらないけれども、人間というものはその過去のうれしい記憶を脳のどこかで覚えていて、その年頃の誰でもがミルクをいただくときには無心になれていたのかもしれない
給食室の栄養士さんが作ってくれるものに、給食の献立表がある。珍しいところでは、時々、揚げパンが出た。これは、油で軽く揚げたバンに砂糖がまぶしたもので、この上なく甘くておいしい。これは、「お母ちゃんにも食べてもらおう」ということで、半分くらいを持ち帰ったことがあった。
給食のおかずでは、肉も頻繁に入っていたのではないか。一番好きなのカレーで、はっきりした記憶は消し去られてしまっているのだが、何と肉が入っていたような気がしてならない。いつの間にか、あの頃から数十年を経過してしまった、最近の『広報つやま』(平成22年3月号、アルバム、あの頃の津山より)にも、こうある。
「松平日記による美作一宮の牛市は4月の午の日から5月4日まで開かれ、牛馬だけでなく衣料を始めとする日常百貨の商売人も雲集しました。また、狂言や猿回しの見世物など娯楽も興行され大勢の人が集まりました。旅館や飲食店も活況を呈し、臨時の銀札場(両替所)も置かれました。江戸時代、牛は農業に欠かせない大事なものであり、その肉を食べることは禁止されていました。しかし、津山藩と滋賀県の彦根藩は「お目こぼし」が認められ「養生食い」の本場だったようです。養生食いとは字の如く健康の為に食べる。薬として食べるという意味で,明治12年に当時の陸軍がまとめた全国主要物産には東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉と掲載されており、津山市の牛肉は全国的に有名であったようです。こうした牛肉を食べる食文化が脈々と育まれてきたからこそ、ホルモンうどんも津山の定番メニューとしてブームにつながったのでしょうか。昭和になると、発動機が農耕具として牛に代わり、次第に農家から牛の姿が消えていきました。それでも昭和29年の牛市の入場頭数は3500頭もあったようです。この年、一宮村は津山市に編入され、村営だった牛市も農協に移管された。』(『広報つやま』(平成22年3月号、アルバム、あの頃の津山より)
給食のおかずで出されるものなら、栄養満点な筈なのだから、何でも有難く戴いたらよさそうなものだが、苦手なおかずもあった。なかでも、もやしの入った八宝菜が苦手であった。味が嫌いというよりは、片栗粉か何かねばねばしたまろみが付けられていた、その「とろみ」が苦手であったのだ。それに、ほうれんそうの根っこの赤いところ、大きな人参の煮物、そしてなんと言っても「マカロニサラダ」のあの穴の開いた「マカロニ」が大の苦手だった。これらのうち、八宝菜は大人になる頃には大好きになった。今でも、たまに中華店に行くことがあるが、そのときは定番で中華飯を頼むことにしている。どうやら、趣向は年齢とともに変化するものらしい。一方、大好きなおかずは、カレーであった。そのときはお代わりが残っていないかなと思い、飲み込むようにして食べたものである。
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16『美作の野は晴れて』第一部、春爛漫1
4月上旬は花見の季節だ。村の子ども達の花見にはの先輩達と連れだって、津山市の堀坂(ほっさか)に至る山間の道なき道を30分ばかり分け入って雑木林をくぐり抜け、丈の短い松林を通っての北側の小高い禿げ山に登った。急な斜面を下った前の谷間は谷田んぼであった。それは厳密には花見ではない。というのも、そのあたりには桜の木は少なくて、野桜も淡い色のが雑木林の処どころにちらほらしか咲いてはいなかったようだ。あるのは背丈の低い野桜ばかりで、途中では大きな桜の木は途中でみつけたことがなかった。それで、砂地の地を這うような小振りの松ばかりだからだ。せっかくの「花見」というのに、なぜそんなころに行くのかを村の先輩たちに聞いたことはなかったし、代案がある訳でもなかった。昔からそこが一番近い見晴らしのよい場所で、一番手軽で便利な場所だったのだろう。
その行列は棒を持って木や草を払いながら進んでいく先達、中堅の四、五人と続き、最年少の僕がしんがりを勤めた。良介ちゃん(仮の名)などはわざわざビール瓶にお茶を入れたのを手提げ袋にぶら下げて持っていた。みんな手提げ袋やリュックサックに花見弁当を持っていた。前日から、ごちそうを作ってもらった。母は北側の土間の台所で料理を作った。僕の家の台所は、背後に直ぐ杉の植わった山が迫っていて、日当たりが悪い。それは「ジントギ」と呼ばれていたのかどうか、とにかくタイル張られたの流しとかなり大きい水溜があった。そういえば、最近のテレビ番組で「高齢化のすすむ多摩ニュータウン」の特集があって、その頃の映画の休憩時間に放映されていた「毎日新聞ニュース」を紹介していた。それによると、東京の多摩などの住宅公団住宅にダイニング・キッチンが入ったのが1957年(昭和32年)7月のことであった。片田舎に過ぎない我が家にそれらしきものが入ったのはそれから数年は経って、私が小学校も高学年になってたからのことだ。ちなみに、プロパンガスによるガスコンロが入るのは中学校に上がる頃であった。
我が家の台所にしつらえてある土の竈で大鍋の湯を沸かして、湯がしゅんしゅんと沸いてきたら、それを小鍋に移して寒天を熱湯に入れる。箸でかき混ぜて、だんだんにそれを溶かしてから、それを井戸の冷水の入った別の大きな器に小鍋ごと入れて冷ます。少しずつ寒天が凝固するのが待ち遠しくて盛んに息を吹きかけた。やがて琥珀色やコバルトブルー、あるいはワインレッド色をした、えもいわれぬ色つやの羊羹(ようかん)が出来た。
この洋風の羊羹とは別に、和風の羊羹も作ってくれていた。その方法は、家で栽培した小豆を洗って、水に浸しておく。次に、それを強火で煮る。湯立ったら、それをざるに上げ、汁の方は別の鍋にとっておく。さらに、空になった鍋にざるを被せる。この汁を上からかけながら、金属製のざるの網の部分に「あづき」(小豆)の煮たのを次から次へと木のへらを使って乗せ、それからすりつぶすように「うらごし」にかけていく。このとき、「うらごし」の目の斜めの方向に、あずきをへらでこするようにするとよいのだそうだ。そうして全部を煮汁の中に落としたら、もめんの、袋状になったふきんを一人が持って、そこにもう一人があずきをこしおろした煮汁を鍋ごと移し入れていく。一方、鍋に水を入れておき、その中に寒天を適当な大きさにちぎって入れる。それを火にかけることで寒天が溶けたら、砂糖を入れる。その上で、先に造っておいたあんと寒天の汁を鍋に一緒にして、弱火で煮詰めていく。ある程度煮詰まってきたら、長方形の木箱に入れておいて、自然の成り行きでさますのである。
3段から成る重箱の中では、さまざまな綾取り紋様が華開いていた。まるで薄い朱色と白のコントラストが美しい蒲鉾がさまざまな形をしていた。中には孔雀の羽のような細工を母がしてくれたものもあった。慶事か法事で親戚からもらったのだろう。そこには貴重な昆布締めがあった。こんにゃくの煮たもの、ゴマと酢としょうゆで味付けしたたたきゴボウ、だし巻きたまご、かんぴょう巻き、里芋煮、巻きずし、あぶらげ寿司(いなりのこと)などがぎっしりと詰まっていた。次から次へとごちそうが仕込まれていくのを目の当たりにすることができた。
その時、持ってきた重箱は3段くらいはあったろう。その一段に必ず入れられていたのが、混ぜご飯のおにぎりだった。炊き込みご飯といいたいが、母のものは作り方が少し変わっている。おかずは別の鍋で煮て、釜にご飯ができてからその具を入れる。子供にとっては、母の混ぜご飯の味は今でも天下一品、その味は忘れられない。寒天を熱湯で溶かして、又冷やして作った羊羹も重箱の中に入っていた。どれもこれも大好物だった。
作ってもらった大きな風呂敷包みの重箱と水筒をぶら下げて、僕らは松林が主体の山のなだらかではあるが、一つの小さな頂きへ着く。
向こうの頂やそこかしこの谷からは峠を越す類の柔らかで、さわやかな風が吹いてくる。私の汗ばんだ身体を風が心地よく吹き抜けていく。
「ああ、心地がええな。気持ちがええがな」
「わしも気持ちええがな」
「胸をはだけてみい。うお、今日はよう晴れとるで。日本晴れの花見の日和じゃけーなあ」
それぞれがシャツの胸元を広げながら、口々に言い合う。おまけに、探検隊の気分になって来るから、さながら歌っているときのように愉快だ。
「丘を越え行(ゆ)こうよ 口笛吹きつつ
空は澄み青空 牧場をさして
歌おう ほがらに
ともに手をとり ランララララ・・・・・
あひるさん(ガガガガァ) ララララララ
山羊さんも(メーエ)
ララ歌ごえ合わせよ 足なみそろえよ
きょうは愉快だ」(『ピクニック』、作詞の訳は萩原英一、イギリス民謡、編曲は小林秀雄)
目的の禿山の頂上に登ると、東の方角を仰ぎ見る。向こうには、堀坂の方面に扇状地のような田園が広がっている。加茂川の帯のような流れと、その向こう側の山並みのはるか北奥、そこからは中国山地の山間へ繋がっているのだろう。春霞の中を西の方角を見渡すと、遠くに滝尾駅近くの朱塗りの鉄橋が小さく見える。かなりのところまで遠望できるのは、気分を爽やかなものにする。踵を返して北東方向を見上げると、中国山地の峰峰も平地にいるより近くに見える。その山々がなんとなく霞んでいいるのは、春うららかな空気のせいなのだろう。
そこでこちらが「ヤッホーッ」とやると、同じ声が向かいの山から帰ってくる。若い鼓膜には大音響となって跳ね返る。掘坂(ほっさか、当時から津山市)方面からも腕白少年達が向かいの禿げ山に登っていた。
その姿を見つけると、お互いの「お兄さん方」による、「おまえらは堀坂のもんかあ」、「おまえらこそ誰じゃあ」 とかの掛合いが始まる。小山のこちらと向こうの似通った小山に陣取っての、お互いに「犬の遠吠え」の感がある。これでは、先人達の知恵と経験の継承どころの話ではなく、まともな話合などできよう筈がない。今顧みると、距離が有りすぎて互いの声が全部は聞こえないのが救いである。そのうち、せっかくの交流の機会は途絶えてしまう。今振り返ると、どうして挨拶と交流ができなかったのか。見も知らずの人への友情をおろそかにしたことが悔やまれる。
小山の頂上では、丈の低い小松がまばらになって、半ば禿山となっている。その狭い頂上に着いてから、思い思いの場所に弁当を広げた。風呂敷包みを紐解くと、中から色とりどりの食べ物が太陽の陽射しを浴びる。
「どえらい(すごい)ごちそうじゃなあ、おかあちゃん、どうもありがとう」と自然につぶやきが出るほどだ。
携えてきた花見弁当を、その前の年とほとんど同じ場所で広げた。特に珍しいものがあれば、みんなで分け合う。飲み物では、どこで搾乳したのか、誰かが山羊か牛乳を煮炊いたのち冷やし、ビール瓶に詰めてきたのを少しもらって呑む。ほんのり甘いのが乾いた喉にひんやり流れるようで格別においしかった。
概して、何がうれしいというのではないが、うれしさが、幸せ感が心に胸に顔にこみ上げてくる。こうなると、子供心にはなんだって楽しくなってくる。煎じ詰めると、それが若いということなのかもしれない。クロのりを巻いたおにぎりがあった。いなり寿司は「油揚寿司」(あぶらげずし)といっていた。白地に紅の「の」の字の「ナルト」がきれいに笑っている。蒲鉾は、すだれの裾のような細めの切れ込み細工がしてあって、薄い朱色と白のコントラストで、とてもきれいである。干し椎茸の煮物は漆黒のかおりがただよっているようだった。卵焼きは、母の得意料理で、普通のと菠薐草か何かを練り込んだものとが入れてあって、さほどに甘くないが、うまみがじんわりと口いっぱいに伝わってくる。
それらのごちそうの半分くらいをおなかに掻き込んでから、そこら中を跳んだりはねたりして遊んだ。もっとも、そのうち雨の気配となってくる時もあったから、そんなときには山の子らしく、雲の動きなどから機敏に察知して、みんな一緒に早めに家路荷物をしまいこんで家路を急いだものだ。
その小山からは、北東の方向に薄く山形仙(やまがたさん)広戸仙(ひろどせん)、滝山(たきやま)、那岐山(なぎさん)のいわゆる「横仙」の山並みが眺めてとれた。そして、おいしい空気を満喫した。先輩の良介さん(仮の名)などは、ビール瓶に番茶を入れてきたのを、トランペットでも吹いているような仕草で、ぐびぐびと体の中に流し込んでいた。
ふるさとの山は、村の子供達にとってずっと身近にあった。何らかの原因で山火事となった山にも出くわした。禿げ山となった後に立つと何かしら虚しくなったものだ。一番慌てた時は昼過ぎ、急を告げられて我が家の裏手の方角に5分くらい行ったところで、天王山のもう一つ裏手の山が煙もうもうとしているではないか。の消防団の人や流尾地域の人たちの数人が現場に駆けつけて、血走った目で話し合ったり、それを聞きながら「大したことにならにゃあええが」と腕組みする人もいる。燃えている方向から斜面を下ってくるなり、「指さし呼称」で火事の状況を説明しているおじさんもいる。それでも、小一時間が経った辺りから火の勢いが収まってきたようで、「やれやれ」とつぶやきつつその場を離れた。
普段、天王山の頂上に立つと、南の方角に山間に開けた平野が広がっている。そこには自然豊かな勝北町が広がっている。春は特に清々しい。そこで、昼過ぎから夕方近くまで一人で天王山の尾根まで登ってから、下りつつ遊んだこともある。ちなみに、冬は中腹付近から橇で滑って遊んでいた。その頂上に立って目を南西の方へ移すと、上村(かみむら)から茶屋林(ちゃやばやし)、楢(なら)、野村(のむら)、そのずっと向こうは津山市街の方角である。我が家の後方、ほぼ200メートルくらいのところにある天王山(標高291メートル、西下の北端に位置するなだらかな山)にある空気の澄んだときには、美作滝尾(みまさかたきお)や高野(たかの)の遙か彼方まで見通せる。
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14『美作の野は晴れて』第一部、春一番1
うららかな春の日差しの下で、小鳥はさえずり、虫が地面に出てきている。およそひと月前の「啓蟄」(3月初旬)の頃には、まだ虫たちが外に出て活発に動き出す前であったのではないか。それが今では、田んぼ道を歩いていると、そこかしこで、虫たちの動く音やその姿が視界に入ってきて、「ああ、春なのだなあ」と実感していた。たきぎ広いとか、我が家の「西の谷」の畑を耕すとか、何かの家の用事があったりして、山の方に向かうと、杉や檜や樫といった森の木々の息使いが聞こえてくるようである。冬の間に蓄えられた泉が、森の奥から湧き出てくる。さあ、春だ。春がやってくる。野原へ、田圃へ、そして山へ。母さんや友達みんなと一緒に春の若葉を摘みに行こう。心の中で、森の妖精たちがそう叫んでいる。心地よい春の風が、体の中を吹き通ってゆく。
小学校時代のことは、50年以上前の記憶を遡ることになる。これは、わたしにとって少々、エネルギーのいる仕事だ>心の奥処(おくか)に焼き付いたその頃の懐かしい風景を探ってみる。残像の中には、ぼやけているものがないとはかぎらない。かなりの時間をかけてその想いを巡らせてみる。じんわり出てくる思い出も、この頃ではかなり焦点がぼやけてきた。もう少し放っておくと、またかなり忘れるだろう。したがって、もし記憶の総量があたらしいもので補填されないなら、だんだんと記憶のストックが減っていくのかもしれない。だが、時はまだある程度残っている。今なら、眠っている記憶の玉手箱から、どらえもんのポケットよろしく半分くらいは記憶を探り当てることができるかもしれない。
手助けをしてくれるのは、当時の数少ない写真である。新野小学校の入学式に行ったときに校庭で撮ってもらったものか、西下神社の辺りまで帰ったときのものか、その年のからの入学仲間とそのお母さんが一同に会している。その中に、少し身を屈め、その位置から上目使いにカメラのレンズに、眩しそうな目を向けている少年がいる。なんだか猿みたいにおどおどしている自分がいる。たぶん、新しい世界に踏み出すことへのとまどいも表れていたのだろう。
新野小学校の元々は、1876年(明治9年)に創立された。当初は、山形の稲塚野、神事場にあった。それが、1895年(明治28年)に現在地の西中に移った。戦時下の1941年(昭和16年)、新野国民学校と改称されたものの、敗戦後の1947年(昭和22年)になり、現在の名称に改称された。その後の1955年(昭和30年)に勝北町立となって現在に至る。
現在地にあるのは、かなり前からそこが新野村の中心であったのだろう。ちなみに、勝北町の町役場は、そこから掘坂勝北線に沿って南東に1.5キロメートルばかり下ったところにあった。
新野小学校の本校舎の前には、1931年(昭和6年)に建立の二宮尊徳の銅像があった。その背には薪を少しだが、しょっている。彼の手には一冊の本が開かれてある。たしか低学年であったとき、国語の教科書に勤勉の勧めが載っていた。その頃の私も、そんな山での作業は家の手伝いで日常のことであったから、尚更共感を覚えたものだ。とはいえ、今日の欧米人から見て、彼がなぜ「日本で最初の民主主義者」との正当な評価を受けているのかまでは、書かれていなかったのではないか。
小学校の校舎は木造で、校倉づくりのような板塀の壁にしつらえてあった。たしか色も黄色系統に塗装されていて、カナダのセント・バーナード島の『赤毛のアン』」の物語に出てくる家々のようであった。壁には白亜のペンキが塗られていて、なんだか洋風のたたづまいであった。その中央部に立つこの銅像は、長らく母校を見ていないので、今はどうなっているかわからない。
通学は、小学校より遠いところにある幼稚園の寺に一人で通っていたことから、はじめから1時間の田圃の中の小さな道のりを歩いて行った。野山で遊んで育ったので、道々寂しいことはなかった。春の小道はいろいろと語りかけてくるものが多くて、遊び感覚のうちに学校に着いていたことが多い。
1年生のときは、いたずら盛り。そればかりではない。掃除の時間に、1、2組の男子が入り乱れて、箒を翳して2つの教室を駆けずり回り、戦のまねごとを仕掛け合うことも一度はあった。そのときに限っては、一部の男子が掃除の仕事を半怠けにして遊んでいたのだから、女子や真面目に掃除をやっていた男子は随分迷惑したに違いない。
あれは1年生の授業参観日のときである。その時の椅子は女子と二人掛けの長椅子を使っていた。私が授業の途中にその上に足を載せたり、キョロキョロ後ろを見る。母は随分と恥しい思いをした筈である。心の中はなんのことはない、みんなを驚かせたい、奇抜なこともしてみたいという心があった。そんな自分勝手な気持ちだけが空回りしてしまう。授業参観の後の面談で、先生は母に「丸尾君には、落ち着きがなくて困ります」と苦言を仰ったらしい。当時は「勉強でいい点をとろう」など、ほとんど眼中になかったのかもしれない。とはいいながら、はかばかしくない成績表を見て意気消沈したことだけはありありと覚えている。
残念ながら、楽しいことばかりが思い出ではない。1年生のいつか、悲しいお別れもあった。名字は忘れてしまったが、おそらく同じクラスの友子ちゃんが病気で亡くなった。ひょっとして、幼稚園のときであったかもしれない。いや、そんな筈はない。という訳で、幼い頃の記憶ほどあやふやなものはない。みんなで、彼女に別れの挨拶をするために公民館のような場所に行った。先生は、私らに彼女は天国に旅立って行ったのだと仰った。
私たちの背のたけほどにあるベッドの上に、山や黄色の花に囲まれて、透き通るような白い顔の彼女が眠っていた。なぜ、こんなに顔が白いのだろうと思った。お花畑に少女がこんこんと眠っているようであった。いま振り返ると、白雪姫の物語が思い出される。
1年生のときは、学芸会の写真が残っていて、その中に当時の私の姿もある。いまはその写真を見失ってしまったが、うさぎの仮面を付けていた。両方の耳が大きく立ち上がっているので、それをつけると誰でもかわいく見えるから不思議だ。その写真で、目を細めて、顔一杯に口を開けて、とてもうれしそうな顔をしているが、どんな劇の内容であったかは思い出せない。森の動物たちの物語ではなかったのか。
新野小学校の校歌は、なかなか面白い歌詞であり、よほど子供のことを思ってつくってくれている。もしそうでなければ、こんな楽しい台詞は浮かんでくるはずがない。
「窓を開ければ陽の光、ああ面白い春の声、緑の風が吹いてくる、膨らむ希望抱きしめて、みんな仲良くあそびましょう、ぼくらの新野小学校」(作者を知らず)
メロデイーはスイングしたり、スキップしながらのような軽快なものであった。僕のような腕白小僧にとってはうってつけの歌のようであったが、どのような気分で歌っていたかは、どうしても思い出せない。
2年生は内田先生の担当となる。穏やかな女の先生であった。なぜか、このとき学級委員となり、更正の道を歩んでいくきっかけになった。あるいは、先生のはからいで、この子を導いてやらねばならぬと、お考えになったのかもしれない。世間でいうところの「ガキ大将」ほどではなかったから、軌道修正は速かったのかもしれない。
この頃か、分数を教わった。随分と難しく、なぜそうなるのかわからず、小さい頭の中がこんがらがって(絡みついて)あせったことを覚えている。数学の勉強は一つがわからないと、その次から連鎖反応でわからなくなっていくもののようだ。立ち後れたあのとき、先生がわからない者のために省みてくれなかったとしたら、自力で追いつかねばならならなかったろう。
春の訪れとともに、新しいクラス仲間で花壇を飾った。時間割には学級生活の時間がもうけてあり、先生の指導で季節の花の手入れをしたり、小さなスコップで耕し球根を植えた。植えたところにはどの花かがわかるように種袋を竹串にさして置いた。春は、黄色いすいせん(水仙)、チューリップ、ヒヤシンスが美しい花を付けた。
学校の中庭にはコンクリート塀の掘があって、そこには鮒が泳いでいた。また、本館への渡り廊下にはガラスの水槽が置かれてあった。そのなかには別々に金魚や三葉虫が飼育されていた。それらに当番制を敷いて餌をやった。金魚はストレスに弱い魚なので、こまめに世話をしてやらないとって死んでしまう。当番日誌を付けたようである。中庭ではこの他にうさぎや小鳥を飼っていたような気がするものの、はっきりしたことは覚えていない。たしか、昼食後の一斉掃除のとき、こうした役に就いている者は掃除を免除されていたように思う。
クラス内の委員は、学校全体の委員構成、その頂点にある「児童会」へと連なっていたのかもしれない。いずれにしろ、それらの組織は欧米にあるような、児童自らが運営するというのではなく、教える側による学校運営の一つの駒であったのかもしれない。
その頃楽しかったものに、昼ご飯を食べたあとの校長室の掃除であった。優勝楯とかいろいろめずらしいものがあった。校長先生は茶と黒の縞模様のメガネをかけてにっこりされていた。トイレの掃除が一番きつかった。便器には消毒液を使う。ゴシゴシとブラシでこすり立てる。床についても同様だ。今頃の子供達は学校でそこまで掃除をしているのかな、と思う。この頃の小学生は、勉強にせき立てられるようにして、労働を通じて人の優しさ、動植物への思いやり、他人への思いやりを育む教育が廃れてきているような気がしてならない。
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11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2
1952年(昭和27年)7月の朝方、母は産婆さんの手を借りて、病院には行かず、家で私を生んだ。そのため、母の嫁入り箪笥には、いまでも私のへその緒がほんの小さな桐箱の中に保存されている。
貧農の家に生まれたというのはたぶん当たらない。では富農の家に生まれたのかと言われると、それも外れている。西下の中では、戦後の農地改革によって大方は「中農」になっていた。もっとも、同じ新野にあっても、・地域によっては、もっと貧しい家の子供が、大勢いた地域もあった。その頃、我がのほとんどの家では、今の物質的な豊かさに比べれば、食べるものは格段に質素であったろう。着るものも、つぎはぎだらけのものを厭わずに着ていた。今の子供であれば、顔をしかめて拒否するのかもしれないが、当時はそんなに珍しいことではない。そんな家族や村の雰囲気をかぎ分ける動物的嗅覚が何歳かの頃まで働いていた、といっていい。
自分の姿が写っている最も古い写真は、2枚ある。1枚は、家の縁側にもたれるようにして兄と二人で写っているものである。写真というものに初めて出逢ったのか、レンズの方角をまぶしそうに見ている。もう1枚は、家の庭で、たすき掛けをした母の背に負ぶわれた私が、祖父と祖母、それに一緒の写真に写っている。私を除いてみんなが笑っている。家は瓦葺きとなっている。おぶわれているのだから、こちらの方がなんとなく古い。残念ながら、この2枚とも写してもらったという記憶は残っていない。
幼い頃、早苗(仮の名)姉さんに負ぶわれ、子守をしてもらっていたらしい。姉さんは父の姉の子供である。伯母さんが若くして亡くなったので、小学校の4年から中学3年までの6年間を我が家で暮らしていた。大人になってからも、「泰司」とか「泰ちゃん」と呼んでくれるときの眼差しが緩んでいた。随分と背中越しにおもらしをして、お姉さんを困らせていたようだが、それで叱られた記憶は全くない。子守歌を歌ってもらっていたかどうかもわかっていないが、そうだとしても「よしよし」とか色々あやしてもらったりしたのではあるまいか。
後年、母に頼んで当時の写真を出してもらって、色々と眺めてみたことがある。どうやら、自分の記憶は確かなものではなかったらしく、なかなかに思い出せないシーンが多かった。撮ってもらった覚えのあるのは幼稚園に上がる前の頃からのものだ。この頃から写真がぽつりぽつりと増えてくる。人間の長きにわたる記憶は、いつからのものであろうか。人によっては、母親の胎内にいた時の記憶を諳んじたり、大胆に自身「前世」を語る人もいる。「霊能力者」に至っては他人の前世や、亡くなっている人の霊とか魂を見つけ出し、その言を現在形で聞くことさえできるというのだから、私は今でも信じる気持ちになれないものの、もし事実とすれば驚くほかはない。
私の場合は、そんな神秘的なことは何もない。実際の記憶で一番古いのは、家庭用の水源と隣り合わせの堀に滑ってはまり、渾身の力を振り絞って這い上がった時のものである。その堀は隣り合う3軒の共同井戸であって、大根やさと芋といった野菜の土を落としてきれいに水洗いするもので、深さは1.5メートルを超えていたのではないか。
そのときは、その堀の水の中に二度沈んだ。足を滑らせてたぶん頭から転げ落ちた。水の中では何が何だかわからなかった。体中の血液が逆流する思いであった。極限まで慌てたのだろう。1、2秒のことなのかもしれないが、ただただ重く、苦しかった。
一回目の浮上で、岸にとりついた。しかし、歯が立たなかった。2度目も失敗となる。このとき私は、確かに鬼と化したに違いない。そして、三度目の浮上でついに「死に神」を振りきった。縁の石に両手の爪を突き立てるようにして生還したことを、今でもはっきりと覚えている。
あのときは「九死に一生を得た」という表現がぴったりする。生物としての本能というべきか、「火事場の馬鹿力」にも似ていたのであろうか、渾身の力を発揮したことで運命の女神も幼い私に味方をしてくれたのだろう。おかげでお地蔵さん姿の墓の下に入らなくて済んだ。墓の中は随分と冷たいだろうし、そこに入ると土が沢山被せてあるので、もう外に出ようと思っても這い出ることができないだろう。濠に落ちたことを、どうして親にうち明けなかったのかについては、自分でも覚えていない。多分、怖かったことを忘れたかったか、親に言って叱られるのを恐れたからだろう。
いま一つの古い記憶は、家族の前、中の土間にいて体を痙攣させながら泣きじゃくっている自分のことだ。その後どうなったかは記憶が途切れているので仕方がない。祖父がひきつけを起こした私をさ笠づりして「しっかりせい」とバシッとひっぱたいて正気に戻らせてくれたと言う話も、その時のことであったのかもしれない。「ひきつけ」と呼んでいたのは、今風にいうと「熱性痙攣」(てんかん)ということになるのだろうか。だがそれは病気のことである。原因は何だったのだろうか。そのときは何に対して、何を悲観するなり怒って泣いていたのか今でも知らない。父に怒鳴られたのかもしれず、風邪絡みでそういう状態になっていたのかもしれない。後年、母はある日のこと、ラジオ体操をさぼった私のことを父が激しくおこったことを打ち明けてくれた。母は『この子は直ぐ癇癪を起こす、かんの強い、気性の激しい子だ』ということで随分と心配したらしい。気がついてからしばらく家の外に出されていたようだが、外の空気を吸い込んでいるうちにだんだんに気分が落ち着いてきて、泣くのをやめたという。
還暦を過ぎてからか、いったいいつから自分は記憶というものが芽生えたのだろうかと、ふと考えることがある。一番古い記憶を汲み出そうとしても、そのすべはわからない。その後も一言も発せず黙々と思念し続けていると、何かの記憶がひょっこりしみ出てくるから不思議だ。それが本当のことであったかどうかは、多分わからない。頭の中で、作り上げた偶像である可能性もあるからだ。そんな自分の一番古い記憶は、たぶん4歳の頃のものといえば、1956年(昭和31年)の頃である。なにも覚えていない。この年の経済白書は高らかな調子で国民にこう告げた。
「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、びんぼうな日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」
人というものは、過去をひもとき、いまをひたすらに生き、未来の方向性を見つめる存在だ。当時の私は、もちろん、そんな世の中の大きな流れとは無縁のところにいた。自分の家族や親戚、そして近所の人が世界でありすべてであった。小学校に上がる前、6歳の1年間は幼稚園に通った。その頃のことはかなり覚えている。腕白でいたずら好きな子供であった。幼稚園のあったところは、勝北町西中(にしなか)のとある寺であった。地理的な位置としては、西下の北方が西中、その西中の北方が西上である。西上となれば、そこはもう山形仙の麓までさ続いている。
さて、西中に戻るが、新野小学校から500メートルほど町道を北上したところの平坦な田圃(たんぼ)の中に、町立の保育園があった。開園は1953年(昭和28年)のことで、旧新居の村の法光寺の敷地内に、平屋の建物が併設されていた。
通園には、優に4キロメートル(現在は1里)の距離を一人で歩いて通った。通園の途中、山形の方から南下してきた小学校の上級生の3,4人連れに眼を付けられることがあった。こちらから仕掛けた覚えはないものの、何か生意気なところがあったのだろう。当時は足に自信があって、首根っこを捕まれない限りは、束になって追っかけられても逃げ切る自信があった。
それでもたった一本の道を塞がれ、向こうが待ち構えていることがあった。そんなときは大人の人の後に付いて登園した。それなら、登園をしなければよかったようにも思われるのだが、野や山を駆けずり回ったり、家での労働で多少とも鍛えられていたせいか、「なにくそ、負けるもんか」という気持ちがあって、そのいじめにへこたれるようなことはなかった。
その寺の境内の敷地に町立の幼稚園が営まれていた。お坊さんはいただろうか、今では知る由もない。
「お花 お花
やさしく育った かわいい お花
ほらね
お日様 見あげて さいた
みんな おてて つなごう
大きな お花 になろう
新野の 新野 なかよし保育園」(作詞者と作曲者を知らず)
先生の名も顔も覚えていない。女の先生が2人いただろうか。園内ではゲームをしたり、「お絵描き」をして過ごした。昼寝の時間があって、茣蓙を敷いて休んだ。不思議と、先生とみんなで何をしたかはこれといって覚えていない。読み書きも少しは教えてもらったようである。
覚えているのは、朝にはチャンバラごっこをしていた。その頃か、漫画ではやっていたのが、『赤胴鈴の助』であった。
「剣をとっては 日本一に
夢は大きな 少年剣士
親はいないが 元気な笑顔
弱い人には味方する
おう、がんばれ
頼むぞ 僕らの味方
赤胴鈴の助」(藤原真人作詞・金子三雄作曲)
幼稚園の休み時間では、男女ともブランコに乗って思い切り漕いだりして遊んだ。いまでも思い出すのは、誰やら級友の男の子がブランコが後方に振り切った次の瞬間、見ていた私の視界から消えた。はて、どこに行ったのかと探すと、田植え前の田圃のぬかるみの中に落ちていた。大きな怪我はなかったようで、みんなで胸をなでおろしたようなことがあった。
ほかにも、何やら悪さをして押し入れに閉じ込められたことがあった。だが、鍵を外から掛けられたのに、「出して」と泣くでもなく、にやにやしていた自分をしっかりと覚えている。それから、ぜんざいの味も忘れられない。汁碗に白い餅、その上に赤いダイヤの異名を持つあずきが大きいスプーン一杯分くらいは載っていた。甘くて甘くて、舌がとろけそうで、とても幸せな気分になったことを思い出す。作り方は、小麦粉を水に浸してこねたものに、小豆のあんこを暖かい煮汁をかけたものである。甘いものを食べさせてもらった後は、昼寝の時間で、眠たい訳でもないのに、長いござを広めの部屋に敷いてしばし寝転んで「いい子」をしていた。
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