ポンポンダリアの独り言

毎日、何気なく生活する中で感じた事を気の向くまま、思うがままに投稿して見ようと思いました。

桜の京都 Part2

2014年04月21日 | Weblog

H26年4月1日

孫たち親子は大阪で開催されているテーマパークに行くために早朝から出かけて行きました。私は別行動ですが同じ時間にホテルを出ました。以前から機会が有るならば奈良にある吉野山の桜を見たいと思っていたので近鉄電車の切符売り場で様子を聞いてみました。時期的にまだ早く、桜はまだ咲いていない!と言われました。 吉野は山なのでひょっとして未だかなぁ~と予測はしていたものの桜はまだ!と断言されるとちょっとガッカリ気分でした。

という事で今朝のTVのニュースで八幡市にある木津川の岸辺で桜が満開である映像が出ていたので急遽その場所に行くことにしました。

     
      京都駅より近鉄にて丹波橋に行き、その駅で京阪電車に乗り換えて「八幡駅」下車

     

     

人が歩いている方向に進んで行くと・・・!咲いている々木津川の堤防に延々と桜並木が有りました。
説明書に依りますと木津川と宇治川を分ける1・4kmの背割提(せわりてい)に、249本のソメイヨシノと52本のハナミズキが植えられていて、降り注ぐ桜を見上げたり、遊歩道で桜のトンネルをくぐったりする等、桜を満喫することが出来る。とありました

       

       
                      橋の欄干から見た景色です。 
           けさのTVではこの景色を飛行機の中から映し出していました。                    

       

       
        幸いに9時過ぎに到着でしたのでまだ込み合っていませんでしたが時が経つにつれ
        次から次へと人の波が押し寄せて花見見物でごった返して来ました。私はさっさと
        
引き上げる事にしました。

           
               三条京阪駅の側にある「高山彦九郎」の銅像                 

大阪の上本町6丁目に「三栄貿易」と言う会社が有り、私は短大を卒業してその会社に就職した為、毎日
三条京阪から京阪電車にて大阪まで通勤していました。 懐かしい場所ですが・・・すっかり様変わりしていて、この場所から自宅までは①番の市バス“玄琢行”に乗って帰っていましたが何処にもその路線バスの停留場はありませんでした。

この高山彦九郎の銅像だけは昔も変わらず皇居望拝の姿勢を崩さずに有りました。戦前の修身教育で取り上げられていた人物です。

        
           舞妓さんが通りがかり…思わずカメラを向けましたがあわてて通り過ぎて
           行きました。横目でこちらの様子を伺い乍ら貸衣装のスタイルではなく本物の
           舞妓さんだった様でした。

     
                               
三条京阪からバス停を探す為に河原町通りに向って歩き始めました。この高瀬川の下流に“先斗町”があります。そのあたりに行くと運が良ければ…舞妓さん芸子さん達にお目に掛かれるかも!?わかりません。

 

  
       出町柳辺りの鴨川です。この日は暖かく川面で遊ぶ子供がいました。

 
結局、京阪三条の駅には昔の①玄琢行のバス停がなく、人に聞きながらバスを乗り継いでやっと 
“鷹峯(たかがみね)” に降り立ちました。私が昔に利用していたバス停は“釈迦谷口”ですが、一つ手前の駅で降りまし。
と言うのはこの辺りで有名な 「源光庵」 を訪ねる為でした。よく名前を知っていても、そこが何なのか訪ねる事はしなかったのです。今になって興味がわいて行く気になったのです。

 

   
                  源光庵の入り口  
                                               

よく見ると本当に血の付いた人の足型がくっきり残っている天井です。

本堂内の血天井は、伏見桃山城の遺構であり,慶長五年七月(1600年)徳川家康の忠臣・鳥居井彦右衛門元忠一党1800余人が石田三成の軍政と交戦したが、武運拙なく討死し、残る380余人が自刀して相果てた時の痕跡であると説明がされていました。
なぜそのような惨い物を天井に使用したのでしょうね・・・  

         
                    丸窓は「悟りの窓」    角窓は「迷いの窓」    

          ◎悟りの窓は円形に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現する。
          ◎迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。

この二つの窓の前に静かに座り、己の心と向かい合って何かを問うてみるのにも良い所だとおもいました。窓越しの景色は秋の方が紅葉の紅葉が見られて良いようです。折角良い場所が有りながら見向きもしなかった事が悔やまれました。若いころに自分の心と向き合っていれば…人生の歩む道も180度かわっていたかも 

源光庵の側には光悦寺が有ります。ここを訪れるのも初めてです。説明書には次のように書かれています。

         
                「  光悦寺  」

徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。
光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸に携わる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。
光悦翁が茶道に於いても一流儀に偏することなく古田織部や織田有楽斎にも教えを受け、又千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めた。  と記されていました。

                 
                             「 光悦垣 」 この様な垣根の発祥地

   

    
              
京の北、鷹峯三山(鷹峯・鷲ケ峰・天ヶ峰)を見渡す景勝の地。 

            

このお寺を見るのにものの10分も有れば見終わってしまう場所でした。光悦垣も秋に来れば紅葉が照ってカメラのスポットとなるようです。 

       
                              鷹峯常照寺

常照寺の〝赤門”と呼ばれている山門は吉野太夫寄進のものです。そしてこのお寺には吉野太夫のお墓が有ります。毎年4月の第二日曜日には吉野太夫花供養が行われます。
島原太夫の道中が豪華絢爛に進んで行く様は今でも目に浮かびます。重たい衣装に身を包んで、高い下駄を履いてその下駄を八の字を書くようにくねらせて、ソロリ々と歩き“かむろ”も共に道中に加わってそれは綺麗な行列でした。
折角道中のある春なのに日程が合わず・・・見ることは出来ませんでした。拝観料払うとお堂に入って太夫道中のヴィデオを見る事が出来ました。返す返すも残念でした
 

   

                                        
                                                                           吉野太夫 の 墓

       
                         釈迦谷口のバス停

常照寺の次のバス停が“釈迦谷口”ここで下車して元我が家に徒歩10分程で帰りました。閑静な所で下ったり上がったりのちょっとした山歩きです。途中には尺八池と称される底の見えない泥池があり、その奥に行くとゴルフ場が有りました。私はこの不気味な池で泳ぎの練習をしました。
座敷の前かは夏の風物詩である大文字焼きがななめ正面に見え季節感を知るものでした。

  
                   京都駅内部

                

2日目の夜は孫たちもまだ大阪から帰ってこないので私の弟とゆっくり京都駅界隈で夕食を取り、珈琲ショップでさらに積もった話をし、孫たちの帰りを待ちました。なんでも人身事故が有って…電車に乗りそびれていると連絡が有りお風呂の準備でもしておくことになり、10時過ぎに弟と別れました。
結局帰って来たのは11時を回っていてクタクタの様子でした。すぐに入浴をしてバタン・キュウでその日は The End