おはようございます。旅先、弘前からの投稿です。さすが、日本一の桜。昨日は昼過ぎから、夜桜まで、とことん桜見物でした(汗)。その報告は帰ってからとして、今朝は、まだ中途半端にしている漱石展の紹介第二弾をちょこっと。
第二部100年目の夏目漱石
英国から帰った漱石は、五高教授を辞職し、東京に戻り、帝大講師の職を得る。そこで、留学中に構想した、独自の難解な文学論を講じる。しかし、学生には受け入れられず、以前からの神経衰弱も悪化し、うつうつとした日々を過ごしていた。気晴らしに、自分の主宰する文章鍛錬会に参加してみてはと虚子に誘われる。そこで、”吾輩は猫である”の序章を書く。虚子が朗読し、大笑いし、漱石もまんざらではない。小説家、漱石の誕生の瞬間であった。
1905年、それを”ほととぎす”新年号に発表、引き続き”倫敦塔”など3本、翌年には”坊ちゃん”、”草枕”など次々と名作を発表、明治の文学界に大きな衝撃を与えた。さて、展覧会では、それぞれの名作に関連した原稿、書簡、書籍、絵画等が展示されている。
吾輩は猫である
英語教師・珍野苦沙弥(くしゃみ)先生の日常を飼い猫の目で語る小説。日本人なら知らない人はいない名作中の名作。ぼくも、はじめて漱石を読んだのもこれだった。苦沙弥先生はもちろん自画像。
これは創作メモ↓ ”細君の洗髪、春風、禿”など作品のネタを列挙している。墨での消去は、使用済みということらしい。
漱石自身、猫を飼っていた。これは有名な、漱石画”あかざと黒猫図”。三代目の飼い猫を描いた。
坊ちゃん親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている
坊っちゃんが物理学校を卒業して、新米教師となる。山嵐、赤シャツ、野だいこ、うらなり、清、マドンナら多彩な人物との痛快なぶつかりあい。のちに漱石はこの主人公について、”現今のような複雑な社会には円満に生存しにくい人”だと語っている。
資料として、ホトトギスへの原稿料領収書(笑),この小説の元となった松山中学教師時代の漱石の写真、書簡などが展示されている。
草枕
ぼくも好きな作品。冒頭の文章がとくにいい。”智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は 住みにくい” そして、”どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る”。漱石はこの小説について、”私はただ、読者の間に、美しい感じが残りさえすれば、それで満足だ”と述べている。
熊本時代に小天温泉(玉名市天水)へ旅している。その経験が名作の誕生につながった。
小天温泉にある前田案山子別邸。
松岡映久 ”湯煙(草枕)” 松岡は草枕を映画化すべく、門弟たちと”草枕絵巻”を制作した。この絵は後年、改めて描いたもの。
文名の高まりと共に、漱石は教職を兼ねて、文筆活動をする困難さを感じていた。そこに、朝日新聞が手を差し伸べた、専属作家して新聞連載小説を書き始めるようになる。
1907年(明治40年)に大学を辞職する。
(つづく)