Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

TURANDOT (Sat, Jan 9, 2010)

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
1/4は、今シーズン、リチートラが初めてカラフを歌った公演でした。
その公演を見ていたオペラ警察が電話をかけてきて、
”こんなトゥーランドットをかけるなんてメトもいよいよ終わりだ。”と嘆き悲しんでいました。
同じ事を考えていた人はオペラ警察だけではないようで、
滅多なことでない限り、Bキャストのレビューは掲載されないNYタイムスに、トマシーニ氏の評が登場し、
なぜかそこにはリチートラが昨シーズンの『イル・トロヴァトーレ』にキャスティングされながら
結局歌わなかった事実などが書かれていました。
私がいつも愛読しているチエカさんのブログの読者の間では、トマシーニ氏はからっきし人気も信用もないので、
いつもののりで、”なんでまたトマシーニはこんな関係のない古い事実を持ち出してくるんだ。”
”そーだ、そーだ。”という、軽い非難のコメントが飛び交い始めた頃、
ある人がぴしゃっとこのようなコメントを入れました。
”関係なくなんかあるもんか。この批評で、トマシーニは暗にリチートラのキャリアが終わった、と宣言してるんだから。”
それ以降、トマシーニ氏への批判のコメントがぴったりと止みました。
誰もそのコメントに対して直接に返事を返す人はいませんでしたが、
我々、読者は思ったのです。”そうだ、、その通りだ!!”と。
私がオペラ警察から伝え聞いた、4日のリチートラの歌の内容は、それはもう惨憺たるもので、
”誰も寝てはならぬ”の後に、拍手すら出なかったというのです。
トマシーニ氏に、キャリアの終わりを話題にされても、仕方がないくらいに。

それからコメントの内容は、2002年に『トスカ』でパヴァロッティの代役をつとめて大絶賛を受けた、
あの華々しいメト・デビューの日から、どうやってリチートラが今のような状況に転落したのか、という議論になって、
その中でこんな内容のことを書いた人がいました。ただし、内容の真偽のほどはわかりません。

”彼はもともといい声を持ってはいたが、発声方法と技術には常に大きな問題があった。
周りの心ある人たちは、彼に、ちゃんと先生について、技術を洗いなおせ、と言い続けて来たが、本人が耳を貸さなかった。
メトの2008-9年シーズンの『トロヴァトーレ』に出演するにあたって、
シーズン前の夏に、スタッフの前で歌唱を披露したとき、その内容があまりにひどいので、
メトは彼を『トロヴァトーレ』の舞台には立たせられない、と判断した。
オペラ界のある重要な人物は、彼に、この夏の間に行いを正し、きちんとした歌唱を身につけない限り、
今後、彼を一級のオペラハウスにブッキングすることは出来ない、と宣言した。
(この重要人物というのが、オペラハウスの人間なのか、エージェントなのかは不明。)
彼はそこで、世界のオペラハウスで活躍していたある著名な女性歌手に師事することになるが、
レッスンは2回しかもたなかった。
(この”もたなかった”も、先生の方があきらめたものか、リチートラがあきらめたものか不明。)”

改めて言うようですが、このコメントの真偽のほどはわかりません。
けれども、”一時は未来を嘱望されたテノールがこんなことに、、哀れじゃのう、、。”という反応がほとんどで、
”そんな馬鹿な!”と反論する人がいるどころか、みんな”十分ありうる話”と受け止めたようでした。
連れにその話をすると、彼も”なんだか悲しい話だなあ、、。”と言い、
私が1/9にリチートラの歌が本当にそんなにひどいのか、実際に聴くのが楽しみ!というと、
”そんなことを言うもんじゃないよ。”と諭されました。

それから数日後、今日の公演を観る前に、別演目のシリウスの放送で、
なんとリチートラがインターミッションのゲストに登場しました。
数日前にひどい歌を披露したうえ、ヘッズにこんな噂までされて、シリウスの放送に登場するとは、並の神経じゃない、、、
と思っていたら、なんと、彼の口から、一昨年に(ローマで、と言ったと思います)生死に関わるような事故に巻き込まれ、
脊椎をやられたため、一時は舞台に戻れるかどうかもわからなかった。
今でも声を支えるのがとても辛い。”という話がありました。
私は彼がそんな大きな事故にあった、という話は聞いたことがなかったのですが、
リチートラの話と、上のヘッドのコメントの内容とは、時期的にも両立が不可能なので、
どちらかが真っ赤な嘘、ということになります。
そこで、私が連れに、”さすがにこんなことで嘘をつかないだろうから、
やっぱり不調なのには大怪我という理由があったんだね、、可哀想に。”と言うと、
”いや、わかんないぞ。オペラの世界はエンターテイメントの世界と一緒だ。保身のためなら何を言うやら。”
、、、、、この人ってば、突然ドライになるんですもの、わけがわかりません。



というわけで、本当ならマチネの『ばらの騎士』の余韻に浸っていたく、
中途半端に出来の悪い公演を見せられたら発狂しそうですが、
この公演は中途半端どころか、底辺のそのまた底辺な演奏になる可能性があるうえ、
しかもこのちょっとゴシップ的な興味のせいもあって、ダブル・ヘッダーの疲れゼロ、
ぎんぎんモードでサイド・ボックスから舞台を見つめています。
ここはかなり舞台に近いので、リチートラのちょっとした表情の変化も見落とすまい!と。

私、ネルソンスの指揮を見るのは今日で2回目なんですが、すっかり彼の指揮の物まねを会得しました。
早速この公演の後にオペラ警察にそれを披露して爆笑されたんですが、
なんでそんなことが可能かというと、彼の指揮って本当にワンパターンなんです、毎回。
それでも、11月に聴いた時よりは、演奏はほんの少し、ましだったように思います。
ただ、オケ側はもう彼をある程度見限っているし、彼もそれに気付いているように見受けました。
オケが指揮者を尊敬している時って、すぐにわかるし、それはまた指揮者側に自信となってあらわれるものです。
それでも若くて話題のアーティストは全部捕獲!がモットーのゲルブ氏には気に入られたのか、
ネルソンスは来シーズンも複数の演目で登場するようですが、
大変だなと思います、この信頼感を失った中でオケを率いるのは。

リューが11月の公演のポプラフスカヤから、Bキャストのコヴァレフスカ
(名前が微妙に似ていてややこしい!)に変わっていたのですが、
今日、コヴァレフスカとネルソンスの息がとても合っていて、コヴァレフスカが歌いやすそうにしているので、
”なんで??!!”と思いましたが、良く考えるとこの2人は共にラトヴィアの、それも同じリガというところの出身。
私がネルソンスの指揮で、しっくり来ない部分も、ラトヴィア人同士には通じ合うのかもしれません。
それにしても、ラトヴィアは美形が多い国なんだろうか、、。
(下の写真はコヴァレフスカ。アジアン・メイクも似合ってます。)



私は今日の公演で、本当に声とか発声について色々考えさせられたことがあって、
舞台全体、また、『トゥーランドット』という作品そのもの、として感激を受けたり、
満足が行くものではありませんでしたが、観に行った価値は大変にあったと思っています。

まず、コヴァレフスカなんですが、彼女は決して声に恵まれているタイプではない、というのを実感しました。
超美声でもないし、他のソプラノと比べて、”あ、コヴァレフスカだ!”とすぐにわかるような、
際立った個性があるわけでもない。高音域にはあいかわらずストレインがあるし、色々問題もあるんですが、
それでも、今日のメイン・キャストのうち、最も拍手が多かったのが彼女です。
それは、もちろん、リューはいいアリアがあって、役得という面もありますが、
何より、音を発した時に、きちんと芯があってそれが前に飛んでいる。
だから、皮肉なことに、他の2人(トゥーランドットとカラフ)と比べても、
最も音がしっかりとオペラハウスに鳴っているのが彼女なんです。



リチートラは、聞いていたほど悲惨ではない、と思いました。
というか、悲惨なのかもしれませんが、私は何よりきちんと役の準備をしていない人が嫌いで、
そういう人が案の定悪い結果を出すと、気分がむかむかするんですが、
リチートラの歌はそういうんでは決してないんです。
というか、フレージングを聴くと、むしろ、”役自体”は、相当頑張って準備して来たという風に感じます。
問題は、それ以前の、声と発声です。
まず、彼の声には、このカラフ役を歌うことを正当化できる要素が何一つありません。
今すぐに、この役からは手を引くべきだと思います。
彼は、メトにカヴァラドッシでデビューして、それが成功を収めてしまったことが、
ずっとキャリアにおいて、誤った方角に行く源になってしまったように思います。
彼は本来、かなり軽めなテクスチャーの声で、そのテクスチャーは声量で押しても変わるものではありません。
4日の公演の評判が悪かったのも多分耳にしているでしょうし、
何より彼自身、自分の歌が最悪だった、というのはわかっているはずです。
今日はそれを取り戻そうと、全力を振り絞っているのはわかるんですが、
必死になって声量一杯一杯にあげて歌っても、テクスチャーがこの役と合っていないんですから、それは無意味です。
それから、コヴァレフスカみたいな人と比べると良くわかるんですが、
彼が出す音は、音の芯がないというか、中心がはっきりせず、頭の周りで横に拡散してその場で消えてしまうような感じがします。
以前の彼はこんな風ではなかったと思うんですけれども、、。
それとも、これが脊椎を損傷して、踏ん張れなくなった結果なのか?

”誰も寝てはならぬ”の低音は、ジョルダーニと違ってちゃんと存在してましたが、
(ジョルダーニはこの曲の低音が全く出ていなかった。)
逆に高音の方は出来るだけリスクを取りたくないのか、二幕のトゥーランドットとの一騎打ちの最後で、
慣例的にハイCを出す個所がありますが、ジョルダーニは毎公演、この音を出していた
(かなりきつそうだったですけれども。)のに対し、リチートラは4日と今日の両方、その音を避けています。
頑張ってはいるんですが、この世の中、頑張りだけではどうしようもないこともあるんです。
オペラで自分の声に合わない役を歌おうとしても、頑張りだけではとても埋め合わせられるものではありません。



それから、キャリア・パスという面で。
先にふれた、因縁の『トロヴァトーレ』交代劇で、リチートラの代わりにマンリーコを歌ったマルセロ・アルヴァレスですが、
私の基準では、アルヴァレスのマンリーコはもちろん、今シーズンに歌った『トスカ』のカヴァラドッシなんかにしても、
軽い方の部類に入るんですが、
ただ、リチートラとアルヴァレス、同じようにこれらの役を歌っても、
アルヴァレスは、ベルカント、ヴェルディの軽めのテノールの役(アルフレード、マントヴァ公)、
フランスもの、などをきちんと経ながら、そこに至っていった、という経緯があります。
逆にリチートラはいきなりカヴァラドッシの代役で成功してしまったことが仇になったか、
少なくともメトでは、本来は軽い声なのに、(それから、もしかすると、ベル・カントなんかを歌える技術がないから?か、)
重いほうへ、重いほうへ、とレパートリーが流れてしまっていったように思います。
(私は数年前のリチートラのカヴ・パグは役の解釈とか演技が新しくて面白いと思いましたが、
声だけの話をすれば、ヴェリズモももちろん彼には負荷が大きいと思います。)
その結果、アルヴァレスがまだまだ健康的な声で歌えているのに対し、
リチートラは、下手すると彼のキャリアは終わりか?というような話までされてしまうほどに
今、やばい状況になってしまっているのです。
10年前にスカラで彼をマンリーコ役に抜擢したムーティ、、、重罪です。
あんな怖いおっさんに魅入られた日には、リチートラもNOとは言えないでしょう。
でも、言うべきだったのです、きっと。

アリアの後に変な沈黙にならないよう、今日はネルソンスが気を利かせ、
”誰も寝てはならぬ”の後は観客に拍手の判断をゆだねる時間を与えないよう、
オケをとめずにサクサクと進んでいきましたが、(だし、私は仮にアリアがすごく上手く歌われても、
ここで止まらずに、ガーッとすすんでいく方が好きなんですが。)、
最後のカーテン・コールに出て来た時に、まるで死刑判決を待つ罪人のように、
弱気な、おびえた表情をしていたのには本当に胸が痛みました。
たった数年前までは、こんな心配をしたことがなかったはずの彼が、です。
観客からは温かい拍手が出て、ほんの少し安心したようですが、それでも、歌手というのは、
自分の力が落ちて来た時、他の誰よりも自分でわかっているものですので、
短く切り上げて、すぐに幕の後ろに姿を消したのも、見ていて辛かったです。
この後の公演の出来にもよるのかもしれませんが、もしかしたら、メトで彼を見るのはもう最後に近いか、
もしかしたら、実際に最後になるかもしれない、、という思いがふっと頭を掠めました。



最後にトゥーランドット姫を歌ったリンドストロームについて。
彼女はシーズン初日に、病欠のグレギーナに変わって同役を歌い
グレギーナとは全く違うタイプのトゥーランドットとして話題を集めました。
何より、グレギーナの磨耗しきった声とは違って、まだ声がみずみずしく、
リリカルにこの役を歌える、として、グレギーナに食傷気味だったヘッズは、彼女の登場を歓迎しました。
私も大体似たような考えでしたので、今日の公演で彼女を聴けるのを楽しみに来たのです。

しかし、彼女が登場して、”この宮殿の中で In questa reggia"を歌い出した瞬間、思いました。
”声、細っ!”
これだから、今までに一度も生で聴いたことのない歌手に関しては、シリウスはやっぱりあてにならない、、。
マイクを通してだと、グレギーナまでは行かなくても、もう少しサイズのある声かと思ってました。
綺麗な声なんですけどね、すごく。
綺麗というのは、文字通り、ちょっと鈴の音のような感じがあって、
トゥーランドットよりも合う役があるんじゃないかな、、と思います。
どういう経緯でトゥーランドットがレパートリーに入ったのかわかりませんが、
フル・スロットルで出す高音は音が痩せ気味になるので、本来、あまりこの役に向いた歌手ではないと私は思います。
彼女の第ーの魅力である、声の美しさを保てる音域で勝負できる役が他にあるでしょう。
彼女はあと、舞台ですごく綺麗に見える、得なルックスをしてます。
本人の地の写真を見るとそんなに痩せているようには見えないんですが、舞台ではすごくスリムに見えますし。
もう一つ評価できるのは、彼女らしいトゥーランドットを作ろうとしている意志を感じる点です。
一幕、カラフが謎解きに挑戦することを知らせるために銅鑼を打つ場面で、
それまで紗のむこうで長椅子に横になっていたトゥーランドットが、のそーっと頭をもたげる様子は、
寝ていたヤマタノオロチが起きた様を彷彿とさせ、
トゥーランドットが化け物みたいに思われ、怖かったですが、
二幕以降、実際に舞台に姿を現わして歌う場面になると、彼女が冷たさの中に隠している恐れ、
女性としての弱さがきちんと感じられる役作りで、グレギーナよりは、姫らしい感じがします。

ただ、何と言えばいいのでしょう、、、
やはり、声のパワーというのは、それ自体に魔力があって、
ある面では今日のキャストがグレギーナじゃなくて良かった、、と思いつつ、
ふと、あのばりばりと歌いこなせるパワーが懐かしくなったりもしたのでした。
リンドストロームの雰囲気と、あの声のパワーがあれば最高なんですけれども、
そうは上手くいかないものです。


Lise Lindstrom (Turandot)
Salvatore Licitra (Calàf)
Maija Kovalevska (Liù)
Hao Jiang Tian (Timur)
Bernard Fitch (Emperor Altoum)
Joshua Hopkins (Ping)
Tony Stevenson (Pang)
Eduardo Valdes (Pong)
Patrick Carfizzi (Mandarin)
Anne Nonnemacher, Mary Hughes (Handmaidens)
Antonio Demarco (Executioner)
Mark DeChiazza, Andrew Robinson, Sam Meredith (Three Masks)
Sasha Semin (Prince of Persia)
Linda Gelinas, Alexandra Gonzalez, Annemarie Lucania, Rachel Schuette (Temptresses)
Conductor: Andris Nelsons
Production: Franco Zeffirelli
Set design: Franco Zeffirelli
Costume design: Anna Anni, Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreographer: Chiang Ching
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** プッチーニ トゥーランドット Puccini Turandot ***

DER ROSENKAVALIER (Sat Mtn, Jan 9, 2010) 後編

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

まだ一幕は続いてます。
10月に観た公演に比べると、やや立ち上がりからの演技がピントが合わず、少し心配させられたフレミングですが、
”ヒポリットよ、今日は私をおばあさんにしたのね。 
Mein lieber Hippolyte, heut haben Sie ein altes Weib aus mir gemacht!"、この言葉以降、
モノローグを中心とした幕の最後まではさすがです。
ヒポリットというのは調髪師の名前で、彼に髪を結ってもらっている間、あんなに活き活きとまわりの人間と話していたはずのマルシャリンが、
鏡で出来上がった髪と自分を見てから、一気にふさぎこんで、普段押し隠している思いが一気に噴出してしまう場面です。
彼女の気性と考え方、それから自分の立場をふまえた責任感のため、
元帥夫人としていつも”完璧”と言ってもよい行動しか取らない彼女は、
周りの人間には、ほとんど本心を見せないんですが、その彼女の本当の気持ちが
唯一このモノローグを通して、我々観客は知ることができるのです。
ほとんど、と書いたのは、特にこの一幕の時点ではオクタヴィアンには理解できない形でしかぶつけられなかったとしても、
それでも、彼女が人に自分の本心を見せるという行為にもっとも近づく相手はオクタヴィンだからです。
この2人の間には単なる情事というだけでない、やはり特別な絆があって、
最後の幕ではオクタヴィアンもマルシャリンの気持ちを理解し、でも理解しながらゾフィーと一緒になって、
だから最終幕ラストの三重唱で、それぞれの登場人物の歌う言葉がせつないんですが、それは最後に。



今日はオケの演奏の良さにも本当に助けられました。
というか、彼らの演奏がちゃーんと音で物語を語ってくれているので、
主役の2人がトップフォームでなくても、全体としてはそれほど演奏の水準が下がっているような気がしません。
この一幕の最後の場面なんか、それがよく伝わる個所なのではないかと思います。
メト・オケの優れている点は、音の美しさだけにこだわるのではなく、
登場人物の心や今ある場面を表現するためには、意識しないでその枠をひょいと飛び越えられる、
勇気と言ってはおおげさですが、恐れのなさ、というか、そういうところにあるように思います。
他に今日の公演で例をあげるなら、ラストの三重唱の途中(後ほど紹介する音源の一つ目の5'00"から始まる金管)など、
ものすごい強奏で、音は汚くなる寸前というか、微妙に汚くなってしまっているんですが、
舞台の上で、マルシャリンが立ち去った後、”やっと2人になれたね!”という感じで、
ひしーっ!と抱き合うオクタヴィアンとゾフィーの姿とその音がどんなにシンクロしていたことか!
2人の爆発するような喜びが、この汚くなりかけの音にちゃんと表現されているんです。
こういう喜びを、綺麗なちんまりとした音で表現するなんて、絶対無理です。
舞台とオケが出す音のマッチぶりは、絶対に見えているわけはないのに、
まるで奏者が舞台を見ながら演奏しているんではないかと思うほどで、
多分、こういう音は音だけで聴くと、”汚い、大げさ、減点!”ってなことになるのかもしれませんが、
舞台で起こっていることと合わせて聴くと、素晴らしい音だと感じます。



第二幕

この『ばらの騎士』で私が好きなのは、各幕に大きな見せ場、
それもドラマの頂点となるところに滅茶苦茶美しいメロディーが重なる見せ場、があって、
その上にコミカルな部分がバランスよく配分されている、という点
(しかもそのコミカルな個所にも、軽めのこれまた美しいメロディーが入っているというスーパー技!)なんですが、
一幕の大きな見せ場がマルシャリンのモノローグなら、二幕は当然のことながら、ばらの献呈シーンです。
ここで初めて新興成金貴族ファニナルの娘のゾフィーが登場するわけですが、
10月に歌ったペルションに変わって、1月の公演で同役を歌うのはクリスティーネ・シェーファー。
シェーファーといえば、二年前の『ヘンゼルとグレーテル』のグレーテル役での、超可愛い子供っぷりが私の記憶に残っているんですが、
可愛いのは生限定なのか、HDやDVDで見ると、彼女の老け顔が気になった、という意見も聞きました。
あれだけ巧みな演技をしていても、まだそんなことを言われるなんて、本当に気の毒以外の何物でもないくらいです。

おそらくそれと全く同じことが今回の『ばらの騎士』のHDでは起ってしまうのではないか、と危惧していましたら、
まさにその通りになってしまって、彼女のゾフィーはアメリカ本土HD鑑賞組にはあまり評判が良くなかったようです。
確かに、一つには、彼女の割と線の細い声は、フレミングやグラハムのまったりとしながらパワーのある声質と、
あまり相性の良いコンビネーションではないと思います。
また、緊張のためか、それでなくても難所なんですが、冒頭の部分の高音が危なっかしくて、
同じ高音で苦労するなら、声にぴーんとした強さのあるペルションの方が、
バランスが良かったのでは、という見方があるのもわかります。

けれども、シェーファーのゾフィーにはペルションのゾフィーにはなかった美点もあり、やっぱり彼女は演技が上手い。
グレーテルは幼児と言ってもいい年齢、ゾフィーは16くらいでしょうか?
この二つの違った年齢を、ここまできちんとそれぞれリアルに演技で表現できる人はそう多くはないと思います。
ペルションがラッキーだったのは、彼女は演技力という技術の面では遠くシェーファーに及びませんが、
彼女は、自身にこれを地で演じ歌える雰囲気があったために、それがかえって面白い生々しさを生んでいました。
シェーファーのゾフィーはわりとぽよよん、とした感じで、
ペルションの向こうっ気の強そうなゾフィーに比べると、ほんの少し幼い感じです。
本来の自分とは違う雰囲気を作り出す”技”を評価するならシェーファー、
技術でなく素でもいいから役とのケミストリーの面白さを見せてほしい、と思うならペルション、ということかもしれません。

ゾフィーとオクタヴィアンが一目見てお互いに惹かれる場面は、
ペルションがゾフィーを演じた公演では、音楽と演技のタイミングが合っていなくて、
なんでそんな妙な時に視線がロックしあうのか!?という違和感がありましたが、
今日の公演の2人は、途中にふっと現れるトランペットのフレーズを2人の視線が出会う瞬間に設定していて、
演技もタイミングがぴったりで、お互いの姿にはっと息をのんで、
それこそばらを取り落としてしまうんではないか、という雰囲気で、時が止まるような感じがし、普通よりもこのフレーズを長く感じました。

歌に関して言うと、シェーファーは先にも書いた通り、声は細いんですが、
撥音がはっきりした発音(おやじのだじゃれみたいですが、、)なので、
言葉のリズムがはっきりと聞き取れるため、何を歌っているのか判らない、という感じはありませんし、
落ち着いてからはピッチもしっかりしてきましたが、元々この役で求められる高音域に関しては、
冒頭だけでなく、全体的に少し無理をしている感じに聴こえる音色ではあります。

また、やはりと言いますか、今日はインターミッションで、フランスからいらっしゃった日本人の方とお知り合いになったのですが、
その方がおっしゃるには遠目に舞台を見ていたときは、”かわいらしいゾフィーだなあ。”と思ったのに、
どれどれ、どんな人が歌っているんだろうとオペラグラスを覗いた途端、ちょっと引いてしまわれたそうです。

ゾフィー役については、HDに、シェーファーの安定感(ペルションの弱点の一つは日により出来に差が大きい点で、
それはシリウスの放送とあわせるとわかります。私が実演で聴いた日は、彼女の最も調子の良い日の一つだったようです。)を
とったのだと思いますが、HDに関していえば、賭けでペルションをキャスティングしておけば面白かったかな、とも思います。



10月の公演を観たときには女性陣の頑張りに比して、男性陣が物足りない、と書きましたが、
今日はその逆と言ってもいいくらいで、これほど男性陣がしっかりしている『ばらの騎士』というのはいいものです。
この作品では、どうしても主役の女性3人に注意が向きがちですが、彼女達により深みを与える、
そのためにオックスやファニナルがいるのであって、
この2人の役は歌っているだけでいい、と思っている方は、今日の公演(HD)の、
すでに書いたオックス役のジグムントソン、そして、ファニナル役を歌ったトーマス・アレン、
この2人の歌唱と演技を見れば、考えが変わるはずです。
特に私はアレンのファニナル役での上手さ、これに大いに感銘を受けました。
オックス役は主役の一人と言ってもいいくらい登場場面が多いですが、ファニナルはそれほどでもない。
その限られた時間の中で新興貴族ゆえの、まるで小市民的な、
見ていてとほほなまでの古い貴族(オックス)への腰の低さ、
それでいてどこか逞しい感じのする生命力(結局のところ、お金はオックスよりもファニナルの方がたくさん持っているんですから!)、
娘への愛情、それから、三幕のラストで、この作品中、唯一”大人”としてマルシャリンの気持ちをそっと推し量ってやれる人物として、
これ以上望めないくらい、見事にこの役を歌い演じています。
10月の公演でのケテルセンも悪くないと思いましたが、
この役に関してはアレンがキャスティングされたことで、数段レベルアップした感じです。

いかがわしいイタリア人のおじ&姪コンビ、ヴァルツァッキとアンニーナを歌ったロゼルとホワイトのコンビも、
いつもと同様、いい味を出していました。



第三幕

この作品、誰が一番の主役か、強いて選べなければならないとすれば、それはオクタヴィアンになるかもしれません。
それは、主役の中でも、登場場面が最も多いからで、カーテンコールでは一番最後に現れ、
また指揮者を舞台にひっぱってくる役割が彼(彼女)に与えられていることからも裏付けられます。
もともとコンディションが良くないグラハムはこの時点でかなり精神的にしんどくてもおかしくないんですが、
(やっと二幕歌い終わったと思ったら、長い三幕、それも最後に三重唱がくっついた、がこの先に控えているんですから。)
彼女のすごいところは精神力、これに尽きます。
三幕になってから、彼女がものすごいテンションで自分を鼓舞しているのが客席にまで伝わってくるんですもの。
そして、実際、高音にいつもの精彩を欠いていたとしても、
これまでの幕より良く声を出して来るんですから、本当にすごい人です。
おそらく、全幕乗り切れるように一幕と二幕では多少力をセーブしていた部分もあったのでしょうが、
もうその必要はない!ここで力を出さずしていつ出すか?とばかりに
全力投球しているのが手に取るようにわかります。
こういう頑張りというのは、入賞には手が届かないとわかっていても、全力で走ろうとするマラソン・ランナーと似て、
コンディションが完璧な状態でスーパーな歌唱を繰り広げるのとはまた違った感動があります。

私が今日の公演で”こ、これは!!”と驚かされた場面は、この三幕での、
マルシャリンと警部の絡み方で、私、今日の公演のフレミングとギャリオンの芝居の仕方から、
実はマルシャリンがオクタヴィアン以前に関係のあった相手というのは彼ではないのか?というのが頭をよぎりました。
ギャリオンなんですが、彼はメトでも十分良く通る、やや甘目というのか、色気のある声をしたバス・バリトンで、
遠目に見る分には、舞台姿も背が高くて美しいです。
顔の細かい造りは肉眼でしか舞台を観ない私にはよくわかりませんでしたけれども。
こんな彼なので、フレミングの演技の仕方一つで、たまたまこのケースを受け持った超脇役としての警部ともなれば、
あるいは、マルシャリンと以前に関係のあった男性として普通以上の意味合いが役に出てくる可能性もあるのは、
すごく面白い発見でした。
実際、一幕で、マルシャリンはオクタヴィアン相手に、うっかり、オクタヴィアンとの情事が彼女の最初の婚外情事でないと、
口を滑らせてしまっています。
実際に、身分や職業の関係を顧みて、2人の恋が可能であったか、という歴史的妥当性は
私はヒストリーおたくではないのでわかりませんが、
どのみち、『ばらの騎士』自体が婚約者にばらを贈るという、架空の慣習にもとづいたストーリーなんですから、
2人がかつて恋人同士だったとして、なぜ悪い?
仮にそうだったとしたら、ますます複雑な糸が絡み合う感じで、これはこれで面白いです。
こうなると、これまで単なる普通の会話に聴こえていた、

マルシャリン:(警部に)あなたは私をご存知?私もあなたを知っているような気がするけれど。
警部    :よく存じておりますとも。
マルシャリン:あなたは元帥の忠実な伝令役だったことがあるんじゃないの?
警部    :仰せの通りでございます。

という会話が突然意味深で、エロティックな感じすら漂ってくるのです。2人で目配せしながら会話しているような。
しらばっくれやがって、この2人!お前ら、出来てたんだろーが、昔!とMadokakipは心の中で叫ぶ。
前回観た公演では、警部に対して、ただの下々のものに話している雰囲気だったんですが、
今回のフレミングのここの歌い演じ方から、私は女性を感じました。
フレミング、、、、毎回、少しずつ、役作りが違う。全くもってあなどれません。
それについていっているギャリオンも、大したものです。

ジグムントソンは、もう後の幕になるほど勢いづいていった感じで、
"ロイポールド、さあ行こう!Leupold, wir gehn!"と怒鳴る声はもうびっくりするくらいの声量でした。
人によっては下品、と感じられるかもしれませんが、私はここまで突き抜けて歌い、演じてくれた方が
理屈ぬきに楽しめて好きです。
だし、彼のオックスはかっぺだけど、決して下品にはなっていなくて、コミカルな色が強いのは好感が持てます。
あともうほんの少し若々しい感じがあったら、と思いますが、まあ、それは望みすぎでしょう。
この後、マルシャリンとゾフィーが同じ言葉を、全くそれぞれの立場で違った意味で歌う、
そのどちらもに観客の胸はせつなくなる、本当にこの台本は良く出来ているな、と感心させられます。



三重唱の一番最初の”マリー・テレーズ!”という言葉をグラハムがものすごく丁寧に歌っているのは聴きものです。
そして、あの後に続く元帥夫人のメロディーでの、フレミングのオケの音と絡むような息の長いこのフレージングはどうでしょう!
最近元帥夫人を歌っている歌手には、ここで音を一つ一つ置きに行っているような、
直線的な旋律の取り方をする人がいるんですが、私はそれではこの三重唱の美しさが生かしきれないと思います。
フレミングの、このリボンが風に揺れて、くるん、とひっくり返ってまた戻るような、
オケの楽器と戯れ、空気に漂っているような、ずーっと音が連続しているような、
息の長い旋律の取り方を聴くと、こういう風にこのトリオを歌える歌手ってやはりそうはいない、
やっぱり彼女のマルシャリンは素晴らしい、と思います。

オケが歌手や物語と一緒に息をしているのも、この三重唱の聴き所で、
前半でオケが段々と盛り上がっていく場面では、ここにいながら、ここにいない、とでもいえばいいのか、
心が体から抜けて音と一体となるような感覚を持ちました。
そして、先にも書いたオクタヴィアンとゾフィーが抱きしめあって恋する喜びを分かち合う場面の音までには、
つい涙がこぼれて、今日はぬかりなく準備した手元のハンカチでそっと涙を拭うと、
隣のボックスに座っている黒人の男性が、片手の平で目の周りを覆いつつ、口を開いておんおん大泣きしてました。

続く二重唱の途中で、ファニナルが歌う”若い人たちはこういうもんかね。Sind halt aso, die jungen Leut'!"という言葉は、
彼がオクタヴィアンとマルシャリンの関係を悟りながらも、気付いていないふりをして、
そっとマルシャリンを慰める言葉なんですが、これをアレンが本当に上手く歌っています。
その後に続く、”そうですとも Ja, ja"が前回の鑑賞時とは違って、
思い入れを抑えて、文字通りの”そうですとも。”という感じで軽めに歌われているのは面白いな、と思いました。

今までじっくりとこの作品を観た事がない、という方(もちろん、ある方も!)には、
最高のHDになるんではないかと思います。
私もこういう公演を早くに観ていたら、もっと昔にこの作品に目覚めていたものを、、。
遠回りさせられました、本当に。

以前紹介したものと同じ音源ですが、ラストの三重唱と、それぞれのパートの言葉の訳をつけておきます。
(重唱の後半部分は、2009年10月13日の記事にあります。)




(マルシャリン)
私が誓ったことは、彼を正しい仕方で愛することでした。
だから彼が他の人を愛しても、その彼をさえ、愛そうと。
でも、そんなに早くそれが来ようとはもちろん思わなかった。
この世の中にはただ話を聞いているだけでは信じられないことがたくさんあって、
実際に体験すれば、それを信じることは出来るけれど、それがなぜなのか、ということは決してわからない。
ここに”坊や”が立ち、ここに私が立っている。そしてあそこには他の娘が。
あの人はあの娘と幸せになるでしょう。幸せということをよく知っている他の男たちと同じように。

(オクタヴィアン)
何かがやって来て、何かが起ってしまった。それでよいのか、と私は彼女に聞きたい。
なのに、その問いを彼女は禁じているのだ。私は聞きたい、なぜ私はこんなに震えるのだ?と。
何か間違ったことをしでかしたのか?でも、そのことをきくことが出来ないのだ。
そして、それから私はあなたを見つめる。ゾフィー、私はあなたのことだけを強く感じ、
ゾフィー、ただ一つのことだけ、確かに知っている。それは、あなたを愛しているということ。

(ゾフィー)
私は教会にいるような敬虔で、それでいて何か不安な気持ち。また一方で不浄な気持ちですらある。
私には自分の気持ちがわからない。あの女の人の前にひざまずきたいと思えば、また何か仕打ちを加えたいとも思う。
私には彼女が彼を私にくれるのだ、ということが判るし、それと共に彼から何かを奪ってしまうような気がする。
私には自分の気持ちがどうなのか、わからない。
全てのことを判りたいと思うし、判りたくないとも思う。
問いただしたいと思い、問いただしたくないとも思う。けれども、、
ただ、あなたのことだけは強く身に感じていて、そして、たった一つわかっているのは、私があなたを愛しているということ。


Susan Graham (Octavian)
Renée Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Christine Schäfer (Sophie)
Thomas Allen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Eric Cutler (A Singer)
Erica Strauss (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (The Princess's Major-Domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three Noble Orphans)
Charlotte Philley (A Milliner)
Kurt Phinney (An Animal Vendor)
Sam Meredith (A Hairdresser)
James Courtney (A Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and Waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-Domo)
Tony Stevenson (An Innkeeper)
Jeremy Galyon (A Police Commissary)
Ellen Lang (A Noble Widow)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set and Costume design: Robert O'Hearn
Stage direction: Robin Guarino
Ctr Ptr Box 14 Front
OFF

*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

DER ROSENKAVALIER (Sat Mtn, Jan 9, 2010)  前編

2010-01-09 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

あの10月の公演から3カ月近く、どれほど今日を心待ちにしていたことか!
オペラのシーズン中、それも特に比較的上演に時間がかかる演目の鑑賞を控えている時は、
風邪をひいたり寝不足にならないよう注意してるんですが、
歌手の声と同様、微妙な体調というのは、起きてみるまでわからないもの。
しかし、今日は朝起きたときから、自分でも怖くなるくらい、やたら体調が良く、しかも、窓の外を見れば今日のNYは快晴。
今日の公演への期待が余って心が昂揚していることがそうさせるのか、猛烈なナチュラル・ハイです。
オペラハウスに向かうキャブの中から(快晴なのに相変わらず歩かない人。)電話で、
”なんだか、今日はとても良い公演が観れる気がする”と連れに予言までしてしまいました。

私、本当に10月の公演では猛烈にエキサイトしてしまって、帰宅したその足でメトのサイトにログオン。
私の場合、メトのオペラハウスで、サイド・ボックスの後列や平土間の超後ろや端など、
ここだけは絶対座りたくない、というエリアがあるんですが、
ほとんどその時点ですでに売り切れに近かった今日のHDの公演で、それらを除くと、残っていたのはたった一席。
センター・パーテールの一番舞台上手側にあるボックス、前列の三つ並んだ座席のこれまた一番端。
つまり、センター・パーテールの一番端で、ボックスの向こうは、
もうセンターではなくて、サイド・ボックスになってしまうという、”ボーダー・ライン席”です。
そう、このボックスは忘れもしない、あの昨シーズンのリング・サイクルで発生した山ザル親子の襲撃ポイントです。
しかも、ボーダー・ラインのこっちは377ドル50セント、むこうはそれより200ドル近くは安かろうサイド・ボックス、、。
一瞬、あのおぞましい状況が脳裏をよぎり、また、このぼったくり寸前の割高感溢れる価格設定にひるんでしまいましたが、
(センター・パーテールの真ん中のボックスならともかく、こんな端で、、。)
迷っている暇なし。大好きなシュトラウス作品で、もう一度あのような公演を観れるならば、、、

ぽちっ!

オペラハウスに到着して、ちょっと安心したのは、私のいるボックスはもちろん、
目に入るあらゆるボックスが後列まで含め、びっしり満席なこと。
ふふふ。座る座席がなければ、さすがのサルも飛び込んでは来まい。
しかし、悲しいかな、私はセンター・パーテールの一番端のボックスには座ったことがあるんですが、
そのまた一番端のボーダーライン席に座ったことは、よく考えると今まで一度もないのでした。
この前列ボーダーライン席というのは、なかなかユニークな視界になっていて、
センター・パーテールに座っている人を横から一望できるのはもちろん、
見上げると、グランド・ティアなど上階の一部まで目に入ってくるという、
客席ウォッチングをするにはなかなかの場所なんですが、悲しいことに、
舞台を観るにはこれで他のセンター・ボックスと同じ金額取るな!と怒りたくなるほど最悪の視覚です。
いや、一席内側に入るだけでだいぶ違うと思うのですが、メトのサイド・ボックスは、
奥のボックスでちょっと膨らむようになっていて、舞台に近くなるほど、
少しずつなんですが、内側に入っていくようなデザインになっています。
なので、ボーダー・ライン席に座っていると、あろうことか、すぐ隣のサイド・ボックスの前列の人たちの姿が、
舞台を観ている間、ずーっと視界に入っているという、泣くに泣けない状況です。
377ドル50セント出して、それより僅かしか払っていない人たちに視界を邪魔されていたら、世話ありません。
このボーダーライン席はMadokakip的には、今後二度と座ってはいけないエリアとして永久に記憶されることになりました。

というわけで、ちょっぴりへこむ状況ですが、
ふと、周囲を見回すと、老若男女あらゆる人種とりまぜ、
”とってもオペラが好き!シュトラウスが好き!ばらが好き!”という雰囲気を醸しだしている人たちばかりで、
なんともいえない、良い気が流れているのです。
体調も気分もハイなせいで、視界のことはあきらめて、今日はこの皆さんと『ばら』を思う存分楽しもう!と、
いつの間にかすっかりポジティブ・モードなのでした。

第一幕

10月の公演の時は、指揮のデ・ヴァールトがおじいなためか、
マルシャリンとオクタヴィアンの情事を表現する序奏の部分が、大人しくてやや物足りなかった、と書きましたが、
しかし、今日はどうでしょう!テンポの設定から金管が爆発するところまで、まるで見違えるようです。
HD効果か、ヴァイアグラでも服用したのか、デ・ヴァールト。
若いオクタヴィアンのエッチを表現するなら、こうでなくてはなりません。
しかし、この序奏部分で、今日は予感通り、心配なし!と安心した瞬間、
続いてオクタヴィアン役演じるスーザン・グラハムの、
”Wie du warst! Wie du bist! Das weiss niemand, das ahnt keiner!
あなたは何と素晴らしかったことでしょう(この意味はもう言わずもがなですよね!)
そして今も。これだけは誰にもわからない。誰も気がつかない。”という旋律が入ってきて、
私は椅子からひっくり返るかと思いました。
おお、何てこと、、スーザン、風邪気味じゃん、、 

もともと、オクタヴィアン役は少し彼女にとって音域的に高い方にストレッチ気味な部分があって、
高音域がしんどそうに感じることがあるんですが、それでも、今日ほどきつそうだったことはありません。
しかも、今まで生で聴いたことのある彼女はいつもコンディションが一定以上に保たれていて、
見た目通り、体が丈夫なんだろうな、なんて思っていたくらいなのに、どうしてよりによってこのHDで、、、。



そして、フレミングはといえば、グラハムほどではないんですが、
あの10月の公演の高音で聴かせていたようなピュアな音を出すのに少し苦労している感じがあって、
稀に、彼女のいつもの独特の、人によっては苦手と感じるあの、”もわーん”とした音が混じったりもしています。
救いは、オケの音と絡みながら、きちんと上を通り超させる力と技術は健在な点です。
彼女ほど大舞台に慣れた歌手でも、やはりHDは緊張したり、考えすぎたりするものなのか、
珍しく、演技の方も一幕の前半はオフ・フォーカス気味で、オーバー・アクティングに流れていたのが意外でした。
数年前のHDに関して、”劇場仕様ではなく、スクリーン仕様で演じます。”と
はっきり宣言していたアラーニャの例にもある通り、もしHDに合わせるなら、
むしろオーバーアクティングでなく、アンダーアクティングの方に行くのが自然な流れだと思うのですが。
映画館で観た人からも、ここでの彼女は大きく目玉を回したり、顔の表情が大きすぎて、
まるでバービー人形のよう、、という声もありました。
今まで、『オネーギン』『オテッロ』、そして10月の『ばらの騎士』で、
彼女の抑え目で、かつ的を射た演技を見た事のある私としては、なぜ、、?という疑問が残ります。

それにしても、”なんだか、今日はとても良い公演が観れる気がする”って、
我ながら、なんとさえない予感なことよ、、。少なくとも、今のところは。



女性陣の立ち上がりの苦労をよそに、今日の演奏を盛り立てることになった起爆剤は、
なんと意外にも、オックス役のジークムントソンです。
10月の公演では、名前がMから始まってpで終わる心無いヘッドに、
”許容範囲の下にはなんとかひっかかっている”とか、”脇役専門でやっていった方がいい。”など、
失礼千万な暴言を吐かれた彼ですが、そんな言葉に一念発起したか、
同一人物とは思えないほどの健闘ぶりでした。
いえ、同一人物とは思えない、というのは語弊があります。
なぜなら、時々、高音になると、10月の公演で聴いたものを彷彿とさせる、”すか感”が混じる場合があったので。
10月の公演では、高音全部がこういう”すか系”の音だったと思って頂いてよいです。
でも今日は、、本当によく頑張っています。
高音ではっきりとすか感を感じたのは数音ですし、中にはものすごくちゃんとフル・ボディで出ていた高音もありました。
彼はもともと声自体は割とどっしりした声ですから、オケに負けていないですし、
彼自身、好調なのがわかっているからか、演技ものってました。
後の幕で低音で、きちんと出たというには厳しい音もありましたが、まあ、これだけの内容が伴った歌なら、私は満足です。
こういう歌や演技を見ると、オックス役がしまっていることが
この演目でいかに大事なことであるか、というのがよくわかります。



以前の記事でも書いた通り、かつては『ばらの騎士』が上演されるとなると、
パヴァロッティのようなテノールを連れてくることすらあったメトにあって、
このHDで、歌手役にエリック・カトラーを配するという選択は一体どうなのよ?という思いがありました。
いつも人気歌手を並べているのを自負するメトなら、ここでもうちょっと名の通った人を呼んで来れなきゃ嘘だろう、、と。
登場時間が極めて短いため、金はかけれません、というコスト・カットを重視した故の決断だったのかもしれませんが、
こういうところの遊び心のなさにはがっくりさせられ、
やっぱりわかってないよな、ゲルブは、、、(もはや呼び捨て)と思うわけです。
10月の公演に登場したヴァルガス位のテノールをなぜ準備できないか?と。
いや、もしかすると、カトラーと発表しておいて、当日に、”あっ!”と驚くようなテノール(まあ、そこで、”どのテノールですか?それは?”と言われても答えに窮するんですが。)を
振り出して来るんではないか、とまで期待してしまいました、私は。

カトラーに別に恨みがあるわけではないのですが、彼は数年前にタッカー賞に選ばれ、
『清教徒』のHDではネトレプコの相手役に配され、DVD化までされるなど、
これほどチャンスを与えられながら、ものに出来ずにブレークしきれないでいるというのは、
彼自身、考えるべき点があるんじゃないかと思います。
それなのに、また、フレミングとグラハムの『ばら』で歌手役を歌うとは、つくづくやたら運だけは最強です。
『清教徒』を鑑賞したときに、彼の歌の感想として、
”高音でテンションがかかるのが、なんとも聴いていてつらい”
”声量はあって、舞台栄えもする体格なのですが、フレージングとか高音の発声とか、まだまだ磨かれる前の原石状態”
ということを書いていますが、今日の公演のつい数日前にシリウスの放送で彼の
”固く武装せる胸もて Di rigori armato il seno contro amor mi ribellai"を聴いた時には、
磨かれるどころか、さらに原石化しているように聴こえて、ぎょっとしてしまいました。
メロディはへろへろ、高音は緊張しているし、その上に、ラジオで聴くと、
声に妙な輪(音の芯が太くなったり細くなったりする)が感じられるようになっていて、
暗澹とした気分になったものです。




いよいよマルシャリンのお付きのものやら諸々の人々と共に舞台に登場した彼は、
舞台栄えのする体格(背が高くがっしりとしているが太っていない)に、
身につけたこのプロダクションの豪華な衣装が似合っていて、歌もこの舞台姿くらい素敵だったなら、、と、
どきどきしながら”固く武装せる胸もて”を聴く。

、、、、、、、、。

うーん、面白い。なるほど、、シリウスでああ聴こえた歌は、オペラハウスで聴くとこのように聴こえるのかあ、、
簡単に言うと、特別すごい!という歌では決してないですが、
シリウスで聴くよりは生の方が全然いいです。
あの変な声の輪はオペラハウスではほとんど気になりません。
彼の声をすぐ足元のマイクで拾うとああいう音になってしまうのかもしれませんが、
声のサイズが思ったより大きく、よく響く声で、
私の座席のような、舞台からそこそこの距離がある場所に音が届くまでには、
輪の太い部分と細い部分がブレンドされてしまうのだと思います。
むしろ、気になるのは、『清教徒』の頃から全く変わっていない、高音の緊張感の方で、
高音になると、音が前に出てくる代わりに、ひーっ!と横に引いたような音になってしまう点です。
それでも、この大変な歌を、あからさまなミスもなくきちんと歌い終えたのですから、まずはほっとしました。
また、今回はHDということで、特別に舞台監督から細かい指示を受けたのか、
演技がヴァルガスよりずっと細かいのも見所です。
特に繰り返しのヴァースが始まる前に、だんだん歌手役がいきり立っていく様子が細かく描写されていて、
最後にオックスの”Als Morgengabe! 支度資金としてだ!!”という怒鳴り声で歌が中断される場面は、
オックスが公証人と交渉していた書類を床に叩きつけた途端、
歌手役が楽譜を同様に床に放って部屋から飛び出して行く、という、
ヴァルガスが歌った時にはなかった(他の出演者と一緒に退場するまで、だらだらとたむろっていました。)演技が加わっていて、
ヴァルガスの歌手役は、自身が人気歌手なだけに、
”ちょっと空いた時間で、立ち寄って歌わせてもらいました。”という雰囲気で、特に役作りも何もなかったのですが、
カトラーの歌手役は、ちょっと尊大な感じがする雰囲気が面白く、きちんと役を作って来たという点では評価できます。
相変わらずラジオだけで聴いた人たちには彼の歌手役は極めて不評でしたが、
それは、おそらく、私がシリウスを聴いて感じたものと似た印象を持ったのではないかと思います。
オペラハウスで聴いたオーディエンスからは、そこまで悪くはなく、まあまあの出来、という声も出ていました。


<フレミングとグラハムの不調に慌てるな!後編に続く。>


Susan Graham (Octavian)
Renée Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Christine Schäfer (Sophie)
Thomas Allen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Eric Cutler (A Singer)
Erica Strauss (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (The Princess's Major-Domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three Noble Orphans)
Charlotte Philley (A Milliner)
Kurt Phinney (An Animal Vendor)
Sam Meredith (A Hairdresser)
James Courtney (A Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and Waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-Domo)
Tony Stevenson (An Innkeeper)
Jeremy Galyon (A Police Commissary)
Ellen Lang (A Noble Widow)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set and Costume design: Robert O'Hearn
Stage direction: Robin Guarino
Ctr Ptr Box 14 Front
OFF

*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***