Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE SONG CONTINUES : MARILYN HORNE (Thu 1/21/2010)

2010-01-21 | マスター・クラス
マリリン・ホーン・ファンデーションによる”The Song Continues(歌は続く)”プロジェクト。
期間中はマスタークラスだ、リサイタルだ、と、毎日昼に夜にと何かあるので、
もはや”一週間半にわたる歌のお祭り”の様子を呈しているのですが、残念ながら私は、
働かないでもオペラを観たり、生命維持することが可能というような幸せな境遇にいるわけではないので、
今回参加できたのはかろうじて二つだけ。
一昨日のジェームズ・レヴァインのマスター・クラスに続き、今日は、ボス・キャラ、
つまり、マリリン・ホーンが講師をつとめるマスター・クラスです。

そのレヴァインのクラスの記事にも書いた通り、彼女はしばしばNYで行われるコンサートやリサイタルなどで、
姿をお見かけすることがあるのですが、いつも姿勢がよく、きりりとした厳しそうな雰囲気で、
ちょうど一年前のメト・オケ・コンで、いざディドナートのサインをもらえる!という瞬間に割り込まれた経験もある私としては、
きっと、生徒さんたちを締め上げる、怖い先生に違いないよ、これは、と思っていました。

それが、、、。

マリリン先生は1934年の一月生まれでちょうど76歳の誕生日を迎えたばかり。
一方、レヴァインは1943年の六月生まれだそうですので、10歳近くマリリン先生の方が年上なわけですが、
その元気さといったら、レヴァインとの年齢が逆に思えるほど矍鑠としています。
彼女はつい最近癌を経験しており、いわゆる”サバイバー”なんですが、
全くそんなことが嘘のように思えるほど元気そうで、椅子に座っている間も、
ぴしーっ!と背中が伸びていたのが印象的でした。

まず、意外だったのは、レヴァインは指揮者なので歌唱や声について、
ある程度意図的に避けているのも含めて、あまりコメントをしないのも不思議ではないのですが、
マリリン先生まで、発声についての発言は最小限な点。
発声はいつもついている先生にちゃんと習って下さいね、
ここではそこから先のことをやりますので、とでもいった雰囲気に近い。
彼女が今回の(もしくはすべての)マスター・クラスで生徒達に教えたいことは、
どのように曲を表現するか、曲のどういう部分をつかみどころとしてその曲の良さを引き出し、
観客に提示するか、そういうことにフォーカスされているように思いました。
昨年、日本で聴講したデヴィーアのマスター・クラスの時には、
受講生(実際に歌う生徒さんたち)が日本人のみだったわけですが、
日本の場合は、曲で何かを表現するには、まず技術がなければならない、
そこがないと表現に行けない、満足な表現というのは技術があってこそ、
という考えが、少なからず根っこにあるように感じました。
しかし、レヴァイン、それから今日のマリリン先生のクラスを見ていると、アメリカの場合は、
発想が逆なのかな?という気がします。
つまり、こういう表現をしたい!という意欲が強くなってきたら、
いつか、その表現をするためにマスターしなければならない技術に辿り着く、
技術はそこで習得すればよい、表現を伴わない技術だけを先に詰め込もうとするのは意味がない、
という、そういう考え方です。
もちろん、これは対比を明らかにするためにオーバーに書いている部分もあって、
アメリカの声楽教育も、技術の重要さを軽視しているわけでは決してないのですが、
歌の表現と技術の習得という点で、少しルートが違うように感じます。

なので、マリリン先生も、とにかく、曲の雰囲気とかスピリット、歌われている歌詞の内容、
各フレーズの歌い方を工夫することによって表現に深みを持たせる、
これを徹底的に生徒と詰めていく、そんなクラス内容になっていました。
なので、一部の参加者に、二曲、歌う曲の候補をあげている人もいましたが、
レヴァインの時とは違って、ほとんどの生徒が一曲歌うだけで時間切れになってしまう状態です。

最初に登場したのはカーティス音楽院在学中のバス・バリトン、ジョセフ・バロンで、
曲はブラームスの”あなたのところへはもはや行くまいと Nicht mehr zu dir zu gehen"。
早速マリリン先生から、”この曲はもっともっと重苦しく、焦燥感を持って歌わなければ。
あなたのこの曲は何かのんびりし過ぎ。”に始まって、
”テンポが早すぎる!もっと重厚に!!”、”ドイツ語の単語の発音をもっと歌に生かして!特に子音の使い方!”、
”曲の頭からそんなにやたら声をたくさん使わない!”、などなど、矢のような指摘の嵐。
こんなにたくさんのことを一気に言われると、頭がショートしそうですが、
実際、彼はショートしてしまったようで、何度言われても同じ個所の発音で失敗していました。
マリリン先生だけではなくて、優れた歌手はみんなそうだと思うのですが、
音を延ばしている時、休んでいる時、そういった時にもきちんとリズムを感じるような歌を歌うものです。
それをきちんと学生さんに伝えているのはさすがです。
最初のヴァースの最後の Denn jede Kraft und jeden Halt verlor ich
(なぜならどんな強さも決意も失ってしまったから)のHaltの後に、
”ん!ん!”というリズムを感じながら、verlorに入って行きなさい、など。

おそらく自身が色んなレパートリーに挑戦して自分のものにしていった経緯があるからでしょうが、
ドイツ歌曲、イタリア歌曲、黒人霊歌、エスニックな曲、そしてもちろんオペラの作品群、、
それぞれの曲で何が大切か、というのが、きちんと見えているのがマリリン先生の強みです。

特にドイツ歌曲では、子音の響きを表現に有効に利用しなさい、ということを何度もおっしゃっていました。
フィッシャー=ディースカウの録音なんかを聞いて勉強しなさい、本当に学べることがたくさんあるから!と。
他におっしゃっていた大事なことは、
”どんなフレーズでも、声のカラーを良く考えなさい。声そのものを変えるのではなくて、
カラーを変えるのです。”
”息の量を測ることを常に忘れないで。この後に何を歌わなければならなくて、
そのためにはどれくらいの息の量が必要かということを常に意識して。
特にこの曲ではいきなり声を目一杯使ってしまうのではなくて、たくさん後にとっておくの。”
また、二つ目のヴァースから曲の雰囲気が変わって、つい声を張り上げてしまうバロンくんに、
”大きな声で歌うのではなくて、声をサポートする気持ちで!”。

その上に、各フレーズの細かい指示もすさまじく、二つ目のヴァースの、
Möcht augenblicks verderben (すぐにでも死んでしまいたい)のaugenblicksのauを出来るだけ表情をつけて、
そして、Und möchte doch auch leben(それなのに、生きてもいたい)のundはdに向かって思い切り持ち上げるように、
そして、möcht、doch、auchの音をきちんと関連付けて、
第三のヴァースの頭のAchはそして、囁くように、など、それはもう注文の山!なのです。
しかし、それらを織り込むと、確かにさっきまでのっぺらぼうだった歌に、きちんと表情がついてきているではないですか。
もちろん、歌い手というのは、こういったことを自分でやってこそ、ですが、
それでも、マリリン先生がどういう風に曲を組み立てているのか、その一部を見れただけでも興味深かったです。

二番目に登場したのは、履歴が高卒になっているので、特に音楽系の学校に進まず、
フロリダのパーム・ビーチ・オペラなど、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)的に頑張っているベッツィー・ディアス。
選んだ曲はザビエル・モントサルヴァトゲという、スペイン(カタロニア)の作曲家の『五つの黒人達の歌』から、
”Canto Negro 黒の歌"。
ヤンバンボ、ヤンバンベ、など、私はアフリカの言葉がさっぱりわからないので、
本当にこんな単語があるのか、それとも彼らの話している様子を擬音化したものか、よくわかりませんが、
まるで早口言葉のような歌詞で、しかも、旋律をとるのが結構難しく、
これを下品にならず、チャーミングに歌うのは超至難の技だと思いますが、
ベルガンサがすごく素敵に歌っている映像があります。
(ちなみにバルトリがこの曲を歌っている映像もYou Tubeに上がっていますが、私は、、、。)




ベルガンサを見ていると、すごく楽チンに歌っているように見えますが(本当に驚異!)、
それがとんでもない勘違いであるのは、このディアス嬢が苦闘しているのを聴くとよくわかります。
いや、それはバルトリの映像を見てもわかるかもしれないほどで。
まず、このリズムに本当にのって歌う時点ですでに、大変な困難です。
リズムに乗せるというのは、単に言葉が音符にのっているということではなくって、
そこから、ちゃんとビートが感じられるか、ということです。

ディアス嬢はキューバ系移民の家庭に育ったらしく、マリリン先生が、
”あなた、キューバ系なの?それなら、こういう曲、もっとノッて歌えるでしょ!”。
いや、先生、いくらキューバがスペイン語を話す国だと言っても、
それだからスペイン語の曲は大丈夫でしょ!と一からげにするのはあまりにおおざっば、かつ乱暴過ぎるのでは、、、、
だし、歌詞の半分くらいはアフリカ語擬音系の単語みたいですし、、。
なんてことは誰も言ってはいけないのです。マリリン先生なんですから!

ディアス嬢は、ベルガンサと違って、高音域ではフル・ブロウンで歌いあげる方法をとっているんですが、
その音がややきつそう。
ソプラノなんですけれども、ちょっと高音に苦手意識があるのかな、、という感じがします。
そのため、ついそちらに気がとられてしまったり、また、いつも練習やレパートリーの中心になっていると思われる、
オペラ的レパートリーを歌うアプローチに固執しているために、勝手がきかずに苦闘している趣もあります。

すると、黙っていないのがマリリン先生です。
”あなた、どうしてこの歌をそんなにオペラっぽく歌おうとするのかしら?
まだ、本当にのれていないわね。
親戚中が集まった時のようなのりで、もっと楽しく、のびのびと歌いなさい!”

それでも高音域に上がってくると無意識に体が固まってなかなかリラックスできない彼女に、
マリリン先生は、おもむろに立ち上がって、のりのりの体でダンスをはじめ、
ディアス嬢のまわりをくるくると回り始めました。
お歳で多少身長が縮んだものか、もともと背が高くないほうなのかは不明ですが、
小柄なマリリン先生が、ここは常磐ハワイアン・センターか、というのりで、
楽しそうにこの歌に合わせて踊り狂う姿は壮観でした。
しかも、段々興にのってきて、ますます激しくなるマリリン先生のダンス。
ディアス嬢の目をじっと見つめながら、今、私がこうやって踊っているように歌うのよ!
という、強烈なメッセージを発しています。
思わず先生の振りに笑ってしまったディアス嬢がやっと少しいい意味で緩んで来た頃、
マリリン先生があるフレーズでピアノを止めさせ、一言二言、ここはこう歌った方がいいわね、と歌唱のアドバイスをした後、
まだはずむ息も荒く、ピアニストに向かって、”○×の部分から続きを!”と、ダンスのスタンバイに入ったところ、
あろうことか、このピアニストが入りの部分を混乱&勘違いして、違うポイントから弾き始めてしまいました。
すると、マリリン先生、突然、激冷め。
”さっきまで猛烈に楽しかったのに、もう楽しくなくなりました。”という表情で、
すたすたと、自分の座席に戻って着席してしまった様子が、まるで子供みたいでした。
でも、舞台芸術というのは、そうなんですよね。
せっかく来た良い波というのは、乗り逃がしたら、同じものはもう二度と帰って来ないのです。

あと、ディアス嬢に出たアドバイスは、こういう曲では胸声を使うのをおそれないで、というのがありました。
”あなた、いい胸声が出せるの、あたし、知ってるのよ。”
あたし、知ってるのよ、といわれちゃったら、ディアス嬢はそれで歌うしかありません!

それから、言葉遊び&早口言葉のような歌詞なので、つい口を大きく動かしたくなるのが人情ですが、
マリリン先生のアドバイスは、”顎をそんなに動かさないで!”でした。
そこからディアス嬢は顎と同時に頬骨を上から押さえて、出来るだけ、顔がガクガクと大きく動かないように努力していましたが、
その効果は、音同士の間に均質感が生まれ、安定して聴こえる、という形になって顕れました。

このちょっと特殊といってもよい山姥(Yambamboからの連想で)の歌のみで終わるのは気の毒と感じたか、
もしくは、マリリン先生自身も、今日のマスター・クラスの最初に、一昨日のレヴァインに続いて、
デュパルクの歌曲がいかに素晴らしいかということを語っていたんですが、その絡みもあってか、
ディアス嬢には、二曲目の選択曲として彼女が選んでいた、そのデュパルクの”悲しい歌 Chanson triste"にも
トライする機会が与えられました。

山姥の歌がマリリン先生に”しかつめらしすぎる”と言われただけあって、
この二曲を聞き比べる限りでは、声とか発声の面では、デュパルクの歌の方が彼女に向いているように思います。
それでも、マリリン先生からは”もっと内省的な感じが出た方がよいですね”とのアドバイス。
それから、さらにフランス語のディクションの悪さも指摘されてました。
私が聞いてもちょっとこのディクションはまずい、と思う位なのですから、これは相当頑張らなければならない部分だと思います。
それから、”あなた、音を間違ったまま覚えているわね。”なんて言われている個所もありました。

それで思い出したのですが、デヴィーアのマスター・クラスの時と大きく違う点がもう一つ。
それは、一昨日それから今日のマスター・クラスで、歌っている時に楽譜を見ないどころか、
楽譜を持ち込んで来る受講生すら一人もいなかった点です。
先生と一対一ならともかく、こうしてオーディエンスが入っている場所では、
マスター・クラスであっても、観客に歌を聴いてもらっているのだ、という意識が徹底しているのだと思います。
これはすなわち、歌詞や音が頭に入っているのは当然のこと、
先生がくれるアドバイスも、メモせずに全部頭で覚えて帰るということを意味します。
なので、ディアス嬢は、マリリン先生に”音が違っている”と言われると、
”ええ??!!”と言って、走って行って、先生が持っている楽譜をのぞきこんでいました。
確かに、覚え間違えていると、こういう事態になる恐れはあります。

例によって、第二ヴァースのMon amourを”ぽーんと空中に放り投げるように!”など、細かい指摘がありましたが、
一番手の男性と同様、彼女もフレーズの頭に息を使い切ってしまう傾向があって、
”息をちゃんとはかりなさい! Measure your breath!!"と言われていました。


(数年前のマスター・クラスからの写真)

三番目に登場したのはアリソン・サンダース。カーティス音楽院に在学中のメゾで黒人。
ディアス嬢に続き(とはいえ、ディアス嬢の場合は先に書いたように厳密な意味ではそうではないのですが)、
”私のヘリテージ”系の選曲で、”Ride On, King Jesus"。
ゴスペルのスタンダード曲で、ノーマン、プライス、バトルと行った黒人女性たちも取り上げていた曲ですが、
今回、ジョン・カーターの『カンタータ』という作品で、トッカータとして含まれている編曲に基づいた歌唱です。

カーターの版は後半にたたみかけるような高音が続いていて、歌う方にとっては、
このサンダースのようなすごいパワフルな声をしていても大変。
マリリン先生は、この彼女にも、”随分オペラちっくな歌い方ね。あなた、教会で歌ったりする機会あるでしょ?”
はい、と答える彼女に、”じゃ、教会で歌うように歌って頂戴。”
そして、上の写真のように立ち上がってサンダースの側までやって来て、彼女が歌う間に、
黒人キリスト信者ばりに、”Yeah!"といった合いの手を叫んだり、これまた大フィーバー。

曲の最後は高い音にあげた方が断然エキサイティングなんですが、
サンダースは声のテクスチャー的にはソプラノに近いと思うのに、
すごく高い音はまだ出せないため、妥協案としてメゾ扱いになっているのでは?と思わせる部分もあって、
この曲でも、高音を避けるため、通しの歌唱では、最後の音を上げないで終わっていました。
しかし、マリリン先生に、”これは最後に高い音出さないと、楽しくないわ。”とあっさり言われ、
多分、今までその高い音で閉めて、成功したことも、いや、もしかすると歌ったことすら、一度もないかもしれないのに、
それでも果敢にチャレンジしたスピリットは素晴らしいです。
出したかった音から1音ほど低いところに入ってしまいました(ので、ピッチが狂っているどころの話ではない。)が、
マリリン先生は、”ほらね、楽しかったでしょ?”と、そんなことは意に介してもいない様子でした。

ディアス嬢、サンダース嬢の2人へのアドバイスでマリリン先生が伝えたかったのは、
オペラ的歌唱にこだわらないで、どのように歌うのがその曲の良さを引き出すのか、
考えなさい、ということだったのだと思います。

本受講生最後はオクラホマ大に在籍中のテノール、ロドニー・ウェストブルックで、
選択曲はレオンカヴァッロ(『道化師』)の”マッティナータ(朝の歌)”。
シンプル(に聴こえる)な曲だけに、歌の表情とかさらりとした歌い回しが大切で、
そういったものがない時、これほど苦痛に感じる曲も少ない。

彼の最初の通しの歌唱では、異様にコロコロとした癖のある発声で、かつ、
どうしよう、と思わずこちらがうろたえるような”かっぺ歌唱”でびっくりしましたが、
マリリン先生が、”レガート!”、”ルバート!”、
”言葉を大切に!”、”だらだらと歌わないで、するべきところできちんとブレスをして!”、
といったアドバイスを具体的な個所に施しつつ手直しして行くと、どんどん良くなって行きました。
また、第二ヴァースの頭に出てくるCommosoという言葉のmmの、
イタリア語独特のはずむような語感を大切にして、という助言もありました。

古い音源ですが、このカルーソーの歌を聴くと、マリリン先生の言わんとしていることがよくわかります。




オルタネートの一人目は、すでにこのリサイタルの時点では地震で大変な事態になっていたはずのハイチ出身で、
ニュー・イングランド・コンサバトリーで勉強中のバリトン、ジャン・ベルナール・スラン。
彼は、コメディ映画に登場するギーキーな留学生を彷彿とさせる、
完全にはアメリカナイズされていない(そしてそれはいいことかもしれない、、。)ぎこちなさとか純真さがあって微笑ましいです。
声自体は一度聴くと忘れないような甘い音色で、非常に面白いものを持っているのですが、
シューベルトの”春に Im Frühling"での、奇々怪々なドイツ語のディクションと、
演技以前に、普通に立って歌う姿にすら漂っているぎこちなさ、
そのアンバランスさがなんともいえない味をかもし出しています。
彼は少し言語の習得に問題があるのか、何度同じことを言われてもなかなかそれをマスターすることが出来ないのが難点です。
それを克服できて、いい先生が付いたなら、穴馬的な面白い存在になると思うのですが、、。

二人目はピーボディ・インスティテュートに在籍中のソプラノ、エリザベス・ダウ。
”あなた、歌の先生は誰?”というマリリン先生の言葉に、ダウ嬢が”マイケル某”と答えると、
”知らない。そんな人。”
いやいや、客席に先生がいるかもしれないから!とマリリン先生には、こちらがひやひやします。
知らないから指摘してOK!と思ったか、”あなた、特に中音域ですごく空気が漏れているわね。先生に言われない?”
確かに私もそれは感じました。これ、デヴィーアのクラスの生徒さんたちに多かった症状です。
ただし、その問題を除くと、彼女は潜在的にはすごくいい声を持っている可能性があると感じました。
グリークの”夢 Ein Traum"で聞かせたドイツ語がこれまた学生さんの歌とは思えないほど、達者です。
今日のオルタネートは2人とも、まだ全然完成されていないですが、潜在能力という面では面白いメンバーでした。

今回のマスター・クラスでは、マリリン先生の意外にお茶目なキャラが垣間見れて、とても楽しかったし、
何より彼女の歌そのものを大切にする姿勢、いい歌を提供するためにどのような工夫をしているのか、
というのを断片的にでも知ることが出来たのは、大変貴重な経験でした。

Participating Artists:
Joseph Barron, Bass-Baritone
Betsy Diaz, Soprano
Allison Sanders, Mezzo-Soprano
Rodney Westbrook, Tenor

Alternates:
Jean Bernard Cerin, Bartone
Elizabeth Dow, Soprano

Pianists:
Adam Bloniarz
Adam Nielsen

Weill Recital Hall

*** The Song Continues... Master Class: Marilyn Horne
ザ・ソング・コンティニューズ マスター・クラス マリリン・ホーン ***