Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SIMON BOCCANEGRA (Fri, Jan 22, 2010)

2010-01-22 | メトロポリタン・オペラ
クイズです。『ランメルモールのルチア』と『シモン・ボッカネグラ』の共通点は何でしょう?
ただし、”どちらもイタリア・オペラである”という答えは除きます。

ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の上映(もしくは日本の場合、収録)の日というのは、
シーズン初日から何公演か経過し、歌や芝居がこなれ、指揮者やオケとの息が合ってくる(はずの)
一連の上演スケジュールの真ん中以降に予定されることが多いです。
このため、HD前に同演目を一公演見て、それからHDの日にもう一度オペラハウスで観る、
というパターンが結構な確率であるのですが、
1回目に観る公演は、とても大雑把なレベルで、HDの演奏水準を知る手がかりになります。
もちろん、いつも書いている通り、公演の出来、内容、雰囲気、エネルギーは公演ごとに違うので、
全く一緒にすることは厳禁ですが、そのまた一方で、片方で滅茶苦茶演奏水準が高かった公演が、
もう一方で信じられないくらいがたがた、もしくはその逆というのは、
キャストがどちらかで風邪でもひいて舞台に立っているのでない限り、あまりないのが現実です。



さて、これまでで、一番HDが不安になった演目はどれかというと、
それはもうぶっちぎりで、昨2008-2009年シーズンのネトレプコの『ルチア』です。
HD前に観た1月29日の公演では、私は座席で憤死するかと思いましたから。
しかし、この『ルチア』は、上で説明した、信じられない位がたがただった公演が、
それなりにHDで持ち直してしまった、という、ごく稀なケースとして、一応、なんとか事なきをえました。
いや、本当に、大おまけでの”一応”ですけれども。

ここまで言うと推測がつかれるでしょうが、クイズの答えは、
”HD前に観た公演によって、HDへの不安がかきたてられた演目”です。

しかし、ネトレプコのような爆弾ファクターを抱えた『ルチア』ではなく『シモン・ボッカネグラ』で、
よりにもよって、ドミンゴ様(この日から、当ブログでは、ドミンゴではなく、ドミンゴ様となった。)
がタイトル・ロールのこの公演で?!そんな馬鹿な。



詳しく説明すると、同じ”不安”と言っても、その種類には二つの間で決定的な違いがあります。
『ルチア』の場合は、年齢的には歌い盛りのはずの、当初キャスティングされていたヴィラゾン&ネトレプコの2人が、
ヴィラゾンは喉の不調で降板して、ベチャーラがぶっつけ本番でカバーに入ったり、
(同じシーズンの前半にダムラウとの共演で同じ演出で歌ってはいますが、
ネトレプコを相手にこの演出で歌うのは、本舞台ではあのHDの日が初めてでした。)、
そして、ネトレプコは産後で全く準備らしい準備をしないまま、Bキャスト初日から舞台に立っていて、
いつになったら役に対する責任感と自覚に目を覚ますのか!という怒りと、
どれ位ひどい歌が飛び出てくるのか、という、どきどきが入り混じった不安でした。

かわって『シモン・ボッカネグラ』の方はといえば、公演にかかわっている5人には本来実力があって
(しかも、うち3人はオペラの後世に名前が残って行ってもおかしくないクラスの。)、
それぞれが、役や公演への準備を怠らないタイプであるにもかかわらず、
そのうちの4人がすでにキャリアのプライムを過ぎ”すぎて”しまっているために、
怒りやどきどきとは全く違う種類の、彼らの一番いい頃の力をもってすれば、
もっともっと素晴らしい演奏になっただろうに、、という、
一抹の寂しさといたたまれなさが混じり合ったような、何とも言えない気持ちに近いです。



まず、何と言ってもこの公演で話題は、テノールとしてこれ以上望みようのないようほどの
キャリアを築いて来たドミンゴが、バリトンのためにかかれたタイトル・ロールを演じる点です。
私は、まずは『特別な歌手』の部類に入ると言ってよい歌手をつかまえて、
年齢が高くなって最盛期のような歌をもはや歌えないからといって、ボロクソに言うようなことは抵抗があります。
それは別に心理的なことだけが理由でなく、実際的な面においても、
プライムで観客に『特別な歌手』と印象づけるだけの力のある歌手というのは、
年をとっても、やはり歌に特別な何かがあることが多く、逆に年をとっているからこそ、
それが一層驚異だったりして、感銘が増す、ということもあるくらいです。

ただし、それは、やはり本人が、居心地よく感じながら歌える役でしか、成り立たないのでは、と感じていて、
昨シーズンの『アドリアーナ・ルクヴルール』で、やっぱりドミンゴは年とった、と多くのヘッズに言われても、
私が”そんなことないでしょ?なぜこの凄さがわからない?”と思えた理由はひとえにそこにあるのだと思います。
それに125周記念ガラでのオテッロのすさまじかったこと!!!
つまり、テノールの役を歌っている時の彼には、役や歌唱をスリリングに感じさせる何かがあるのです。
しかし、残念ながら、このシモン役でのドミンゴは、音楽に関するテクニカルな面では問題なく歌えていますが、
彼の演技力をもってしても補いきれないほどに、役が平べったく感じます。
そこには、やはり、役を膨らませるという点において、
バリトンの声域だけにしか出来ないことがあるんではないかな、という風に感じるのです。
また、もっと単純な話で、例えば、カラオケなんかに行って、女性が男性歌手の持ち歌を歌ったら、
曲の良さが引き出されなくて、盛り下がった、なんていう経験、ありませんか?私はあります。
それに近い感じもあって、やはり、どんなに音色として昔の輝きが失せたとしても、
やはり、ドミンゴの声、歌が活きるのは、テノールの役なんだ、と実感しました。



それから、今回、少し驚いたのは、ドミンゴにしては役の準備が完全でない点で、
かなり頻繁にプロンプター・ボックスから次の言葉のキューが出ているのが聴こえましたし、
(一体、HDではどうするつもりなんだろう、、。)
また初日の公演では、音の入りを間違った個所もあったそうです。
今まで彼がこんな状態になっているのを見た事がないし、
いまさら役への取り組みの姿勢にそれほど劇的な変化があるとも思えず、
また、このシモンは、ドミンゴがバリトン・ロールに初挑戦、かつ、作品自体も、やや地味ながらも名作ということで、
そんな作品を貶めることのないよう、全力投球で来ているはずなんですが、
もしかすると、お歳が記憶力の方に影響を与え始めているのかもしれません。
まあ、70歳近いんですもの、無理もないです。
その半分強の年齢でしかない私ですら、ざるのように、日々、物を忘れるんですから。

それでも、ドミンゴの場合は、周りが彼をしっかりと彼を固めていたなら、
十分それなりの良い公演になりうるレベルの歌唱と演技を披露しているんですが、問題はその周りの方かもしれません。



まず、フィエスコ(aka アンドレア)のジェームズ・モリス。
声の衰えを感じる、という点では、ドミンゴよりもさらに症状が重い最近のモリスなので、
ドミンゴについて書いたことは、もっと強い度合いで彼にも当てはまります。
昨年の『ワルキューレ』で彼のヴォータンが素晴らしかったのは、ヴォータンが彼のシグネチャー・ロールであるために、
声の衰えに負けない役の掌握力というものがあり、それが歌に反映されていたからなのでしょう。
また、その人生最大の当り役でメトの舞台に立つのはおそらく最後になるであろう、という、
”機会”の要素が後押しした部分もあったかもしれません。
一ヶ月ほど前のリサイタルで聴いた彼の歌唱から推測すると、
テクニカルな面のみで言うと、彼はかなり厳しいところに来ているように思います。
まずある音量から下になると、音をコントロールすることが出来ない(弱音でのコントロールがきかない)、
これは、細かい心理描写が必要なヴェルディの作品はもちろん、
全てのオペラ作品を歌うにあたって致命的なことだと思います。
声量自体はまだまだしっかりしているんですが。
あの、”悲しい胸の思い出は Il lacerato spirito"(プロローグ)で、
観客からしらけた拍手しか出ないというのは、かなり辛いものがあります。

この公演で得た教訓は、”プライムを大幅に過ぎた歌手を大事な役に配するのは
1名限定で!”ということではないでしょうか?
2人以上そのような歌手を配するということは、ものすごいハイ・リスクで、
”くたびれた公演”という印象を観客に与えうる、ということを、オペラハウス側は覚悟する必要があると思います。



では、中堅どころは頑張っているかというと、それもそうではないのが、この公演の泣き所です。
ガブリエーレを歌っているのはマルチェッロ・ジョルダーニ。
『トゥーランドット』のカラフで”低音がない”と言われるだけでは飽き足らなかったようで、
またメトの舞台に帰って来てしまいました。
彼は多分、声がきちんと五体満足で手元に残っていたなら、
いい歌唱になったであろう、そのポテンシャルはあったと思います。
問題は彼の声が五体満足ではない点です。
数年前から感じられた荒れた感じの音色はいよいよ悪化していて、
数年前までは高音を楽々こなしていたという彼が、今や中音域よりちょっと高い音になると、
音をすくいあげるような変な癖がついてしまっているために、
すぐ音の最初から正しいピッチで入らないで、”うわーあ うわーあ”と常に少し低い音が本来の音の頭に混じるので、
彼の歌う場面が続くと、気持ち悪くて、なんだか車酔いに似た症状を起こしてしまいました。
もう、マルチェッロ、うるさいよ、みたいな。



そんな中、声楽的にまともな、健康な声で気を吐いていたのは、エイドリアンヌ・ピエチョンカのアメーリアです。
ただ、最近、ヴェルディのソプラノ・ロールを歌う歌手については、少なくともメトで聴く限り、
それにふさわしい声を持っておらずへなちょこになってしまうアンダーパワー系か、
このピエチョエンカのように力で押しすぎて、元々持っている声の美しさを活かさないで、
なめらかさや柔軟さを欠いてしまうオーバーパワー系、このどちらかになってしまっているように思います。
このアメーリア役は、みずみずしさ、しなやかさ、こういったものを持って歌わなければならないと思うのですが、
最近、そういった意味でヴェルディのソプラノ・ロールに向いていると感じる歌手がほとんどいないのが現実です。

それを言えば、実は数年前にハンプソンのシモンを相手にアメーリアを歌っていたゲオルギューは悪くなく、
彼女と125周年記念ガラで組んで、父と娘であることに2人が気付く
二重唱(”Orfanella il tetto umile ~Figlia! A tal nome palpito")の部分の抜粋を歌ったドミンゴも、
今回のピエチョンカ相手より、ゲオルギューとの方が、ずっとエモーショナルな、
良い歌唱を披露していたように思います。
ゲオルギューは美人ですが、ピエチョンカはちょっと顔に、男性が女装しているような逞しい雰囲気があるんですよね。
やだ!ドミンゴ様ってば何気に正直。

ピエチョンカは、たまにものすごく綺麗でなめらかな音を聴かせることがあって、
高音域にそれが入るとかなり魅力的なんですが、彼女には、その音を毎回再生できるほどの安定性が、
少なくとも今日の公演だけからは感じられなかったのが残念です。
彼女は押さなくても、十分メトでも通る声をしているので、
もう少し肩の力を抜いて歌った方がいい。
実際、ふっと力が抜けた時に出した声は軽やかで悪くない声をしています。

彼女の最大の欠点は、歌よりも演技です。というか、演技が型通りで、
何かエモーショナルなものを観客に伝えるための演技という意味ではほとんど何もしていない、というに近い、、。
シモンとアメーリアの二重唱の場面がぬるく感じる要因の一つです。



先ほど、”公演にかかわっている5人には本来実力があって”と書き、ピエチョンカで4人まで来ました。
”3人はオペラの後世に名前が残って行ってもおかしくない”とも書いて、
さすがにジョルダーニとピエチョンカの2人は、少なくともまだ(かもしかすると、今後も決して)、
そこまでのレベルにいるわけではありませんので、ドミンゴとモリスで二席が埋まった状態です。
では、そのもう一人というのが誰かというと、それは指揮のレヴァインです。

たまたまオフ・ナイトだったのかもしれませんが、レヴァインからこんなにテンションの低く、
細かい部分が雑い演奏を聴いたことは、私はとりあえずこれまで一度もありません。
『ホフマン物語』の時から少し心配に感じていた部分があったんですが、今日のこの公演はその比じゃありません。
彼の一番の強みといっても良かった、ディテールまで至る指示は、それゆえにコントローリングで、
演奏をしゃちほこばった、魂のないものにしてしまう部分も確かにあったかもしれませんが、
今日のように、ディテールがぼろぼろな演奏を聴くと、魂なんて高次な話はこの際どうでもいいから、
以前のように、細かいところに目配りの効く、レヴァインらしい指揮を見せてほしい、、と思ってしまいます。
この直後の日曜日(1/24)に、メト・オケとのコンサートで演奏予定のベートーベン5番が俄然心配になって来ました、、。



あと、この作品で、私が大事だと思うのはパオロで、ここには後に『オテッロ』で、
ヴェルディがイヤーゴとして結実させたものの原型があると思うのですが、
この大切な役を演じる機会を生かしきれないで(もしくは舞台の大きさ
~物理的な大きさではなく、共演者の顔ぶれとかHDにもなるといったこと~に押しつぶされているのか)、
カルフィッツィの役作りはあまりにこじんまりとしていて、スケールが小さすぎます。
彼は2008-9年シーズンの『ファウストの劫罰』(HDの公演を含む)でも、ブランデルを歌わせてもらうなど、
脇役でも大舞台を任せてもらうことが多いんですから、もうちょっと頑張らなければなりません。



ジャンカルロ・デル・モナコとマイケル・スコットのチーム(ちなみに、同時期に上演されている、
『スティッフェリオ』の演出も同チーム)による写実的で美しい舞台と豪華な衣装が泣かないよう、
今日の引退プロ野球選手による草野球ゲームのような公演ではなく、
”現役の舞台”として、HD当日は火花を飛ばしてくれることを期待しています。
そういう特別な火を作れるというのも、『特別な歌手』に備わった力の一つですから。
そのHDの公演にあたる2/6は事前にチケットを準備していなくて、
当然のことながら、今やソールド・アウト状態になっていますが、
ある方からチケットを譲って頂くという大変なご厚意を頂きましたので、
火花が飛ぶかどうか、しっかりとこの目で観て・聴いて来ようと思っています。


Plácido Domingo (Simon Boccanegra)
Adrianne Pieczonka (Maria / Amelia Grimaldi)
Marcello Giordani (Gabriele Adorno)
James Morris (Andrea / Jacopo Fiesco)
Patrick Carfizzi (Paolo Albiani)
Richard Bernstein (Pietro)
Joyce El-Khoury (Amelia's lady-in-waiting)
Adam Laurence Herskowitz (A captain)
Conductor: James Levine
Production: Giancarlo del Monaco
Set and Costume design: Michael Scott
Lighting design: Wayne Chouinard
Stage direction: Peter McClintock
Dr Circ A Even
SB

***ヴェルディ シモン・ボッカネグラ Verdi Simon Boccanegra***