Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

CAVALLERIA RUSTICANA/PAGLIACCI (Fri, Apr 10, 2009)

2009-04-10 | メトロポリタン・オペラ
イースターの週末は、メトづくしに恒例のミサと、音楽にまみれます!!

まずは今日、金曜のメトの公演は、タイムリーにも二度目の『カヴ・パグ』。
(『カヴァレリア・ルスティカーナ』は、イースターの日が舞台。)
Aキャストによる公演の、不思議な(aka およそイタリアものっぽくない)マイヤーの歌唱と、
アラーニャの、自ら着用している青シャツと同じくらい薄っぺらくててらてらな『道化師』のカニオ、
声にも演技にもドラマティックさがなく、キャストとして弱すぎるフォチレのネッダに、軽く寝込みそうになりましたが、
Bキャストはクーラのダブル・ビルで、サントゥッツァがコムロジに交代、ということで、こちらの方が期待できそうです。

●『カヴァレリア・ルスティカーナ』



まず舞台裏から聴こえて来る”ミルク色のシャツを着たローラよ
O Lola ch'ai di latti la cammisa"での、
クーラの逞しくてロブストな声に、アラーニャとは全く違うトゥリッドゥの予感ですが、
ものすごいマスキュラン(男性的)さに、体育会系の男性が苦手な私はメトの座席ごと後ずさりしたくなるほどです。
この曲だけに関していえば、アラーニャの歌唱の方が旋律の美しさが出ていたかもしれません。
あと、特に『カヴ』の方で強く感じたのですが、クーラはすごく前のめりに歌う傾向があって、
それが少し歌にせわしない感じを与えていると思います。
おそらく、『カヴ』でそれをより顕著に感じたのは、『パグ』の方には作品自体に
悲劇に向かって前へ前へと疾走しているような感じがあるのに比べ、
『カヴ』の方は、避けて通りたいのにどうしても運命が悲劇の方にじわじわとにじりよってしまう感じで、
(それは間奏曲なんかにも良く現れていると思う)
前者ではクーラの歌い方がものすごくはまるのですが、後者では今ひとつ。
もう少しゆったりと歌ってほしいなあ、と思う個所が少なくありませんでした。
あと、高音はストレートにまっすぐ飛び出してくるのですが、低音域になると、
一旦音の基盤を置いて、そこから音をひねり出してくるような感じに聴こえる箇所がいくつかあったのですが、
それもなぜか『カヴ』の方で顕著でした。
それでも、全体を通しての印象は全然クーラの方がアラーニャよりいい。
それは、おそらく、クーラの方には、きちんとしたこの役のビジョン、つまり、
自分がどうこの役を演じたいか、という考えがはっきりしているからだと思います。

クーラのトゥリッドゥは、このブログを書き始めてからこの役で聞いたテノール、
つまり、サントゥッツァを深く愛していて、ローラと一時の戯れで不倫しようとも、
いつかは彼女のもとに戻ってきそうな感じがするリチトラや、
村のちゃらちゃらした色男風で何も考えてなさそうなアラーニャのトゥリッドゥとは全然違って、
ローラに本気なトゥリッドゥ、つまり、サントゥッツァと結婚の約束はしてしまったけれど、
アルフィオに決闘で刺し殺されなかったら、いつか多分彼女を捨てて、ローラに走っていくであろう、
そんな雰囲気が漂っているトゥリッドゥです。
母親に、”サンタ(サントゥッツァ)のことを頼むね”と言って決闘に向かうのも、
結局本人が負けを予感しているからで、
(そうでなければ、 ”母さん、この酒は強いねMamma, quel vino e generoso"自体存在しえない)
彼女のことをローラ以上に、もしくは同じ程度に愛しているとは限りません。
ということで、クーラの登場する『カヴ』は、まるで荒涼とした土地のような、
救いようのない、”厳しい”とでも形容したくなるようなそれです。
登場した瞬間から、まるで自分の来る死を予見しているような陰鬱なトゥリッドゥで、
サントゥッツァとトゥリッドゥの間はもちろん、最初から重苦しい空気しか流れていません。
(”Viva il vion spumeggiante 万歳、泡立つぶどう酒”まで、まるっきり能天気なアラーニャとは大違い。)
サントゥッツァの、”A te la mala Pasqua, sperquiro! あんたなんか最悪の復活祭を迎えるがいいわ!
私、あんたのことを呪ってやるから!”という言葉を背中に受けて教会への階段を登っていくクーラの姿からは、
それでもローラのもとに向かうしかないんだ、というあきらめと、
すでにこの時点ではっきりと自分の死を覚悟した様子がみてとれます。
背中で演技するクーラ、、こんなに演技が上手い人でしたっけ?彼は。

これでローラ役を非常に魅力的な歌手が歌ったなら、
つい、ローラとトゥリッドゥにも事情があるんだよ、、と二人の肩を持ちたくなるような、
逆転現象が起こって、全体としてもっと面白い出来になったと思うのですが、
残念ながら、ローラ役を歌ったジンジャー・コスタ・ジャクソンでは全然無理。
一年に二人か三人、普段の、”ブーは出さない。拍手をしなければよいだけなのだから。”
という自らのポリシーに反してまでブーを飛ばしたくなる人がいるのですが、彼女はその一人。
結婚してジャクソンという名になってますが、もともとはコスタが旧姓と思われ、イタリア出身です。
顔立ちは割と派手目の美人で、顔だけは役にぴったりとマッチしていますが、
歌に派手なところが何一つないのが悲しい。
声量もなければ技術も稚拙。演技も滅茶苦茶下手で、サントゥッツァと皮肉の応酬を交わす場面で、
腹立ち紛れに教会の階段の石畳を手のひらで叩く仕草も、なーんの迫力もありません。
裸眼で歌手の顔をはっきり観れるのは平土間の一部とサイドのボックスの客くらい。
脇役でも、いや、だからなおさら、ミクロの造作が美人でなくていいから、
もっと”美人に歌える”歌手を連れて来てほしい。

前回鑑賞したシーズン・プレミアの公演で、
『カヴ』のアルフィオ役と『道化師』のトニオ役の両方を歌ったマストロマリノは、
ランの前半は、トニオ役のみを歌い、後半で両方を歌う予定になっていましたが、
プレミアの日に、テイラーの代役で歌ったアルフィオ役への客の反応がよかったからか、
結局全日程とも両役を歌ったようです。
(ただし、テイラーはプレミアのすぐ後の『ラインの黄金』にはきちんと出演していたので、
もともとアルフィオ役を降板したのも、病気というのは単なる体裁上の理由かもしれません。)

そのプレミアの時の感想では、”アルフィオ役にしろ、トニオ役の劇前の口上のアリアにしろ、
私は特筆するような歌唱ではないと思いました”と書きましたが、
今日の彼の歌は、その時よりは随分良く、プレミアでは高音に張りがないと感じましたが、
今日は高音も良く出ていました。それでもやはり、彼の声で最も魅力のある部分は中音域だとは思いますが。
時々ですが、おや?と思わせる表現の上手さや聞き惚れるような綺麗な声もあるのですが、
それが全体に及んでいないのが、まだまだ一級とは呼ぶには厳しいところ。
彼は、典型的な昔のオペラ歌手体型なので、歌唱を磨かないと、他の歌手と差異化が図れません。
ただ、本人の名誉のために、シーズン・プレミアから、当演目ラストの公演となった今日の間に、
かなりの幅で歌と演技が良くなっていたことだけは付け加えておきたいと思います。

コムロジはハンガリー出身のメゾで、スカラ座のHDの『アイーダ』でシェールのようなアムネリスを歌った人です。
私は彼女の声は割と好きなのですが、欠点は高音がやや痩せ気味になることでしょうか?
HDの時にも中低音域に比べて高音域が弱い印象を持ちましたが、
オペラハウスで聴いてもそれは変わりませんでした。
ただし、芯がきちんと入った高音はパワフルですし(『カヴ』で一音すごく良かった音がありました。)、
何より、この役がちゃんとイタリア物の登場人物に聴こえただけで私は嬉しかったです。
マイヤーの時は国籍不明のサントゥッツァでしたから、、。

歌はどことなくアムネリスをベースに感じさせるような感じで、
どんなに罵ったりしてみても、決して下品にはなっていないところが私は好きです。
もちろん、この『カヴ』は下品でもいい!とおっしゃる人もいるかもしれませんし、それはもう好みの問題ですが。

私はゲキ感激したメトの来日公演のグレギーナ以来、これはすごいな、と思うどころか、
サントゥッツァに適性があると感じられる歌手にすら、あまりお目にかかっていないのですが、
今まで聴いた現役の歌手の中では、声の適性や表現力、彼女の個性などで、
このコムロジはかなり良い線を行っています。

ルチア母さんは今日もバネルでしたが、シーズン・プレミアとはうってかわって、
役の大きさにふさわしい印象でした。
きちんとしたキャストで公演を打てば、こうなるのが本来の姿なんであって、
プレミアの日のように彼女が目立ってしまうというのは、
やっぱり何かがおかしいんだ、ということを再確認した次第です。

このゼッフィレッリの演出では、合唱の”Regina coeli, laetare - Alleluja
天の女王、喜ばれよ、アレルヤ”が歌われる間、
聖体の入った神輿をかついだ行列が教会に入っていくのですが、
列の先頭でかごから花びら状のものを撒いて歩くのがちびっ子。
今日のちびっ子は白人の女の子と思われる子で、花びらの撒き方も優雅で上手。
プレミアの日は黒人の男の子が先導だったのですが、あの感動的な合唱の旋律が流れる中、
鬼を狙って豆まきをしているかのごとく、
激しく花びらを教会の階段に叩きつけながら歩く姿に観客から笑いがこぼれました。
あれはあれで可愛かったんですが、もしかしたら”場面にふさわしくない”と、
役を降ろされてしまったのかもしれません。

また、前後しますが、その前の、村人が現れて教会の階段でたむろう場面では、
竿に籠がついたものでオレンジを行商している子供が階段に腰を下ろした瞬間、
オレンジが一個転がり出て、それを取り戻さねば!とパニくる子供が立ち上がろうと四苦八苦しているのですが、
籠の底が丸くてなかなか階段に安定せず、立ち上がった途端、
籠がひっくり返ってオレンジが全部階段にぶちまけられるのではないかと、観ているこっちがどきどきしました。
また、聖体の入った神輿は4人の担ぎ手によって運ばれるのですが、
重さが結構あるのか、神輿のデザインが悪くて上手く重さが分散されていないのか、
いつも一人、重さにたえかねて、腕がぷるぷるしている人がいます。
それを言えば、4つほどの壷を背中にしょっていた村人がそっとその壷を舞台に下ろす場面もあるのですが、
これまた何故か、壷の底が極端に細く狭まっているという奇妙な形で、非常に安定感を欠き、
一つ壷を置くたびに前の壷が倒れて、きーっ!!となっているエキストラの様子に、
ゼッフィレッリを呪う言葉が聞こえてきそうでした。

オケについては、前回、『カヴ』は難曲なので、
回を重ねるうちに良くなっていけば、、なんて期待的観測をしてしまいましたが、
むしろ、逆にすっかり悪くなってました。というか、かなりぐちゃぐちゃで、
トランペットを初めとする個々の楽器のミスやら、オケ側の責任もありますが、
はっきり言って、この指揮者にこの作品は手に負えてない、といった方がいいかもしれません。
『道化師』の出来を聴くに、持っている音楽センスは悪くないと思うのですが、
彼の指揮能力を『カヴ』は越えてしまっています。
アレルヤの合唱のべったりとした遅さはすっかり音楽の美しさを破壊してしまっていましたし、
間奏曲は曲自体が美しいので拍手が多かったですが、私が聴いただけでも、
もっと繊細にこの曲を振った指揮者もいますし、
それと比べると、大味で特に何といった出来ではなかったと思います。

● 『道化師』



『カヴ』のカーテン・コールですでにかなり消耗しているように見えたクーラ。
まだ折り返し地点、、大丈夫か?!
しかし、我々観客にとって喜ぶべきは、この『道化師』のカニオ役こそは、
彼の声、歌唱、キャラクター、演技力、全ての面でマッチした役であること。
なので、一旦始まってしまえば、全く疲れていることなどわかりません。
ラストの公演ということで、本人も持てるものを全部出してくれたのだとは思いますが。
彼の『カヴ』は以前に日本でも聴いたことがあります(これは手持ちのパンフレットで確認済み)し、
カヴァラドッジやラダメスなど他の役で聴いたこともあるのですが、
もしかしたら、カニオは生で体験したことがないかもしれない、と思えてきました。
なぜなら、こんなにすごい歌唱が印象に残らないわけがないですから。
謹んで、”何を期待していいかわからない”というとんでもない言葉を撤回しなければ!

今までにも似た経験をこのブログで開陳してきましたが、
いい公演には、オケが最初の一音を出したときから”これはくる!”という予感めいたものがあって、
それを私は、この『道化師』の前奏部分を聴いた途端感じました。
トニオの口上部分の高音を、マストロマリノが前回とはうって変わって上手く決め、興奮が高まります。
この口上の歌詞に出てくる”作者””彼”というのは、
カニオとも、トニオとも、台本と作曲両方を担当したレオンカヴァッロ自身ともとれる、
もしくは3人全員ともとれるところが意味深です。

クーラは登場した瞬間から異常にテンションが高く、どこかバイオレントでぴりぴりした匂いを感じるカニオで、
冒頭で巡業先の村の子供たちとオーバーアクティングに感じられるまでにはしゃいだりしているのですが、
あとで振り返ると、これが罠で、すでに彼の性格の危ない一面を端的に表現しており、
観客はすでにすっかりそのレールに乗せられてしまっているのです。

十年前のクーラの歌唱には、私には、乱暴すぎると感じられるものが多かったのですが、
今の彼の歌唱からはそういった部分がそぎ落とされ、役に必要な粗野さを残しながらも、
ものすごく洗練されたように感じます。
特にこの『パグ』の方の歌唱は、私は彼に何も変えて欲しくないほど完璧で、
聴いていて不愉快になる強引さといったものは微塵もありませんでした。

力のある歌手というのは、共演者のパフォーマンスのレベルも高める、ということを
しばしば目の当たりにしますが、今回の彼も例外ではなく、アラーニャと共演したときとは、
キャスト全員(クーラ以外全員同じ)から感じられる熱気が一つも二つも違います。

特にマストロマリノとフォチレに波及した力は大きく、フォチレにいたっては、
あんなに大根で、あんなに声が通っていなかった前回が嘘のよう。
もともとあまり声量が豊かなタイプではないことには変わりがありませんが、
今日の彼女には高音に空気を刺す響きがあって、これがある限り、メトのような大舞台でも問題ありません。
今日のような歌唱を聴くと、声質的には、おそらくヴィオレッタあたりが
彼女に合った役なのではないか、と思うのですがどうでしょう?
鳥の歌 "Qual fiamma aveva nel guardo!~Ah! Stridono lassu"の出来は前回と比べ物にならないくらい良く、
トニオに襲われそうになる場面では前回になかった毅然な態度が演技に入るようになり、
劇中劇の道化のシーンも、タイミングがすっかり改善されていました。
しかし、決定的に残念だったのは、ラストで、クーラがものすごい迫力で歌って見せた
”Va, non merti il mio duol, o meretrice abbietta,
vo' ne lo sprezzo mio schiacciarti sotto i pie!
(行ってしまえ!俺の悲しみに値しないやつめ、この卑しい淫売が!
軽蔑のあまり、お前を足元にふみにじってやりたい!)”という言葉に対して、
ネッダが応酬する”Ebben! Se mi giudici di te indegna,
mi scaccia in questio instante (いいわ、私があなたにふさわしくないと言うなら、
今すぐにでもたたき出してちょうだい!)”という言葉で、クーラに完全迫力負けしていたこと。
あの歌に対抗するのは大変だとは思いますが、もうちょっと頑張ってほしかった。

クーラの”衣裳をつけろ Vesti la giubba"は、
前回聴かされたアラーニャの歌はなんだったんだろう?と思うくらい全くの別物の、全くの絶品。
"Bah, sei tu forse un uom? ああ、それでもお前は男か?”という言葉の後に
笑いが段々泣きに変わっていくタイミングとその推移の絶妙さ、
その後に続く”Tu se' Pagliaacio! おまえは道化師なんだ!”という言葉には、
自らをあざけり軽蔑して笑う、というト書きがリブレットにありますが、
pagの部分の発音の仕方だけでそれを見事にクリアし(アラーニャからそんな芸当を期待するほうが間違い。)
手鏡を巧みに使った演技といい、
"Ridi Pagliaacio, sul tuo amore infranto 笑え、パリアッチョ、お前の破れた愛情を”
の部分の、ここで全てを叩きつけるような、観客の胸を締め付ける歌唱といい、
全ての面で、これ以上、現役で、このアリアを彼より巧みに歌える人はいないと思う。
メト来日公演の時のドミンゴの歌唱よりもすごいです、これは。
ある意味、このアリアからここまでのものを引き出せるという意味では、
デル・モナコに続く最右翼はクーラだとまで言ってもいいと思うくらいに。

オケは『カヴ』の迷走が嘘のように締まって(メトでよくあるパターンだけれども。
『パグ』はオケが自信を持って演奏することが多く、メト・オケと相性の良い作品だとも思う。)
間奏曲は『カヴ』のそれより、圧倒的にこちらの『パグ』の方がよかった。
最後の音が鳴り終わった後、観客から拍手が出るのに数秒かかったことにそれが現れています。
これはメトではフライング拍手をする人が多いなかで非常に珍しいケースで、
観客がこの曲にすっかり心をさらわれてしまったことの証です。

そして、正真正銘のラストのカニオの言葉、"La commedia e finita 喜劇は終わりだ”も、
アラーニャと比べて(って言うか、比べるな!)なんとセンスのあることか!!!
こちらはト書きに”呆然としてナイフを落とす”とありますが、
大抵のテノールが、言葉に意味が入リ過ぎてしまうのに比べて
(アラーニャは、断固と宣言するような感じになってしまっていた。)、
クーラは本当に”呆然とし”ながら、
喜劇だけでなく、人生が終わってしまった、という、寂寥感が一瞬だけふっとよぎる、、この上手さ!!!
しかし、こうして振り返ってみると、彼がいかにリブレット通りに
役を大切に演じるタイプかというのが良くわかります。

最後のカーテン・コールでは本当にそのまま舞台で倒れてしまうのではないかというほどへとへとの体で、
カーテンの後ろに下がるときには、握ったフォチレの手をぞんざいに離して、
早く退場して!とでもいう風。
もちろん、彼女の顔を見てにこりとするようなことなんてありえません。
野郎ども(マストロマリノら)ともぽんぽん、と肩を叩いてねぎらい合って終わり。

歌手は舞台で全力を尽くす。それ以外に何があるというのか?とでも言いたげな、
この no-nonsense(ばかげて不真面目でちゃらちゃらしたことは許さん!)な姿勢のなんと格好よいことよ!
これこそ、観客に対して最も誠実な態度ではないですか?

前回、アラーニャがカーテン・コールで満面の笑みで共演者を円陣で抱きしめていたのを思い出してしまいました。
そんな余力があるのか、、と、なんともいえない気持ちになったものです。
二人のテノールの、舞台人としての格の違いを感じました。
クーラよ、今日のあなたは格好よすぎた!!!!


CAVALLERIA RUSTICANA
Jose Cura (Turiddu)
Ildiko Komlosi (Santuzza)
Alberto Mastromarino (Alfio)
Ginger Costa Jackson (Lola)
Jane Bunnell (Mamma Lucia)
Linda Mays (A Peasant Woman)
---------------------
PAGLIACCI
Jose Cura (Canio)
Alberto Mastromarino (Tonio)
Nuccia Focile (Nedda)
Christopher Maltman (Silvio)
Tony Stevenson (Beppe)
Timothy Breese Miller / Jeffrey Mosher (Villagers)

Conductor: Pietro Rizzo
Production: Franco Zeffirelli
Set & Costume design: Franco Zeffirelli
Dr Circ C Even
ON

***マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ Mascagni Cavalleria Rusticana
レオンカヴァッロ 道化師 Leoncavallo I Pagliacci***

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3 コメント

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クーラの真骨頂 (みやび)
2009-04-14 00:30:00
ヴェリズモをご堪能された様子、なによりですね。良い時のクーラなら、特にカニオはさぞや素晴らしかろうと思います。あまり線の細いテノールではピンときませんし、やはり演技力も欲しいですし。

プッチーニ、ヴェルディが好き、ヴェルディの最高傑作はやっぱり「オテロ」…な私はクーラがプッチーニのアリア集を出すより前、「La Villi」のライブ盤を聴いてから、「いつかドミンゴがオテロを歌わなくなる日が来たら(涙)彼が歌うのかしら」なんてことを思っていました。

なので、新国立劇場での日本デビュー以来、何度も聴きにいってはいるのですが…なんというか、当たり外れがあるんです。声自体の好不調ともちょと違うような…手を抜いているとも思わないのですが。なんというか、本人のやろうとしていることが、こちらの期待とねじれの位置というか。もちろん、私の方がねじれている可能性も否定できないですが…。この方向がぴったり重なれば素晴らしいだろう…というその結果が、今回のカニオだったのではないでしょうか!羨ましい限りです。

>ある意味、このアリアからここまでのものを引き出せるという意味では、デル・モナコに続く最右翼はクーラだとまで言ってもいいと思うくらいに。

ドミンゴのアプローチはやはり彼の声に合わせたもので、デル・モナコ級のロブストな声という点ではクーラの方がドミンゴよりも上をいっており、この声あってこその歌ではないかと思います。(とはいえ、こと高音にかけてはコレッリの方が上だと思いますが。)

私としては、是非、Madokakip様大絶賛のカニオを(今回くらいの絶好調で)日本でもみせて欲しいものだと強く希望します(笑)
返信する
血管で茶を沸かす! (Madokakip)
2009-04-14 11:56:01
 みやびさん、

いやー、本当に!!
ヴェリズモはこうでなければいけません!!
体中の血が沸騰して、これでコーヒー一杯入れられそうなくらい燃え上がりました。

私も実はみやびさんと全く同じご意見で、
クーラに関しては、不調でも、一生懸命歌っていないわけでもないのに、
なぜか、、、、?というのが多かったんです。
それで、”何を期待していいのかわからない、、”という暴言まで!!
クーラ・ファンの方にはこのブログにどくろ・マーク付きで葬り去られたと思いますが、
もし、こんな公演を一番最初に聴いていたら、
彼の評価はこの何年も、全く違うものになっていたと思います。
でも、一方で、この十年にわたる月日が、
彼の役作りを円熟させたかも知れず、
不毛に”もし~だったら”などと考えるのはやめ、
今、この時点で、こういう歌を聴けたことを本当に喜びたいです。

>ドミンゴのアプローチはやはり彼の声に合わせたもので

そうなんですよね。ドミンゴももちろん上手いんですが、
やはり、ロブストさを補うために、頭で考えている部分があって、それが見えてしまうように思います。
だから、ドミンゴのカニオを観たときは、
あれ?意外とおとなしいんだ、、という感想でした。
クーラはあの声のおかげで、実際は頭で考えているんでしょうが
(でないと、こんな歌にはならないと思うので、、)、
よりダイレクトに感情がほとばしりでているように聴こえるんですね。

コレッリの名前を出すのは危険です(笑)。
私のアイドルですからね。
ドミンゴ様、クーラといえども、燦然と輝くコレッリの前には分が悪いのです(笑)

しかし、ふと思ったのですが、コレッリって、
実際の全幕の舞台でカニオはよく歌っていたのでしょうか?
あまりイメージがわきません。
今、You Tubeでスタジオ撮りされたものの抜粋を見ていますが、
(ゴッビがトニオ!)いいですよね。

クーラが来日してカニオを歌うことがあったら、ぜひ!!!
大当たりになるか、またも外し続けるのか、
私も知りたいです!!
返信する
お元気ですか? (T・Ree(Yon Re))
2016-05-31 02:19:18
Madokakipさま こんにちは。

2015/16シーズンも終わりに近いですね。いつものように、仕事に、オペラ鑑賞にと、パワフルに暮らしておられることと思います。

ところで、今更、2009年の公演レポートにコメントしたりして、すみません。

先日、久しぶりに、オテロの投稿にコメントさせていただきましたが、その際、恥ずかしながら、ホセ・クーラ情報のブログを開始したことをお伝えしました。そこでお願いしたように、Madokakipさまのブログを紹介し、リンクをはらせていただきました。

ご返事をいただかないままに、すすめてしまったこと、お許しください。

その後も、ぼちぼちと、私もブログを更新しています。残念ながら、このブログのように、リアルな観賞記ではなく、インタビューやネット上の情報、ファンサイトなどの情報をまとめた程度のもので、お恥ずかしいですが・・。

そして実は、最近また、Madokakipさまの投稿を紹介させていただきました。それがこのカヴァレリアと道化師のレポートです。

2015年にクーラが、カヴァ・道化師の演出をテアトロコロンで行ったのですが、その時のインタビューなどから、クーラの作品解釈、キャラクター分析などの情報をまとめたものと、もうひとつ、道化師の解釈をまとめたものです。(この投稿の紹介は後者で)

その際、あらためてこの投稿を読み返してみて、正直、本当にびっくりしました。だって、クーラが分析し、演技と歌で意図したことが、そのまま、ズバリ、書かれていたのですから!

たとえば、「登場した瞬間から、まるで自分の来る死を予見しているような陰鬱なトゥリッドゥ」「ローラに本気なトゥリッドゥ」など、クーラの解釈と役作り、そのものです。

また、道化師では、「バイオレントでぴりぴりした匂いを感じるカニオ」「人生が終わってしまった、という、寂寥感」・・などなど。

1回だけの生の舞台を見ただけで、これだけ的確に出演者の意図をつかみ取り、再現したレポートを書くことができるとは、本当に、驚きです!!

また、Madokakipさまは、クーラの事を、「いかにリブレット通りに役を大切に演じるタイプかというのが良くわかります」とまとめていらっしゃいますが、私がブログ記事を準備しながら一番感じたのも、そのことでした。

クーラは、いま53歳、最近は大劇場への出演も減り、演出や指揮の比重も高まっています。だから日本のオペラファンの間で話題にのぼることも、ほとんどないのではないかと思います。また、技術面や好みの問題もあり、批判される方も多いかもしれませんが、でも、オペラを人間のドラマとして、リアルな感情で表現するという点では、今でも数少ないすばらしい歌手だと、私は思っています。

このブログ記事、あらためて読み返して、我が意を得たりという思いで本当にうれしかったです。

ながながとすみません。もしこのコメントをお読みになられて、私のブログでの紹介が不適切でしたら、いつでも削除いたします。
よろしくお願いいたします。

どうかお元気で。またお話できることを楽しみに待っています。

ブログ→http://blog.goo.ne.jp/ree201408



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