Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE PHILADELPHIA ORCHESTRA (Fri, May 1, 2009)

2009-05-01 | 演奏会・リサイタル
この一年で最大のジレンマは、夏にカーネギー・ホールから公演年間スケジュールと
チケット購入の案内が来た時でした。
人生において何よりもメトを優先させている私は、ここ数年、メトのチケット購入が可能になると、
その時点で必要なチケットをほとんど全て一括で申し込んでしまいます。
メトから送られて来た公演カレンダー上で、自分が行く予定の公演にマーカーで印をつけ、
その壮観さと自分の人生がメトで埋まっていく様子に快感を覚えるのですが、
その一方で一年先までぎっちりと予定が決まっているのがちょっぴり息苦しくもあったりして、
”人気オペラ歌手もこんな気分なのね、、。”とわけのわからないことを考えたりするわけです。

で、そのすでにマーカーで真っピンクになったメトの公演スケジュール表とにらめっこしながら、
それらとバッティングしないように、今シーズンのカーネギー・ホールの演奏会のチケット購入を画策しているとき、
5/1のフィラデルフィア管弦楽団による『ファウストの劫罰』に目が釘付けになりました。
まだこの時点ではメトでの『劫罰』での上演を観る前でしたが、
メトと同じ演目を他のオケ、しかもラトル指揮で聴ける、
しかも、これまでまだ生声を一度も聴いたことがなく、
なぜだか全くメトの舞台に立たないコジェナー(ラトルの奥様)の歌声を聴ける数少ないチャンスで、
しかもクバストホフがメフィストフェレスを歌うとなれば、これは聴きたい!!
しかし、メトの公演表で同日の予定をチェックすると、ばっちりと『チェネレントラ』にピンクのライン。
ってことは、ガランチャのチェネレントラ、しかも初日、とバッティング?!
これは辛い。。。
そのまま多分20分くらい、公演予定表を見つめながら、
何とか両方の演目を同日に観れる手立てはないかと考えましたが(あるわけない、、。)、
とりあえず、このフィラデルフィアの『劫罰』が一日しか公演がないことを考えると、
まずはチケットを抑えておかねばならない、という結論にだけ達しました。
その時は、公演の5月まで、なんせ、まだ9ヶ月ほどあったので、とりあえず、
もうすでに購入してしまっている『チェネレントラ』とこれから購入する『劫罰』をはかりにかけ、
公演日までに行けない方をどなたかにお譲りすれば、、などと考えていたのですが、
あれよあれよと時間は経ち、気が付いたら公演3日前になってました。
そして、9ヶ月前に比べて決断が楽になっているどころか、
ますます難しい選択になっているではありませんか!

というのも、メトで『劫罰』を鑑賞して以来、私はこの作品が大好きになってしまって、
それを違ったオケ、違ったキャストで聴けるというのは、ものすごく貴重な経験だという思いが強くなったからです。
結局、公演前日まで悩み続け、
『チェネレントラ』はもう一日、HDの収録日でもある5/9の公演も鑑賞する予定だったこともあり、
泣く泣くガランチャ&メト組を手放すことに、、、。
メトの方を手放すなんて、Madokakipにはまず普通ありえないことですから、
ボックス・オフィスにチケットを寄付返しに行った時の悲しさと言ったら!!
しかし、もちろん、ガランチャを一度しか聴かないわけにはいかないので、
その場で、もう一日、別の公演日のチケットを追加購入したことは言うまでもありません。

とまあ、そんな経緯があるので、今日のフィラデルフィア管弦楽団、そして、
ラトル、コジェナー、クバストホフにはいい演奏をしてもらわないと!!

実のところを言うと、オペラに比べたら、圧倒的にオーケストラの演奏会に足を向けた数が私は少なくて、
特にアメリカの交響楽団系に関しては、それぞれの実力や評価といった情報にからきし疎く、
クラおたに刺殺されるのを覚悟で言うと、
世に全米五大オーケストラといわれる、NYフィル、シカゴ響、ボストン響、クリーブランド管、
そしてフィラデルフィア管は、私の頭の中では去年まで、完全に横に一並び状態でした。
というのも、これらのオケについては、せいぜい、昔に録音された演奏を
CDで聴くくらいしかなく、実演には全く足を運んでいなかったせいです。

土地の利(なんせ近い。メトと同じリンカーン・センターに棲息しているオケなので。)もあって、
その中で一抜けしたのが、NYフィル。
彼らについては攻撃的な演奏が特徴、というのが私の印象で、
アメリカのオケの中では私はメト・オケのようなリリカル寄りな音が好きなので、
正直に言うと、彼らのそれはあまり好きなサウンドではないです。
何も深く考えずバリバリと演奏するスタイルは、演目を選ぶように思うのですが、
スタイルと演目が良い形で化学反応を起こしたときは、面白い演奏を聴かせる可能性もあります。
化学反応が起きない時は、、、、ああ、いつもみたいに演奏してるわ、と思うことになります。
ただ、技術はしっかりしていて、演奏を聴いて、下手だな、と思ったことは私は一度もありませんし、
必ずしも方向が正しくなくとも、奏者の気力は感じられます。
まさに猪突猛進型。

一方、今年、初めて聴いたボストン響は、私が実演に接した演奏会だけで判断するに、
伝統にあぐらをかいているんだか何なのか、とても”緩い”オケ。
おっとりとしていると言えば、聞こえはいいのですが、それともちょっと違う感じがします。
演奏にキレがなく、作品が観客に語りかけて来ない。
メトと同じレヴァインが指揮しても、出てくるアウトプットがメト・オケとあまりに違っているのは
個々の奏者の技量のせいなのか、マインドセットの差なのか?
”自分たちはこうやって演奏したい!”という自主性が感じられないのが私には何よりも辛かったです。
今のままの演奏だと、再び聴きに行きたいと思えないオケの一つ。

で、今日のフィラデルフィア管なのですが、音が出始めてすぐに思ったのは、
”弦がごみごみした楽団だな”ということ。
音本来は厚みがあって柔らかい音をしていると思うのですが、
なんだか、弦セクションが束になってかかってくると、音がものすごく混み合って、
それは無駄にたくさんフリルのついたスカートのようです。
フリルも可愛いんだけど、もうちょっとすっきりしたスカートの方がいいんじゃない?という、、。

私は彼らが演奏するのを生で聴くのは初めてなので、
これがフィラデルフィア管の弦セクションのいつもの特徴なのかどうかはわかりませんが、
ラトルの趣味の悪い指揮が、それを一層助長していることは間違いありません。
私はこの作品のハンガリアン・マーチを、ゆっくりと人体解剖のように、
一つ一つの細部を取り出してネチネチ演奏するようなタイプの演奏が大っ嫌いなんですが、
ラトルはいきなりそれをやらかしてしまうのです。
ひらひらフリルに人体解剖的演奏のコンビネーション、、耐えられません。
この作品ってそういうやり方で良さが出る作品ではないと思うのですが、、。

これ以外にも、どうにもこうにもわざとらしいテンポのつけ方、音の強弱など、
私にはもはや生理的に受け入れ難いような小細工が随所に見られ、
どうして、あのメトが当作品を演奏したときのように、自然に演奏できないのか!!と
聴いているうちにいらいらしてきました。

というか、どうして、このラトルという人は巷の評価が高いのか、
この演奏からは私にはさっぱりわかりません。
もう何度も引き合いに出していて、いい加減疲れて来たのですが、
この公演に関してNYタイムズの評は、”オケは相変わらずアンサンブルがしっかりしており、、”
みたいなことを書いているのですが、
何をどう聴いたらこのアンサンブルがしっかりしていると聴こえるんでしょう?
各セクションの中もさることながら、オケの右方と左方で音が分断されて
聴こえる個所もありましたが、これもまたラトルの仕業なんでしょうか?
”オケを半分に切って微妙にアンサンブルをずらすのが僕のこの曲の味付けさ!”
って、そんなわけは、ないですよね、、どう考えても、、。
このアンサンブルの甘さがオケの作品への不慣れや練習の不足から来ているとすれば、
それを正しい道に導くのが指揮者の仕事であるはずですし、
また本来はアンサンブルがしっかりしているオケなのに関わらず、
今日の公演がこんなことになっているとしたら、それもまた指揮者の統率力のなさのせい。
というわけで、いずれにせよ、ラトルにいくらかの責任はありそうです。

弦のざわざわ感に比べると、金管なんかは結構あっさりしていて拍子抜けするくらいで、
音にNYフィルのような押しの強さがないのはもちろんのこと、
メトと比べてさえ大人しい感じがします。

もう一つ、悪趣味が炸裂していて吐きそうになったのは、
あの感動的な最後のマルグリートが天に召される場面での合唱。
メトの公演では児童のみに歌わせていた”マルグリート!”という呼びかけの個所も含め、
大人と児童の混声合唱になっていましたが、
今回はフィラデルフィア・シンガーズ・コラーレという大人の団体が全て歌っています。
ラトルの指示だか合唱指導の方の指示だか知りませんが、
その大人集団にメトで児童のみが歌っていた、”マルグリート!”を子供声で歌わせたのはびっくりでしゅ、
とつい、こちらまで赤ちゃん言葉になってしまいます。
フィラデルフィアは全米でも髄一の声楽の学校AVAを抱えていることもあり、
合唱は素晴らしいものが聴けるんでは?と期待していたのですが、
メトの合唱に比べて平均年齢が若いので声はメトのコーラスより若々しいですけが、
女声はとにかく平たくべったりした声でがっかり。
そのもともと平たい声で赤ちゃん言葉で歌われるのですからたまりません。
一方、男声もかなりへっぽこで、ファウストの地獄落ちの場面は一向に迫力がありません。

ファウストを歌ったグレゴリー・クンデは、私は記憶のある限り、
生で聴くのは初めてなのですが、70年代から本格的なキャリアを始めているので、
ベテランの域に入るアメリカ人歌手です。
メトを含む世界各地の歌劇場で歌った経歴を持ち、もともとベル・カントの諸役を中心に歌っていましたが、
後にベルリオーズの作品などがレパートリーに加わっていったようです。
今日の彼の歌声はまさにこの簡略版バイオを裏付けるような歌唱。
つまり、
1)声に軽く年齢を感じる。張りがない。
2)ファウストを歌うには声が軽すぎて物足りない。
ということです。
メトで歌ったジョルダーニに比べると、高音はしっかり出ている部分もあるのですが、
声の質が軽く、この作品のオーケストレーションとわたりあえる声ではありません。
そつなく歌えていても、これではこの作品で観客に感動を与えることは難しいです。

意外にも歌による役作りで苦闘していたのがクバストホフ。
彼のこの役での歌唱は、”作り過ぎ”が最大の欠点となっているように思います。
演奏会形式ということで声だけで役を表現しなければ!という気持ちが勝ってしまったのでしょうか?
しかも個性的な悪魔の役ということで、声音を色々使いわけたり、
激しくほとんど怒鳴るように歌ってみせたり、と、色々本人なりに工夫しているのですが、
あまりに表面的な感じがして、彼がやればやるほど、色々放り込めば放り込むほど、
私は気持ちがしらけてしまいました。
メトの公演でのレリエーは、ほとんど感情の起伏のないメフィストフェレスがにやりとしたり、
最後の最後でファウストを地獄に突き落とす場面だけ、得意満面の表情になったりしているのが
とても怖くて効果的でした。
それでいて、レリエーはオーバーに声の音色で遊んだり、というようなことを一切していなかったのを思い出します。
クバストホフのこの役はどこかでピントがずれてしまった、そんな感じがします。
後はやはり声の質。おそらく歌曲などでは素晴らしい歌を聴かせるのではないかと思うのですが、
レリエーの深い深い地の底から這い上がってくるような声に比べて
(彼が好調の時は歌っているときに空気が裂けるような感覚がします。)、
クバストホフの声は、この役には”アク”に欠けています。
あまり、こういったキャラクター的な役は彼には向いていないかもしれないな、と思います。

この公演で最もショッキングだったのは、しかし、演奏開始前のアナウンスでした。
”コジェナーはただ今風邪から回復中です。本日は歌いますがその点をご了承ください。”

、、、、、、、。
大好きなガランチャをふってまでやってきた私の立場は一体、、、。

それでも、歌ってみると風邪だと思えないほど悪くない歌を披露する歌手もいるのですが、
彼女の場合は全くアナウンス通り。さんざんの出来でした。
彼女は冒頭の写真の通り、綺麗な人なんですが、どこか貧乏臭い感じがするのはいけません。
(本当に貧乏なのは格好悪くないけれど、貧乏臭いのは格好悪い。)
姿勢の悪さ、とか、身のこなし、とか、この人は所作の面で改造できる部分が一杯あるように思います。
声のコンディションがあまりに悪かったので、良いときの方の上限がどれくらいかというのはさすがに図るのが難しいですが、
しかし、音の扱いの上手さや、旋律の扱いの上品さ、と、歌唱の方はエレガントさの片鱗があちこちで見られ、
ビジュアル(姿かたちということではなくて所作)とのギャップがありすぎます。
特に今日はコンディションの悪さもあって本人が不安なのもあったのでしょうが、
自分の歌う個所になるまで、ドレス姿で足を組んでそこに肘をついて指をかんでいる、という姿は、
舞台に立つ人間は、舞台にいる間は、どんな瞬間でも人に見られているということを忘れず、
全身に神経を張り詰めてほしいよな、、、と思ってしまいます。
今日の彼女のコンディションでは、歌に関してはこれ以上のことを言及するのは不可能なので、
(どの旋律も彼女が本来したかったであろうコントロールが利いていない状態だったので。)
また違う機会にベストのコンディションでの彼女の歌を聴けることを期待するにとどめたいと思います。

件のNYタイムズの評者はメトでのルパージの演出がお気に召さなかったようで、
”この作品には大げさな演出なんていらない。音楽が全て語っているから。”と言っています。
音楽が語っている、という部分には賛成しますが、
今回のフィラデルフィア管での演奏ではこの作品が持つ音楽の部分を堪能することなんて全然出来ませんでした。
むしろ、一つ一つの場面でルパージの演出も含め、メトの公演での様子が思い出されて仕方がありませんでした。
メトとガランチャを犠牲にした天罰が下ってしまったとしか思えません。


BERLIOZ La Damnation de Faust (Concert Performance)
Magdalena Kozena (Marguerite)
Gregory Kunde (Faust)
Eric Owens (Brander)
Thomas Quasthoff (Mephistopheles)
The Philadelphia Singers Chorale
The Philadelphia Orchestra

Conductor: Sir Simon Rattle
Chorus director: David Hayes

Dress Circle DD Mid
Carnegie Hall Stern Auditorium

*** フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra
ベルリオーズ ファウストの劫罰 Berlioz La Damnation de Faust ***

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8 コメント

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解るような気がします。 (Boni)
2009-05-13 11:59:18
>人体解剖のように、一つ一つの細部を取り出してネチネチ演奏するようなタイプの演奏
>どうにもこうにもわざとらしいテンポのつけ方、音の強弱など

ラトルが指揮したシューベルトのハ長調大交響曲のCDを聴いたとき、まさに同じ印象を受けました。
美しい旋律に満ちた曲をバラバラに切り刻み、そのパーツから恣意的に組み立てたフランケンシュタインを見るような。そして「ほら僕の解釈はどうだい?この退屈な曲をこんなにおもしろくしてあげたよ」と言われているような。
おそらく、この人はシューベルトが嫌いなのでしょう。
共感や愛情なくして演奏されるシューベルトの音楽は、グロテスクとしか言いようがありません。
世評の高い指揮者ですが、他の演奏も聴きたいと思わせるようなものではなかったですね。

コジェナーについては、もう何年か前のことですが、NHKが放送したリサイタルの映像を観たのですが、少なくともリートに関しては余り感心しません。
シューマンの「女の愛と生涯」とヴォルフを中心にしたプログラムだったのですが、このシューマンの曲に必要な情熱や力強さにまったく欠けておりました。ステージ姿に関しても、身をよじって歌うなど、「オペラじゃないのだから」と感じた記憶があります。
その後に続けて放送された、ナタリー・シュトゥッツマンの堂々とした歌唱を一層引き立てていましたね。
返信する
ということは、ベルリオーズも、、 (Madokakip)
2009-05-13 14:14:57
 Boniさん、

>ラトルが指揮したシューベルトのハ長調大交響曲のCDを聴いたとき、まさに同じ印象を受けました。

別の場でも同じアプローチを試みているとは、
恐るべし、ラトル!!!

>おそらく、この人はシューベルトが嫌いなのでしょう。

(笑)なら、ベルリオーズも嫌いみたいです。

このコラージュ系のアプローチというのは、
なんか頭でっかちの学生を思わせて、
小賢しい感じがして本当に嫌ですね。
 
まさに、Boniさんおっしゃるところの、

>「ほら僕の解釈はどうだい?この退屈な曲をこんなにおもしろくしてあげたよ」

なんですよね。”研究室系”の音楽です。
私はラボの実験みたいな演奏には、
おのずと限界があるんじゃないか、と思っていて、
それが今回の『劫罰』に何か心から浸れない感じに繋がっていると思うのですが、
彼が人気があるということは、こういうラボ系の音楽が好きな人が多い、ということなのかもしれないですね。

でも、この日の公演は、メトから流れてきた(=普段はメトに通っている)観客が客席に多くいたように思うのですが、
何でもかんでもBravo!と騒ぎ、拍手連発になりがちないつものオーディエンスにしては最後の音が消えた後、
拍手も大人しめで、何と思えばいいのか、、というような、微妙な戸惑いがあったように感じました。
なので、このアプローチに潜在的に違和感を感じていた人は結構いたのかもしれません。

そして、コジェナーもそんなですか(笑)。
今回は、本当に、コンディションが悪すぎて、
何も判断できない状態だったんですよね。
中音域の高めの音以上はすべて、
根が張っていない植物のような声で、
彼女本来の声がどんなものなのかもわからない有様でした。
かすかに伺いしれるのは、
音の転がし方やリズムは悪くなさそう、ということくらいです。

あらゆる面でちぐはぐな感じがする残念な公演でした。
返信する
ラトル... (le Grand Condé)
2009-05-13 21:16:14
はじめまして
いつも楽しくレポート読ませて頂いております
madokakipさんのハプニング編も大好きです(決して期待しているわけではございませんが)

ところでラトルですが、以前似た印象を持ったことを思い出し、1度聴いてお蔵入りにしたEMI「第9」CD(2002ウィーンフィル)のAdagioを久しぶりに聴いてみました.

以下、madokakipさんのコメントと対比しながら...

> ”弦がごみごみした楽団だな”ということ。

とても面白い表現ですが、このあたりは特に感じませんでした.


> ...ゆっくりと人体解剖のように、

小編成に聴こえ、どこか古楽器風. 弦のユニゾンが感じられない. ウィーンフィルの弦がとても緩い.


> というか、どうして、このラトルという人は巷の評価が高いのか、
> この演奏からは私にはさっぱりわかりません。

その様に感じるのは私だけかとずっと思っていましたが、安心しました.


> 各セクションの中もさることながら、オケの右方と左方で音が分断されて
> 聴こえる個所もありましたが、これもまたラトルの仕業なんでしょうか?

そうです.ラトルの仕業です.
楽器と楽器の間に、とてもすきまを感じるのです. つまり音が融合しない.


> また本来はアンサンブルがしっかりしているオケなのに関わらず、
> 今日の公演がこんなことになっているとしたら、それもまた指揮者の統率力のなさのせい。

それがラトルの音楽性というか趣味というか、音作りのような気がきてきました.

返信する
壊してはつなぎ、壊してはつなぎ、、 (Madokakip)
2009-05-14 09:44:05
le Grand Condé さん、

はじめまして!コメント、ありがとうございます。

ハプニング編は皆さん、どのように感じていられるのかなあ、
うだうだくだらないこと書いてないで、
早く本題の公演の感想に行ってくれ!と思われているのかな、
なんて時々思うのですが、書くのをやめられません(笑)
腹が立ったことを、ここに書くことで、
怒りを発散している有様なので(笑)

で、問題の男、ラトルなのですが、
弦のフリルのスカートは、私もベルリン・フィルで彼を聴いたときは
それほど感じなかったのですが、
今回の『劫罰』では、ファウストが冒頭の部分を歌った後の演奏の部分で、
うへーっ!と思いました。
ざわざわざわざわ、わさわさわさわさ、、みたいな。
体にまとわりついてくるようなうざさ。
きーっ!そのうざい布をどけて!というような、、。
とすると、これも彼の指示によるものだったかもしれないですね。

彼の音楽作りというのは、もともと美しい陶器の置物をわざと割って、
このかけらには柄を描いたり、あのかけらにはつやをつけたりして凝ってから、
それらのパーツをボンドで貼り付けて元の形に組みなおす、
なのだけれど、ちょっと微妙にかけらがずれていたり、
欠けたところに隙間があいており、
かと思えば部分部分に異様に凝った部分があり、、といった感じに思えます。
元の陶器の美しさはすっかり損なわれ、別物の、、。
私にはものすごく意味のない作業に没頭しているような気がするんですが、
こういう作業を興味深い、と思う方もいるのかもしれないですね。

>それがラトルの音楽性というか趣味というか、音作り

げに恐ろしい、、、。
しかし、私のこのレポートのせいで、
お蔵入りになった第9をもう一度お聴かせしてしまったのは
実に申し訳ありませんでした 
返信する
いえいえ (le Grand Condé)
2009-05-15 22:17:36
> しかし、私のこのレポートのせいで、
> お蔵入りになった第9をもう一度お聴かせしてしまったのは
> 実に申し訳ありませんでした 

いえいえとんでもございません.
お蔵入りとはいっても、復活再生の機会を待っているもので、何かきっかけがあれば、引っ張り出されてきて、その後ずっと表に登場するものもあります(逆もありますが)

きっかけを頂いて、日の目を見ることが出来て感謝しております.

何らかのきっかけ、再生装置の変化、こちらの感性の変化、経験と年齢などで、段々聴きたいものも少しずつ変わったりもします.実は私の場合、永年お蔵入りのあと復活するものが案外多いのです.

最近ですと、madokakipさん的には、B級映画のAnna MoffoのLa Traviata(Milano,22.12.1964 Karajan)が復活しております.

ところで、「ファウストの劫罰」はまだ聴いてないのですが、ベルリオーズの曲には、そういえば結構 ”ざわざわざわざわ、わさわさわさわさ、、”みたいなところ、「ロメオとジュリエット」の序奏のあたり、「幻想交響曲」全般に、私は感じます.

この際ラトルについては、他のものも何かトライしてみようと思います. もし、ラトルの耳を持てば、壊されて、創り直された陶器がいかに美しく素晴らしいものであるかがわかるということなのでしょう.
返信する
B級映画的ソプラノと陶器破壊男 (Madokakip)
2009-05-16 04:30:59
 le Grand Condé さん、

いやー、このブログを読んでくださっている方は、
隅々まで読んで、かつ記憶してくださっている方が多いので、
気が抜けません。

>madokakipさん的には、B級映画のAnna Moffo

言いましたねー、そんなことを。この口が(笑)。
あれは確か、『リゴレット』のCD比較のところでしたね。

ただ、誤解なきよう申し添えておきますと、
彼女が嫌いなわけではないんです。
あの『リゴレット』の”慕わしき名は”はなかなか上手いな、と思いますし、
声も役に合っていて、かわいいです。
しかし、あのスパラフチーレに刺されるシーンでの、
”きゃああああああ、、、”
あそこだけは、これはないよなあ、、、と思うのです(笑)。
でも、B級映画的アプローチでありながら、
魅力のある役作りをあのCDではしていると思います。
ヴィオレッタは、もう一つの、彼女が得意としていた役ですよね。
私は残念ながらそのカラヤンとの盤は聴いたことがないのですが、、。

こちらはもうお読みになったかわからないのですが、
フィラデルフィア・オペラ遠征記の中で、
少しだけ、ラトルの『子供と魔法』のCDについてふれました。

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/c492919269d87386bfac2762fb6417e3

junさんとの会話の中にもありますが、
その後、オーディオ・システムで聴いてみまして、
第一部はちょっと重さが気になる演奏で、
もう少し軽妙さがあってもいいと思うのですが、
第二部は悪くない、いえ、それどころか、
非常に美しい演奏だと思いました。

le Grand Condéさんからの、
”他にもラトルにこんな演奏があったぞ!”という吉報があるのを
お待ちしております
返信する
もう1枚ラトル発見 (le Grand Condé)
2009-05-24 19:01:47
ラトルについては「第9」CD1枚しか所有していないつもりだったのですが、もう1枚隠れていたラトルを発見しました.
以前,TV放送されたFIDELIO(4.2003ザルツブルグ・イースタ音楽祭ベルリンフィル)をコピーしておいたもので,何とそれを指揮していたのが
ラトルだったのです.レオノーレを歌っているAngela Denokeが、好きで、それだけの為にコピーしておいたものでした. Angela Denokeの声の美しさに、ラトルのことは完全(100%)に記憶から抹消されていたようです.

ラトルに少し注目しつつ、改めて聴き直してみました. 全体を通してラトル的に妙な作為的な箇所はなく、古いFIDELIO(22.Feb.1941B.Walter@MET, 5.Aug.1950 Furtwangler@Salzburg, 1970 Bohm@TV...)を多く聴き馴染んでいる耳にとっても、目立たず、嫌味な面は特にありませんでした.強いていえば、テンポが、なにかメトロノームのように殆ど変わらず、淡々と進んでいくのが気になったくらいです.

オペラと交響曲では,指揮に相性があるのかも知れません.例えば,Karajanなど交響曲の指揮では殆ど好きなものがなく、オペラの限られた演目
のみが個人的には好きです.

しかしながら共にオペラでありながらベルリオーズ『ファウストの劫罰』がよろしくなく、ラヴェル『子供と魔法』が非常に美しいともなれば、ラトルの指揮というより、今なおベルリンフィルの前の常任指揮者の遺産なのかも知れませんね.
返信する
吉報ありがとうございます! (Madokakip)
2009-05-30 17:27:13
 le Grand Condé さん、

デノケはとてもいい歌手だという噂は聞いているのですが、
私はまだ舞台に接したことがないんです。

>嫌味な面

ありがとうございます。
これです!一言でいうと、私が聴いたフィラデルフィアとの『ファウストの劫罰』は”嫌味”そのものでした。

で、私もベルリン・フィルが彼の指揮で演奏をしたとき、
作為的&嫌味な面というのはほとんど感じなかったんです。

ということは、もしかすると、オケにも原因があったのかな、、と言う気もしてきますよね。
ベルリン・フィルはおっしゃる通り、長年の遺産もありますし、
また奏者の自分たちで音楽を奏でられるという面はトップクラスですので、
そのあたりも作用しているのかもしれないですね。

>Karajanなど交響曲の指揮では殆ど好きなものがなく、オペラの限られた演目

私もカラヤンは、オペラに関していうと、
好きな演奏と嫌いな演奏が真っ二つです。
ただ、彼をすごいな、と思うのは、
ベル・カント作品(ルチア)ですら、
音楽性豊かにオケを鳴らせる能力を持っていた点です。
彼のシュトラウス(特に『サロメ』や『ばらの騎士』)、ヴェルディの一部作品(『オテッロ』、『アイーダ』あたり)は好きですが、
巷で評価が高い(歌手のせいもあるんでしょうが)『ラ・ボエーム』や『蝶々夫人』あたりのプッチーニ作品での彼の演奏はあまり好きではありません。
なんだかtoo muchな感じがしてしまいます。
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