復歴16世・日樹聖人に関する写真です。
1.

日樹聖人 五輪塔

日樹聖人 五輪塔(左側面)

左側面の上層部 「多寶如来」

背面の上層部 「日樹 (花押)」

正面 基底部と第一層
左側面 第一層
背面 第一層
左側面 第二層
右側面 第二層
右側面 最上層
2.

前田利家室(寿福院)の層塔 元和8年(1622)建立

「開眼導首者 日樹 欽誌之
天保四巳年十月 〇〇之」(修復の追刻 読めず)

大田区文化財 前田利家室の層塔
3.

加藤清正室(正応院)の層塔 寛永3年(1626)建立

「開眼 両山第十五代 日樹誌」

大田区文化財 加藤清正室の層塔
〇前田利家室(寿福院) 第3代加賀藩主、利常の生母。
〇加藤清正室(正応院) 清正の嫡男、惟忠広の母。
〇日樹聖人
4.

日樹上人の供養塔 (長勝寺境内)

1.

日樹聖人 五輪塔

日樹聖人 五輪塔(左側面)

左側面の上層部 「多寶如来」

背面の上層部 「日樹 (花押)」

大田区文化財
日樹聖人の五輪塔
この塔は本門寺山内最大の五輪石塔で、総高四メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年記名は見えないが、上から三段目の火輪斜面に「日樹 (花押)」の署名が刻まれている。
したがって、本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される寛永七年(一六三〇)より前の造立である。
しかも、地輪をはじめ、塔の前面に数百名の奉加者の刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。
昭和四十九年二月二日指定
大田区教育委員会






2.

前田利家室(寿福院)の層塔 元和8年(1622)建立

「開眼導首者 日樹 欽誌之
天保四巳年十月 〇〇之」(修復の追刻 読めず)

大田区文化財 前田利家室の層塔
3.

加藤清正室(正応院)の層塔 寛永3年(1626)建立

「開眼 両山第十五代 日樹誌」

大田区文化財 加藤清正室の層塔
〇前田利家室(寿福院) 第3代加賀藩主、利常の生母。
〇加藤清正室(正応院) 清正の嫡男、惟忠広の母。
〇日樹聖人
4.

日樹上人の供養塔 (長勝寺境内)

大田区文化財日樹(上人)の三十三回忌 寛文3年(1663)
日樹上人の供養塔
幕府の施物は、信仰による布施ではないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(一五七四~一六三一)の供養塔である。
寛永七年(一六三〇)、受側を代表とする身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。
昭和四十九年二月二日指定
大田区教育委員会