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かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

池上本門寺 復歴16世・日樹聖人の五輪塔、他

2011-07-06 | 池上本門寺の歴史
復歴16世・日樹聖人に関する写真です。

1.

日樹聖人 五輪塔


日樹聖人 五輪塔(左側面)


左側面の上層部 「多寶如来」


背面の上層部 「日樹 (花押)」


  大田区文化財
   日樹聖人の五輪塔
 この塔は本門寺山内最大の五輪石塔で、総高四メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年記名は見えないが、上から三段目の火輪斜面に「日樹 (花押)」の署名が刻まれている。
 したがって、本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される寛永七年(一六三〇)より前の造立である。
 しかも、地輪をはじめ、塔の前面に数百名の奉加者の刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。
   昭和四十九年二月二日指定
                                  大田区教育委員会

正面 基底部と第一層

左側面 第一層

背面 第一層

左側面 第二層

右側面 第二層

右側面 最上層


2.

前田利家室(寿福院)の層塔 元和8年(1622)建立


「開眼導首者  日樹 欽誌之
天保四巳年十月 〇〇之」(修復の追刻 読めず)


大田区文化財 前田利家室の層塔


3.

加藤清正室(正応院)の層塔 寛永3年(1626)建立


「開眼  両山第十五代 日樹誌」


大田区文化財 加藤清正室の層塔

〇前田利家室(寿福院) 第3代加賀藩主、利常の生母。
〇加藤清正室(正応院) 清正の嫡男、惟忠広の母。
〇日樹聖人


4.

日樹上人の供養塔 (長勝寺境内)


 大田区文化財
   日樹上人の供養塔
 幕府の施物は、信仰による布施ではないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(一五七四~一六三一)の供養塔である。
 寛永七年(一六三〇)、受側を代表とする身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
 この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。
  昭和四十九年二月二日指定
                                  大田区教育委員会
日樹(上人)の三十三回忌 寛文3年(1663)



池上本門寺復歴16世・日樹聖人への敬白文

2011-06-11 | 池上本門寺の歴史
昭和30年、池上本門寺第77世・石川日教上人とその一行が、本門寺貫主として正式にはじめて流地信州飯田の日樹上人の墓地を訪れた。そのときのものである。

   敬 白 文
 慎しみ敬って南無平等大慧一乗妙法蓮華経、南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無本化上行高祖 日蓮 大菩薩、宗門如法弘通勲功の先師、日朗菩薩、日輪上人等長栄山歴代先聖の来臨影嚮を仰ぎ、長遠院日樹上人の報土を厳浄し奉る。
 長遠院日樹上人は両山第十四世自証院無問日詔上人の資、元和五年(1619)第十五世中正院日友上人遷化の後を承けて両山の猊座に陞る。
 寛永三年(1626)九月徳川二代将軍秀忠の夫人死し、その菩提の為め諸宗の高僧をして芝増上寺に納経 諷 誦 せしめ、将軍より回向に対し供養の事ありしも、日樹上人これを峻拒し、謗法供養不受の制法を守る。
 時に徳川幕府は開創以来日浅く切支丹宗門を禁止し踏絵の検断を行なふ等、信教を自家権勢薬籠中に収めんとの謀にあり。爰を以て、寛永七年(1630)二月廿一日官に抗する日樹上人等を江戸城内老中酒井雅樂頭の座席に於いて糾弾せしも、上人の所論堂々として悉く本経祖典に基づき、これを駁する者無く、奉行理非の決断をなす能はずして後日の文書応答に持越す。然るに上人論難書を提出するも遂に答書来らざるを以って、謗法供養不受はこれ公儀に対する違背に非ずの所断を訴えしも、四月二日幕府は理不尽にも上人を両山より除歴、流罪に処して信州に追ふ。
 嗚呼、上人は徳川幕府宗教政策の犠牲となって無実の罪を負ひ、翌寛永八年(1631)五月十九日配所信州飯田郷田中八郎右衛門尉の邸において病没す。寿五十八今を距る三百二十四年前なり。我が山先々代謙光院日慎上人この事を深く遺憾とし、先年門末一同に諮って上人を復歴す。
 老衲長栄山の法灯を継承してより戦災復興に寧日無きも、図らずも今般篤信者福田善三郎氏夫妻の招請により北信に掛錫し、本日車を駆って上人の墓前に拈香諷誦 、年来の所願を成ずることを得たり。南信伊那の峡満山紅葉今闌にして、一木一草旧に依り寂莫、上人謫居の秋を髣髴す。茲に恭しく長遠院日樹上人我不愛身命の慈恩に報酬し、その増円妙道位隣大覚を祈り奉る
 若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏在々諸仏土常与師倶生
  南無妙法蓮華経
   昭和三十年(1955)十一月七日
                  大本山池上本門寺 伝燈 七十七世 日教 和南

翌、昭和三十一年(1956)五月十五日、74世謙光院日慎上人の第十三回忌法要が池上で厳修された。

  出典 『池上本門寺百年史』新倉善之著  年代に、(西暦)を入れました。
 

〇日樹上人(池上復歴十六世) 天正2年(1574)~寛永8年5月19日(1631.6.18)
〇両山第十四世自証院無問日詔上人
〇第十五世中正院日友上人
〇徳川二代将軍秀忠の夫人 崇源院(浅井長政娘・お江与、江(ごう)、小督(おごう))
  天正元年(1573)~寛永3年9月15日(1626.11.3) 墓所・芝増上寺
〇日樹上人等
  日賢上人(中山法華経寺隠居) 遠州横須賀(遠地追放、以下同)
  日弘上人(平賀本土寺) 伊豆戸田
  日領上人(小西檀林能化) 佐渡のち奥州中村
  日進上人(碑文谷法華寺) 信州上田・仙石家預かり。のち妙光寺開創。
  日充上人(中村檀林能化) 奥州岩城平

〇謙光院日慎上人 池上第74世酒井(恵快)日慎上人


 

池上本門寺・霊宝殿 日樹聖人と不受不施

2011-06-10 | 池上本門寺の歴史
池上本門寺・霊宝殿 今月の展示 日樹聖人
~復歴16世長遠院日樹聖人と不受不施の系譜~
~第16世心性院日遠聖人ゆかりの宝物~ 他

後生大事にとっておいた(もっとゆっくり調べてからと思っていた)池上本門寺・復歴16世日樹聖人を、急遽、載せることにしました。
不受不施派のことは、なんとなく、気持ちがしっかりしてないなかでは記事にしづらかった。が、霊宝殿で取り上げているのであれば、なにも遠慮することはない。ということで。


日樹上人 略歴
天正2年 - 寛永8年5月19日 (1574 - 1631.6.18)
備中国(現岡山)黒崎村、出身。
天正19年(1591)(18) 備中仏乗寺・日英上人を師とする。
下総国の飯高檀林・中村檀林で学び、飯高檀林7世化主となる。
元和5年(1619)(46) 池上本門寺に入寺。  比企谷妙本寺両山貫主となり、池上の復興に努める。
 京都妙覚寺・日奥(不受不施派)に同調し、久遠寺・日乾、日遠、日暹(受布施派)と対立する。
寛永7年(1630)(57) 江戸城において池上(本門寺)と身延(久遠寺)との対論(身池対論)。
 不受不施派は幕府に忌避され、日樹上人は信州伊那に配流となる。池上本門寺歴世除歴。
寛永8年(1631)(58) 配流先の信州伊那で亡くなる。  墓所・飯田羽場元山白山社権現堂境内。

昭和6年(1931) 池上本門寺歴代・復歴16世となる。
 宗祖日蓮聖人六百五十遠忌。日樹上人三百遠忌の年。
 池上74世酒井日槙上人の発意による。
昭和30年(1955)   日樹上人の墓参を、77世日教上人が本門寺貫主として正式にはじめて行なう。


日樹上人の時代 池上本門寺の略年譜
1573(天正1) 日惺(12) 織田信長、足利義満を追放
1590(天正18)日惺  小田原北条氏滅亡。徳川家康江戸へ入府。
        この後12世日惺上人、比企谷から池上に移住。以後貫主は池上に常駐する。
1598(慶長3) 徳川家康より朱印地100石を賜る。
1600(慶長5) 日尊(13) 徳川家康、関ヶ原の戦いに勝利する。慶長8年、江戸幕府開く。
1608(慶長13)日詔(14) 徳川秀忠、五重塔を寄進建立。(秀忠の乳母・岡部局の発願)
        慶長年間 加藤清正、祖師堂(大堂)、石段(此経難持坂)寄進(伝)
1619(元和5) 日樹(*) 池上本門寺入寺。 (*)復歴16世
1627(寛永4) 日樹    本阿弥光悦、三堂扁額を寄進。 
1630(寛永7) 日樹    身池対論。日樹上人、除歴のうえ信州伊那に流罪となる。
              幕命により、日遠上人が身延より普山する。
1631(寛永8) 日遠(16) このころ、養珠院お万の方、杉苗1万本寄進および御霊宝の補修。
1647(正保4) 日東(17) 紀州徳川頼宣室瑤林院、梵鐘を寄進。
1674(延宝2) 日玄(22) 狩野探幽没、葬送。
   


〇不受不施・不受不施派
関心のあるかたは、Googleで検索してみてください。100万件のヒットはなんなんだ、という感じです。(何年か前は、数えるほどだった記憶ですが。)言葉・用語が独り歩きしているのか。
かぶとんのスタンス
不受不施・不受不施派のことは難しい。当時としては主流・正当であり、その思い・行動については顕彰していきたい。その受難の歴史にも心が痛む。しかし現代においては通用しない(と、思っている)。


追記
「霊宝殿 今月の展示」、といっても5月の話ですので、日樹聖人の曼荼羅本尊や書状は、もう拝観できませんです(すみません)。次回の展示はいつになることやら。
さらに
〇尊称である「聖人」・「上人」、のつけかた・呼び方が難しい。(我が、かぶとん)まったくわかっていない。ゆえに、「聖人」・「上人」については、出典元・参考元の呼称に合わせていますので混在します。それと通常の歴史上の出来事に登場する場合は、敬称略とします。
さらに、さらに
お万の方(養珠院)が帰依した、日遠上人(身延から池上16世へ)のことも。日樹上人に肩入れしているように見えるかもしれぬ当ブログだが、そういうことでもない。日遠上人のこともそのうちに。


参考 日樹上人について書かれた HP、ブログもろもろ。
    『霊寶殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産』
    『池上本門寺 百年史』 新倉善之著