父は、桃林・弥彦山・姫駒などという二、三頭の競走馬をいつも持っていた。うまの運動は、八、九歳のころからわたくしの役目だった。
夕がたすずしくなると、大きな競走馬にのって、あたりの道をさんぽしたものだ。わたくしはまだ小さくて、あぶみに足がとどかなかったが、むねをはってのりこなした。(中略)
(父は)年をとってから運がむいてきたが、わかいときは運のない人だったようだ。競馬の馬などに手を出したのも、母やわたくしのことを考えてのことだ。母にらくをさせたい、わたくしをいい学校にやりたい・・・そう思っていたが、運がなかったのだろう。
そのころ、競馬などは百姓が手を出せるものではなかったが、母は父の気持ちをよくわかっていた。それで失敗すると、母はだまって借金に歩いた。
(中略)
いまとちがって、むかしの農村では、百姓仕事のほかに収入をえるみちはなかった。米の積み出しぐらいだ。坂田から西山駅まで二キロのひどい道を、母はこめ一俵(六十キロ)を、ばた(わらでつくった、ものをかつぐための道具。)にのせて背なかにかついで歩いた。往復二時間近くはかかる。それを、一日に四、五回はこんだ。雪のはげしいときもやった。それで一俵あたり十銭か十五銭だった。
あるとき、新潟競馬に父のうまが出た。こんどこそ勝てるということだった。ところが運わるく、勝つはずのうまがレース中にけがをしてしまった。
父はすぐ家に電報をうってきた。
ゴ ロクジュウエン カネ オクレ
それを見た、母の顔色がかわった。
それだけの金をどうやってつくるか。
考えたあげく、わたくしが、親類の近藤という材木屋に借りにいくことになった。近藤は父のいとこであり、その家のむすめを、ゆくゆくはわたくしのよめにという話があったくらいで、したしいあいだがらの家であった。
母は、金を借りにおまえをいかせたくない、となげいていたが、わたくしはそう気にもとめず借金にでかけた。
近藤のおやじさんは気持ちよく金を貸してくれたが、そのとき、
「おまえのおやじも、なかなか思うようにいかんねえ。」
とつぶやいた。このひとことがいまもわたくしの耳にのこっている。
その後わたくしが、人に金を貸してくれとたのまれたとき、かえってこない金だと思っても、貸すときはだまって出すことにした。わたくしにできなければ、きっぱりとことわる。出すなら条件をつけない。こういう考えかたは、父の不運を指摘された、このときにつちかわれたものかもしれない。
わたくしは借りた金を父にとどけるため、西山駅から競馬場のある関谷駅へ汽車にのった。
内ポケットに入れた六十円という金を意識しながら、わたくしはまどによりかかって、ながれていく林や田んぼに目をむけていた。
ちょうど田うえの季節で、母は西山駅と礼拝駅とのあいだにある、わたくしの家の田んぼで田うえをしていた。わたくしは母にいっしょうけんめい手をふった。気がついた母も、わたくしに手をふった。
そのとき、わたくしはこんなことを考えつづけていた。
― 母が一日田んぼではたらくと、いったいいくらになるのだろう。いま、自分が競馬場にいる父にとどけにいくこの金は、その何倍にあたることだろう。(後略)
角栄少年、12歳。成績がよかったので、柏崎の中学への進学をすすめられたが、母の苦労を思い、進学を断念した。小学校の高等科へすすむ。
昭和8年(1933) 3月 二田尋常高等小学校卒業。
救農土木工事トロッコ押しの仕事-土方は地球の彫刻家-、つづいて柏崎土木派遣所の勤め、’三番くん’との番神さまのエピソードは、この年と翌年3月までのこと。
昭和9年(1934)3月 上級学校進学のため上京。働きながら中央工学校土木科(夜学)に通う。
昭和11年(1936) 中央工学校卒業。






角栄少年、小学校へ通った道から。(たぶん)
口絵1ページの写真と見くらべてください。

かつて二田高等尋常小学校(二田小学校)があった場所、だそうな。