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かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

越後線と母の思い出 2―「自伝 わたくしの少年時代 田中角栄」より

2011-09-27 | 新潟 長岡

 父は、桃林・弥彦山・姫駒などという二、三頭の競走馬をいつも持っていた。うまの運動は、八、九歳のころからわたくしの役目だった。
 夕がたすずしくなると、大きな競走馬にのって、あたりの道をさんぽしたものだ。わたくしはまだ小さくて、あぶみに足がとどかなかったが、むねをはってのりこなした。(中略)

 (父は)年をとってから運がむいてきたが、わかいときは運のない人だったようだ。競馬の馬などに手を出したのも、母やわたくしのことを考えてのことだ。母にらくをさせたい、わたくしをいい学校にやりたい・・・そう思っていたが、運がなかったのだろう。
 そのころ、競馬などは百姓が手を出せるものではなかったが、母は父の気持ちをよくわかっていた。それで失敗すると、母はだまって借金に歩いた。
(中略)
 いまとちがって、むかしの農村では、百姓仕事のほかに収入をえるみちはなかった。米の積み出しぐらいだ。坂田から西山駅まで二キロのひどい道を、母はこめ一俵(六十キロ)を、ばた(わらでつくった、ものをかつぐための道具。)にのせて背なかにかついで歩いた。往復二時間近くはかかる。それを、一日に四、五回はこんだ。雪のはげしいときもやった。それで一俵あたり十銭か十五銭だった。

 あるとき、新潟競馬に父のうまが出た。こんどこそ勝てるということだった。ところが運わるく、勝つはずのうまがレース中にけがをしてしまった。
 父はすぐ家に電報をうってきた。
 ゴ ロクジュウエン カネ オクレ
 それを見た、母の顔色がかわった。
 それだけの金をどうやってつくるか。
 考えたあげく、わたくしが、親類の近藤という材木屋に借りにいくことになった。近藤は父のいとこであり、その家のむすめを、ゆくゆくはわたくしのよめにという話があったくらいで、したしいあいだがらの家であった。
 母は、金を借りにおまえをいかせたくない、となげいていたが、わたくしはそう気にもとめず借金にでかけた。
 近藤のおやじさんは気持ちよく金を貸してくれたが、そのとき、
 「おまえのおやじも、なかなか思うようにいかんねえ。」
とつぶやいた。このひとことがいまもわたくしの耳にのこっている。

 その後わたくしが、人に金を貸してくれとたのまれたとき、かえってこない金だと思っても、貸すときはだまって出すことにした。わたくしにできなければ、きっぱりとことわる。出すなら条件をつけない。こういう考えかたは、父の不運を指摘された、このときにつちかわれたものかもしれない。

 わたくしは借りた金を父にとどけるため、西山駅から競馬場のある関谷駅へ汽車にのった。
 内ポケットに入れた六十円という金を意識しながら、わたくしはまどによりかかって、ながれていく林や田んぼに目をむけていた。
 ちょうど田うえの季節で、母は西山駅と礼拝駅とのあいだにある、わたくしの家の田んぼで田うえをしていた。わたくしは母にいっしょうけんめい手をふった。気がついた母も、わたくしに手をふった。
 そのとき、わたくしはこんなことを考えつづけていた。
 ― 母が一日田んぼではたらくと、いったいいくらになるのだろう。いま、自分が競馬場にいる父にとどけにいくこの金は、その何倍にあたることだろう。(後略)

角栄少年、12歳。成績がよかったので、柏崎の中学への進学をすすめられたが、母の苦労を思い、進学を断念した。小学校の高等科へすすむ。

昭和8年(1933) 3月 二田尋常高等小学校卒業。
 救農土木工事トロッコ押しの仕事-土方は地球の彫刻家-、つづいて柏崎土木派遣所の勤め、’三番くん’との番神さまのエピソードは、この年と翌年3月までのこと。
昭和9年(1934)3月 上級学校進学のため上京。働きながら中央工学校土木科(夜学)に通う。
昭和11年(1936) 中央工学校卒業。


現在のJR越後線・西山駅









角栄少年、小学校へ通った道から。(たぶん)
口絵1ページの写真と見くらべてください。

道の駅 西山ふるさと公苑
かつて二田高等尋常小学校(二田小学校)があった場所、だそうな。


 

夕景 長岡・信濃川

2011-09-16 | 新潟 長岡

長岡・大手大橋からの信濃川
中州の先に長岡大橋。新潟、日本海へとつづく。




信濃川河口より77km、とある。思った以上に離れている。

弥彦山を望む

信濃川河川敷(長岡)

長岡市街 遠望

大手大橋からの長岡市街







杉本鉞子の文学碑 武士の娘



越後線と母の思い出― 「自伝 わたくしの少年時代 田中角栄」より

2011-08-12 | 新潟 長岡
 わたくしは、おばあさん子だった。(中略)
 わたくしの下に、ユキエという妹がいた。
 ある日、ふだんいそがしい母が五目めしをつくってくれたことがあった。ところが、女の子ばかりのなかにそだって、あまえんぼうになっていたわたくしは、
「おばあちゃんがつくったものでなければ食べない。」
と、だだをこねた。
「なんで、母のつくったものを食べてくれないんだ。」
「おしめなんかあらっているから、きたない。」
 母は、とても悲しい顔をした。そのときの母の顔をわすれることができない。

 その母に、つよく同情したことがある。
 わたくしが六つのとき・・・ちょうど昼ごろだった。のちに、わたくしの母校となった二田尋常高等小学校の校庭で遊んでいた。と、とつぜん地面がもちあがってぐらぐらとゆれだした。子どもたちがころげまわり、まつの木が大きくゆれた。
 あとで知ったのだが、それが大正十二(一九二三)年九月一日の関東大震災となった大地震だった。
 つぎの日から、たくさんの人が越後線にのって東京からかえってきた。越後線はふだん、「客がない、客がない」ときこえるような音をたてて、歩くようにゆっくりと走っていた。汽笛を鳴らせば、「ふけいき、ふけいき」ときこえる・・・などといわれていたほどだ。それが、このときばかりは満員だった。
 わたくしのおじさんたちも、家をやかれてかえってきた。
「ようし、山の木や田んぼを売っても金をつくってやろう。」
 祖父はそういって、しんけんにはげましていた。
 東京からきた人たちは、こめやみそや食べられるものを、よくもまああんなに持てるものだと思うくらい、たくさんかついでかえっていった。わたくしは、雨の日も、風の日も休まずはたらいている母が、かわいそうに思えてしかたがなかった。
 ― 東京の人たちは、母にことわりもなしに、母のはたらいたものを山ほどもせおって東京へかえっていくのだ。
 わたくしの小さなむねの中が、あつくなった。
 だが、母はなにもいわずに、よくはたらいた。ぜったいといってよいほどぐちをいわない人だった。子どもたちに仕事をてつだえともいわない人だったし、子どものほうからてつだうまでは、いつもひとりではたらきつづけていた。

 そのやさしい母が、ある日、いままでに見せたこともないけわしい顔でわたくしをよんだ。
 物置のわきの大きなひいらぎの木のかげにつれていかれたわたくしは、母のけわしい顔を見上げた。
「なにかわるいことをしましたね。」
 いがいなことばに、わたくしはびっくりした。
「わるいことなんかしないよ。」
 わたくしはむねをはっていった。ほんとうになにもしていなかったからだ。
 わたくしの目をじっと見つめていた母の顔が、だんだんふだんの顔にもどっていくのがわかった。
「もし、おまえがわるいことをしたら、おかあさんはおまえといっしょに鉄道にひかれて死んでしまうつもりです。」
 わたくしには、まったくなんのことだかわからなかった。
「なんかあったの。」
「おじいちゃんのさいふから、お金をとらなかったね。」
 母がそういったとたん、わたくしの頭にぴんとくるものがあった。
「ああ、そうか、わかった。五十銭玉二まいだね。」
「えっ、そ、それじゃ。」
 母の目がするどくうごいた。
「ちがうよ、とるものか・・・茶だんすの上にあったんだ、ほんとうだよ。」
「それをどうしたの。」
「みかんを一箱買ってきて、お宮さん(鎮守)で子どもたちとみんなで食べたべたんだよ。」
 母は、じいっとわたくしの顔を見つめていた。そして、すぐわたくしを祖父のところへつれていった。
「そうか、わかった。よしよし、おまえならいいよ。おまえならいいのだ。」
 そういって、祖父はわらっていた。母は、こまったような顔をしていた。

 それにしても、母がなんであんなしんけんな顔をしたのだろうか。いま、思えば、自分の生んだ子がうそをいったり、人のものをぬすんだりするようになったら、母親として死ぬほかない、という気持ちだったのだろう。
 わたくしはそのとき、おとなしくがまんづよい母だが、やはりわたしにとってだれよりもこわい人だと思った。
角栄、小学校に入るまえのことである。(六つ、とは数え年。満5歳。)

田中角栄
大正7(1918)年5月4日 新潟県刈羽郡二田村(現柏崎市)で父角次、母フメの長男として生まれる。姉二人、妹四人(うち二人は、二十歳になるすこし前に亡くなった)。祖父・捨吉は宮大工の棟梁、土木建築請負業。父角次は牛馬商、競走馬の馬主。屋号「角右ヱ門」。
大正14(1925)年4月 二田尋常高等小学校入学 


『自伝 わたくしの少年時代』 著者・田中角栄 昭和48年(1973) 講談社 550円
だいぶ前に、BOOK-OFFで購入。手に入れたのはうれしかったが、価格設定に悲しくもあった。105円。

「私の履歴書 田中角栄」 昭和41年(1966)2月 日本経済新聞・朝刊 文化面掲載
角栄47歳。自由民主党・佐藤内閣の時代、大蔵大臣から自由民主党の幹事長に就いていた頃である。文才があり、マメである。どんなに忙しくとも、やることはやっていて、しかも自身への糧にしている。
「私の履歴書」最後の場面。昭和22年(1947)4月26日、当選したよツ、代議士というんのになったヨ、という姉の声にも夢うつつで眠り続けた。時に28歳。(機関車の両輪が動き出す瞬間。その後のことは、言いたい人には言わせておけ、だ。)
のちに文庫化。さらに日経ビジネス人文庫 『私の履歴書 保守政権の担い手』(六名の著者の一人として) 2007年5月、日本経済新聞出版社から発行されている。

上記の児童本のほうの発行年は、首相在任時のことなので、「私の履歴書 田中角栄」を下敷きにして、子どもにも読めるように、誰かが書きなおしたものと推察される。


 

新潟 JR信越本線・越後線 直江津~柏崎~吉田

2011-08-04 | 新潟 長岡

直江津駅ホーム


JR直江津駅

柿崎駅




青海川駅


遠くに見える。(画像拡大あり)



JR柏崎駅


柏崎駅ホーム 信越線から、左の越後線の車両に乗換え。

刈羽駅

西山駅

刈羽・西山・礼拝と、あらためてやって来たい。




右奥、弥彦山は雲に隠れている。
吉田駅で降りた。弥彦山(634m)・弥彦神社も次回。弥彦線に乗換え、燕三条まで。そして長岡に向かった。


〇柏崎刈羽原子力発電所(東京電力) 新潟県柏崎市青山町16
〇田中角榮記念館 新潟県柏崎市西山町坂田717-4



夏のJR上越線 長岡 長岡市立中央図書館へ

2011-07-25 | 新潟 長岡
長岡訪問で、今、いちばん立ち寄りたかった所はここでした。

長岡市立 中央図書館
新潟県長岡市学校町1-2-2  JR長岡駅より徒歩15分
 バス 長岡駅東口から悠久山線(2番線)乗車、「学校町1丁目」下車





東京在で長岡とは離れていても、今はネットがあるので HP 『長岡市立図書館』は、よく見ています。「資料の検索>資料一覧」もおおいに利用させてもらってます。
でもネット上のことと、現地で実物を見るのとでは違います。
長岡市双書を読む会、読み聞かせボランティア養成講座、があったりしてうらやましい。長岡の郷土史・人物伝についての調べ物については、すべて間に合うというような図書館でした。
もちろん興味・関心は杉本鉞子(さん)と稲垣平助家のこと。
『武士の娘』から、『A Daughter of the Samurai 』へ。その他の著作も。そして館内保管庫からは、稲垣平助の『誌禄』(日記・資料)。残念ながら、今は原文をなぞるのみで読み込む力がない。



栄凉寺(浄土宗)・河井継之助
新潟県長岡市東神田3-5-6
個人的には、いいかげんパスしたい継之助。そういうわけにもいかないか。




河井家・河井継之助の墓地


   河井継之助の墓
 文政十年(1827)一月一日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、百二十石であったが、その才能を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、 慶応四年(1868)八月十六日会津塩沢で陣没した。
                                 長岡市教育委員会
  リンク  栄凉寺 前回の訪問(冬)



長興寺(曹洞宗)・稲垣平助
新潟県長岡市稽古町1636


稲垣平助家の墓地


   稲垣平助の墓
 長岡藩筆頭家老の稲垣家は、藩主牧野候の三河(現在の愛知県)在住以来、随従して苦労をともにし、藩主をよく補佐した。長興寺は、稲垣家によって興された。
 代々平助を通称とし、家禄は幕末期で二千石であった。
 幕末の平助重光は、北越戊辰戦争の際、勤皇恭順説を唱え、藩中に孤立した。その六女鉞子(えつこ)は、アメリカに渡り「武士の娘」などを著した。
                                 長岡市教育委員会
  リンク  長興寺 前回の訪問(冬)