スメタナ:交響詩「わが祖国」全曲
1高い城ーヴィシェフラド
2モルダウ
3シャールカ
4ボヘミヤノの森と草原より
5ターボル
6プラニーク
指揮:カレル・アンチェル
管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
発売:1978年
LP:日本コロムビア(SUPRAPHON) OQ‐7126‐S
このLPレコードは、聴いていて心から感動する録音だ。それはスメタナ(1824年―1884年)が、愛する祖国チェコを心の底から想って作曲したことが、ひしひしと伝わってくるからである。この交響詩「わが祖国」は、第2曲の「モルダウ」が突出して名高いために、逆に全曲を聴く機会が意外に少ない。私も全曲はそう多くは聴かないが、今回全曲を聴いてみて、改めて名曲だと感じ入った。しかも、指揮がチェコ出身のカレル・アンチェル(1908―1973年)、管弦楽がチェコ・フィルという、これ以上のコンビはないという組み合わせなのだから貴重この上ない録音だ。カレル・アンチェルが来日して、スメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲を演奏した時のテレビ生中継されたことが、昨日のことのように思い浮かぶ。カレル・アンチェルは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、トロント交響楽団首席指揮者などを歴任した名指揮者だ。この録音でもスメタナの祖国へ対する思いを、カレル・アンチェル指揮チェコ・フィルの演奏は、余すところなく引き出している。「わが祖国」は、スメタナが、当時はまだオーストリアのハプスブルグ家の支配下にあったボヘミアの首都プラハ市に捧げた連作交響詩である。1946年以来、毎年開催されている国際音楽祭「プラハの春」は、その年の5月12日に、この交響詩「わが祖国」全曲演奏で幕を開ける習わしとなっている。この交響詩「わが祖国」は、6曲からなっているが、奇数番号の曲は、現代そして未来を表そうとしているのに対し、偶数番号の曲は、歴史的あるいは回顧的な主題が用いられており、第1曲と第2曲、第3曲と第4曲、そして第5曲と第6曲とがそれぞれペアとなっており、それにより「国民と国土が固く結ばれている」ことが表現されている。作曲は、スメタナが50歳~55歳の時に行われ、1879年に完成した。全曲演奏は、その3年後に行われ、大成功を収めた。しかし、スメタナの晩年は、耳が全く聞えなくなったことに加え、狂気の発作にも襲われ、60年の生涯を閉じている。だから、交響詩「わが祖国」が演奏されても、その場にいたスメタナは、全く音を聴くことができなかったと言われている。6つの曲(高い城ーヴィシェフラド/モルダウ/シャールカ/ボヘミヤノの森と草原より/ターボル/プラニーク)には、スメタナ自身が付けた表題と解説が書き残されている。これは、スメタナが、当時プラハには独立した交響楽団がなかったことから、「聴衆によく分からせたい」という思いから付けられたという。(LPC)
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲K.365
ピアノ:ロベール・カザドシュ
ギャビー・カザドシュ(モーツァルト)
指揮:ユージン・オーマンディ
管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
LP:CBS・ソニー 13AC 1070
録音:ラヴェル:1960年12月14日
モーツァルト:1960年12月15日
フランスの名ピアニストであったロベール・カザドシュ(1899年―1972年)が、妻のギャビーと共に録音したのがこのLPレコード。カザドシュの才能は若いときから花開いたようで、3歳で人々の前でピアノを弾き、10歳でパリ音楽院に入学し、一等賞を得て1913年に卒業している。第2次世界大戦後は、アメリカにも拠点を広げ、フランスとアメリカで演奏活動を行った。第2次世界大戦中は米国に亡命したが、戦後は1950年に帰国した。また、1952年までアメリカ音楽院の院長を務めた。カサドシュは、ギャビー夫人と息子ジャンとの共演により、このLPレコードにあるモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲のほかに、3台のピアノのための協奏曲も録音している。また、作曲家としても作品を残しており、7曲の交響曲、3曲のピアノ協奏曲、それに多数の室内楽曲などがある。ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲は、ラヴェルの創作活動の最晩年に完成した作品。この曲の委託者は、オーストリア出身のピアニストであったパウル・ヴィトゲンシュタイン(1887年―1961年)である。彼は、第1次世界大戦で右手を失い、左手だけでピアノ演奏活動を行ったことで当時、広く人々に知られていた。この曲は、単一楽章で書かれており、切れ目なく演奏されるが、実際には、レント、アレグロ、レントという3部構成となっている。このLPレコードでのロベール・カザドシュのラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲の演奏は、不安げでありながら、ほの暗い情熱的な面を持ち、しかもラヴェルが「ジャズの要素も取り込んだ」という曲想を、カザドシュは誠に的確に表現しており、今でもこの曲の代表的録音と言っても過言でないほど。一方、モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲K.365は、モーツァルトがザルツブルグ時代に書いた最後の作品で、モーツァルト唯一の2台のピアノのための協奏曲となった。当時、モーツァルトは、母を亡くし、悲しみに沈んでいたが、この曲はそのようなことをまったく感じさせない、幸福感に溢れた作風となっている。これは、モーツァルトがパリ滞在中に受けた影響であろうと言われている。ここでのロベール・カザドシュとギャビー・カザドシュの2人によるモーツァルト:2台のピアノのための協奏曲の演奏内容は、雰囲気がラヴェルの時とはがらりと変わり、ロベール・カザドシュが妻のギャビーとのデュオ演奏をすることによって、明るく華やかに、しかも楽しそうに演奏を行うことによって、微笑ましいことこの上ないものに仕上がった。(LPC)
モーツァルト:交響曲第25番/第29番
指揮:ブルーノ・ワルター
管弦楽:コロンビア交響楽団
録音:交響曲第25番(1954年12月10日)/交響曲第29番(1954年12月29日~30日)
LP:CBS・ソニー 15AC 660
巨匠ブルーノ・ワルター(1876年―1962年)の残した録音は、若い頃のウィーンを中心に活躍した時代、円熟期のニューヨーク・フィル時代、それに晩年のコロンビア交響楽団と3つの時代分けられるが、このLPレコードは、コロンビア交響楽団との録音である。コロンビア交響楽団とはいったいどんな楽団だったのであろうか。1950年代のアメリカ西海岸のハリウッドは、映画の都として、その黄金時代を謳歌していたが、演奏家も、全米あるいはヨーロッパから一流の奏者が集まり、ワーナー・ブラザース交響楽団、パラマウント交響楽団、ハリウッド交響楽団など、映画会社お抱えのオーケストラの一員として活躍していた。しかし、そんな映画のサウンド・トラック演奏だけでは飽き足らない演奏家達が、音楽監督カーメン・ドラゴンのもとに結集して創設されたのが、グレンデール交響楽団である。同楽団は、録音の際は、それぞれ別名で録音していた。このためグレンデール交響楽団の名はほとんど知られることはなかった。つまり、同楽団がCBSへの録音の際に使用した名称がコロンビア交響楽団ということにほかならない。若い頃のワルターは、典雅この上ない指揮ぶりであった。それに対しニューヨーク・フィルとコンビを組んだ時代は、がらりとその指揮ぶりが変わり、力強く、スケールの大きいものに変貌した。それらに対しコロンビア響との時代は、これまで指揮者として歩んできた道程を振り返るような、一段と高い立場で巨匠が晩年に到達した心境が綴られている。モーツァルトの交響曲第25番は、1773年夏のウィーン旅行から帰って、同年末にザルツブルグで完成した。後期の第40番と酷似していることから、”小ト短調交響曲”とも呼ばれている。曲全体が緻密な構成力と緊迫感に包まれている。これは、ウィーン旅行における“シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)”に強い影響を受けたことによるものと考えられる。第29番は、第25番を書いてすぐ、1774年初めに作曲された。第25番が「暗」とするなら、第29番は、生の歓喜が零れ落ちるような魅力的な旋律に彩られた「明」の交響曲と位置づけられよう。このLPレコードの第25番の指揮は、若い頃のワルターの力強さをまだ十分に残していることが聴きとれる。曲の出だしから猛烈な迫力で、聴くものを圧倒する。この時、ワルター78歳。一方、第29番はの方は、静かにモーツァルトと向き合い、淡々とモーツァルトの世界を描いており、ワルターが晩年に到達した心境を覗く思いがする。(LPC)
シャルパンティエ:真夜中のミサ曲(降誕祭前夜のミサ曲)
指揮:ルイ・マルティーニ
管弦楽:パイヤール管弦楽団
ソプラノ:マルタ・アンジェリシ/エディト・セリ
カウンター・テナー:アンドレ・ムーラン
テノール:ジャン=ジャック・ルジュール
バス:ジョルジュ・アプドン
合唱:フランス・ジュネス・ミュージカル合唱団
オルガン:アンヌ=マリー・ベッケンシュタイナー
LP:RVC ERX-2226
発売:1976年
マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1636年―1704年)は、パリの画家の家に生まれる。最初は画家を志したようだが、後に音楽家への道を歩み、ローマで音楽を学ぶ。フランスに帰国後、イタリア様式の熱心な推進者となり、フランスにイタリア様式の世俗カンタータや宗教的オラトリオなどの形式を紹介した。このことがシャルパンティエの作曲家としての地位に少なからぬ影響を及ぼす結果となる。フランスのバロック音楽時代には、フランス音楽派とイタリア音楽派が、いたるところで角を突き合わせたいた。当時、フランス音楽派のボスといえばリュリ(1632年―1687年)であった。一方、イタリア音楽派の代表格は、シャルパンティエその人である。フランス音楽派とイタリア音楽派の勢力争いは、当然、フランスにおいては、フランス音楽派、すなわちリュリに軍配が上らざるを得ない。この結果、シャルパンティエは、ヴェルサイユの要職にはありつけず、オルレアン公フィリップスの音楽教師やイエズス会系の教会や付属学校の楽長といった地位に甘んじなければならなかった。それでも、最後は、1698年に、王宮のサント・シャペルの楽長という名誉ある地位に就くことができたようだ。宗教音楽の作曲者としてシャルパンティエは、500曲以上の曲を作曲したとされる。12曲作曲したミサ曲の一曲がこのLPレコードの「真夜中のミサ」で、手稿には「クリスマスのための4声部とフルート、ヴァイオリンのための真夜中のミサ」と記されている。一般にミサ曲というと厳格な感じの曲を思い浮かべるが、この「真夜中のミサ曲」だけは、厳格さとはまったく異なり、深夜ミサの楽しさが伝わってくる。それもそのはずで、このミサ曲には、11曲の民衆的なクリスマス・キャロル(ノエル)がメドレーのように引用されているからだ。このため、このミサ曲を聴くと、単に宗教音楽の枠を越えて、クリスマス・イブからクリスマスにかけての輝かしくも厳かな夜の空気がリスナーのもとへひしひしと伝わってくる。このことが、この曲の人気の根源になっているように思われる。例え宗教人でなくとも、その純粋な信仰心の温かみが音楽を通して伝わってくるのである。フランスの聴衆は、クリスマス・イヴにこの曲を聴くと、聴き覚えのあるノエルを通して、キリスト降誕の場面を思い浮かべるという。このLPレコードでは、パイヤール管弦楽団と独唱陣、合唱陣は、そんな曲を愛情を込めて、楽しく、しかも優美に演奏しており、好ましいことこの上ない。(LPC)