バルトーク:管弦楽のための協奏曲
指揮:フェレンツ・フリッチャイ
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
録音:1957年4月9、10日
発売:1974年
LP:ポリドール MH 5055
バルトークの管弦楽のための協奏曲は、1943年に作曲された5つの楽章からなる管弦楽曲で、バルトーク晩年の傑作である。バルトークの作品は、往々にして、難解であるか、あるいは民族色が濃く反映され、誰もが気楽に楽しめるといった大衆性が薄い作品が少なくない。ところが、この晩年の傑作である管弦楽のための協奏曲は、バルトーク独特のリズム感を失わず、しかも誰が聴いても親しみやすいメロディーが散りばめられ、しかもオーケストラの持つダイナミックスさを存分に発揮させるので、多くの愛好者を持っている曲なのである。この曲は、1943年当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキー(1874年―1951年)が、クーセヴィツキー財団からの委嘱としてバルトークに作曲を依頼し、完成した作品。バルトークは、1940年10月にアメリカへ亡命した。理由は、祖国ハンガリーが、ナチによって占領されたため。しかし、アメリカに渡ったバルトークを待ち受けていたのは、評論家や聴衆の自身の曲への無理解だった。収入もわずかで、そこへもってきて、白血病という不治の病に罹ってしまう。当時、バルトークは、友人に「わたしの作曲家としての生涯は、もう終わったも同然です」と手紙を出すほど切羽詰った状況に陥っていた。そんな中、突然アメリカ作曲家協会が入院費用を出すことになり、バルトークは、ニューヨーク北部のサラナック湖畔で療養生活を送ることになる。その時、クーセヴィッキーがバルトークの許を訪れ、作曲の依頼と同時に500ドルの前金を置いて行ったのだ。不幸続きだったバルトークにもようやく救いの手が差し伸べられ、バルトークも作曲意欲が復活し、ようやくアメリカ亡命の最初の作品とした完成した。初演は、1944年12月1日にボストンで行われ、成功を収めことができた。この曲が今に至るまで、人気を誇っている理由の一つは、曲想が親しみやすいのと同時に、亡命という精神的な苦痛に見舞われ、しかも白血病という大病に蝕まれた肉体を克服した、その強靭な精神性が背景を貫いていることがあろう。このレコードは、フェレンツ・フリッチャイ(1914年―1963年)指揮ベルリン放送交響楽団の演奏だ。強靭なリズム感に加え、華やかなオーケストラの饗宴ともいえる雰囲気を、フリチャイは巧みに演出し尽くす。特に、自己への集中力を最大限に高め、オケを統率するフリッチャイの指揮者としての力量は図抜けているとしか言いようがない。(LPC)