★クラシック音楽LPレコードファン倶楽部(LPC)★ クラシック音楽研究者 蔵 志津久

嘗てのクラシック音楽の名演奏家達の貴重な演奏がぎっしりと収録されたLPレコードから私の愛聴盤を紹介します。

◇クラシック音楽LP◇ジャン・マルティノン指揮ウィーン・フィルのチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2024-04-29 09:52:40 | 交響曲(チャイコフスキー)

 

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

指揮:ジャン・マルティノン

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

発売:1977年

LP:キングレコード GT 9099

 ウィーン・フィルは、どうもチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」の録音は、昔からあまりしていなかったようだが、今回のLPレコードは、この曲の録音の中でも最も優れたものとして、現在でも光彩を放っている一枚だ。ウィーン・フィルの年間の演奏曲目で、多分、チャイコフスキーの曲が取り上げられる回数は少ないのではないか。どことなくウィーンとチャイコフスキーとは相性がいいとは言えないように思う。チャイコフスキーの曲は、何処かにうら悲しさがあり、ロシアの土着の暗い雰囲気がついて回るのだ。一方、ウィーンと言えばウィンナーワルツを直ぐに連想するように、粋で陽気で貴族的雰囲気を漂わす。だから、チャイコフスキーの曲の指揮には、ムラヴィンスキーなどの雰囲気がぴたりと当て嵌まる。今回のLPレコードの指揮者のジャン・マルティノン(1910年―1975年)は、生粋のフランス人である。パリ音楽院で学び、ヴァイオリン科を1等で卒業し、シャルル・ミュンシュに就いて指揮法を学んだ。第2次世界大戦後、ラムルー管弦楽団常任指揮者、1962年シカゴ交響楽団常任指揮者に就くなど、ミュンシュ亡き後のフランスの名指揮者として世界にその名を轟かした。そんなマルティノンが、ウィーン・フィルを指揮してチャイコフスキーの「悲愴」を演奏するとどうなるのか。その答えはこのLPレコードにある。結論を言うと、これまで聴いたことが無いような、優雅であると同時に、隅々まで目の届いた、限りなくシンフォニックな色彩を帯びた「悲愴」を描き出すことにマルティノン指揮ウィーン・フィルは、ものの見事に成功したのである。それまではチャイコフスキーの「悲愴」が、こんなにも詩的で、色彩感溢れた交響曲であるということに、誰も気づいていなかったのではないかと思う。その意味から、マルティノン&ウィーン・フィルの遺したこのLPレコードは、チャイコフスキーの「悲愴」演奏史上、今後もその輝きを失うことはないであろう。チャイコフスキーは、周りの人々に「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と語るほどの自信作だったという。1893年10月16日に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演された。その9日後、チャイコフスキーはコレラが原因で急死しまう。同年11月18日に行われたチャイコフスキーの追悼演奏会では、作曲家の急逝を悼む聴衆の嗚咽で満たされたそうだ。 (LPC)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇クラシック音楽LP◇レオポルド・ウラッハのブラームス:クラリネットソナタ第1番/第2番

2024-04-25 09:36:40 | 室内楽曲

 

ブラームス:クラリネットソナタ第1番/第2番

クラリネット:レオポルド・ウラッハ

ピアノ:イェルク・デムス

LP:東芝EMI IWB‐60005

 ブラームスは、最晩年になってクラリネットの作曲を始め、クラリネット三重奏曲、クラリネット五重奏曲に続き、今回のLPレコードに収められたクラリネットソナタ第1番と第2番の2曲を完成させた。何故、急にクラリネットの曲を書くことに目覚めたかというと、リヒャルト・ミュールフェルト(1856年―1907年)というクラリネットの名手と知り合い、彼の演奏に魅了されたためと言われている。具体的な作曲は1894年から開始され、この2曲が相次ぎ完成した。このためこの2つのクラリネットソナタは、双子のような性格を持っていることが、聴き始めると直ぐに分る。初演は1895年で、ミュールフェルトのクラリネット、ブラームスのピアノによって行われたという。この作品は、ブラームスの最後のソナタ作品となった。クラリネットの代わりにヴィオラあるいはヴァイオリンで奏されることもある。この2曲のクラリネットソナタを聴くと、老人が遥か昔を偲んで物思いに耽るような感覚が強く滲み出しており、聴けば聴くほど味のある曲であることが分る。何か諦観の面持ちさえ聴いて取れる。この意味で、私などは西洋音楽というより、どちらかと言うとブラームスが東洋的な神秘の世界に踏み込んで作曲したのではないかとさえ考えてしまう。現に、ブラームスは、世界の民俗音楽に深い興味を持っていたようで、琴の六段の演奏を実演で聴き、採譜をした記録が残っているほど。このLPレコードでクラリネットを演奏しているレオポルト・ウラッハ(1902年―1956年)は、オーストリア出身のクラリネット奏者。ウィーンで生まれ、1928年からウィーン国立歌劇場およびウィーン・フィルの首席奏者、ウィーン・フィル管楽器アンサンブルの主宰を務め、ウィーン・フィルの最盛期を支えた一人。その音色は、ビロードのような滑らかさで奥が深い。ウラッハの奏でる夢幻のようなクラリネットの音色を聴いていると、これが古き良きウィーンの響きなのかという思い至る。多分、ブラームスが魅了されたミュールフェルトの音色も、ウラッハのそれに近かったのではなかろうかという思いに至る。ピアノ伴奏のイェルク・デムス(1928年―2019年)もウィーン出身で、日本ではパウル・バドゥラ=スコダとフリードリヒ・グルダとともに“ウィーン三羽烏”と呼ばれていた。ここでは、ウラッハに寄り添うように演奏して、見事な出来栄えを聴かせてくれている。(LPC)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇クラシック音楽LP◇ルドルフ・ゼルキンのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番/第2番

2024-04-22 09:51:09 | 協奏曲(ピアノ)

 

 

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番/第2番

ピアノ:ルドルフ・ゼルキン

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団

録音:1965年1月14日

LP:CBS/SONY 18AC 747

 ベートーヴェンは、全部で5曲のピアノ協奏曲を遺しているが、この中で第3番、第4番、第5番が有名であり、演奏会でもしばしば取り上げられている。それらに対し、このLPレコードに収録されている第1番と第2番は、人気の点でもイマイチであり、演奏会でもそう取り上げられることも無い。どちらかというと日陰の存在の曲とでも言ったらいいのであろうか。ところが、改めてこの2曲をじっくりと聴いてみると、何故人気が無いのかわからいほど、内容が充実しており、何よりも若き日のベートーヴェンの心意気がストレートにリスナーに伝わってきて、聴いていてその良さがじわじわと感じられるのが何よりもいい。このことは、宇野功芳氏も「新版 クラシックCDの名盤」(文春新書)の中で、「たしかにベートーヴェンの個性は第3番で花開いているが、魅力の点では第1番、第2番の方が上だと思う」と書いていることでも分ろう。作曲されたのは第2番が最初で、その後に第1番がつくられたと言われているが、曲の雰囲気は2曲とも似ており、いずれもモーツァルトのピアノ協奏曲を彷彿とさせるようなところがベースとなり、その中に後年のベートーヴェンを思わせるような、強固な意志の強さが各所で顔を覗かせる。つまり、モーツァルトのピアノ協奏曲が典雅な趣と憂愁の美学に貫かれているのに対し、このベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と第2番は、その上にさらに男性的な強固な意思の力強さが全体を覆う。このLPレコードで演奏しているルドルフ・ゼルキン(1903年―1991年)は、そんな2曲のピアノ協奏曲を演奏するのに、これ以上のピアニストはあり得ないとでも言ってもいいような充実した演奏を披露している。あくまで背筋をぴんと伸ばしたような演奏であり、新即物的表現に徹し、決して情緒に溺れずに、ベートーヴェンの持つ力強さを余すところ無く表現し切っている。ユージン・オーマンディ(1899年―1985年)指揮フィラデルフィア管弦楽団も、メリハリの利いた伴奏でこれに応える。この2曲を聴き終えて、久しぶりに若き日のベートーヴェンの世界を、思う存分満喫することができた。ルドルフ・ゼルキンは、ボヘミアのエーゲル(ヘプ)出身。1915年、12歳でウィーン交響楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を共演してデビュー。1939年、アメリカに移住、カーティス音楽院で教鞭をとる。1951年、マールボロ音楽学校と同音楽祭を創設した。(LPC)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇クラシック音楽LP◇夭折した名テノール:ヴンダーリッヒのシューベルト:歌曲集「美しき水車小屋の娘」

2024-04-18 09:38:08 | 歌曲(男声)

シューベルト:歌曲集「美しき水車小屋の娘」

テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ

ピアノ:フーベルト・ギーゼン

録音:1966年7月2日―5日、科学アカデミー

LP:ポリドール(ドイツ・グラモフォン) 2544 093

 このLPレコードで歌う、当時、一世を風靡した名リリック・テノールのフリッツ・ヴンダーリッヒ(1930年―1966年)は、36歳という若さでこの世を去った。この死は病死ではなく、1966年9月17日に階段から転落した際に、頭部を打ったことが原因で急死した事故によるものものだったのだ。当時ヴンダーリッヒが所属していたミュンヘンのバイエルン国立歌劇場総監督のハルトマンは、「オペラ芸術にとって最大の損失」と語り、また、名バリトンのフィッシャー=ディースカウ(1925年―2012年)も、ヴンダーリッヒの卓越した才能を称え、「限りない衝撃であり悲しみである」と、その突然の死に対して、最大限の弔辞を捧げている。ヴンダーリッヒは、それほど多くに人達から将来を嘱望されていた歌手であったのだ。このLPレコードの記録によると、「録音は、1966年7月2日~5日、科学アカデミーにおいて行われた」と記されているので、ヴンダーリッヒの死の2カ月ほど前ということになる。その意味ではヴンダーリッヒの最後の歌声を後世に残すことになる大変貴重な録音なのだ。ヴンダーリッヒが世界的に注目されたのは、1950年代の後半からで、それ以後ミュンヘンを中心に世界的な活躍を展開するが、それも僅か10年足らずで途絶えてしまうことになる。リリック・テノールという言葉通り、ヴンダーリッヒは、限りなく美しい声の持ち主であり、現在、果たして同じような声の持ち主が居るかと問われると、返答に窮するほどである。そんな不世出の美声の持ち主であるヴンダーリッヒの歌った、このシューベルト:歌曲集「美しき水車小屋の娘」は、絶品というほかない仕上がりとなっている。限りなく伸びやかなテノールの独特の輝きに満ちた歌声が、リスナーを夢心地に誘う。歌劇が得意らしかったことは、その語り掛けるような歌唱法からも読み取れる。シューベルト:歌曲集「美しき水車小屋の娘」は、正にヴンダーリッヒのために作曲されたのではないか、という思いにさせられるほどの名録音なのだ。フリッツ・ヴンダーリッヒは、ドイツ出身。1950年から55年にかけて、フライブルク音楽大学において、初めにホルンを、後に声楽を学んだ。シュトゥットガルト州立歌劇場、ミュンヘンのバイエルン州立歌劇場で活躍。1959年以降はザルツブルク音楽祭に定期的に出演。1966年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場デビューを数日後に控え、死去。(LPC) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇クラシック音楽LP◇アイザック・スターンのシベリウス:ヴァイオリン協奏曲/ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

2024-04-15 09:50:23 | 協奏曲(ヴァイオリン)

 

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

ヴァイオリン:アイザック・スターン

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィアデルフィア管弦楽団

LP:CBS・ソニーレコード SOCL 48

 シベリウスのヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47は、1903年に作曲されたが、1905年に改訂され、これが現行版となっている。この曲は、難技巧を随所に取り入れており、演奏は容易ではない。一方、ブルッフのヴァイオリン協奏曲 第1番 ト短調 作品26は、ブルッフの代表作。この2曲のヴァイオリン協奏曲を弾いているのが名ヴァイオリニストのアイザック・スターン(1920年―2001年)。アイザック・スターンの名を見つけると、私は必ず映画「ミュージック・オブ・ハート」を思い出す。メリル・ストリープ演じる女性の音楽教師が、スラム街の学校に通う子供達に悪戦苦闘しながらヴァイオリンを教え込み、最後には地域の支持を獲得することに成功、お別れの発表会をカーネギー・ホールで行うという実話に基づいたストーリーである。このカーネギー・ホールのシーンでアイザック・スターン自身が登場し、子供達と一緒に演奏をするのである。暖かい人柄が滲み出て、何回見ても飽きない。そのアイザック・スターンがシベリウスとブルッフのヴァイオリン協奏曲を弾いたのがこのLPレコードである。両曲の演奏とも、ヴァイオリンの音色が限りなく豊かなことに驚かされる。決して気負うことなく、大きな広がりの中でヴァイオリンが伸び伸びと動き回り、訴えるように演奏する。演奏内容自体に深みがあり、リスナーはその中に身も心も吸い込まれそうに感じる。包容力のある演奏とでも言ったらよいのであろうか。現在、アイザック・スターンのようにスケールの大きく、同時にロマンの心を持ったヴァイオリニストはいるだろうか。いや、いまい。これはアイザック・スターンだけが成し得た至芸といっても過言でなかろう。ユージン・オーマンディ指揮フィアデルフィア管弦楽団の伴奏もスケールが大きく申し分ない。ヴァイオリンのアイザック・スターンは、ウクライナ出身。その後米国へ移住。1936年モントゥー指揮のサンフランシスコ交響楽団と共演して、デビュー。第二次大戦後、度々日本を訪れ、小澤征爾など日本の演奏家とも親交を持つ。新進演奏家の擁護者としても知られ、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマン、シュロモ・ミンツなどと共演を重ねた。1960年には、カーネギー・ホールが解体の危機に見舞われた際、救済活動に立ち上がった。1996年第1回「宮崎国際音楽祭」では、初代音楽監督に就任。これらの貢献により日本国政府より勲三等旭日中綬章が授与された。(LPC)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする