モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番
ピアノソナタ第8番
バッハ:パルティータ第1番
ピアノ:ディヌ・リパッティ
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ルツェルン音楽祭管弦楽団
LP:東芝音楽工業 AB‐8048
これは、僅か33歳でこの世を去った天才ピアニストのディヌ・リパッティ(1917年―1950年)を偲ぶLPレコードである。リパッティの特徴である、演奏が純粋な美しさに溢れ、あたかも天上の音楽を奏でるが如く、しかも、それらが常に背筋をぴーんと伸ばしたような構成美に貫かれた演奏を聴いていると、“不世出の天才ピアニスト”という言葉が自然と脳裏に浮かび上がる。もうこんなピアニストは出現しないのかもしれない。その意味でリパッティの遺した録音は、“人類の宝”と言っても決して言いすぎでないほど価値のあるものだ。リパッティは、ルーマニアのブカレストで、両親がともに音楽家という家庭に生まれた。名付け親は、あのルーマニア出身の世界的なヴァイオリニストであったジョルジュ・エネスク(1881年―1955年)であったというから、生まれながらにその将来が約束されていたのかもしれない。1934年、16歳になったリパッティは、ウィーンで開催された国際ピアノコンクールに出場し第2位に入賞したが、この時審査員をしていたコルトーはリパッティが首位でないことに抗議をし、審査員の座を下りてしまった。その後、コルトーはパリにリパッティを呼び、直接指導することとなる。さらに、リパッティは、有名なナディア・ブーランジェ女史(1887年―1979年)に師事。そして、19歳になった時、コンサート・ピアニストとしての活躍を始め、ヨーロッパ各国で高い評価を得るようになるのである。しかし、第二次世界大戦の戦火が激しくなり、スイスのジュネーブへと旅立つことになる。以後、リパッティの名声は世界的なものとなって行く。しかし、この頃、白血病の病魔がリパッティを襲い始め、1950年9月のブサンソン音楽祭で行ったの最後の演奏会となり、同年の12月2日にこの世を去ってしまう。プーランクはリパッティのことを「神のような精神を持った芸術家」と評したという。このLPレコードは、そんなリパッティにぴったりの3曲が1枚に収録されている。モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番では、天衣無縫のモーツァルトの世界を鮮やかなテクニックで弾きこなす。カラヤン指揮ルツェルン音楽祭管弦楽団も、奥深い伴奏でリパッティを盛り上げている。モーツァルト:ピアノソナタ第8番では、モーツァルトの悲しみの疾走を、ものの見事に再現する。技巧的に優れているが、決して技巧だけに終わらずに、深い精神性を備えた演奏を聴かせてくれる。最後のバッハ:パルティータ第1番は、リパッティのバッハへの深い敬愛が滲み出た演奏内容であり、何か信仰にも似た雰囲気を漂わす。いずれも、これらの曲の代表的名演と言える。(LPC)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/第24番
ピアノ:ワルター・ギーゼキング
指揮:ハンス・ロスバウト(第20番)/ヘルベルト・フォン・カラヤン(第24番)
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
LP:東芝音楽工業 AB‐8064
ワルター・ギーゼキング(1895年―1956年)は、ドイツの名ピアニスト。全盛時代は、楽譜に忠実に演奏する“新即物主義”のピアニストとして名声を博した。今、ギーゼキングのLPレコードを聴くと、特別な弾き方だとは感じられないが、当時は、ロマン派の名残であろうか、ピアニストの興の赴くまま、恣意的な演奏が普通であったようで、楽譜に忠実に演奏する“新即物主義”のピアニストは、珍しい存在であったのだ。しかし、ギーゼキングが“新即物主義”のピアニストだからといって、技巧一辺倒の機械的な演奏家かというと、実はその真逆で、微妙に揺れ動くピアノタッチによって、ロマンの香りが濃く立ち込める演奏を我々に披露する。その証拠がこのLPレコードには隠されている。モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/第24番の共に第2楽章を聴いてみると一目瞭然。こんなにモーツァルトの作品から、馥郁とした優雅さ、そして、さり気ない憂愁の美を引き出せるピアニストは、今に至るまで果たしてギーゼキング以外にいるのかとすら思ってしまうほどの名演だ。2曲とも、その他の楽章は、ギーゼキングの卓越した技巧で、軽快なテンポの中に、実にすっきりとした造形美を持った曲として聴くことができる。その結果、聴き終えた印象は、第2楽章とその前後の楽章の対比が実に鮮やかな対比を見せ、モーツァルトのピアノ協奏曲の演奏にありがちな、平板さは、ギーゼキングの演奏には少しもない。このLPレコードのライナーノートに大井 健氏がギーゼキングの演奏を、次のように書いているので紹介しよう。「テクニックを磨くものは、“頭脳”であると言い切ったギーゼキングは、どんな至難なテクニックでも、純粋な音楽に、知性的に変化させ、完全なものに高めてしまう。モーツァルトに聴かれる美しいレガート、弱音の見事な美しさ、これらは、ギーゼキングの非凡な技巧のたまものであるが、『キーをたたけばピアノは歌わない』と言って、彼は指がキーにふれた瞬間、キーを押えて指を離す、という至難なテクニックを自ら切り開いて行った。ギーゼキングのモーツァルトに対する確かなリズム、優雅さは、モーツァルトの美を支えて、永遠に遺る名演である」。指揮のハンス・ロスバウト(1895年―1962年)はオーストリア出身。1929年に新設のフランクフルト放送交響楽団の音楽監督に就任し、シェーンベルクやバルトーク、ストラヴィンスキー、ヒンデミットなど現代音楽作品の指揮で有名であった。第二次関大戦後は、 ミュンヘン・フィルやチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の指揮者として活躍した。(LPC)
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第4番
フォーレ:ピアノと管弦楽のためのバラード
前奏曲より第1番/第3番/第5番
ピアノ:ロベール・カザドシュ
指揮:レナード・バーンスタイン
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1961年10月30日/12月14日、ニューヨーク
発売:1978年
LP:CBS/SONY 13AC 400
このLPレコードは、フランスを代表する作曲家サン=サーンスとフォーレの曲を、フランスの名ピアニストであったロベール・カザドシュ(1899年―1972年)が演奏し、フランスの香りが馥郁とするところが魅力となっている。カサドシュは、パリ音楽院で学び、1913年に首席で卒業。以後、世界を舞台に演奏活動を行う。ギャビー夫人と息子ジャンとの共演により、モーツァルトの「2台ピアノのための協奏曲」や「3台ピアノのための協奏曲」のLPレコードも遺されている。かつて、パリ音楽院やエコール・ノルマルからは、アルフレッド・コルトー、マルグリット・ロン、イブ・ナット、サンソン・フランソワ、ディヌ・リパッティそしてロベール・カザドシュと、“フランス・ピアノ楽派”とでも言える一連の優れたピアニストを輩出し続けた。ロベール・カザドシュは、この“フランス・ピアノ楽派”の最後を飾る大ピアニストであったのだ。その演奏は、フランス音楽の粋を徹底して極めたもので、デリケートであり、抒情味溢れたもので、しかも透明感が際立っていた。少しも無骨なところは無く、印象派の絵画を思わせるような、全体に光が散りばめられたような演奏内容は、一度聴くと忘れられない。ただ、演奏スタイルそのものは、古典的でオーソドックスなもので、この意味では、今聴くと一種の古さを感じるかもしれない。しかし、それを上回る優雅さや品のよさは、今聴いても万人を納得させる説得力を持っている。サン=サーンスは、全部で5曲のピアノ協奏曲を作曲したが、ピアノ協奏曲第4番は、サン=サーンスが作曲家として最も充実した時期に書かれた作品。2楽章構成で、さらに各楽章が2つの部分に分かれた構成を取っている。次のフォーレ:ピアノと管弦楽のためのバラードは、オリジナルは1880年に出版されたピアノ曲で、翌年フォーレの手によって管弦楽を伴う形に編曲された。最後のフォーレ:前奏曲は、全部で9つある曲から第1番、第3番、第5番が録音されている。フォーレの前奏曲は、あまり知られた曲ではないが、コルトーは「苦も無く千変万化するピアノの多様性で人の心を奪う」と高く評価している。これら3曲を演奏するロベール・カザドシュは、その持ち味である正統的で端正な切り口を持った演奏を存分に聴かせる。あたかも抒情詩を朗読でもするかのように、一つ一つ味わうように演奏するすスタイルは、今ではほとんど聴くことができないものだけに、貴重な録音である。バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの伴奏も深みがあって聴き応え充分。(LPC)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
ピアノ:ワルター・ギーゼキング
指揮:グィード・カンテルリ
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1956年3月25日、ニューヨーク(ライヴ録音)
発売:1980年
LP:キングレコード(Cetra) SLF 5013
このLPレコードは、1956年3月25日にニューヨークで開催されたコンサートのライヴ録音である。ピアノはドイツ出身の巨匠ワルター・ギーゼキング(1895年―1956年)、指揮はイタリア出身で35歳の若さで飛行機事故で亡くなったトスカニーニの後継者と目されていた天才指揮者グィード・カンテルリ(1920年―1956年)、そして、管弦楽はニューヨーク・フィルハーモニックという、当時考え得る最高の演奏家達による演奏で、しかも、曲目はベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。これだけを見ても、目も眩みそうな組み合わせの演奏であるが、しかもライヴ録音というから凄い。音質も当時のライヴ録音としては上出来な部類に入るもので、現在でも充分に鑑賞に耐え得る。こんな豪華なコンサートであったが、その直後に、大きな悲劇が待ち受けていたなどということは、当日のコンサートの演奏に酔いしれた聴衆は誰ひとり予想もしなかったであろう。何と、ギーゼキングは、このコンサートの直後に、交通事故に遭い、同乗の夫人を失うととともに、自身も怪我をし、1956年11月26日に世を去ってしまう。一方、指揮者のグィード・カンテルリは、1956年11月24日、飛行機事故のため、パリのオルリー飛行場付近で35歳という短い生涯を終えることになる。つまり、カンテルリが飛行機事故で死んだ2日後に、ギーゼキングが交通事故のためこの世を去ってしまったのだ。これは、単なる偶然なのであろうか。あたかも、神が死ぬ前に、2人をコンサートで共演させたかのようにも感じられるほどである。ギーゼキングは、すでに当時、新即物主義のピアニストとして、その右に出るものはいないという巨匠中の巨匠であった。新即物主義というのは楽譜に忠実に演奏するスタイルであり、当時、ロマン主義で恣意的に演奏されていたピアノ演奏法をギーゼキングが根底から覆してしまったのだ。この流れは脈々と現在まで受け継がれている。ギーゼキングは、「皇帝」の録音をこのほか2つ遺しているが、いずれもスタジオ録音盤。トスカニーニは、「カンテルリが自分と同じような指揮をする」と言ってNBC交響楽団の副指揮者として招き、1956年には、スカラ座の音楽監督に指名した。このLPレコードで、ギーゼキングは、ライブ録音でしか聴けないような即興的な背筋のぴーんと張った迫力あるピアノ演奏を聴かせる。一方、カンテルリの指揮は、ギーゼキングに一歩も引かず、如何にもベートーヴェンの曲だと納得させられる、構成力のある伴奏が見事である。(LPC)
シューマン:ピアノ協奏曲
子供の情景
アベッグ変奏曲
ピアノ:クララ・ハスキル
指揮:ウイレム・ヴァン・オッテルロー
管弦楽:ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団
LP:日本ビクター(PHILIPS) SFL‐7924
このLPレコードのA面に収められたシューマンのピアノ協奏曲は、5年という長い月日を掛けて完成された。この協奏曲の第1楽章は、シューマンが31歳のとき「ピアノと管弦楽のための幻想曲」として作曲され、その後、2つの楽章が書き加えられ完成したもの。しかし、聴いてみると3つの楽章には統一感があり、一気に書かれた曲のような印象を持っている。シューマンは、ピアノ協奏曲を作曲するに当たり、名人風の協奏曲を狙ったのではなく、「交響曲と協奏曲と大きなソナタとを混ぜ合わせたような曲」づくりを目指したという。この曲の初演は、シューマン夫人のクララ・シューマンがピアノを独奏し、1845年にドレスデンで行われた。一方、B面に収められた「子供の情景」は、1838年、シューマンが28歳の時に作曲されたピアノ独奏曲。30曲ほど作曲した中から、13曲を選んで「子供の情景」という名前が付けられた。演奏上難しい技巧は必要としない代わり、夢や幻想などの雰囲気を内包した演奏内容でなければ、この曲集の真に意図するものを的確に表現することは到底出来ない。最期の「アベッグ変奏曲」は、1830年、シューマンが20歳の時に書かれたピアノ独奏曲。当時シューマンはハイデルベルグ大学で法律の勉強をしていたが、学友の一人に恋人がいて、その名をメタ・アベッグと言った。シューマンは、このアベッグの姓を音に当て嵌め、イ(A)、変ロ(B)、ホ(E)、ト(G)、ト(G)の5音を主題にして一つの変奏曲をつくり上げた。これがアベッグ変奏曲である。法律の勉強をそっちのけで音楽の勉強ばかりに没頭していた、如何にもシューマンらしい作曲の由来だ。これらのシューマンのピアノ曲をこのLPレコードで弾いているのがルーマニア出身の名ピアニストのクララ・ハスキル(1895年―1960年)である。ハスキルは当時、「モーツァルトの生まれ変わりのように演奏する」と言われていたが、その純粋で情念のこもった演奏は、シューマンのロマンの世界をつくりだすことでも突出した存在であった。このLPレコードでの演奏内容は、いずれの曲もシューマンの持つロマンの薫り高い世界を十全に描き切って、実に見事な出来栄えを披露している。一瞬、時間が止まったような、抒情の世界にリスナーを誘ってくれて、気分が安らぐ。ハスキルのような”夢”を演出してくれるピアニストは、貴重な存在だった。(LPC)