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今週の一番:5月第3週:お茶にごす 第99服 距離

2009年05月29日 | マンガ
【5月第3週:お茶にごす 第99服 距離】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10411.html#586

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



LD >> 雲水だけベンチに居ないんですよねえ…。ふむ。
ルイ >> 王佐を否定してるような格好ですかね。分はある!と賢い事を悟る前に、まず想いっきり前出て恥さらせって言ってるわけですよね。その役目を担ったのが葉柱ルイで。
LD >> 王佐を否定してる>そう。それを思いました。その考えでいいから、食らいついてでも阿含の横にいてやれよと。…阿含が残る事で必要な事で犠牲になるのはアリだと思う。それなら、泰然と観客席でゲームを観れるし、阿含がだらしなかったら叱責しにも行ける。
ルイ >> ああ、LDさんの指摘、てにをはが何かヘンだから読みにくいけどw素晴らしいw 王佐の階級・・・真の王佐ではない、という事になるのかもしれませんね。稲垣先生はあまりその意識はないように思うけれど、雲水の立場・視点で見ると自然そういう物語になる。代表をもぐりこんででも掴みとって、阿含の1番近くでサポートしてみせろ、ハジかいてでも、という物語。

高校アメリカンフットボール・マンガ「アイシールド21」の第329話において、天才プレイヤー・阿含の兄・雲水は、自分の凡才を自覚してワールドカップ・ユース大会の舞台に昇らず、弟の阿含がその場に立つことで満足してしまった。しかし、その後、どんなにみっともなくても舞台に立つ事を選んだ葉柱ルイを観て、自分に後悔し嘆くシーンについて語っています。
う~んw…うちは「王佐」とか「王」とか、あるいは「覇」とか、どうも変な「言葉」を持ってきてしまう癖があって、あれなんですがw(汗)今回そこらへんの説明は、またの機会にするとして……“この場”で「王佐」を言い換えるとしたら「脇役となる覚悟」と言えるかなと思います。

僕は(ルイさんもそうでしょけど)雲水は、阿含の為に生きていいと思っています。そして劇中で雲水が言われたように、自分の才能を見切る事は間違ってはいない。(…これは劇中において皮肉となって返って来ていますが)…でも、それと“無為に過ごす”事は別だと思う。…分かりやすく“あきらめる”事は別だと思う…と言いたかったんですが、どうもそれだと「じゃあ、阿含を超える事もあきらめるなよ?」という指摘に取り込まれちゃいそうに思ったので変えました(汗)まあ、ちょっと人間の選択や判断…あるいは「覚悟」を、単純に“あきらめる”と“あきらめない”の二元論にのみ落とし込んで語る人には伝わりづらい話かもしれません。

とまれ、雲水は自分は阿含に才能で勝てる事はない、阿含の方が先にいける人間だと判断しました。それ自体は、この「南無あきらめるな経」大合唱の世の中wで立派…とも言えるかも知れないし、まあ単に“だらけて”そう思ってしまった…という事もあるかもしれませんwそれは判断した“この時点”では分からない事なんですよね。つまり、その人間の価値は“ここ”では決まらない。それは、そういう判断、選択をした後に“無為に過ごさざるか?否か?”が決める事なんです。そして雲水は「阿含の脇役」となる事を決めた。それは決して無為な生き方ではなかったと思うのに、最後の最後に来てその生き方に徹する事ができなかった。雲水の心象はどうであれ、彼はここに来て「阿含の脇役」という演目を“だらけた”のだと思います。

…と、いうのが「雲水の物語」だと思うんですけどね(汗)どうも、本編を読むと、そもそも阿含に譲ろう(凡人の俺はトップに立てなくていい)と思った事が失敗…のような文脈で語られているように思えます(汗)ただ、まあ、そうだとしても僕やルイさんは、それは真の「王佐」では無かったから…という受け止め方になるんですけどね。(ね?)
そして、この位相の違いは、少年ジャンプという子供が読むマンガ誌上において、正しくもあります。子供は自分の実力が(成長を含めて)分からないから子供なのであって、その実力を知らしめる為にも、まず一般論として“あきらめ”させちゃなんないってのがありますから。……そこらへんは、歳を経て次第に世界の観方や、考え方も成長させて行くのが健全なんでしょうね。…まあ、勧んでマンガが人間形成を担うって話をしたいワケでもないんで、ここらへんで止めますがw


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1 コメント

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ね? (ルイ)
2009-05-31 03:59:46
>(ね?)
そ、そう思っていますが・・・w
指摘されているように、

>どうも、本編を読むと、そもそも阿含に譲ろう(凡人の俺はトップに立てなくていい)と思った事が失敗…のような文脈で語られているように思えます(汗)

ここが微妙なところなんですよね。

翌週で語られたテーマもやはりこの指摘に沿っていて、「トップに立てるか立てないかじゃない、登りたいから登るんだ!」という話になっている。その事自体は少年漫画として間違っているとは思いませんし、寧ろ「届かない」という自覚を持たせた上で登らせるセナの覚悟は、少年読者を1つ上のステージに進めるような美すらあると思っています。

…ただそうすると、雲水はどう捉えればいいのか。で、少し考えた結果

『ここで涙を流す雲水なら、雲水はフィールドを目指していなければいけなかった』

そう考える事にしました。チャットの時と同じような言い回しですが、涙への着目が少し深まっています。「1番」の時は終始「王佐」視点で話していたので、フィールドを目指して、阿含の横に立つ事を怠るな!という視点でも語っていたと思うんですが(「なまけ」という言葉のセレクトもその印象が通じているからだと思います)その辺雲水の意識を一本化せず、もう1つの線を強く意識した方が良いのだろうと。それはプレイヤーとしての個人・雲水。

雲水がかつて選んだ、阿含を押し上げるという道。それ自体は1つのれっきとした道だと思いますし、その是非を問うてはいないのだろう。ではここで号泣する雲水は何かというと、真の意味で「阿含を押し上げる事」に徹していなかった、という事実が鉄面皮を破って明らかになったのではないか?という事です。それを証明しているのが、この涙そのもの。プレイヤーとしての金剛雲水を、言葉は悪いですけど自らが「完全に見限っていたら」、ここで号泣はしなかったと思うんです。「フィールドでもサポートはできたじゃないか!」という感覚ではなくて…葉柱ルイを見て感じたという事は、素直にいちフィールドプレイヤーとしての葛藤なのだろうと。

その諦めの涙を今便宜上、というか明らかにワザとらしく「true tear」と呼びますけど(笑)雲水が本当の意味で1つの選択として阿含の徹底サポートをするんです、それでいいんです!と生きているなら、この涙は既に流しているハズのものだったのではないか。しかしことここに至って涙が出るということは、LDさんの表現を借りるならサポーターとしてというよりは「フィールドプレイヤーとしての限界を突き詰める事に、“なまけた”のではないか」…そういうことだと考えると、王佐それ自体を否定する形ではなく、雲水のテーマも「アイシールド」に溶け込むんだろうなと思いました。

おっさん顔ですけど雲水も若いですしねwまずはプレイヤーを突き詰めてこの涙を流した時、次に見えてくる選択だったのではないか、と…ただ、中学時代の雲水の回想を見るにストイックなまでに雲水はフィールドプレイヤーとしての自分を見つめていて、その上で諦め、新たなな道を見つけたようにも思うので…ちょっと酷な指摘とも思うんですけど、ね。この辺少年スポーツ漫画としてのバランスですよねえ。
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