【メタキャラクター】
【8月第1週:バチバチ 第62話/無駄…!?】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10475.html#653
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/
最近、『メタキャラクター』についての思考を巡らせていて…微妙にルイさんに誂われている気がしないでもないですがw(´・ω・`)構わず行きます。…ただ、ちょっと思考の方針というか外郭は何となく見えてきたので、ちょっとここでまとめておこうと思います。
元々はオフ会やネットラジオなんかで話していた『うみねこのなく頃に』や『化物語』の話題(※ここらへんも文字起こしして記事にしないとなあ…ちょっと今細かく語ると長くなり過ぎるので省略します)で出てきた『メタキャラクター』という考え方に、直感的に、面白さを感じて色々思索していたんですが……どうもこれは『情報圧縮論』の次のステップの話になってくるのかな?と現状感じています。…『情報圧縮論』の話も語ると長くなりますね。今回は走り書きのつもりなので、やはり省略します。(興味のある方はブログ内を検索してみてください)いずれ、もっと明確にリンクさせて語ることができたらいいなと思います。
一応、twitterでの『メタキャラクター』に関するメモ書きをtogetterにまとめていて非公開にしていたんですが解除して置いておきます。メタキャラクター自体はずっと古来(?)から存在していて、ただ、大抵は作者のおふざけ止まりで描かれていたと思います。これをもっと物語構造の中核に組み込んで行くとどうなるか…?という方向でつぶやいています。
【メタキャラクター・メモ】
http://togetter.com/li/42956
たとえば僕はこっち(↓)で「死亡フラグ」は、「情報圧縮」の最も完成された形態の一つだと思っています。セリフ一つが凄く昇華されて「物語」にまで達しているんですよね。と言った話をしているワケですが…
【「情報圧縮論」と「死亡フラグ」の話
http://togetter.com/li/24899
同時に、その死亡フラグを外す、ひいてはあらゆるフラグを外す(躱す)『フラグ外し』の話もしています。(『フラグ外し』って情報圧縮の次のステップの話ですよね)それは言ってしまえば「明日結婚するとつぶやいた人は程なく死んでしまう…なんて法則は本来(物理的にも物語的にも)どこにもないよね?」という話に立ち返る事を意味しますが、死亡フラグが存在する事を知った上でそれをするのは“近メタ的な行動”になってくると思います。
「おれ、この戦いが終わったら結婚するんだ…」とつぶやいた兵士がそのまま戦って、そのまま生き残る。…え?じゃあ何でそんな話したの?と言うわけでもありませんがw「ああ、結婚するから何としてでも生き残ろうとして、そして生き残れたんだね、よかったね」と思えばいいのかもしれませんがw“フラグ”の存在を知っていて置かれた演出なら、それはかなりメタ的な演出と言えると思います。
それらの演出意図をキャラクターや事象に変換して『モジュール』レベルまで精製して行くと、そういう固まり、たとえばその一例として、メタ世界/メタキャラクターになって行くのではないか?…と今、考えています。
…で、ようやく本題ですけど。そんな事を考えながら読んでいたせいもありますが、この週の連載を読んでいくつかメタ的に気づいた所があります。
■メタ世界について

“あきらめると”は――!!!
それはまるで巨大なふるいにかけられているようなものではないだろうか――
『キングゴルフ』(作・佐々木健)の今週の冒頭シーンなんですが…。「ああ、ここって『メタ世界』だなあ…」って思ってwなんか言いがかりみたいな感じですがw
ユサユサ、篩いを振っているこの巨大な男は一体何を考えているのかなあ?(どんなキャラなのかなあ?)とか考えはじめると、メタキャラクター顕現の初期の欲求になるはずですw
『うみねこのなく頃に』(作・竜騎士07)にひっかけて話をすると、観劇の魔女フェザリーヌとかは、多分、この空間に存在ますよね。そしてこのユサ男(仮)くんは、何の名前もキャラクターも持たない下等な存在には違いないのですが、間違いなくあのメタ世界の魔女たちと同じモノだと思います。篩いの中のキャラ達が物語上の登場人物になれば分かると思いますが、やっている事は、魔女たちのゲームと大きな違いはありません。
ただし『キングゴルフ』のこれは、ある一状況を分かりやすく説明するワンポイントとして、“たとえ話”として、メタ世界が描かれたに過ぎません。しかし、より物語が(ある方向に)複雑化した時、むしろこの“たとえ話”の空間の方がメインフェーズになったりしないか?…『うみねこのなく頃に』の方はそこらへんを示唆している面があると思います。
■メタキャラクターについて

虚空「なるほど…
これは―…避けられぬな……!」
『任侠姫レイラ』(原作・梶研吾、漫画・米井さとし)のレイラの対戦相手である虚空僧侶が、レイラの攻撃を“わざと”受けるシーンですね。
武力というか……バトル能力的にはレイラよりも虚空僧侶の方がはるかに上だと思われます。しかし、レイラが虚空僧侶の攻撃を“わざと”受けきって~わざとじゃなくても、虚空僧侶の攻撃は鋭くてかわせないから“わざと”に切り替えたのがミソ~みせた事によって、互いの攻撃を受けるという勝負に持ち込んだ為に、虚空僧侶はその攻撃を受けざるを得なくなった。
二人は闘技者以前に観客に物語を魅せる“プロレスラー”であり、その為の“ブック”(試合のあらすじ)によって支配を受ける存在だからこそ、能力的にはその攻撃を充分に避けられても、避けてはいけないという縛りを受けるワケです。(厳密には避けてもいいのだけど、その場合、虚空僧侶はそれに足る“別の物語”を見せなくてはならなくなる。ここらへんは、メタ世界のバトルという観点に対しても重要な示唆があると思う)
今、厳密な意味でのメタ世界をメインフェーズとして見せているのは、僕の知る限り『うみねこのなく頃に』くらいで(これも、さらに突き詰めるとあやしくなる(汗))、そのため突き詰めて話をするとサンプルのない、上っ滑りな感じになってしまうのですが、擬似的だったり、設定的だったりの形で、メタ世界を垣間見せている作品は少なくなく、当面はここを参考に話を積んで行くことになると思います。
『任侠姫レイラ』の場合、メタ世界を見せる事はないですが“ブック”の存在によって、作品内に、物語現実の世界と、“ブック上の世界”の二つのラインが展開する事になる。これは物語現実の世界を“ブック”を観測するメタ世界、“ブック上の世界”を観測される物語上の世界というシフトに見立てる事ができます。
つまり、避ける選択肢を持ちつつも「これは避けない」という判断をするのはメタ上の虚空僧侶であり、ブック上(物語上)の虚空僧侶はそもそも避けるという選択肢を持ってはおらず、おそらくその可能性を考えすらしないであろうという、“二人の虚空僧侶”が現われるわけです。
そして“ブック”の支配下にない、少なくとも“ブック”を破る選択肢を持った虚空僧侶は、メタキャラクターとしての性質を備えていると言えます。ここは以前に『めだかボックス』の球磨川が垣間見せた選択肢でも語っていますね。
【『めだかボックス』球磨川禊のメタキャラクターとしてのメモ書き】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b35af27375c5407fac0aa336a91db104
『情報圧縮論』の現状の到達点として“『元型(アーキタイプ)』への接続”と“『情報圧縮』の顕現”というのがあるのですが(繰り返しますが、詳しくは省略)、たとえば僕は以前『天元突破!雨宮ゆり子』という記事を書いて…(↓)
【天元突破!雨宮ゆり子!】
※いきなり音楽がかかるかもしれませんので気をつけて
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya1.html
かなり評判だったんですが、この話、ある程度「昔のラブコメは何があろうとメインヒロインと結ばれる結末になる事を優先した」という経験実感と、それに付随する多少の悔しい思い(?)みたいなものがないと分からない/盛り上がらない話でもあるんですよね。あるいはハーレム系とか、ゲームなどで別EDの選択肢が提示された以降のラブコメのみに接している人だと、その感動は半減するかもしれない。
当然、そこらへんを文章に直し説明して、僕の中にあった感動を『伝達』しようとしたのがこの記事なワケですけど。…それをこういう評論的な記事ではなく、純粋に物語上に再現しようとしたら、どういう方法があるでしょうね?
「従来のラブコメはこうだったけど、この物語はその慣習的な縛りを突破するのだ!」…とか、そのまんまで野暮ったく書きますかね?…ここらへんの表現で“『情報圧縮』の顕現体”として、メタ世界/メタキャラクターは有用なツールに成り得るのではないか?と考えています。
というか『送り手』が(↑)こういう事を考えていてたとしても、従来はそれは心の内に留めて作品上の表現としては、あまり持ち込まない。ある種、隠しテーマだったり、作者の心の満足的に留められていたものだったりもしたと思います。その心の満足を、なんとな~く、嗅ぎとって、当てずっぽう述べるのもおたくの醍醐味だったりしますけどw(汗)
それって別に隠さなくてもいいんじゃない?キレイな形で顕現させる方法があるなら『送り手』として、送り出せばいいよね?…そうすると多分、本来、物語上に載せられなかったモノ(載せられないと思ってしまったモノ)を載せようと思うと、メタな世界に載せて行く事になるかな?と。
ちなみに、ここらへんの話。『うみねこのなく頃に』がほとんど体現していて、さらに先に行った話をしていますね。…すごい作品だと思います(汗)w
【8月第1週:バチバチ 第62話/無駄…!?】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10475.html#653
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/
最近、『メタキャラクター』についての思考を巡らせていて…微妙にルイさんに誂われている気がしないでもないですがw(´・ω・`)構わず行きます。…ただ、ちょっと思考の方針というか外郭は何となく見えてきたので、ちょっとここでまとめておこうと思います。
元々はオフ会やネットラジオなんかで話していた『うみねこのなく頃に』や『化物語』の話題(※ここらへんも文字起こしして記事にしないとなあ…ちょっと今細かく語ると長くなり過ぎるので省略します)で出てきた『メタキャラクター』という考え方に、直感的に、面白さを感じて色々思索していたんですが……どうもこれは『情報圧縮論』の次のステップの話になってくるのかな?と現状感じています。…『情報圧縮論』の話も語ると長くなりますね。今回は走り書きのつもりなので、やはり省略します。(興味のある方はブログ内を検索してみてください)いずれ、もっと明確にリンクさせて語ることができたらいいなと思います。
一応、twitterでの『メタキャラクター』に関するメモ書きをtogetterにまとめていて非公開にしていたんですが解除して置いておきます。メタキャラクター自体はずっと古来(?)から存在していて、ただ、大抵は作者のおふざけ止まりで描かれていたと思います。これをもっと物語構造の中核に組み込んで行くとどうなるか…?という方向でつぶやいています。
【メタキャラクター・メモ】
http://togetter.com/li/42956
たとえば僕はこっち(↓)で「死亡フラグ」は、「情報圧縮」の最も完成された形態の一つだと思っています。セリフ一つが凄く昇華されて「物語」にまで達しているんですよね。と言った話をしているワケですが…
【「情報圧縮論」と「死亡フラグ」の話
http://togetter.com/li/24899
同時に、その死亡フラグを外す、ひいてはあらゆるフラグを外す(躱す)『フラグ外し』の話もしています。(『フラグ外し』って情報圧縮の次のステップの話ですよね)それは言ってしまえば「明日結婚するとつぶやいた人は程なく死んでしまう…なんて法則は本来(物理的にも物語的にも)どこにもないよね?」という話に立ち返る事を意味しますが、死亡フラグが存在する事を知った上でそれをするのは“近メタ的な行動”になってくると思います。
「おれ、この戦いが終わったら結婚するんだ…」とつぶやいた兵士がそのまま戦って、そのまま生き残る。…え?じゃあ何でそんな話したの?と言うわけでもありませんがw「ああ、結婚するから何としてでも生き残ろうとして、そして生き残れたんだね、よかったね」と思えばいいのかもしれませんがw“フラグ”の存在を知っていて置かれた演出なら、それはかなりメタ的な演出と言えると思います。
それらの演出意図をキャラクターや事象に変換して『モジュール』レベルまで精製して行くと、そういう固まり、たとえばその一例として、メタ世界/メタキャラクターになって行くのではないか?…と今、考えています。
…で、ようやく本題ですけど。そんな事を考えながら読んでいたせいもありますが、この週の連載を読んでいくつかメタ的に気づいた所があります。
■メタ世界について

“あきらめると”は――!!!
それはまるで巨大なふるいにかけられているようなものではないだろうか――
『キングゴルフ』(作・佐々木健)の今週の冒頭シーンなんですが…。「ああ、ここって『メタ世界』だなあ…」って思ってwなんか言いがかりみたいな感じですがw
ユサユサ、篩いを振っているこの巨大な男は一体何を考えているのかなあ?(どんなキャラなのかなあ?)とか考えはじめると、メタキャラクター顕現の初期の欲求になるはずですw
『うみねこのなく頃に』(作・竜騎士07)にひっかけて話をすると、観劇の魔女フェザリーヌとかは、多分、この空間に存在ますよね。そしてこのユサ男(仮)くんは、何の名前もキャラクターも持たない下等な存在には違いないのですが、間違いなくあのメタ世界の魔女たちと同じモノだと思います。篩いの中のキャラ達が物語上の登場人物になれば分かると思いますが、やっている事は、魔女たちのゲームと大きな違いはありません。
ただし『キングゴルフ』のこれは、ある一状況を分かりやすく説明するワンポイントとして、“たとえ話”として、メタ世界が描かれたに過ぎません。しかし、より物語が(ある方向に)複雑化した時、むしろこの“たとえ話”の空間の方がメインフェーズになったりしないか?…『うみねこのなく頃に』の方はそこらへんを示唆している面があると思います。
■メタキャラクターについて

虚空「なるほど…
これは―…避けられぬな……!」
『任侠姫レイラ』(原作・梶研吾、漫画・米井さとし)のレイラの対戦相手である虚空僧侶が、レイラの攻撃を“わざと”受けるシーンですね。
武力というか……バトル能力的にはレイラよりも虚空僧侶の方がはるかに上だと思われます。しかし、レイラが虚空僧侶の攻撃を“わざと”受けきって~わざとじゃなくても、虚空僧侶の攻撃は鋭くてかわせないから“わざと”に切り替えたのがミソ~みせた事によって、互いの攻撃を受けるという勝負に持ち込んだ為に、虚空僧侶はその攻撃を受けざるを得なくなった。
二人は闘技者以前に観客に物語を魅せる“プロレスラー”であり、その為の“ブック”(試合のあらすじ)によって支配を受ける存在だからこそ、能力的にはその攻撃を充分に避けられても、避けてはいけないという縛りを受けるワケです。(厳密には避けてもいいのだけど、その場合、虚空僧侶はそれに足る“別の物語”を見せなくてはならなくなる。ここらへんは、メタ世界のバトルという観点に対しても重要な示唆があると思う)
今、厳密な意味でのメタ世界をメインフェーズとして見せているのは、僕の知る限り『うみねこのなく頃に』くらいで(これも、さらに突き詰めるとあやしくなる(汗))、そのため突き詰めて話をするとサンプルのない、上っ滑りな感じになってしまうのですが、擬似的だったり、設定的だったりの形で、メタ世界を垣間見せている作品は少なくなく、当面はここを参考に話を積んで行くことになると思います。
『任侠姫レイラ』の場合、メタ世界を見せる事はないですが“ブック”の存在によって、作品内に、物語現実の世界と、“ブック上の世界”の二つのラインが展開する事になる。これは物語現実の世界を“ブック”を観測するメタ世界、“ブック上の世界”を観測される物語上の世界というシフトに見立てる事ができます。
つまり、避ける選択肢を持ちつつも「これは避けない」という判断をするのはメタ上の虚空僧侶であり、ブック上(物語上)の虚空僧侶はそもそも避けるという選択肢を持ってはおらず、おそらくその可能性を考えすらしないであろうという、“二人の虚空僧侶”が現われるわけです。
そして“ブック”の支配下にない、少なくとも“ブック”を破る選択肢を持った虚空僧侶は、メタキャラクターとしての性質を備えていると言えます。ここは以前に『めだかボックス』の球磨川が垣間見せた選択肢でも語っていますね。
【『めだかボックス』球磨川禊のメタキャラクターとしてのメモ書き】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b35af27375c5407fac0aa336a91db104
球磨川「『老人なら攻撃されないと思った?』『黒幕ぶっていれば安全だと思った?』『僕が可愛らしい顔立ちだから』『おしゃべりの最中なら死なないと思った?』――『甘ぇよ。』」
不知火半袖「あたしもマイナス十三組に入れて頂戴。そろそろあたしもストーリーに参加したくなっちゃったよ☆」
『情報圧縮論』の現状の到達点として“『元型(アーキタイプ)』への接続”と“『情報圧縮』の顕現”というのがあるのですが(繰り返しますが、詳しくは省略)、たとえば僕は以前『天元突破!雨宮ゆり子』という記事を書いて…(↓)
【天元突破!雨宮ゆり子!】
※いきなり音楽がかかるかもしれませんので気をつけて
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya1.html
かなり評判だったんですが、この話、ある程度「昔のラブコメは何があろうとメインヒロインと結ばれる結末になる事を優先した」という経験実感と、それに付随する多少の悔しい思い(?)みたいなものがないと分からない/盛り上がらない話でもあるんですよね。あるいはハーレム系とか、ゲームなどで別EDの選択肢が提示された以降のラブコメのみに接している人だと、その感動は半減するかもしれない。
当然、そこらへんを文章に直し説明して、僕の中にあった感動を『伝達』しようとしたのがこの記事なワケですけど。…それをこういう評論的な記事ではなく、純粋に物語上に再現しようとしたら、どういう方法があるでしょうね?
「従来のラブコメはこうだったけど、この物語はその慣習的な縛りを突破するのだ!」…とか、そのまんまで野暮ったく書きますかね?…ここらへんの表現で“『情報圧縮』の顕現体”として、メタ世界/メタキャラクターは有用なツールに成り得るのではないか?と考えています。
というか『送り手』が(↑)こういう事を考えていてたとしても、従来はそれは心の内に留めて作品上の表現としては、あまり持ち込まない。ある種、隠しテーマだったり、作者の心の満足的に留められていたものだったりもしたと思います。その心の満足を、なんとな~く、嗅ぎとって、当てずっぽう述べるのもおたくの醍醐味だったりしますけどw(汗)
それって別に隠さなくてもいいんじゃない?キレイな形で顕現させる方法があるなら『送り手』として、送り出せばいいよね?…そうすると多分、本来、物語上に載せられなかったモノ(載せられないと思ってしまったモノ)を載せようと思うと、メタな世界に載せて行く事になるかな?と。
ちなみに、ここらへんの話。『うみねこのなく頃に』がほとんど体現していて、さらに先に行った話をしていますね。…すごい作品だと思います(汗)w
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