昨年、所謂富田メモなるものに関する報道により、靖国神社への所謂「A級戦犯」の合祀に対する先帝陛下の叡慮あるいは大御心"思われるもの"が公になった。
その結果、先帝陛下の思し召しなるものを恃みに、A級戦犯の分祀を主張する向きもあれば、富田メモの史料的信頼性を問う声もまたあり、更には、ネット上では選先帝に失望したなどという声まで上がった。
私は、専門家ではないので、あるいは所謂アーキビストではないので、富田メモが先帝の思し召しをどこまで正確に伝えているか判断する術を持たない。すなわち、メモの史料的な価値を云々する立場にはない。
但し、富田メモの内容は決して驚愕すべきものではないと考えている。メモによれば合祀されたA級戦犯のうち、松岡外相と白鳥駐伊大使の具体的な名前は挙げられているが、先帝がこの二人の「英霊」としての合祀に抵抗感を持たれたとして、昭和史を若干でもかじったものならば驚くことではないはずだ。独伊との軍事同盟をめぐる問題で、二人は積極推進派であったのに対して、先帝はその対極にいらしたのであるからして、我が意に添わず三国同盟を推し進め、結果、国運を未曽有の難局に追い込んだ者を「英霊」として親拝することを忌避されたとして不思議ではあるまい。
名前こそ出てこなかったが、もしや先帝陛下、板垣あたりにも抵抗感をお持ちだったのではあるまいかと推察するが、私のような下々の最たる者が、叡慮を詮索するは僭越至極、不敬の極みというものだ。
この富田メモをもって、「さあA級戦犯分祀だ!」と息巻くのはいいが、上記のごとくそこには一部の個人名しか出てこず、先帝がA級戦犯全員の合祀を疑問視されていたとは断定できないのではないのか。
そのことは、今回の卜部日記にも言えることではないのか。
それはさておき、それにしても、卜部侍従の所業に、不快を覚えるのは私だけであろうか。以前の入江日記もそうだが、叡慮のお側に身を置く者どもが、勝手に見聞したことを他言ないしは暴露するというのはいかがなものであろうか、君臣の関係において、果たして妥当のこととは到底思えない。戦前ならともかくも、戦後の」象徴天皇制の下にあっては天皇と侍従の関係はもはや君臣のそれではなく、天皇が公的存在である以上は、侍従によって記された天皇の姿は公にされるべきものということか。あるいは、歴史学的な学問的な重要性において意義ある行為と自己評価してのことなのか。私的には、学問的な価値や意義が「錦の御旗」よろしく大手を振ることに、学問ないしは研究というものがそんなに偉いかといいたくなる。研究者・学者という連中が上から下に世の中や自身の研究対象を見ているのではないかとすら思えてくる。侍従の方々もどういうつもりだったかは知らないが、こっそり記録して観察対象の死後になって暴露するというのは、あまり品のよろしいことではないとしか思えぬのだが。もっとも、先帝陛下の御許しのもとで記しかつ公開したというのなら話は別だが。
閑話休題。
続く。
その結果、先帝陛下の思し召しなるものを恃みに、A級戦犯の分祀を主張する向きもあれば、富田メモの史料的信頼性を問う声もまたあり、更には、ネット上では選先帝に失望したなどという声まで上がった。
私は、専門家ではないので、あるいは所謂アーキビストではないので、富田メモが先帝の思し召しをどこまで正確に伝えているか判断する術を持たない。すなわち、メモの史料的な価値を云々する立場にはない。
但し、富田メモの内容は決して驚愕すべきものではないと考えている。メモによれば合祀されたA級戦犯のうち、松岡外相と白鳥駐伊大使の具体的な名前は挙げられているが、先帝がこの二人の「英霊」としての合祀に抵抗感を持たれたとして、昭和史を若干でもかじったものならば驚くことではないはずだ。独伊との軍事同盟をめぐる問題で、二人は積極推進派であったのに対して、先帝はその対極にいらしたのであるからして、我が意に添わず三国同盟を推し進め、結果、国運を未曽有の難局に追い込んだ者を「英霊」として親拝することを忌避されたとして不思議ではあるまい。
名前こそ出てこなかったが、もしや先帝陛下、板垣あたりにも抵抗感をお持ちだったのではあるまいかと推察するが、私のような下々の最たる者が、叡慮を詮索するは僭越至極、不敬の極みというものだ。
この富田メモをもって、「さあA級戦犯分祀だ!」と息巻くのはいいが、上記のごとくそこには一部の個人名しか出てこず、先帝がA級戦犯全員の合祀を疑問視されていたとは断定できないのではないのか。
そのことは、今回の卜部日記にも言えることではないのか。
それはさておき、それにしても、卜部侍従の所業に、不快を覚えるのは私だけであろうか。以前の入江日記もそうだが、叡慮のお側に身を置く者どもが、勝手に見聞したことを他言ないしは暴露するというのはいかがなものであろうか、君臣の関係において、果たして妥当のこととは到底思えない。戦前ならともかくも、戦後の」象徴天皇制の下にあっては天皇と侍従の関係はもはや君臣のそれではなく、天皇が公的存在である以上は、侍従によって記された天皇の姿は公にされるべきものということか。あるいは、歴史学的な学問的な重要性において意義ある行為と自己評価してのことなのか。私的には、学問的な価値や意義が「錦の御旗」よろしく大手を振ることに、学問ないしは研究というものがそんなに偉いかといいたくなる。研究者・学者という連中が上から下に世の中や自身の研究対象を見ているのではないかとすら思えてくる。侍従の方々もどういうつもりだったかは知らないが、こっそり記録して観察対象の死後になって暴露するというのは、あまり品のよろしいことではないとしか思えぬのだが。もっとも、先帝陛下の御許しのもとで記しかつ公開したというのなら話は別だが。
閑話休題。
続く。