くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

綸言汗の如し その2の2

2007年04月28日 | Weblog
前稿では、私の立場表明をすることをすっかりわすれていた。

「綸言汗の如し」、このタイトルこそ、私の靖国における所謂「A級戦犯」合祀を」めぐる問題に対するスタンスなのである。

すなわち、所謂「A級戦犯」は分祀されねばならない。かりに靖国の現行の協議において分祀が難しいというのであれば、それを可能とする理屈を新たに作ってでも分祀すべきであると考える。

否、理屈は既にある。先帝陛下の思し召しがあるではないか。天意に背く靖国神社などというものがあってよかろうはずはない。いや、存在してはいけない。今ここに大御心の"幾分"明らかにされたのをもって、靖国神社はそれに沿う行動をとるべきなのである。

しかしながら、誤解されたくはない。私は、「A級戦犯」を十把一絡げに分祀しろとは言ってはいない。なぜなら、先帝もそうおっしゃってはおられない。もっと厳密に言えば、松岡、白鳥以外の具体的な個人名には言及されていないし、逆にその両名だけは具体名を挙げられていることからして、先帝のおっしゃられた「A級戦犯」=合祀されている所謂「A級戦犯」全員と安易に理解することもこれまた、現時点においては、無理がある。すなわち、現在ただ今明らかにされたのであろう大御心に沿えば、合祀されている「A級」全員ではなく、上記の二名だけをとりあえずという措置を靖国は取るべきではないのか。

繰り返しになるが、先帝がこの両名の合祀に抵抗感を持たれたとして、まったく不思議なことではないということは、我々肝に銘じておくべきであろう。両名は大御心にそぐわぬことをして皇運を貶めたのであるから。そのことは、日米開戦に障害の不覚と涙した松岡自身よく理解していたはずなのだ。

君上の無謬を私は信じないし、上を諫することは君臣関係のあるべき姿であり、また臣道のあるべき姿でもあると考える。しかしながら、先帝陛下のご生前の御心を私は諫言、諌止の対象とは考えていない。

ただ、ここで私自身気をつけねばならぬのは、私の「綸言汗の如し」の立場、すなわち分祀論が、他の連中の分祀論と「分祀論」という同一のカテゴリーにくわえられてしまうことなのである。私は、中国がどうこう言うからとか、かつての「被害者」たちに心情を慮ってなどという理由で分祀を言うのではない。むしろ、諸外国がどうのこうのとか、戦前あるいは近代日本の我が国の対外行動をまずは否定・非難ありきで評する歴史認識から出た分祀論に対しては断固「NO!」の姿勢を取るべきであると考える。私の分祀論は合祀された「A級」全員を対象にしたものでもなく、あくまでも叡慮に沿いたい、また沿うべき理由のある叡慮と思うからに他ならない。

であるから、先帝を利用して、現時点において、「A級」すべての分祀を主張する輩とは一線を明確に画したい。先帝が「A級」全員の分祀とは言っていない以上、その部分を勝手に拡大解釈して利用することは不敬である以前に、それがかりに先帝以外から出た言葉だとして、破廉恥かつ卑劣である。

さあ、靖国神社側はどう動くのであろうか。以前、富田メモの出た後の動きはなかったと、私は理解している。それどころか、私の記憶が正しければ、その後に分祀しないことの再確認をしているはずである。今回も分祀に向けて動くことを期待しても無駄だと正直思っている。

それに、分祀を不可能にしているもう一つあると考えている。以前にもここで述べたが、朝敵藩のお殿様が宮司である限りは、そうした思い切った行動はとれまいと。

天皇陛下の御親拝復活のためには、どうしたらよいのか?もう道は一つしかないのだが・・。靖国側の頑なな姿勢にいらだちを感ぜずにはいられない。
コメント
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