くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

堕ちよ民主党!:国民投票法案への対応が示す民主党の前途多難

2006年05月11日 | Weblog
昨年の総選挙で大惨敗を喫して以来、筆者は、民主党(あるいはその一部)が再浮上を果たし政権党を目指すのであれば、この際堕ちるところまで堕ちるしかないのではないかと考えていたが、今回改めてその感を強くした。

郵政解散の直後、筆者はあるところで、民主党の敗北を予測した。郵政民営化が選挙の争点になるであろうことは解散の経緯からして誰の目にも明らかだったはずだ。であるならば、小泉自民党が分裂選挙を強いられたとしても、与党案に対して最後まで対案を示さずに反対を表明し続けた民主党が苦戦を強いられる可能性が十分にあると考えたのだ。それに加えて解散直後の民主党の議員総会での岡田代表の笑みを浮かべながらの政権獲得宣言とも取れるような物言いに、「こりゃだめだ」と直感したのだ。筆者はかねてより、代表になる以前から、岡田という政治家を政策通かもしれないが致命的に「政治センス」の無い政治家とみてきた。郵政が不可避に選挙の最大の焦点にるであろうことが予測されるなかで、対案を示すこともできずにきた政党が、選挙戦に入る前から「政権を取る」と表明して、有権者の支持が得られると思っていたとすれば、世論を読めぬ有権者の選挙行動を予測できぬ党代表としての岡田が憐れというか滑稽ですらあった。おまけに、選挙戦のキャッチコピーが「日本をあきらめない」とくれば、岡田氏がというより民主党そのものに、救いの無さを感じてしまわずにはいられなかった。選挙戦中民主党は必死に焦点が郵政一本になることを恐れ焦点外しを試み、同時に遅ればせながら対案らしき郵政改革案を出してきたが、周知のごとく、選挙結果は自民の大勝。投票日数日前に新聞各紙が与党有利と報じたため、筆者は与党が勝利するものの、当日の投票行動で有権者のバランス感覚が働いて、しかも分裂選挙ということもあり、自民単独ならどんなに大勝しても260-70議席代と予測した。結果は270をはるかに上回り、過去の選挙でしばしば見られた新聞報道の逆作用は働かなかった。

民主党が解散前から国会において郵政をめぐり明確な対案をもって与党に対抗できなかった原因が、党の「御家事情」であったことは今更論を待つまい。この「御家事情」を何とかしない限り、民主党が政権を取ることはできぬし、かりにできたとしてもそれは民主党にとっても国民にっても不幸な結果になると、筆者は考えてきた。しかしながら、この「御家事情」の変革は、党の分裂を招いたり、支持基盤を失うという危険性をはらむものであり、決して容易なことではない。であればこそ、筆者は、民主党は一旦堕ちるところまで堕ちる以外に、自己変革を果たし政権を射程におさめることはできない、と考えたのである。

総選挙後、前原党首の下で若干の変化の兆しを見せたやに見えるも、偽メール事件の体たらくにて、「前原丸」はあえなく沈没。民主党の救われなさをこれでもかといわんばかりに見せ付けてくれた。

そうした危機的状況で登壇したのが、小沢一郎氏であるが、そもそもが「なんであなたが民主党?」という御仁である。しかも、いまだに期待する向きも多いようだが、筆者からみれば「賞味期限切れ(でもまだ腐っちゃいません)」程度。小沢氏の政治家としての能力と限界は既に過去10年余のうちに証明済みのはずだ。「国連待機軍]構想など聞かされた日には、「逝ってよし!」である。小沢氏では民主を再生させることはできないし、小沢氏も民主党にいて花を咲かすことはできない。
今のところ、小沢は我々がかねてより知るところの「小沢色」を前面に打ち出してはいないが、これも民主の「御家事情」に鑑みて、党内融和を優先にしているからではないのか。残念ながら、砂漠(民主党)にトリカブトの花(小沢氏)の咲こうはずもないのだ。小沢が「独自色」を抑えてまでも党内運営を推し進めようとすれば、やがて「小沢らしさ」への期待を失望へと変えてしまうであろう。小沢が一花(小沢政権)咲かせようと思えば、自公連立与党との大連立か、あるい「壊し屋」よろしく民主を割って自公と組むということに賭けるしかないのではないか。その選択が不可能といのであれば、やはり民主は堕ち抜くしかあるまい。

さて、与党が国民投票法案の今国会での提出を断念した。その原因の一つは、投票方式と投票年齢をめぐり、与党と民主党の合意形成が失敗に終わったためであるが、加えて、小沢民主党代表が、同党の与党に対する対決姿勢が不明瞭になるとの理由から、与党との共同提案を拒絶したことにあるようだ。

中学生の時分よりひたすら憲法改正(より正確には廃憲による自主憲法制定)を願ってきた筆者にとって、このことに対する失望は大きい。小沢氏も改憲論者であると筆者は長らく理解してきたが、それは勘違いであったのか。いや、そうではあるまい。では、何ゆえに小沢氏は何ゆえ改憲に備えて必ず実現しておかねばならない国民投票法の制定の動きを止めるような挙に出たのか。まず一つに上述したような与党との対決路線の明確化という思惑があるらしい。二つめに、改憲ばかりではなく国民投票法案にも慎重ありは反対姿勢を取る議員が党内にいることから、党内融和の確保を優先させたものらしい。

それにして、こうした動きを見ていると一体改憲は何時のことになるのだろうか、と焦りにも似た不安を感ずるばかりか、小沢代表の民主党の勢力挽回と政権奪取に向けた政治戦略というものに、首を傾けざるを得ない。

対立軸を明確にすることで政党同士が争うことそれ自体は、政党政治において決して間違ったことではないし、むしろ政党政治の下で民主政治を行っていく上において望まれることであるはずだ。しかしながら、何が何でも対立軸を設定すれば良いというものでもあるまい。やみくもに何でも与野党対立では、今は見る影もないかつての「(少なくとも表向きは)何でも反対党」と同じではないか。政党にとって政権獲得は確かに重要なことだが、それは天下国家のためになすべきことをなすための手段に過ぎないはずだ。であるならば、天下国家のためには、与野党が是々非々で共闘することがあってもおかしくはあるまい。

投票方法や投票年齢をめぐり、民主党は改憲以外の問題をも国民投票の対象にするよう要求するとともに、投票権者を与党の20歳に対して、18歳を主張するなどの今回乗り越えられなかった対立点もあるわけだが、現状では憲法96条に改憲規定があっても、国民投票の具体的な内容を規定した法規がないことには、実際に改憲案の賛否を国民に問うことができないのだ。小沢氏が改憲を目指すというのであれば、今回の対立点は枝葉末節のようなもので、そこに固執するのは木を見て森を見ずのごときものではないのか。現に、自民党側からは、衆院憲法調査特別委員会の船田元(理事)(あの政界失楽園の)が、「18歳以上」を将来目標ということにし、とりあえず20歳以上で法案内容の妥協をはかろうとしており、大同小異の観点に立てば、飲めぬ妥協案ではないはずだ。何でもかんでも対立軸一本やりでいいけばよいと言うものではない。政権党を目指すというのであれば、時には与党との大同小異の政策協調にも応ずる柔軟性を持つべきである。有権者に民主の独自性が見えなくなり、巨大与党の影に埋没してしまうというのであれば、与野党協調とい選択の妥当性を有権者に訴えることを通して、党の存在感を示していくのが政党政治の本道というべきではないのか。

民主党が主張する国民投票のみ18歳以上という考え方、いかがなものか。18歳以上というのはかねてよりの民主党の主張である。それによって若者の責任ある人間としての社会参画を促すことができるともいい、同党の枝野幸男衆院議員は、それは「世界の趨勢」であるとも言う。18歳は既に責任能力のある自立できる年齢だというが、何をもって責任能力の有無、自立能力の有無というのか不明である。どうやらいまだに日本人は、「世界では」とか「欧米では」という言葉に弱いようで、だからこそ相手を説き伏せようとしたり、自説の妥当性を強調しようとする時など、「世界では」という言葉を意図的に利用する者もいる。「欧米では女性に年齢は聞かないものだ」など、その典型例だが、「ここは日本だ。それがどうした」ではないか。もっとも理屈をくっつければ「世界の趨勢」に説得力を持たせることは可能であろうが、「日本ではこうなのだから、世界(あるいは欧米)もそうすべきだ」とくらい言える政治家の一人や二人出てこないものだろうか。もしかしたら、存在はしていてもマスメディアが取り上げないだけかもしれぬが・・。それはさておき、上述のように「18歳以上」は民主党の政策の一つであり、同党の党員、サポーター(それにしてもマニフェストはじめ横文字のお好きな党である)資格は18歳以上となっている。民主党は国民投票法での18歳以上の投票権実現を布石にして、ゆくゆくは改憲によって現在20歳以上とされている選挙権をも18歳に引き下げようとの思惑があるのだろう。いざ投票となると民主党により多くの支持を集める傾向にあると思われる無党派層には相対的に若年層が多い。であるならば、自党への支持拡大、党勢拡大を目指すのであれば、18歳以上に参政権を引き下げることは、民主党にとって選挙戦を戦う上においてより有利な環境を提供するとの目算があるからではあるまいか。政権党を目指すのであれば、確かに選挙で数を取ってなんぼであるが、「国のかたち」を左右する改憲にかかわる問題に党利党略を絡めようとしているのだとしたら、浅ましい限りであり、そういう腹積もりではないことを切に願う。

実は筆者は、対立軸や選挙年齢など国民投票法の具体的内容をめぐる対立が、今回民主党が与党との共同提案を拒んだ真のあるいは最大の理由であるとは考えていない。小沢代表にとって、最大の関心事は、国民投票法案をめぐる党内の異論にどう対応するかであり、「拒否」は主にそこから導き出された結論であったのではないだろうか。民主党が政治哲学や政策という点において、一枚岩でないことは既に周知のことである。小沢氏が自らの指導部の下で、党勢回復をはかり、さらに政権奪取を実現しようとするのであれば、党内から不協和音をできるだけ生じないために、党内融和に重点を置いているとしても決して不思議ではあるまい。

しかしながら、党内融和すなわち党論の一致統一を意味するものではない。換言すれば、党内融和とは、イデオロギーや具体的な政策方針をめぐり異なる考えを持つグループとの潜在的な対立の火種を、党勢回復・拡大という共通目標の下に、一時的に糊塗しているに過ぎぬ姑息の策ということにもなる。党内に異論を持つのは何も民主党だけではなく、党内民主主義という点から考えればそれはそれで見方によっては政党の健全な姿なのかもしれな。ただし、それも程度問題であり、政党の政治団体としての基底をなすべき共通の政治イデオロギー、思い描く国家像をめぐり、同床異夢では、今のうちは良くとも早晩火種は顕在化する。

来年夏の参院選、常識的に考えて、民主党優位であろう。その時の自民党の改選組は、小泉人気によって勝利した時の面々である。昨年の総選挙での自民大勝の結果、既に指摘されているように有権者の間には「自民に勝たせすぎた」とのバランス意識もあるようで、自民が議席を減らし、民主がその分議席を増やすと予想することが可能であろう。もっとも、9月に小泉総裁・総理の退陣(ほんとうに続投はないのか?)を受けて、誰が新総裁・総理の椅子に就くか、という「変数」もあれば、またぞろ偽メール事件のような自滅行為がないとも限らないが。万一民主が敗北するようなことがあれば、それこそ党存続の重大な危機に直面することになるであろう。つまり、勝てる可能性は高い選挙であると同時に、絶対に落としてはいけない選挙ということだ。

負けられない選挙にはちがいないが、同時に参院選での民主党の勝利がむしろ、小沢代表にとって、参院選後の党運営上より困難なものになる可能性すら否定できまい。選挙戦を勝利に導けば、それによって小沢氏の党内での立場と求心力が強まるという可能性は当然ある。だが、もう一つの可能性として、選挙の結果所帯が大きくなれば、逆に今以上に党内融和に重きをおかざるえなくなるかもしれない。小沢氏がかねてより開陳してきた政治思想なり国家ビジョンを放擲あるいは修正してでも、政権奪取のために党内諸グループとの融和、協調を優先するというのであれば良いが、そうではなく党内融和のために自説に封印をしているだけであれば、一体何時まで小沢氏は封印を続けることができるであろうか。小沢氏の忍耐に限界が来た場合、党内融和路線も終焉を迎える。その時民主党に何が起こるのだろうか・・・。 独自色を打ち出した、いや本来の姿表した小沢氏に、それでも党はついていくのか、それとも、路線をめぐる党内対立が表面、激化し、党としてのまとまりを失っていくのか。それとも、小沢の首を挿げ替えることで、党内融和を維持しようとしていくのだろうか。

小沢民主党の今後を占うえにおいてもう一つ重要なのは、世論の動向であろう。先日の衆院千葉7区の補選では、民主の候補である過去にキャバクラ嬢であったという女性県議が、自民のエリート候補を接戦で破り議席を奪った。この勝利の意味するところは、昨年の小泉自民党大勝の反動でもあり、小沢民主党への期待でもあるのかもしれないが、果たしてその期待がいつまで続くのであろうか。前述したように、世論が持つ「小沢色」とは、氏の改革派としてのイメージと改革ビジョンへの賛同に因るものではないのか。だとすれば、今のように党内の小沢氏と政治イデオロギーや国家ビジョンを必ずしも同じくしない勢力との融和のために氏の独自色が前面に出てこない状況が続けば、氏への期待と支持はやがて失望と不支持に変わっていくことになるであろう。民主党が来年の参院選に勝てば、小沢氏は今以上に世論の期待と党内事情とのジレンマに苦しみ、やがて二者択一の選択を迫られることになる可能性も否定はできまい。

小沢民主党の行く手は険しい。党内事情に配慮するあまり本来の小沢色が薄まり、世論を失望させても、小沢民主党の将来は今以上に険しく、独自の政治思想、ビジョンに忠実であろとしても、そうすればするほど党内の不協和音が高まり、それはそれで民主党に向ける世論の目も厳しくなり、党の将来を危うくする。下手をすれば、期せずして「壊し屋」の本領発揮で、党は分裂などという事態にもなりかねまい。

いやそれでいいのだ。自説を引っ込めてでも党内融和優先なら、それで行けばいい。民主党は今以上に世論を失望させ、呆れさせ、党勢は衰退の一途をたどれば良いのだ。世論の支持を失うだけ失い、批判を受けるだけ受けてこそ浮かぶ瀬もあるかも知れぬし、それすらないというのであれば、もはや民主党に存在価値はないということではないのか。あるいは「小沢色」の顕在化で党内不統一ということでもなれば、党を割ってしまえばよいのだ。それはそれでまた政界再編の契機となるやもしれぬ。何も小沢氏中心である必要はない。所謂保守派と目されるメンバーが現与党と政界再編を前提とした期限付きの大連立を組むというという方策もある。できれば、その連立政権で改憲をなし終えた後、二派に袂を分かって総選挙を戦い、保守二大政党制の幕を開く、などということになれば・・・と思って見る(まずないだろうけど)。

何も二大政党制にこだわる必要などない、二大政党制は我が国の政治風土に馴染まないというような反論もあろうが、我が国における民主主義の進化というものを期するならば、二大政党制というのは必要ないしは有意義な過程であるのではないだろうか。55年体制のような一党優位体制や、複数政党の離合集散による連立政権に比べて、数合わせの政治から解放され、政策論争中心の政治へと移行できる可能性が高くなるのではないだろうか。ただ、自民、民主という形での二大政党制である必要までは感じない。

世論にそっぽを向かれ党勢を萎ませていくにせよ、小沢氏の本領発揮で党を割るにせよ、民主党はあるところまで堕ちていくしか救われまい、いや救われることすらないかもしれないと、この政党の将来に、悲観的な(といって、民主党支持ではないが)シナリオしか見出せないのは筆者だけか・・・。

追記
与党が単独提出を断念した理由は、公明党の反対だそうだが、公明党の「魂胆」を勘ぐってしまうのは筆者だけでろうか・・・。

追記2(5月12日)
NHKの朝のニュース「おはようにっぽん」によれば、与党が単独提出を決めたそうだが、一昨日(10日)の今日で、政治の世界というのは本当に一寸先の見えない世界だなあと、改めて・・。

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