前回に続き、民主党について。
教育基本法改正論議の焦点でもある「愛国心」をめぐる問題で、民主党がまたぞろ民主党らしさを発揮してくれた(笑)。
先日与党合意による政府案は基本法改正案として第2条において教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」と記すことに決した。
これに対して12日西岡武夫氏を座長とする「教育基本法に関する検討会」において民主党は、政府案に対する対案(前文+21条)を決定した。政府案が上述のように、第2条に「我が国を・・」を表記するのに対して、民主党案は、条項ではなく前文に「日本を愛する心を涵養し」とすることにした。
なぜ条項ではなく前文なのか。民主党によれば、それによって教育現場での愛国心の強要につながらないようにするとのことだそうだ。
さらに、「涵養」としたのは、愛国心の強制というイメージを和らげるため。
同党教育基本問題調査会会長の鳩山由紀夫によれば、「日本国」ではなく「日本を愛する」としたのは、「国」では統治機構(=政府?)が予想される恐れがあるからというものである。
以上の説明を報道で読み、筆者は「なるほど」、「ごもっとも」と納得するタイプの人間ではない。あまりにも小手先的な内容と理屈ではないか。 日本国憲法でもそうだが、本来法というものは、一個のものとして存在する場合、最初から最後まで論理的に一貫すべきものであり、前文があるならば、それと条項との間には一貫性があってしかるべきものではないのか。日本国憲法も当然のことながらその例に漏れぬ。ところが教育基本法改正をめぐる民主党の対案はそうではないのだ。そしてその理由が教育現場での強要という事態を避けるためだという。民主党はよほど愛国心の強要ということに神経質らしく、それゆえに「涵養」という日常ではあまり使われぬ語彙を持ち出してきたそうなのだが(筆者は涵養というと大正後期の「民力涵養運動」を思い出す)、法を周知たらしめるべしとの観点からすれば、「涵養」という語彙を一体どれだけの国民が辞書なしに理解するかは疑問とするところで、なんとも苦肉の策的に感じられてしまう。それはさておき、「強要」への懸念を理由に前文と条項の一貫性に考慮しないというのは、本来上述した法の法たるべき筋論としておかしいのではないか。もし教育現場での強要が心配だというのであれば、そこまで配慮したかたちで条項にも「日本を愛する」云々を盛り込むのが本来とるべき方策ではないのか。
そもそも、愛国心ないし国を愛するといことに、ある程度の強制ないし強要がともなことを必然不可避と考えるのは筆者だけだろうか。集団(国家)が、その構成員(国民)に対して帰属意識を持つことを望むのもまた、集団(国家)の存続とその内部の安寧秩序という点からみて、何ら奇異なものでもあるまい。帰属意識といっても、それは単なる自分がどこに属しているかという自覚程度のものではないはずだ。構成員の利害関係が内部で錯綜しながらも、集団が生存という根源的なものも含めた利害を共有する以上、また一個の集団が他の集団との一様ではない関係にある以上、集団はそこに属する個に対して忠誠なり愛といった意識を持つことを求めるのは当然ではないのか。個が自分の属する集団内部における決まりを遵守し、義務を履行することと同様、おのおのの個が自分の属する集団への忠誠ないしは愛を自覚し表明することは、集団に属する個同士の共存のための相互保障であるはずだ。私益のために自らの属する集団を裏切るものがいたとしたら、あるいはそう考える隣人ないしは同居人がいるとしたら、誰とて安穏と生活を送れたものではあるまい。
集団たる国家が、公教育ないし国民教育を施すのは、まさに国家の存続発展を可能たらしめることをその目的の一つとすることに議論の余地はないはずであり、そのために国民の自国への愛国心というものを育むことの必要性は、今更俎上に乗せて論争するようなことではあるまい。
国家といわずしても、人が集団に帰属して生活する以上従わねばならぬ法(のり)というものがある。いや、ヒト以外の生き物の世界にも法とは言わぬまでも掟というものが存在するケースが多々あるようだ。法にしろ掟にしろ、それは[守らねばならぬ」という強制性を伴い、それを拒否ないし否定した場合には何らかの制裁的措置が伴う。なぜ決まりというものが集団に存在し、それに強制力(あるいは違反者への罰則)が伴うのかといえば、それは集団の、しいては手段に属する個の生存の相互保障のためであるはずだ。換言するならば、集団に属する個は、強制に服することで、個としての生存を保障されるとも言える。
集団に属さぬ個というものが存在可能であれば、強制から解放された個というものの存在も可能なのかもしれぬが、「国家」という集団に属さない個人というものがきわめて例外的な存在でしかない、しかもその例外的な国家に属さぬ個も所詮はいずれかの国家への依存なしには生きていけない、という今日の状況にあっては、[国家」が、その存続のために、そこに属する者すなわち国民に対してなんらかの強制力を伴う制度を有し、それに国民が服することを求めるのは当然のことではないのか。
それとも、帰属意識とか、国家への忠誠というものに限っては、強制という手段が適応されるべきではないというのであろうか。愛国心というものは、各個人の心のうちに自然にわいてくるものようなであって、強制されるものではない、とのたまう御仁もいるが、詭弁ではないか。我々はそこはかとなく心からわいて社会化した集団生活能力をもった個人になったわけではあるまい。家庭という集団内集団の最小単位、そして学校という場における躾なり教育を経て「社会人」としての自覚なり手段生活(社会生活)に要する思考、倫理観というものを培ったはずだ。そして家庭教育にしろ学校教育にしろ、そこには強制という手段が常に存在する。愛国心に限ってはその例外である、というがもしそうだというのであれば、是非にその所以たるところをご教示願いたいものである。確かに人を愛する気持ちは自然に湧いてくるものだが、可視的であり確たる実態を認識できる対象と、社会や国(家)というある程度は可視的であっても、人という個ほど明確に認識できる対象を同列に並べて論ずるのも、いささか無理があるというものではあるまいか。
与党案が決定される過程においても、愛国心への「恐れ」が指摘された。その言葉に対して「戦前」を想起させるとの異論が出て、結局「国と郷土」になったそうだが、「自然に湧き出る」論者も、さしずめ、「戦前」を想起してのことではないのか。確かに戦前・戦中において行き過ぎがあったのかもしれず、歴史の繰り返しを恐れる気持ちは分からぬでもない。しかしながら、歴史は、金太郎飴のように、単純に繰り返すものではない。過去に過誤があったというのであれば、それを繰り返さぬようにするのは当然のことだが、愛国心という言葉そのものが生命体のごとく意思をもって戦前のを「過ち」をひきおこしたわけではあるまい。愛国心という言葉がヒトの創造物であなら、それを誤用したのもヒトなのである。愛国心という言葉に恐怖するあまり、それ自体を封じ込めようというのは、「羹に懲りて」ではないが、餅を喉に詰まらせて死人が出たから、餅を食べるのは金輪際よしましょう的な発想ではないだろうか。消しゴムですら人を死に至らしめる「恐れ」があるわけで、ならばむしろどのように誤用を防ぐかという発想に立つべきではないのか。
鳩山氏によれば、「国」ではなく「日本を愛する」としたのも、「国」という言葉に政治機構を予想される「恐れ」があるからだそうだ。また「恐れ」である。と言っておきながら、前文には「他国と他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」との記されている。「新たな文明」自体、何を意味するのか不明で、それこそ民主党の真意が見えず「恐れ」を感じなくもないが(笑)、それはさておき、自国を愛すると言う部分に関しては「国」という語を「恐れ」を理由に忌避し、他国に対しては問題無しというのはどうしたものか。民主党は日本人として余程己が信じられぬか。愛する対象が政治機構(=政府?)というのであれば、筆者もそれには反対の立場を取るが、そう解釈される「恐れ」が払拭できないというのであれば、基本法改正過程において、後になって語意が歪曲されぬよう、その点を明確にしていけばよいのではないのか。
民主党だけが、とは言うまい。与党にしても、自民党は「愛国心」へのアレルギーの強い公明党に妥協し、その結果が「我が国と郷土」になり、「愛する心」ではなく「態度」となったのだ(与党は面従腹背という言葉をご存知か?)。要は与党内部の事情に鑑みた妥協の産物ということなのである。同様に民主党が愛国心の表記を前文にとどめたのも、「国」を避けたのも、意見集約のできない党内事情によるものであるようだ。事実、毎日新聞などによれば、愛国心をめぐり党内対立があり、最終的に西岡氏に一任ということになったそうだ。そしてその結果が上述のごとくである。ここに今の民主党らしさがある。
愛国心というものに正面から向き合えない政党が、たとえ政権を取ったとして、国の舵取りができるものなのか、筆者ははなはだ疑問とするところである。
教育基本法改正論議の焦点でもある「愛国心」をめぐる問題で、民主党がまたぞろ民主党らしさを発揮してくれた(笑)。
先日与党合意による政府案は基本法改正案として第2条において教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」と記すことに決した。
これに対して12日西岡武夫氏を座長とする「教育基本法に関する検討会」において民主党は、政府案に対する対案(前文+21条)を決定した。政府案が上述のように、第2条に「我が国を・・」を表記するのに対して、民主党案は、条項ではなく前文に「日本を愛する心を涵養し」とすることにした。
なぜ条項ではなく前文なのか。民主党によれば、それによって教育現場での愛国心の強要につながらないようにするとのことだそうだ。
さらに、「涵養」としたのは、愛国心の強制というイメージを和らげるため。
同党教育基本問題調査会会長の鳩山由紀夫によれば、「日本国」ではなく「日本を愛する」としたのは、「国」では統治機構(=政府?)が予想される恐れがあるからというものである。
以上の説明を報道で読み、筆者は「なるほど」、「ごもっとも」と納得するタイプの人間ではない。あまりにも小手先的な内容と理屈ではないか。 日本国憲法でもそうだが、本来法というものは、一個のものとして存在する場合、最初から最後まで論理的に一貫すべきものであり、前文があるならば、それと条項との間には一貫性があってしかるべきものではないのか。日本国憲法も当然のことながらその例に漏れぬ。ところが教育基本法改正をめぐる民主党の対案はそうではないのだ。そしてその理由が教育現場での強要という事態を避けるためだという。民主党はよほど愛国心の強要ということに神経質らしく、それゆえに「涵養」という日常ではあまり使われぬ語彙を持ち出してきたそうなのだが(筆者は涵養というと大正後期の「民力涵養運動」を思い出す)、法を周知たらしめるべしとの観点からすれば、「涵養」という語彙を一体どれだけの国民が辞書なしに理解するかは疑問とするところで、なんとも苦肉の策的に感じられてしまう。それはさておき、「強要」への懸念を理由に前文と条項の一貫性に考慮しないというのは、本来上述した法の法たるべき筋論としておかしいのではないか。もし教育現場での強要が心配だというのであれば、そこまで配慮したかたちで条項にも「日本を愛する」云々を盛り込むのが本来とるべき方策ではないのか。
そもそも、愛国心ないし国を愛するといことに、ある程度の強制ないし強要がともなことを必然不可避と考えるのは筆者だけだろうか。集団(国家)が、その構成員(国民)に対して帰属意識を持つことを望むのもまた、集団(国家)の存続とその内部の安寧秩序という点からみて、何ら奇異なものでもあるまい。帰属意識といっても、それは単なる自分がどこに属しているかという自覚程度のものではないはずだ。構成員の利害関係が内部で錯綜しながらも、集団が生存という根源的なものも含めた利害を共有する以上、また一個の集団が他の集団との一様ではない関係にある以上、集団はそこに属する個に対して忠誠なり愛といった意識を持つことを求めるのは当然ではないのか。個が自分の属する集団内部における決まりを遵守し、義務を履行することと同様、おのおのの個が自分の属する集団への忠誠ないしは愛を自覚し表明することは、集団に属する個同士の共存のための相互保障であるはずだ。私益のために自らの属する集団を裏切るものがいたとしたら、あるいはそう考える隣人ないしは同居人がいるとしたら、誰とて安穏と生活を送れたものではあるまい。
集団たる国家が、公教育ないし国民教育を施すのは、まさに国家の存続発展を可能たらしめることをその目的の一つとすることに議論の余地はないはずであり、そのために国民の自国への愛国心というものを育むことの必要性は、今更俎上に乗せて論争するようなことではあるまい。
国家といわずしても、人が集団に帰属して生活する以上従わねばならぬ法(のり)というものがある。いや、ヒト以外の生き物の世界にも法とは言わぬまでも掟というものが存在するケースが多々あるようだ。法にしろ掟にしろ、それは[守らねばならぬ」という強制性を伴い、それを拒否ないし否定した場合には何らかの制裁的措置が伴う。なぜ決まりというものが集団に存在し、それに強制力(あるいは違反者への罰則)が伴うのかといえば、それは集団の、しいては手段に属する個の生存の相互保障のためであるはずだ。換言するならば、集団に属する個は、強制に服することで、個としての生存を保障されるとも言える。
集団に属さぬ個というものが存在可能であれば、強制から解放された個というものの存在も可能なのかもしれぬが、「国家」という集団に属さない個人というものがきわめて例外的な存在でしかない、しかもその例外的な国家に属さぬ個も所詮はいずれかの国家への依存なしには生きていけない、という今日の状況にあっては、[国家」が、その存続のために、そこに属する者すなわち国民に対してなんらかの強制力を伴う制度を有し、それに国民が服することを求めるのは当然のことではないのか。
それとも、帰属意識とか、国家への忠誠というものに限っては、強制という手段が適応されるべきではないというのであろうか。愛国心というものは、各個人の心のうちに自然にわいてくるものようなであって、強制されるものではない、とのたまう御仁もいるが、詭弁ではないか。我々はそこはかとなく心からわいて社会化した集団生活能力をもった個人になったわけではあるまい。家庭という集団内集団の最小単位、そして学校という場における躾なり教育を経て「社会人」としての自覚なり手段生活(社会生活)に要する思考、倫理観というものを培ったはずだ。そして家庭教育にしろ学校教育にしろ、そこには強制という手段が常に存在する。愛国心に限ってはその例外である、というがもしそうだというのであれば、是非にその所以たるところをご教示願いたいものである。確かに人を愛する気持ちは自然に湧いてくるものだが、可視的であり確たる実態を認識できる対象と、社会や国(家)というある程度は可視的であっても、人という個ほど明確に認識できる対象を同列に並べて論ずるのも、いささか無理があるというものではあるまいか。
与党案が決定される過程においても、愛国心への「恐れ」が指摘された。その言葉に対して「戦前」を想起させるとの異論が出て、結局「国と郷土」になったそうだが、「自然に湧き出る」論者も、さしずめ、「戦前」を想起してのことではないのか。確かに戦前・戦中において行き過ぎがあったのかもしれず、歴史の繰り返しを恐れる気持ちは分からぬでもない。しかしながら、歴史は、金太郎飴のように、単純に繰り返すものではない。過去に過誤があったというのであれば、それを繰り返さぬようにするのは当然のことだが、愛国心という言葉そのものが生命体のごとく意思をもって戦前のを「過ち」をひきおこしたわけではあるまい。愛国心という言葉がヒトの創造物であなら、それを誤用したのもヒトなのである。愛国心という言葉に恐怖するあまり、それ自体を封じ込めようというのは、「羹に懲りて」ではないが、餅を喉に詰まらせて死人が出たから、餅を食べるのは金輪際よしましょう的な発想ではないだろうか。消しゴムですら人を死に至らしめる「恐れ」があるわけで、ならばむしろどのように誤用を防ぐかという発想に立つべきではないのか。
鳩山氏によれば、「国」ではなく「日本を愛する」としたのも、「国」という言葉に政治機構を予想される「恐れ」があるからだそうだ。また「恐れ」である。と言っておきながら、前文には「他国と他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」との記されている。「新たな文明」自体、何を意味するのか不明で、それこそ民主党の真意が見えず「恐れ」を感じなくもないが(笑)、それはさておき、自国を愛すると言う部分に関しては「国」という語を「恐れ」を理由に忌避し、他国に対しては問題無しというのはどうしたものか。民主党は日本人として余程己が信じられぬか。愛する対象が政治機構(=政府?)というのであれば、筆者もそれには反対の立場を取るが、そう解釈される「恐れ」が払拭できないというのであれば、基本法改正過程において、後になって語意が歪曲されぬよう、その点を明確にしていけばよいのではないのか。
民主党だけが、とは言うまい。与党にしても、自民党は「愛国心」へのアレルギーの強い公明党に妥協し、その結果が「我が国と郷土」になり、「愛する心」ではなく「態度」となったのだ(与党は面従腹背という言葉をご存知か?)。要は与党内部の事情に鑑みた妥協の産物ということなのである。同様に民主党が愛国心の表記を前文にとどめたのも、「国」を避けたのも、意見集約のできない党内事情によるものであるようだ。事実、毎日新聞などによれば、愛国心をめぐり党内対立があり、最終的に西岡氏に一任ということになったそうだ。そしてその結果が上述のごとくである。ここに今の民主党らしさがある。
愛国心というものに正面から向き合えない政党が、たとえ政権を取ったとして、国の舵取りができるものなのか、筆者ははなはだ疑問とするところである。
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