くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

産経新聞の人生相談: 小池龍之介という僧侶の”異常”な感覚

2012年07月14日 | Weblog
型破りな坊さんという認識しかなかった。

が、どうやらこの御坊、型にはまっていないのは僧侶としてだけではないらしい。

産経新聞に毎週一で連載される「人生相談あすへのヒント」での彼の相談者に対するほぼ一方的ともいうべき批判のしようには、少なからず驚きをおぼえるとともに、いや驚きを超えて不快感すらおぼえるとともに、この方が今まで歩んできた人生、生き方だけではなく、ものの考え方自体が社会通念を逸脱しているという意味で、「型破り」なのだと感じた。

まず、相談内容なのだが、相談者は神奈川県在住で結婚10年目の30代女性で、再婚からあ間もなくして不倫・妊娠の末に再再婚した義兄に対する義父母の「ゴキゲン」ぶりや、彼らが我が息子の不倫の末に捨てられた元嫁を悪く言うさまに不快感をおぼえ、気持ちの整理がつかないというもの。

これに対して小池氏は、冒頭から以下のように相談者に対して批判的な文言を浴びせかけるのである。


  「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人はわが輩の基準に従うべきである!!」とでもパラフレーズできそうな、支配欲が見え隠れしているようです。

確かに、相談者の行動には、やりすぎ、行き過ぎな面もなくはないと思う。というのは、自身の不快感を「主人を通じて(義父母)に伝えている」というのだ。義父母との関係というよりは、夫とも関係に配慮して、あるいは夫の気持ちに配慮して、そうするべきではないと思うのは私だけであろうか。夫婦といえども、やはり元は他人である。配偶者の親兄弟について、ましてや配偶者に面と向かっての批判は、かりに理屈のうえで正しくとも、よくよく慎重であらねばならない。さもなくば、感情的に配偶者との間に摩擦を生み、しこりを残すことにもなりかねない。良好だった夫婦関係が双方の家族をめぐってぎくしゃくし出すという例は、必ずしも珍しいことではない。そもそもが感情と肉体(と打算?)でつながるに過ぎない人間関係が到底かなわない「血」でつながった人間関係を軽く見てはいけないのである。

女房に我が親をとやかく言われた相談者の夫の反応は知る由もない。その通りの思ったのか、それとも不快ではあってもそれを表に出さず妻の言い分に耳を傾けたのか、あるいは感情的に反発したものか。その点に触れていないということは、小池氏の指摘の通り、相談者には独善の癖があって、夫がどう感じているかという点にまで気がまわらないのか、それとも、夫は同意あるいは聞き流しのいずれかの反応を示したものと推察する。

しかしながら、「世の中の善悪は、吾輩が決める」かのようとまで断じたり、義父母への思いや姿勢を「攻撃性」とまで断じる、小池氏にこそ言い過ぎの感が否めない。

ではなぜ、小池氏の相談者に対する姿勢はそこまで「苛烈」なのか。その答えは次のくだりにあるように思う。

   ご主人の両親が、自分の長男を幾分ひいき目に見て過ちに目をつむってしまうことや、孫さえできればうれしい、なんていうことは、ごくごく普通の、よくある人間
   心理です。(「ごくごく普通」を強調したいらしく、、、、と付されている)

また、両親の対応を「普通のゆがみ」とも言っている。

が、そもそも相談者の義兄のしでかしたことは、簡単に目をつむってしまって良いような過ちなのだろうか。不倫の末に不倫相手を妊娠させたことが、そんなに他愛もない過ちだといえるのだろうか。しかも再婚して間もなくしての不倫だというではないか。司法は不倫を社会通念にもとる行為とみなす。損害賠償の対象にもなる。つまり、うっとに裏切られた義兄の再婚相手は、義兄とその不倫相手すなわち再々婚相手に対して、それぞれ数百万の損害賠償を求めることができるのである。もちろん、そのためには不貞行為の明確な証拠が必要であるが、判例主義を取る我国の司法ではそのような判断がなされるのである。

そして、そうした判断は、文字通り社会通念に照らしていささかも奇異なものではあるまい。麻木某という不倫をしていた女性タレントがテレビから姿を消してしまったように、世間にはいまだ不倫を良しとしない風潮が強い。

不倫によって、それをした当事者二人が気づつけるのは、何も不倫された側だけではない。その家族、親兄弟。不倫をした側の家族すら傷つくこともある。

義兄の両親も、我が子の不行跡が不倫された再婚相手のみならずその家族、親族、そして彼らが結婚した際に祝福してくれたであろう方々にご迷惑やご心配をおかけしたという気持ちがあるならば、孫が生まれたとはいえ不倫の末のいわば「不義の子」である。うれしくとも、それを表に出すことを控えるのが、常識ある人間のとるべき行動ではないのだろうか。

ましてや、我が息子が裏切った元嫁の悪口を公言するなど、言語道断ではないのか。いかに元嫁との間にいざこざ等があったとはいえ、我が子の社会通念にもとる行為をむしろ肯定するかのような行為は、「破廉恥」のそしりを免れまい。

義兄や義父母の行動に相談者が嫌悪を抱くのは、相談者の行動に行き過ぎがrにしても、至極当然、つまり、相談者は常識人ということではないのだろうか。

それに対して、「支配欲」だの「攻撃性」だのと、それこそ攻撃的な言葉をあびせ、不倫した息子をとがめる義父母に対しては、「幾分ひいき目」、「ごくごく普通」と実に寛容なのである。

なんともまあバランスの悪いというかズレた判断、感覚としか、私には思えない。

まあ、もともと「普通」のお坊さんではないようなのだが・・・。

あえて、「まだ33歳」とは言いたくないが、人生相談に乗れるような年齢ではないと思うのだが・・・。確かに、いたずらに歳を重ねればよいというのではない。が、やはり重ねないと見えてこないもの、わからないことというのもある。

小池氏の相談者に見せた「攻撃性」は、彼の若さゆえなのか、人格のんさせるわざか、それとも仏道修行の結果得た結論なのか・・・。

いや、実に、実に、何とも「普通」ではない、と思えてならない。

















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42 コメント

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通りすがり (通りすがり)
2012-09-17 03:11:17
まだ彼が無名に近かった頃、Web上で相談していた頃があるのですよ。その頃ね、ある女性の相談に対して、『ここまで言う必要は無いだろう』と思える『攻撃』をして、ちょっとした炎上をやらかしたのが、この坊さんです(笑)女性に対して異常に厳しいですね。

小池君、文系なのですが、良く知りもしないのに生物学を引用して自説を固めることがあるのですが、生物学を専門にしている私に言わせて見ると『タワゴト』なのですね。というか、デタラメですね。文系らしい『ディベート』って奴ですかね?。真実・事実より、論破のほうが大切なのですよね?文系さんは。。。

釈迦という人物自体、一般的には理解されていませんよね。日本の仏教は、貴族のものとして発展していますし、平安時代は荘園を作り民衆から搾取したり、そもそも僧侶に貴族の子弟がなるのが慣例って部分もありました。鎌倉仏教を見ても、釈迦の述べたことから逸脱した部分も多いですね。そういう意味で、日本は、仏教を正しく伝来されていない国の1つとも言えますね。

釈迦は宗教やりたかった人ではないのですね。死後は法に従って欲しいと述べていますが、基本的には、修行者ですね。つまり自分自身が『知行合一』が出来ないということを良くわかっていた存在なのだと思えますね。彼の言葉が記されているとされるお経を読めば、いかに彼が自分自身、思っているように生きられないのかが書かれていて、面白いですけれどね。

日本で有名な『般若心経』も、実は偽経である可能性が極めて高いのですね。まあ、そんな感じで・・・小池氏は、釈迦の世界観をもう一度!って感じで頑張っているようですが、正直、彼自身が、物凄くゆがんだ存在であることは言うまでもありません(笑)

この手の坊さんを支持する層ってのが・・・どのあたりなのか・・・ちょっと私にはわからないのですが、まあ、物凄くインチキ臭いのは言うまでもありません。ただね!今、人間について非常に深い考察が科学の世界で為されていることは事実で、脳科学だけではなく生物学関連でも、極めて面白いことになっていますが・・・このあたりの論文は、専門的な知識がある程度無いと読めないという意味で、『悩んでいる人』が手に取って納得できるようなシロモノではないとも言えますね。

個人的には・・・今時のマスコミは、本当に売上げに苦しんでいて、質ではなく、単に受ければ良いと考えているのだと思います。このお坊さんの回答って、過激でしょ?(笑)こうした刺激的なものを題材にしないと売れないのでしょう。正統派の本は、本当に売れてませんからね。
私は (kumawann)
2012-09-18 18:59:17
文系ですので、脳科学等、まったくわかりません。是非これからもいろいろ教えてください。

日本の仏教ですが、そうですね、本家というか釈尊のそれとはずいぶんとずれてしまっていますね。伝来の途中の”フィルター”の影響を受けてしまった部分もありますし。

宗教、神仏に対するアレルギーは少ない方と自負していますし、毎朝仏壇、神棚には手を合わせ、柏手うちますが、仏はどうもです。身近で生臭を多く見過ぎたせいもありますが、やはり、本家から変質してしまっていることによる忌避感もあるのかもしれません。
Unknown (通りすがり2)
2012-10-06 13:50:41
あなた方は、心というものを経験によって知った小池氏を知識で批判する資格はないと思いますよ。
「普通のお坊さん」って何でしょう?『般若心経』が偽経かどうかなんてどうでも良いことで、そこに書いてあることが理解できるかどうかです。
理解できない凡夫が何を言っても無意味です。
経験してから批判しましょう。
コメント感謝いたします、が (kumawann)
2012-10-06 18:20:57
まったく独善的な申しようというか、ああそうですか、としか言いようがありません。


「般若心経」偽書説について私は論いていませんので、なぜ「あなた方」なのか? 日本語大丈夫ですか?

もっとも、偽書か否かはさておき、毎日仏壇を前に詠むべきものではないということをおっしゃる宗教家にはお目にかかったことはございます。ただ、それだけです。

それにしても、偽書か否かがどうでもよいというのは暴論でしょうね。偽書に宗教的真理が存するのか、というと普通に考えて、疑ってしからるべきでしょうし。
Unknown (通りすがりです)
2012-10-29 20:41:09
仏教勉強中の者でこれから禅宗の僧侶になるものです。小池さんの事はよくわからないのですが、仏教のことでちょっと書かさせて下さい。

本家仏教として伝えられている事は「諸行無常」と「因果応報」という事で、他の事は伝わった地域の風土に合わせて変わっています。例えば「輪廻転生」というものも、バラモン教の厳しい身分差別の中を生きる背景から生まれている考え方です。

■諸行無常:
物事は変わっていく。

■因果応報:
全ての事物には計り知れない複雑な理由が重なって成り立っている。

釈迦は自分のために修行していた人でした。同時に、他者への思いやりもある人でした。(という事が伝わっています)

釈迦の死後数百年後に、日本語で龍樹と呼ばれているインド人と思われる人が、その「思いやり」の部分に着眼し、「諸行無常」だから法も変わるとして、仏教に他者を救う考え方がが生まれました。(大乗仏教)

その後は仰られる通り、中国フィルターを経て日本に入ってきますが、日本の風土、歴史とともに変化して今に至ります。

主様の仰る本家仏教はもうどこにもありません。日本の仏教は「日本仏教」として本家なのです。

ちなみに、般若心経は先祖供養にはなりませんが、仏教に帰依するという事=仏教に賛成する祈り=自分も他人も救う祈りとして、仏壇等の前で詠むのは正しい事です。

仏教に忌避感をお持ちかもしれないとの事ですが、どうか少しでも接しやすいものと感じていただければと思い投稿させていただきました。

失礼な発言がありましたら悪意はございませんのでお許し下さい。
実は (kumawann)
2012-10-30 00:48:00
コメントありがとうございます。

私は、我が家は比較的神仏を大切にする家庭に育ったのですが、多感な年頃に複数の”残念”な御坊様に出会い、彼らを定点観測する(せざるを得ない)環境を得たものですから、以来、我国の仏教に対してはある種ネガティブな感情がぬぐえていません。

が、これもそうした坊さんに向けられるべきものであって、日本仏教そのものに向けらえるべきではないのかもしれませんね。

個人的には、宗教というものにもう少ししっかりと向き合うべきと思っております。

今後ともご教示を賜りたく。
Unknown (通りすがりです2)
2012-10-30 09:04:01
お忙しい中、お返事いただきありがとうございます。

仏教僧侶に対して残念だと思われる経験をされたお話し。きっと裏切られたような気持ちだったのではないでしょうか。
それでも「御坊様」という様な敬称を意識していただけること。
多くの僧侶は、自分たちがいかに日本社会で大事にされているかをもっと自覚するべきなのだと感じています。

こちらのサイトにたどり着いたのは、「僧侶 人生」と検索したらあたりました。
勉強のため、時々覗かせて下さい。

Unknown (仏教徒)
2012-11-29 00:42:55
小池龍之介さんの著書などを読んで幾らか知っているので、擁護しておきます。

小池龍之介さんが問題視しているのは相談者の「苦」です。
どちらが悪いのかをジャッジしているわけではないのですよ。
もしも、主人の両親が相談者であれば、「あなたはごくごく普通です。問題ありません」とは言いません。同じように言います。

彼は相談者が自ら行っている「苦の生産」を止めさせようとしているに過ぎません。
「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人は、わが輩の基準に従うべきである!!」これは言い過ぎと思われるのも仕方がないかも知れませんが、こういった甚だしい思い違いは誰もが心の奥底で思っていることです。
普段はそれに気付かずに「そんな事は思っていません」と言うでしょうがね。

何故なら「それは言い過ぎである。私はそんなに良識のない人間ではない」という思いも同時に持ち合わせていて蓋をしているからね。
Unknown (仏教徒)
2012-11-29 01:00:06
『ご両親の心のゆがみが「3ポイント」程度なのに対して、あなたの嫌悪感は「20ポイント」くらいに上るのではないでしょうか。』
この何ポイントというのは相談者を苦しめている度合いのことです。

「あなたは悪いことをしている悪い人です」といった言い方も、それは誰に対して悪いことをしている誰に対して悪い人だと言っているのかを知って頂くと印象が変わると思います。
小池さんは、相談者が自らに対して悪い事をしていると責めているんです。

この、「悪」や「罪」の捉え方という点でも確かに世間一般の考え方とはだいぶ違いますね。
とても仏教的です。
かりにそうだとして、 (kumawann)
2012-11-29 04:35:17
あの回答の仕方では、相談者にも読者にも通じませんよ。

紙幅の制限がありますので、難しいところなんでしょうが、もし仏教徒さんのおっしゃる通りの考えを小池氏がおもちだったとして、言葉が足りません。回答とては不十分、不適切の誹りはまぬがれなあいでしょう。

それに「とても仏教的」はよいのですが、それは仏教徒としての自己満足にすぎないのでは。実にマスターベーション的な発想だと思いますし、そこに仏教の現代社会における限界を感じてしまいます。

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