くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

鬼平犯科帳: 「本所・桜屋敷」

2011年09月19日 | Weblog
今日の時代劇専門チャンネルは鬼平三昧。

歴代の鬼平が見れるが、やはり播磨屋が一番原作にあっている。親父の高麗屋もいいが、やはり「本所のテツ」の昔があの「英雄役者」からは感じられない。

ある意味、高麗屋はやはり、舞台の上では弁慶であったり、熊谷であったり、なまじめの英雄物でこそその本領が発揮できる役者。千五百石そこらの旗本ふぜいは、少々器を余すのかもしれない。それに、鬼平を演じた当時既に還暦のはず。少々歳が行き過ぎた。息子の播磨屋だって、最近は、いかんせん他の出演者同様一寸齢を重ね過ぎたと感じざるを得ない。特におマサの梶芽衣子、彼女の独特の雰囲気といか色気は昔から好きなのだが、さすがに密偵おマサはきつくなった。

まあ、ありていに言えば、高麗屋という人は、実際の身の丈に反して大きな大きな役者で、弟の紀尾井町も「やっぱり兄貴にはかなわねえ」と言ったとか、言わないとか。あの大きさに、当代高麗屋が今少しでも及べばと思ったりもするが、「ラマンチャ」が肌身に染みついてしまった高麗屋の大仰な芝居は、時に役を小さく見せたり、腹が薄くなったりしてしまう。丸本物が得意でないというのも痛い。ご本人は不機嫌だったと噂に聞いたが、人間国宝で弟に先を越されるのも仕方がない。というか、当代を人間国宝に選定する最もな理由がひつからない。弁慶? 先代や爺さんの7代目のそれに比べたら、一歩どころか、少しも及んでいない。実際の身体は親父よりも大きいのに、小さくみえてしまうのだ。声や台詞は良いのだから、何とももう少し時代味を出せないものか。少なくとも後一皮むけないと「国宝」はとてもとても・・。まあ、同業の若輩には「自称人間国宝」もいるが、この際作戦変更で「ミュージカル」で国宝認定を狙ってみては? ん、ミュージカルではダメだって? ならば、「和製ミュージカル」ということで? やっぱ、ダメだわな。でも、音羽屋も人間国宝だよ? 六代目の芸なんか何にも継承しちゃあいないじゃん、当代? 弁天だって、親父の梅幸の方が、六代目写しで前々黙阿弥物らしいけどなあ・・。染高麗には是非、是非叔父から学んでもらいたい。

ああー、話が大脱線。

丹波哲郎(この人ってすごい御家柄の人なんだねえ・・。大名(でーみょー)なんか糞くらえなくらい)
でも、何やっても「黒木警視(正だっけ?)」。何やっても、007でのショーン・コネリーの相手役。
まあよくも、彼を鬼平にキャスティングしたもんですな。

萬屋? そもそもニンじゃない。子供の頃、萬屋の「破れ」シリーズ好きだったけど、やっぱ、あの人は声がああでしょう? 弟もそうだけど。だから、大石とか、鬼平は合わない。それに播磨屋みたいな演技のできる人じゃない。まあ、よくも悪くも「絵草紙」的な単純明快、見ているうちはおもしろく、見終わって余韻を残さないような作品が似合う人。よくも悪くもね。

さて、「本所・桜屋敷」。 まだ播磨屋版は今夜放映なのだが、もう何度か見たことがある。

原作も、何度となく。

あれ読むと、まあそもそも男目線で書かれているのだけれど、どうしても、自分自身の思い出と重なりあってしまって、見るたびにほろ苦い思いがする。でも、それが今となっては少しも嫌ではない。だから繰り返し見、読む。

女房久栄であったか、女は本性を隠さずさらけ出すと。

まだ若かったからもしれないが、将来を考えた女性の「本性」を期せずして見てしまった時の、「俺の心・・・(与三郎じゃああんめーに)」。怒りを超えて、心底悲しかったねえ・・・。でも、佐馬と違って、だからこそ、かえって未練もへったくれもなくさっさと立ち直っちゃったけど。

でも(でも、が多いなあ・・・)、あれからどうも女を見る目が醒めたなあ。「この女の今の言葉や立ち居振る舞いは、この女の本性ではあるまい」という思いというか、猜疑心みたいなものが、常に心のどこかに。
え、ウチの奥方? 率直に言って、例外ではありません。あの人も(いまだ)オンナですから。そんな信頼関係のない夫婦なんてって思います?

私はそうは思わない。だって夫婦は所詮他人。しかも男と女。お互いどんなに考えたって、理解し尽くせるなんてことはないと思います。とても下世話な話ですが、ナニする時、どこをどうすれば相手が満足するって、
やはり同性にしか分からないんじゃないですか、実際問題。ナニのどこをどういうふうにナニしてもらったら、気持ちいいとか? つまり、オーラルなんとかって、男性諸氏の多くは相手にそれを求めるわけですが、実際、する方はそれほど喜んでしているわけではないっていうじゃないですか? それにそもそも自分がそれを持っていないんだから、どうしたらどうなるなんて絶対わかりっこない。男の我々がオッパイを胸に二つ付けている感覚ってわからないでしょう? お相撲さんやよほどのおデブならいざ知らず。

そこらあたり男女の越えられない溝みたいなものの存在を呑み込んだうえで、男女関係、夫婦関係を持つしかないのだと思います。「この女は自分に本性をさらけ出していない。きっと自分には見せない「顔」があるはずだ」と思いつつも、「そういうものなのだ」と達観して付き合っていくしかない。

ならば女じゃなくて男同士で「夫婦」なんて選択、少なくとも私にはあり得ませんし。

でも、思い起こせば、この女、実はこんなヤツだったのか・・・と知ったときの、悲しみ。怒りとか恨みつらみなんて感情は突き抜けてしまった悲しみ。愕然っていうやつでしょうか?

鬼平の「女という生き物は・・・」。そういうもんなんでしょうねえ・・。まわりを見ても、過去にしがみつくのは男が圧倒的に多い。別れた相手のことをなかなか忘れられないのも男が多い。なぜそうなのか、男の私には理解できない。

それもまた、「女」という生き物の怖さ、不可解さ、おどろおどろしさ。

でも、私は女性は大好きです! 誤解のないようにいっておきますが、現在ただ今、「女性」すなわち我が「愛妻」の同義語ですから!

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