セクハラ訴訟の渦中の人、北米トヨタ社長大高英明氏が辞任した。
ある報道によれば、潔白を訴えながらも、仕事が手に付かず社益にならないとの判断だそうだが、事実上の更迭との報道もある。
トヨタは、現在只今事実関係の究明中だという。
かりに大高氏の主張通りセクハラの事実は無く、訴えた側の思い違いや捏造、誣告ということであるれば、大高氏は辞任などせず正々堂々法廷で身の潔白を証明すべきであり、それこそむしろ氏本人のみならず、家族そして会社のためにもなるのではないのか。
と言いたいところだが、セクハラ問題において、「加害者」として訴えられた側が潔白を証明することはそうそう生易しいことではないらしいのだ。というもの、痴漢事件とみたようなところがあり、「セクハラされました!」と声を上げた者勝ち的なところがあるからなのだ。
なぜそうなるのかと言えば理由は簡単である。セクハラという形に残りにくいケースの場合、その虚実を証明することは容易でない分だけ、被害を訴えた者の言い分が幅を利かせることになる。別の言い方をすれば、被害を訴える側がセクハラと受けたと認識したか否かが、重要なポイントになってくるのであるから、人の心の内を覗く術が無い以上、「被害者」の口から発せられた訴えの言葉に重きが置かれてしまのだ。大高氏が自らの行為や言動がセクハラに相当するとはゆめゆめ思わなかったとして、あるいは第三者から見てセクハラの事実など無かったように見えたとしても、当の訴えた側が「被害」を認識したと主張した時、その主張を否定することは至難の業となる。
お気の毒なことだが、訴訟という場に引きずりだされて、大高氏が勝利することはまずあるまい。氏のとるべき選択は、既に取り返しの付かないまでに汚れた晩節をこれ以上汚さぬように最善を尽くす他あるまい。それが氏のみならず、ご家族にとってもベストではなくともベターということになるのであろう。
一方、トヨタにしてみても、訴訟が表沙汰になった時点で、無傷ではいられず、であるならば、訴訟で争うことによって生じるであろう企業イメージの低下などのダメージを最小限にとどめることを目指すべきだ。そのためには、法廷で争う前に「被害者」との金銭的な和解を成立させることがやはり考えうる最善の策ということになるのであろう。
それにしても、と筆者は思う。結果論といえばそうなのだが、大高氏、脇が甘かった。訴えた側すなわち42歳女性秘書氏がよほどの腹黒か金目当ての魂胆をお持ちでもなければ、あるいは、例えばの話として、大高氏との間になんらかの特殊な関係があり、そこから生まれた感情に駆られての結果ということでもないのであれば、通常、火の無いところに煙をたたせるようなセクハラ訴訟は起さないのではないだろか。つまり、大高氏に何らかの落ち度あるいは脇の甘さがあったと考えるのが普通ではないのだろうか。たとえ「加害者」側にセクハラをしているという認識がなかったとしても、結果としてこのような事態に立ち至ったことに、弁解の余地はあるまい。米国において企業経営に携わる者として、大高氏がセクハラ問題の危険性を認識していなかったとは到底信じられぬ。そうした危険性への自己とともに組織の防衛を仕損じた、大高氏にトップマネージャーとして必要な資質が欠けていた、と判断せざるをえない。
大高氏の企業トップとしての資質を疑わせるも一つの事例は、現時点で辞任したことではないだろか。率直に言って、判断ミスと筆者は考える。社益のためとは言うが、訴訟を受けほぼ間髪置かずの辞任というのは、氏に対して疑念や憶測をいたずらに増幅させるだけではないのか。訴訟で仕事が手に付かないという辞任理由も、大企業トップの言葉にしては情けなく聞こえてしまう。社益に鑑みてとも言うが、社益といのであれば、かえってセクハラの事実を疑わせるよな安易な辞任は避けるべきではなかったか。
トヨタも、組織としての対応のまずさも指摘されても仕方ないかもしれない。まず一つに、現時点で大高氏の辞任を許したことである。氏の潔白とともに会社としての落ち度が無かったというのであれば、今氏を辞任させることは、上述したように得策ではあるまい。氏の辞任が報道の通り事実上の更迭ならば、尚更対外イメージ的にはまずいのではないのか。更迭すなわち社としてセクハラの事実ないしはそれに類するような疑わしき事実があったことを認めたのだ、と認識される可能性を考えてみなかったのか。あるいは、トヨタとしては、かりにセクハラないしそう認識されても仕方の無い行為があったことを認めるとして、責任はあくまでも大高氏個人に帰するもので、会社としての責任は一切ないと立場を貫こうということなのだろうか。だが、それはあまりにも虫が良すぎるどころか、使えぬ手だ。大高氏個人をスケープゴートにして逃げ切る手立ては既にトヨタの手中には無いのだ。なぜならトヨタ自身がそれを放棄してしまっているからである。上述の報道の一つによれば、現在トヨタは「事実関係の調査中」とのことだが、これを言ってはいけなかった。
この「調査中」こそ、トヨタがおかした二つ目の対処ミスである。訴訟を起こした元秘書氏によれば、会社にセクハラを訴えたにもかかわらず適切な対応がとられなかったという。これが事実だとすれば、大高氏のセクハラ行為とは別に、北米トヨタが組織として「過ち」を犯してしまったことになる。事の真相はどうあれ訴えに対して迅速に社内調査を行う体制が不在であったということになるからだ。これは、セクハラ訴訟では、企業にとって致命的である。そればかりか、訴訟をおこされた後になって「事実関係の究明中」などといえば、元秘書氏が訴訟を起こすまで氏の主張の通り何もしていませんでした、と白状しているに等しいではないか。取材に応じたトヨタ側の人間が、正確にどのような言葉を用いたかはわからぬが、少なくとも「再調査中」くらいは言えなかったものか。欲を言えば、「我が社としては関担当部署が事実関係を正確に把握しているものと確信しているが、訴訟への対応もあり現時点でそれを明らかにすることは差し控えたい」くらいのハッタリは聞かせてほしかった。
今回の北米トヨタのお粗末対応を見ていて、数年前のフォードとファイヤーストーンの一件を思い出す。当時のファイヤーストーンの日本人社長は、連邦議会公聴会でいきなり「アイムソーリー」とやらかしてしまったのだ。あれにはTVを見ていて唖然、呆然、愕然、言葉が出なかった。社内の事前打ち合わせで証言の内容を米国人スタッフにチェックさせなかったのか、社長はその言葉の持つ意味を理解していなかったのか、それとも一言そういっておけば何とかなると思っていたのかなど、いまだ疑問の尽きぬ出来事であった。
ファイヤーストンや北米トヨタに限らず、米国社会におけるトラブルに際しての日本企業の広報対応の甘さ、稚拙さが目につくことがしばしばあるが、その原因をどう理解したらよいのだろうか。山本七平氏などが指摘したところの楽観的憶測に自らを耽溺させてしまう日本人の民族病的(国民病的)「悪癖」のなせるわざということなのだろうか。それとも、単に「郷に入らば」ということへの認識不足ということなのだろうか。身近に日系企業社会や駐在員社会を見るにつけ、地元社会や地元住民との交流の不十分さや彼らへの理解の欠如を嫌がうえにでも感じさせられてしまうのだが、異文化交流というものに対する認識不足以前に、学ぼう理解しようという意欲自体が不足ないし欠如しているのかもしれない、とも思ってみる。
企業によっては、セクハラをめぐる模擬裁判をビデオ映画化し、それを社員教育に使っている会社もある。筆者も8年ほど前にひょんなことで二度ほどそうした映画の製作に関わったことがあるのだが、法廷での原告、被告双方のやり取りは、セクハラ防止、厳密に言えばセクハラ訴訟防止、あるいは訴訟が起こったとしてもそれにできるだけ負けない(まず勝利はない)ための防衛策への以下のような示唆を含んでいると感じた。
1)とにもかくにも社員教育により、具体的にどのような行為がセクハラに該当
するのか、またセクハラ行為を行った場合支払う社内的、社会的代償というこ
とを周知させること。ちなみに、ここでいう社員というのは、日本人駐在員
だけではなく、現地採用の米国人も含む。米国人社員同士のセクハラ問題とい のも結構あるのだ。また、セクハラというものが、男性から女性に向けてなさ れる行為でるとは限らない、ということも教育する上において肝に銘じておか
なければならない。つまり女性から男性、同性同士のセクハラということもあ
りえるし、実際に米国でも日本でもそうした事例が報道されたことを筆者は記
憶している。
2)セクハラ防止のために有効な職場環境作りの必要性。ここでいう
職場作りとは上記1)の教育による社員、従業員間のセクハラ理解を高めるこ
ともさることながら、オフィスあるいは工場内でセクハラを行いやすそうな設
備配置や空間設定をも含めてということである。
3)社員がセクハラ被害を気兼ねなく訴え出ることができる担当部署ないしシステ
ムを社内に常設する。この際、当然のことながら、被害者、加害者双方のプラ
イバシー保護、関係者の守秘義務の履行が徹底されなくてはならない。また訴
えがあるや否や担当者は上層部への速やかな報告、会社が契約する弁護士を交
えた事実関係の迅速な究明を行うとともに、被害者に対して、会社側が誠心誠
意訴えに向き合っているという姿勢を示さなくてはならない。同時に、社内で
解決可能な場合は、迅速に解決するよう最善の努力をすること。今回の北米ト
ヨタの場合のように、被害者が主張するように、会社側が被害者の訴えに迅速
に対応しなかったとすれば、それだけでも致命的なミスであることを肝に銘ず
るべきである。
4)既に繰り返し述べたように、セクハラは被害を訴えた者が圧倒的に有利な
立場にあるということを忘れてはならない。こうした認識が抜け落ちると、何
とかなるという甘い予見の罠に陥ることになる。
5)加害が事実であれば、加害者に慈悲は無用である。加害の事実が明らかにされ
たならば、即刻首を切るべし。情けをかけてはいけない。大高氏の場合、セク
ハラが事実ということであれば、退職金の返還を要求など、トヨタは氏に対し
て制裁的要素も含めた徹底した態度をとるべし。
6)最後に、残念ながら、セクハラ防止のための完全無欠の方策などというのは
存在しないということである。つまり、訴訟「超」大国である米国で商売を
行う以上、セクハラ問題に直面することは、カゼを引くくらいに当たり前の
ことと腹をくくっておいたほうが良いのであろう。要は、問題発生時に、どう
うまく対応し損失を最小限に抑えるかということにかかってくる。
あと、もう一つ、二つ。
※米国人ブルーカラーを雇う日系企業は、あらゆる意味における彼らのレベルと
いうものを考慮に入れておく必要がある。田舎に職場が立地する場合は特に注意
を払う必要がある。
※米国人の性衝動といものを日本人と同じレベルで考えないほうが良いかもしれ
ない(笑)。
以上。
ある報道によれば、潔白を訴えながらも、仕事が手に付かず社益にならないとの判断だそうだが、事実上の更迭との報道もある。
トヨタは、現在只今事実関係の究明中だという。
かりに大高氏の主張通りセクハラの事実は無く、訴えた側の思い違いや捏造、誣告ということであるれば、大高氏は辞任などせず正々堂々法廷で身の潔白を証明すべきであり、それこそむしろ氏本人のみならず、家族そして会社のためにもなるのではないのか。
と言いたいところだが、セクハラ問題において、「加害者」として訴えられた側が潔白を証明することはそうそう生易しいことではないらしいのだ。というもの、痴漢事件とみたようなところがあり、「セクハラされました!」と声を上げた者勝ち的なところがあるからなのだ。
なぜそうなるのかと言えば理由は簡単である。セクハラという形に残りにくいケースの場合、その虚実を証明することは容易でない分だけ、被害を訴えた者の言い分が幅を利かせることになる。別の言い方をすれば、被害を訴える側がセクハラと受けたと認識したか否かが、重要なポイントになってくるのであるから、人の心の内を覗く術が無い以上、「被害者」の口から発せられた訴えの言葉に重きが置かれてしまのだ。大高氏が自らの行為や言動がセクハラに相当するとはゆめゆめ思わなかったとして、あるいは第三者から見てセクハラの事実など無かったように見えたとしても、当の訴えた側が「被害」を認識したと主張した時、その主張を否定することは至難の業となる。
お気の毒なことだが、訴訟という場に引きずりだされて、大高氏が勝利することはまずあるまい。氏のとるべき選択は、既に取り返しの付かないまでに汚れた晩節をこれ以上汚さぬように最善を尽くす他あるまい。それが氏のみならず、ご家族にとってもベストではなくともベターということになるのであろう。
一方、トヨタにしてみても、訴訟が表沙汰になった時点で、無傷ではいられず、であるならば、訴訟で争うことによって生じるであろう企業イメージの低下などのダメージを最小限にとどめることを目指すべきだ。そのためには、法廷で争う前に「被害者」との金銭的な和解を成立させることがやはり考えうる最善の策ということになるのであろう。
それにしても、と筆者は思う。結果論といえばそうなのだが、大高氏、脇が甘かった。訴えた側すなわち42歳女性秘書氏がよほどの腹黒か金目当ての魂胆をお持ちでもなければ、あるいは、例えばの話として、大高氏との間になんらかの特殊な関係があり、そこから生まれた感情に駆られての結果ということでもないのであれば、通常、火の無いところに煙をたたせるようなセクハラ訴訟は起さないのではないだろか。つまり、大高氏に何らかの落ち度あるいは脇の甘さがあったと考えるのが普通ではないのだろうか。たとえ「加害者」側にセクハラをしているという認識がなかったとしても、結果としてこのような事態に立ち至ったことに、弁解の余地はあるまい。米国において企業経営に携わる者として、大高氏がセクハラ問題の危険性を認識していなかったとは到底信じられぬ。そうした危険性への自己とともに組織の防衛を仕損じた、大高氏にトップマネージャーとして必要な資質が欠けていた、と判断せざるをえない。
大高氏の企業トップとしての資質を疑わせるも一つの事例は、現時点で辞任したことではないだろか。率直に言って、判断ミスと筆者は考える。社益のためとは言うが、訴訟を受けほぼ間髪置かずの辞任というのは、氏に対して疑念や憶測をいたずらに増幅させるだけではないのか。訴訟で仕事が手に付かないという辞任理由も、大企業トップの言葉にしては情けなく聞こえてしまう。社益に鑑みてとも言うが、社益といのであれば、かえってセクハラの事実を疑わせるよな安易な辞任は避けるべきではなかったか。
トヨタも、組織としての対応のまずさも指摘されても仕方ないかもしれない。まず一つに、現時点で大高氏の辞任を許したことである。氏の潔白とともに会社としての落ち度が無かったというのであれば、今氏を辞任させることは、上述したように得策ではあるまい。氏の辞任が報道の通り事実上の更迭ならば、尚更対外イメージ的にはまずいのではないのか。更迭すなわち社としてセクハラの事実ないしはそれに類するような疑わしき事実があったことを認めたのだ、と認識される可能性を考えてみなかったのか。あるいは、トヨタとしては、かりにセクハラないしそう認識されても仕方の無い行為があったことを認めるとして、責任はあくまでも大高氏個人に帰するもので、会社としての責任は一切ないと立場を貫こうということなのだろうか。だが、それはあまりにも虫が良すぎるどころか、使えぬ手だ。大高氏個人をスケープゴートにして逃げ切る手立ては既にトヨタの手中には無いのだ。なぜならトヨタ自身がそれを放棄してしまっているからである。上述の報道の一つによれば、現在トヨタは「事実関係の調査中」とのことだが、これを言ってはいけなかった。
この「調査中」こそ、トヨタがおかした二つ目の対処ミスである。訴訟を起こした元秘書氏によれば、会社にセクハラを訴えたにもかかわらず適切な対応がとられなかったという。これが事実だとすれば、大高氏のセクハラ行為とは別に、北米トヨタが組織として「過ち」を犯してしまったことになる。事の真相はどうあれ訴えに対して迅速に社内調査を行う体制が不在であったということになるからだ。これは、セクハラ訴訟では、企業にとって致命的である。そればかりか、訴訟をおこされた後になって「事実関係の究明中」などといえば、元秘書氏が訴訟を起こすまで氏の主張の通り何もしていませんでした、と白状しているに等しいではないか。取材に応じたトヨタ側の人間が、正確にどのような言葉を用いたかはわからぬが、少なくとも「再調査中」くらいは言えなかったものか。欲を言えば、「我が社としては関担当部署が事実関係を正確に把握しているものと確信しているが、訴訟への対応もあり現時点でそれを明らかにすることは差し控えたい」くらいのハッタリは聞かせてほしかった。
今回の北米トヨタのお粗末対応を見ていて、数年前のフォードとファイヤーストーンの一件を思い出す。当時のファイヤーストーンの日本人社長は、連邦議会公聴会でいきなり「アイムソーリー」とやらかしてしまったのだ。あれにはTVを見ていて唖然、呆然、愕然、言葉が出なかった。社内の事前打ち合わせで証言の内容を米国人スタッフにチェックさせなかったのか、社長はその言葉の持つ意味を理解していなかったのか、それとも一言そういっておけば何とかなると思っていたのかなど、いまだ疑問の尽きぬ出来事であった。
ファイヤーストンや北米トヨタに限らず、米国社会におけるトラブルに際しての日本企業の広報対応の甘さ、稚拙さが目につくことがしばしばあるが、その原因をどう理解したらよいのだろうか。山本七平氏などが指摘したところの楽観的憶測に自らを耽溺させてしまう日本人の民族病的(国民病的)「悪癖」のなせるわざということなのだろうか。それとも、単に「郷に入らば」ということへの認識不足ということなのだろうか。身近に日系企業社会や駐在員社会を見るにつけ、地元社会や地元住民との交流の不十分さや彼らへの理解の欠如を嫌がうえにでも感じさせられてしまうのだが、異文化交流というものに対する認識不足以前に、学ぼう理解しようという意欲自体が不足ないし欠如しているのかもしれない、とも思ってみる。
企業によっては、セクハラをめぐる模擬裁判をビデオ映画化し、それを社員教育に使っている会社もある。筆者も8年ほど前にひょんなことで二度ほどそうした映画の製作に関わったことがあるのだが、法廷での原告、被告双方のやり取りは、セクハラ防止、厳密に言えばセクハラ訴訟防止、あるいは訴訟が起こったとしてもそれにできるだけ負けない(まず勝利はない)ための防衛策への以下のような示唆を含んでいると感じた。
1)とにもかくにも社員教育により、具体的にどのような行為がセクハラに該当
するのか、またセクハラ行為を行った場合支払う社内的、社会的代償というこ
とを周知させること。ちなみに、ここでいう社員というのは、日本人駐在員
だけではなく、現地採用の米国人も含む。米国人社員同士のセクハラ問題とい のも結構あるのだ。また、セクハラというものが、男性から女性に向けてなさ れる行為でるとは限らない、ということも教育する上において肝に銘じておか
なければならない。つまり女性から男性、同性同士のセクハラということもあ
りえるし、実際に米国でも日本でもそうした事例が報道されたことを筆者は記
憶している。
2)セクハラ防止のために有効な職場環境作りの必要性。ここでいう
職場作りとは上記1)の教育による社員、従業員間のセクハラ理解を高めるこ
ともさることながら、オフィスあるいは工場内でセクハラを行いやすそうな設
備配置や空間設定をも含めてということである。
3)社員がセクハラ被害を気兼ねなく訴え出ることができる担当部署ないしシステ
ムを社内に常設する。この際、当然のことながら、被害者、加害者双方のプラ
イバシー保護、関係者の守秘義務の履行が徹底されなくてはならない。また訴
えがあるや否や担当者は上層部への速やかな報告、会社が契約する弁護士を交
えた事実関係の迅速な究明を行うとともに、被害者に対して、会社側が誠心誠
意訴えに向き合っているという姿勢を示さなくてはならない。同時に、社内で
解決可能な場合は、迅速に解決するよう最善の努力をすること。今回の北米ト
ヨタの場合のように、被害者が主張するように、会社側が被害者の訴えに迅速
に対応しなかったとすれば、それだけでも致命的なミスであることを肝に銘ず
るべきである。
4)既に繰り返し述べたように、セクハラは被害を訴えた者が圧倒的に有利な
立場にあるということを忘れてはならない。こうした認識が抜け落ちると、何
とかなるという甘い予見の罠に陥ることになる。
5)加害が事実であれば、加害者に慈悲は無用である。加害の事実が明らかにされ
たならば、即刻首を切るべし。情けをかけてはいけない。大高氏の場合、セク
ハラが事実ということであれば、退職金の返還を要求など、トヨタは氏に対し
て制裁的要素も含めた徹底した態度をとるべし。
6)最後に、残念ながら、セクハラ防止のための完全無欠の方策などというのは
存在しないということである。つまり、訴訟「超」大国である米国で商売を
行う以上、セクハラ問題に直面することは、カゼを引くくらいに当たり前の
ことと腹をくくっておいたほうが良いのであろう。要は、問題発生時に、どう
うまく対応し損失を最小限に抑えるかということにかかってくる。
あと、もう一つ、二つ。
※米国人ブルーカラーを雇う日系企業は、あらゆる意味における彼らのレベルと
いうものを考慮に入れておく必要がある。田舎に職場が立地する場合は特に注意
を払う必要がある。
※米国人の性衝動といものを日本人と同じレベルで考えないほうが良いかもしれ
ない(笑)。
以上。
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