チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

駅と、その町

2013年03月01日 23時49分00秒 | 読書
眉村卓『駅と、その町』(双葉文庫13)

 本書の初刊は実業之日本社89年の『駅とその町』。その後95年に、講談社から『魔性の町』と改題されて文庫化。今回、初刊のタイトルに(ほぼ)戻しての復刊。立身(たつみ)という町を舞台に、8編の短編を繋いだ連作短編集(オムニバス長編?)です。
 特定の主人公はいません。あえていえば立身という町が主人公。その立身の、1964年(昭和39年)頃から1989年(昭和64年)頃までが、8個のちょっと不思議な物語によって点描されます(数字は私の推理。本書には具体的な数字はありません)。
 つまり東京オリンピックを機に好景気に入ってからバブル絶頂期に至る25年間の、まさに「正接曲線」(『準B級市民』所収)を描いて一気に上り詰めた日本のある時期を「時間的舞台」とする物語でもあります。

 この立身(たつみ)、都心からかなり離れているようですが、しかし地方都市というほどではなく、じゅうぶん通勤圏内の、いわゆる衛星都市のようです。ちなみに地方都市は、小なりとはいえある程度自立した地方の主都市として文化的中心の位置を担っています。
 対して衛星都市は、地方都市ほど都心から離れていないため、独立の文化圏経済圏を形成しえず、たとえ地方都市より規模が大きくても都心の文化経済圏に吸収され、だから衛星都市なんですね。小惑星ベルトが木星の大引力に晒されて、結合して惑星となりえなかったのと同じで、ある意味非常に中途半端な場所といえます。これが「立地的舞台」。

 また、この立身の町の成り立ちですが、町の中心を、国鉄(のちにJR)と私鉄が並んで走っており、「立身」の駅も隣り合わせにくっついている。この線路によって町は、実質的に二つに分断されています。国鉄側に、昔の宿場町の頃から続く旧市街があり(表側)、私鉄側はいわゆる新開地(裏側)で、第一話の昭和39年頃は何にもないような状態だったのが、どんどん開発され発展していき、大スーパーもできて、ある時期からはこっちが「表側」となっていきます。
 線路によって分断されているため交じり合いにくく、両地域が二つの文化圏として併存し続けてきました(地理的舞台)。

 以上で立身という都市の、ある意味特徴的な条件がわかると思います。まず、地方でも中心でもないその境界的性格。次に、町自体性格の異なるふたつの文化が駅を境にして接しているという条件。
 日本の右肩上がり期は全体として急激でしたが、都心はもともと都心ですし、地方は(労働力供給地ではあっても)その土地自体の変化は緩やかだった。したがってバブル崩壊の影響も軽微だったんですね。その影響をもろに受けて大きく変貌したのは、実は都会でも地方でもない、その中間領域、すなわち立身のような条件の場所でした。

 ところで、民族学では「カテゴリー間の中間領域は神秘性・魔性を帯びやすい」といいます(吉田禎吾『魔性の文化誌』)。逢魔が刻は、普通に考えれば真夜中のような気がしますが、夕方の黄昏時のことです。夕方の薄明が、昼(光)と夜(闇)の中間、両カテゴリーの重複部分だからなんですね。キリスト教の悪魔は元来両性具有なんだそうですが、これも性のカテゴリーの重複部分を曖昧な領域として怖れたからのようです(いうまでもなく現実の話ではなく思考の傾向の話です。人間の思考構造が二項対立に基礎づけられているからです)。
 この視点から本書を眺めるならば、「立身」はまさにいろんなレベルで、時間的にも空間的にもカテゴリー間の中間地点に立地した町であることが明らかです。「立身」では不思議な現象が昔から時折起こる町という設定なのですが、この立身の立地条件なら、それはある意味当然というべきなのです。

 第四話「化身と外国人」の主人公の大学生の父親は「立身には、昔からの立身のあり方の化身みたいなものがいるらしいんだ」(141p)と言い、主人公も目撃します。実際そういう怪異現象が、昔から立身では起こっていたようです。
 しかし第六話「拝金逸楽不倶戴天」で起こった集団消失事件は、新しい立身の在り方に抗議する古い立身を体現する老人たちが消失してしまうわけで、上記の父親の説明とは矛盾します。
 そもそも第一話「立身クラブ」で駅のプラットフォームに未来からタイムスリップしてきた太田は古い立身側なのでしょうか。新しい立身側なんでしょうか。(なお本書最初のこの怪異の発生が駅プラットフォームだったのは、上述の理由で非常に象徴的です)
 第二話「片割れのイヤリング」で、この町に転入してきたばかりの、いわば「新住民」のはしりである主人公の、その硬直した思考や行動を、多元的な在り方を示唆してやわらげた不思議な女は?
 これらの例に、上記父親の説明はマッチしません。
 けっきょく、立身の怪異は、戦後日本の急激な変化がカテゴリー間の摩擦を先鋭化し、その結果カテゴリーの接点・重複点において怪異が発生していたといえます。だから怪異自体に方向性はないのです。

「立身クラブ」ではオリンピック景気(64年)が、「片割れのイヤリング」では万博景気(68年頃~)が、背景に控え、裏の発展が停滞する表との境界線を鮮明化していきます。「親切な人たち」はオイルショック直前(73年)、オイルショック後の安定成長期に入った「化身と外国人」では立身の町にも外国人の住民が見られはじめ、「閉じていた窓」で旧住民も安閑としてられないことを自覚し、しかし「拝金逸楽不倶戴天」では「ノーパン喫茶」なる新文化が闖入者(安部公房)として旧住民を不安に陥れ(81年)、「亜美子の記憶」では、「片割れのイヤリング」で新住民のはしりだった主人公が、二十二年後(86年)、やはり旧住民側と相容れないと感じつつもその自分も又旧住民化しつつあることに気づき、町を出ようと考え始める――

 最終話の「魔性の町」は、本連作が上梓された89年が舞台で、ここにおいて作品世界が現実世界に追いつきます。その世界とはもちろんバブル絶頂期の世界です(2年後の91年にバブル崩壊)。その世界で、町の若者が立身の怪異を「魔性伝説展」として回顧するのですが、いかにもふさわしい終幕の引き方ではありませんか。
 この展覧会で、客寄せとして「魔性呼出しショー」が行われます。もちろん何も現れはしない。それも当然であって、すでに町は魔性が発現するメカニズムを失っているのです。本編の視点人物の新聞記者が、JRの駅(ただし私鉄駅と《統合》する新駅ビル建設工事中)を降りて見たのは、「末期の様相」を呈する駅前広場と、「閉じていた窓」で復活の意志を示していた「商店街は取り壊されつつあって、半壊の建物をいくつか残しながらも、全体としてはだいぶ後退」した姿なのでした。もはや「境界」は消失してしまったのです。

 かくのごとく本作品集は、日本の高度成長後半期からオイルショックを経て安定成長期に入るも、右肩上がりはずっと維持され、むしろ急激度を増していき、その極限であるバブル崩壊の一歩手前までを時間線として、その変化を最も鋭敏に受ける地方と中央の境界の町で、その町は又、新しい価値観と旧来の価値観が境界を接し侵食し合う町でもあるのですが、そこに発生する魔空間を、一種いとおしむような手つきで柔らかく捉えていて、不思議な感興を読者に残します。
 魔性は消え去って町は――日本は、やがて「無限大に達する寸前に」「振り出しに帰らされ」(「正接曲線」)、今度は浮上することもなく怒涛の(境界なき)グローバリズムに飲み込まれていくのですが、著者はそこまで見通していたのでしょうか。少なくとも作品自体は、いや作品自身は、はっきりと今日に至る世界を見据えているように、私には思われます。

3月2日追記。
 さっき、風呂につかっていて、アッと思わず立ち上がってしまいました。
 大変なことを失念していたことに、卒然と気づいたのです。
 『駅と、その町』の第一話で、駅のプラットフォームに、未来からタイムスリップしてきた男は、25年後の最終話で、プラットフォームから忽然と消えてしまった男ではないのか。
 風呂から上がって確認してみました。
 第一話の男は、出現時は背広姿。名前は「太田」。最終話で消える男は――残念ながら服装の描写はありません。しかし「ああ、タイムスリップが起こらんかなあ」が口癖だったとなっています。一方第一話の太田は出現時「まさか……いや、どうもそうらしい」「私はやり直しのチャンスをつかんだのだ」と、タイムスリップを全然不思議がっていません。それは常々それを望んでいたから、すぐにその事実を受け入れられた。そう考えていいのではないでしょうか。あ、そうそう、この消失した男、名前は「小田」。「太田」と「小田」。小田が本名で太田は偽名となるのでしょうが(なぜならオリジナル(?)の小田がその世界に存在しているはずだから)、偽名ってあまり本名とかけ離れていると、呼びかけられても咄嗟に反応できない、ということから、本名をちょっとだけいじったものを偽名とする事が多い、と、何かで読んだ気が……。眉村さんの小説だったかも(^^;
 これはやはり、小田と太田は同一人物ですね。

 さて、25年前にタイムスリップした小田は、すでに知っている未来の情報で、金儲けをし、土地を買おうとします。バブル絶頂期からタイムスリップしてきた小田は、土地が高騰することを知っていたからですね。しかし、この小田、二年後のバブル崩壊は当然知らないわけです(もちろん89年にこの話を執筆している著者も知らないのです)。
 第一話の太田である小田は死んでしまうので、結局金儲けの計画は潰えるのですが、もし生きていたら土地を買いあさり、結局バブル崩壊で大損してしまうはずなんですよね。うーむ。その話も読みたかったなあ(>おい)(^^;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眉村卓コレクション異世界篇Ⅲ夕焼けの回転木馬

2012年11月12日 23時10分00秒 | 読書
眉村卓『眉村卓コレクション異世界篇Ⅲ夕焼けの回転木馬』(出版芸術社12)

「夕焼けの回転木馬」は、86年に角川文庫版、04年に黒田藩プレス版が上梓された著者の代表的長篇で、今回が三度目となります
「ALWAYS三丁目の夕日」という映画がヒットし、それからしばらく同傾向のドラマやら映画やらが盛行したように記憶していますが、残念ながら私は見ていません。おそらく「過去の美化」に警戒心が働いたんでしょう。
 本篇も、タイトルだけ見れば、同傾向の作品のように見えるかもしれません。全然違うんです。本篇の一方のモチーフは、振り捨てられてしまった過去が恨みを残して(嘘(^^;)、それを振り捨てた末にいまここに在る・定在(ダーザイン)している主人公に対して引き戻しを画策するものといえます。
 人は、生きていくかぎりにおいてその都度決断し、向かうべき道を選択します。いや歩いたあとに道ができるのです。
 ということを逆に言えば、その都度都度において、選択されなかった道が残されるわけです。
 選択されなかった道は、そこで途切れてしまうのでしょうか。そうではない。これは眉村SF読者にはおなじみの世界観ですが、その都度都度に枝分かれした(主人公によって選択されなかった)道も、実は(それを選択した別の当人によって)踏み固められ道として続いていっているのです。
 余談ですが、『ぬばたまの…』は、かかる振り捨てられた・敗れ去った可能性を体現する主人公の物語だったわけですね。
 閑話休題、ではなぜ主人公は、過去につけこまれたのでしょう。
 それは主人公自身が、過去のターニングポイント(複数)に思いを残していたからです(この道でよかったのか)。
 結果として主人公は、過去に立ち返り、そのターニングポイントを再体験します。実はこれ、精神分析で言うトラウマの再体験による寛解と同じ機制なんですね。

 一方、もう一人の主人公は、かかる分岐宇宙、「主人公からすればあり得たかもしれない別の時間線」をぴょんぴょん横断しつつ体験し続けます。
 これは、前者の主人公の立場が、ダーザインをナンバーワン世界(『傾いた地平線』)として特権化するのであるに対して、後者の立場は、それを無化してゆくものです。ナンバーワン世界は特権的な世界ではなく、同じ可能性を持って存在・並在する数ある世界のひとつであるとして(この立場は『ぬばたまの…』『傾いた地平線』にはまだ現れてなかったと思います)。
 こう書くと、あっと気づかれるかもしれません。要するにイーガンが上から見下ろして俯瞰した世界観を、眉村さんは下から見上げる立場で(もしくは等身大の視点で)書いているんですよね。ですから多元宇宙論はイーガンのそれのように体系的では、一見ありません。下から見上げるのでは見えない部分(死角)があるからです。しかし結局は同じ世界観を描いているように私には思われます。
 もっとも、当然ながらすべて同じ訳ではありません。イーガンのそれは超客観的な「冷たい」世界ですが、著者の場合は主人公の主体性(アンガージュマン)に相関する「熱い」それであるという違いがあるように思います。まあ上と下に対応するわけですが。
 そしてそれぞれの世界の中に実存する(個別に定在する)、無限にある分岐世界の自分同士の関係ですが、これもイーガンとは違っていて、すべての時間線の主人公は物理的に別人ですが、意識的には、というか「心」は同一人物のようです(ソーザイン)。ただ認識・知覚できるのはひとつの世界のみという感じでしょうか。
 いや、一個の無意識の大海の中に、無限に枝分かれした意識がそれぞれ独立的に浮かんでいる、というイメージでしょうか。それぞれの意識は、一つの無意識を介してつながっているのです。ただしそれら個々の意識は対応する分岐世界に強く志向させられているので、そもそも意識は対応するそれぞれの時間流(の自分)しか意識できないのだが(逆に言えばそれぞれの世界において心身的存在であるということですが)、この主人公は前時間流の記憶を持ったまま別の時間流(の心身性のうち)に移行できるのです。だから、移られる前にそこに占めていた意識はどこへ行ったのだ? という矛盾は起こらないわけです。この説明が正確かどうか心許ないですが、非常にユニークな、説得力のある設定だと思います。内観的にも納得できるように思います。

 さて、そういう世界観において、本篇は二人の主人公を配し、どちらも著者の分身ですが、ひとりは過去に立ち返ってこの道でよかったのかという葛藤を再体験により解消し、今一人の主人公は、無限にあるすべての並行世界、すべての時間流において、自分の意思を未来へ向かって徹底させるという、とんでもない壮挙に出ます。その意味で著者は、前者には過去、後者には未来を担わせているのかもしれません。
 いやこれはすごい小説ではありませんか。
 本篇は《異世界篇》三部作の最終篇ではありますが、同時に前二作の境地を取り込み総括するものでもあるといえるのではないでしょうか。
 巻末の自作解題で著者は、単行本で出版し書評でどう扱われるか知りたかった、と書いていますが、むべなるかな、それだけの自信作・会心作であったということですね。実際私も、当時の純文学方面からの反応を知りたいなあ(とりわけ戦中戦後の心象風景の描写について。ここだけ取り出して短篇化したら完全に純文学です)、と感じますが、ほとんど知られなかったんではないでしょうか。その意味では不遇な作品であったといえるのかもしれません(だいたいSFの賞も取っていないのが不可解)。
 とまれ堂々たる傑作長篇SFで、存分に堪能しました。

※角川文庫版(86)及び黒田藩プレス版(04)には「回転木馬」に「メリーゴーランド」のルビがありますが、本書ではなくなっています。

「照りかげりの旅」『幻の季節』(81)初出。著者言うところの「旅先での怪異もの」(巻末自作解題)の一篇。旅ものでは『異郷変化』が私は好きなんですが、本篇は、その手の作品群の中でもかなり暗調で、主人公は行く末を迷いに迷っています。天候までもがそれに追随して最後まで日が差すことがありません。
 主人公は著者自身を彷彿とさせますが、解題によれば、執筆の最中の著者はそうは思っておらず、今回読み返してそれに気づいたとのこと。
 ところがこの作品、雑誌初出が<小説CLUB>80年2月増刊号で、てことは前年の年末頃には完成していなければならないのですが、その前年である79年の10月に、著者は泉鏡花賞を受賞しているのです。つまり気分的には高揚期であっても不思議ではないのに、その受賞からわずか2か月後に書き上げられた作品が、このような暗調のものになったというのは、しかも執筆中には主人公が「当時の私(著者)のデフォルメ」であることに気づかなかったというのは、そして著者自身は本作をあまり気に入っておらず「正直、懐かしいとは思わない」と述べているというのは……。この心理、非常に興味深いのですよねえ。

「思いがけない出会い」『疲れた社員たち』(82)初出。<異世界篇三部作>に通底する「いま在る自分」と「別の可能性の道を進んでいる自分」というテーマを、ほとんどショートショート的な軽いアイデアストーリーに乗せて、対峙させた作品。あまり深く考えこまない(口笛でも吹いていそうな)ラストが飄々として印象的。

「うつつの崖」は初出『出張の帰途』(90)。いわゆる<日生もの>の一篇。会社員時代の内的悪夢をファルス仕立てに仕上げられた作品で、「勤め人」の経験がある読者には身に覚えがあって苦笑してしまうのではないでしょうか。それとも「アイタ!」と小さく呟くのでしょうか(笑)。

 さて、三巻に亘った<異世界篇>は、これにて無事完了。めでたしめでたし。編者の日下三蔵様ご苦労さまでした(巻末の膨大な「著書リスト」圧巻でした)。ということで、次のコレクションは一体何になるのか、気になってくるわけですが、私は<未来社会篇>を期待したいなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眉村卓コレクション異世界篇Ⅱ傾いた地平線

2012年08月12日 02時16分00秒 | 読書
眉村卓『眉村卓コレクション異世界篇Ⅱ傾いた地平線』(出版芸術社12)

 日下三蔵責任編集の異世界コレクション第二弾。第一弾に引き続いて、本書でも日下氏のセレクションが絶妙で、堪能いたしました。

「傾いた地平線」(元版『傾いた地平線』角川書店81)
 SF作家である主人公の「ぼく」は46歳、そこそこ地位も名声も得ているが、それゆえ「安定ともいえない安定に狎れた驕り」を自覚している。そんな「ぼく」が、突如、正確には1981年10月20日、気がつくと、作家になって辞めた会社で、次長をしている「自分」のなかに「転移」してしまっていたのです! そこは、主人公がSF作家にならなかった「別の」時間線上の世界だった!?
 多次元(分岐世界)テーマは、書き尽されている感がありましたが、大概は、別の時間線に移行しても、移行した人物の心身は前世界から連続的です(異世界の自分は別に存在する)。本篇はそうではなく、当該世界の自分の肉体に、前世界から連続する意識がとり込まれてしまう点が非常にユニークです。
 では、肉体の元の主人はどうなるのか。それは分からないとされます。ときどき元の主人の記憶が甦るので、閉じ込められている可能性もあります。可能世界は無数にあれど、実体化するのはその中の一つだけとの考え方をとれば、それまでは潜在していた可能世界が、「ナンバーワン」の意識が宿った結果実体化した、とも考えられます。
 ただしこの考え方は主人公には気に入りません。もしそうだとすれば、そもそもの「ナンバーワン世界」(という表現は出て来ませんが)は非在化してしまって還れないからです(この意味で、無数の多世界の同時並在を許容するイーガンのそれとは、あざやかに対称的といえますね)。
 さて、このような小説世界を設定することで、著者は何を突き詰めたかったのでしょうか。おそらくそれは、いま私たちが自分自身であると信じて疑わない「この私」は、はたして本当に唯一無二の「私」なのか、ということだったのではないでしょうか。
 「この私」は、その経歴(時間線)によって形成されますが、ある時点でもし別の可能性を選択したら(させられたら)、その新たな時間線に見合った「この私」となっているのではないか、そういう思考実験だったように私は思いました(追記。実際、遠い時間線に移行すればするほど、主人公は、当該時間線の主人公の「ふり」をすることに困難を感じてきます。この設定も、考えたら論理的に当然ですが、そこまで突き詰めた多元宇宙ものがこれまでに存在したでしょうか。私自身は、前例をにわかには思いつきません)。
 著者の創作態度の根本には、「複眼思考」があります。すなわち「この現象はこっちから見たらペケだが、あっちから見たら、そう簡単にペケとはいえないぞ」という二段構えの態度であります。インサイダー文学論もこのあらわれの一つでしょう。本篇で著者は、それを「私」「自己」に適用してみせた。そう考えていいのではないでしょうか。
 本篇で、主人公は四度、時間線を転移します。最初はほとんど違わない時間線から、次第に違いの大きな時間線へと移ってゆく。要するに、分岐点が「1981年現在」からみれば、どんどん過去に遠ざかっていくのですが、一回目では妻も娘も、ナンバーワン世界と全く違っていません(二回目では違ってしまっている)。でも、それでもやはり、別人なんです(と主人公は認識します。なぜなら当の妻子も別の時間線によって形成された人格だから)。*この視点はイーガンにあったでしょうか。ちょっと読み返して確認したい。
 いずれにせよ、この辺は「近すぎるがゆえに」きわめてサスペンスフルでした。その意味で前半は、ちょっと安部公房を想起しました。
 最後の時間線では、世界自体もナンバーワン世界とは違っていて、1981年10月20日時点の一週間前に、大阪大震災とそれにひきつづく火事で、一面、戦後の焼跡を彷彿とさせる焼け野原と化しています(まるで14年後を予言しているかのようです)。
 それまで常にナンバーワン世界へ還りたい、そのためにはナンバーワン世界人としてのアイデンティティを必死に保持しようとしていた主人公ですが、上記のような、「この私」は何者かとの懐疑によって、その必然性に一抹の疑念を感じ始めていたこともあり、この時間線で「御破算」にし、一から始めるのかと思いきや、この時間線も「仮の宿り」にすぎないんですよね。切ないラストでありました。

「暁の前」(元版『月光のさす場所』角川書店80)
 「傾いた地平線」と同じく多元(分岐)宇宙テーマ。それぞれの宇宙にそれぞれタイムパトロールが存在したら? というアイデアストーリーなのですが、巻末の、著者による「収録作品雑記」によれば、主題は主人公とのこと。中年となり、それなりに小成功少安定を得て現状に満足していてしかるべき主人公が、しかしこれでいいのだろうか、これが我が人生なのか、と、ふと思ったところに、二つの時間線からタイムパトロール員が訪れ、それが主人公の心に、さざなみをかきたてる……

「潮の匂い」(元版『かなたへの旅』集英社79)
 傑作。中年となり、それなりの暮らしをしている主人公だが、家では下宿人のように息を潜めて暮らしている。その彼がふと昔を思い出し、気分転換と、少年の頃よく海水浴に出かけた(今はもうコンビナートになっていてそんなことは不可能な)浜辺へ、自転車を漕いで出かけたとき、すでに異世界の門は開いていたのでした。浜近くの町で彼は、戦後の、アセチレンランプが照らし出す懐かしい夜店群に遭遇し、一晩を過ごす。そして……。
 「傾いた地平線」では切ないラストでしたが、ここでは主人公は「御破算」を選び取り「やりなおす」。別の時間線へと出立するのです。

「S半島・海の家」(元版『かなたへの旅』集英社79)は、リゾート・ホラー。精霊たちの意趣返しがなかなかに効果的で決まっていて、わたし的には快哉を叫びたいのでありました。

「檻からの脱出」(元版『かなたへの旅』集英社79)もホラーですが、主人公が囚われるのは、一人の女の内宇宙。内宇宙のなんともいえないつげ的風景がこわい。

「乾いた旅」(元版『かなたへの旅』集英社79)
 一種の隠れ里テーマ。もしくは「塀についた扉」テーマ。ここでの主人公の決断は、「潮の匂い」とは異なります。本篇と「潮の匂い」を読み比べると、著者の謂う「複眼の思考」が、ステレオグラムのように浮かび上がってくると思います。

「遠い日の町」(元版『幻の季節』(主婦の友社81)
 は、「なきもの」への郷愁に満ちた傑作。「日生もの」と呼びたい。「日生もの」(H市もの等も含めれば)そこそこあると思います。「日生もの」だけで作品集が編めるんじゃないでしょうか(「傾いた地平線」を含めずとも)。まとめて読んでみたい。日下さん企画編集してくれませんかねえ。おそらく、郷愁と哀愁にいろどられた「青春記」に、結果としてなるに違いありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しょーもない、コキ

2011年06月01日 03時57分00秒 | 読書
眉村卓『しょーもない、コキ』(出版芸術社 11)

 斎藤さんからご報告がありましたとおり、俳句誌「渦」と短歌誌「あめつち」に、いまも連載中の短いエッセイのうち、2004年から今年締切り時点までの分116編を、掲載順に並べたもの。
 その第1回「コキ」(2004年掲載)は、はからずも本集の前説となっていまして、「この間から、頼まれてもいないのに、折々の感慨や短い思い出話を書き溜めにかかっている。全体の仮題は、「ショーモナイ、コキ」である」(7p)とあります。システマティックな著者らしく、はなから全体の構図が定まっていたわけですね。
 と、そのように方向性は定まっていたとはいえ、しかしその範囲内に於いて、「ここに収めたのを見ると、自分でも苦笑したくなるほど、雑多である」(238pあとがき)として、亡妻がらみ話、老いの自覚からくる気持ち、子供の頃の思い出、さらには、(現在の)日常生活での不満や世の中へのイチャモン、と、その雑多性を強調するのだが、結局それが、収録作品の実に整然たる分類となっているところも、いかにもこの著者らしくて笑っちゃうのであります(^^;。

 いまひとつ、本書の特徴は、表紙はもとより、すべての挿絵を著者が描いていることです。116本のエッセイすべてに、あの独特なオバQにも似たキャラクターのイラストといいますかカットが付されていて、ついほほ笑んでしまうのですが、またそれが当該エッセイの内容に見合ったポーズを示してどれ一つ同じものはないのであります。まことにプロはだしというべきではないでしょうか。
 「変な絵(?)について」では、当のそのイラストを話題にしているのですが、そのなかに「私は、少年時代、マンガを描いていた。本人としてはマンガ家になりたかったが、ちゃんとした修行をしたわけではない。当時の少年雑誌に投稿して掲載されたのを、物好きな方が最近見つけ出してコピーを送って下さったのを眺めると、よくまあこんなに下手なのに頑張っていたものだなあと思う」(230p)とあるのは、何を隠そう(隠しません)このことでありましょう(^^;。有志Oさんのご好意が一本のエッセイを生む原動力となりました。まことにありがたい限り。

 さて、収録116本の中で最も気に入っているのが、「歩く速度」「Y通り」。前者は、上の分類にしたがえば「亡妻がらみ」と「老いの自覚」の合せ技。後者は「子供の頃の思い出」と現在が交錯する話となるのでしょうが、どちらもエッセイというよりは随想、いやむしろ掌篇(短話)といいたい逸品で、読後に強烈な印象を残します。スケッチなのですが、無駄な語は一語もありません。どちらも見開き2頁の紙幅に収まるものながら、その奥行きは限りなく広く深い。完璧な傑作といいたい。
 とまれ、飄々とした軽みがとても味わい深いエッセイ集で楽しみました。現在連載中の分も、何年後になるのか分りませんが、楽しみに待ちたいと思います!

 ところで本書、どうも誤植が、あまりに素人っぽくて気になった。まずは気がついたのを列挙――

 2p目次、漂白→漂泊
 10pタイトル、漂白→漂泊
 同p6行目、漂白→漂泊 

 ここまで徹底(?)されると、ひょっとして漂白には漂泊の意味があったのかな、と自信がなくなってきます。でも、11p5行目は、漂泊となっているので、やはり誤植(誤変換)なのでしょう。

 131p、こっちゃ→ごっちゃ
 143p、藤沢周平代→藤沢周平氏
 151p、僧越→僭越
 158p、部分→部品
 219p、エントリピー→エントロピー
 228p、中編と後編→中編と短編
 230p、見つけだしで→見つけだして

 これらは変換ミスというようなものではないですね。眉村さんは、本書でも語られているように手書き派でありますから、ワープロ打ち込み作業が発生します。そのときに起こったケアレスミスのように思われます。それにしても「藤沢周平代」なんてのを見ると、完全に素人の手によるものであることがわかる。出版社から委託される業者ではちょっとあり得ないと思います。となれば、このミスは、雑誌掲載時のワープロ入力の際に起こったもので(両誌とも限りなく同人雑誌に近いのでしょう)、出版社はそのデータを流用したのではないかな。ともあれ、見苦しいので重版時に訂正していただきたいものです。

 最後に「記憶の圧力」で言及されている「倦怠の檻」は、著者の言うとおり、検索したら即判りました(私は未読)。リチャード・R・スミス作で『宇宙の妖怪たち』所収(→こちら)。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寝ても覚めても

2011年05月06日 21時15分00秒 | 読書
柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房10)

 本篇は、『ビリジアン』のように短篇を繋げた連作長篇ではなく、純然たる長篇小説で、同タイトルの短篇が『ドリーマーズ』に収録されていますが、その長篇化でもない全くの別作品です。私は著者の本を、本書を含めてもまだ三冊しか読んでいませんけれども、勘案するにおそらく本書は、これまでのところの最高傑作なんではないでしょうか。既読書に比べてもレベルが一桁違う作品のように感じました。とりあえず「凄い」のひと言。

 ストーリーを要約してしまうと、なんだか安直なドラマのように思われるかも知れません。私も最初は、「ちょっと危ういなあ」との予断を以って読み始めたものでしたが、恋愛小説というならばそういってもいいですが、これほどエンターテインメントのそれから遙かにはずれてしまった恋愛小説もありません。だからストーリーの要約は(予断を招きそうなので)省きます。

 私はまず、本篇から「時間」というものを強く意識させられた。本篇は、主人公の、大学を卒業して就職したばかりの、22歳のゴールデンウィークから31歳までの物語が、わずか270頁で語られるのです。どんどん時が過ぎていきます。最初のGWで、いわゆる一目惚れをしてしまった「麦」に翻弄される9年間と言ってよい。「麦」は「獏」でしょう。夢の世界の人物のように淡い、全く生活感のない、実体感のない若者で、主人公の女友達が「あさちゃんは、ああいう感じでオッケーなん? ていうか、かなりあかんと思うねんけど」と主人公を心配するほど。とつぜん数ヶ月も居なくなったりする。そういう事が何度もあり、案の定、中国へ旅行に出たまま音信不通になる。

 主人公も主人公で、かなり幼いというのか、生きるのが不器用な感じで、麦がいなくなったあとも、主体性もなく流されるまま、東京に移り住みます。で、そこで(麦と知り合って6年後、麦がいなくなってからなら3年後)麦とそっくりな若者亮平に出遭う……。

 なんといいますかこの辺が、表面的には韓流ドラマっぽい展開なんですよね(汗)。ま、それはとにかく、それから半年近く、主人公は亮平を避ける。実は亮平に惹かれているのだが、それは彼に麦を見ているからだと思っているのです。ところがひょんな偶然で(これまたテレビドラマの定石のシーン(^^;)、一気に二人は付き合い始める。そのうち主人公の心の中で、麦はどんどん印象を薄めていくのですが、亮平と付き合い始めて3年後、主人公の前に、突然麦が現れる、というか(テレビの中に)目撃する。麦は新人の映画俳優になっていたのです! なんとなんと(^^ゞ。
 亮平が転勤で大阪に帰ることになる。主人公も大阪に戻ろうと決意する。そんなとき、麦の乗っているロケ車が主人公の横を通り過ぎるのでした……。

 や、ストーリーは書かないと言っていたのに、気づいたら書いてしまってました(汗)。まあいいか。とまれかくまれ、このように要約すると、誰でもこの後の展開に、韓流ドラマのゆくたてを予想するに違いありません。たしかにある意味、まさに予想通りに展開していくのだが、その予想は最終的に大きく裏切られてしまうことになるのです!!

 このラスト、読む人で大きく好悪に印象が分かれてしまうでしょう。でも、このラスト、そもそも「現実」の(もちろん小説内現実の)出来事なんでしょうか?

 亮平は大阪に転勤することになって、それで主人公も大阪へ帰る決心をした筈です。なのに、なぜ亮平は主人公の住んでいたアパートの裏の家に住んでいるんでしょうか? 同じシーン、いま亮平と付き合っているらしい千花が、主人公と口論のあと、千花の友人らしいげんちゃんが、「都合よく」自転車でやってきて、千花を乗せて去っていく。これもふつうにはあり得ないシチュエーションではないでしょうか。(註)

 そう考えると、このシーンが「現実」のシーンだとは考え難くなってくる。つまりこのシーンは主人公の「心の中」の、いわば《内宇宙》での出来事なのではないか。主人公は、眠っている麦を残して岡山駅でのぞみから降りたとき、「現実」との繋がりも切れてしまったのではなかろうか――と想像するのは、あながち無理読みでもないように思われるのです。あるいは麦との逃避行すら、既に《内宇宙》での話なのかも。……

 ともあれ、時の流れの非情さに、主人公がひたすら切ない、残酷な物語で、よかった。面白かった(汗)。
 あと、著者がアングルを考えて描写しているのは間違いなく(平谷美樹もそうですね)、たとえば本書の第1行目は「この場所の全体が雲の影に入っていた」という印象的な文章で始まり、雲の下に街があり、やがて視線は高層ビルの展望フロアに収束していくのですが、この描写のように、実に視覚的な快感があります。折々に挿入される2、3行のスケッチ風の描写も(その前後に絡む場合も、ぜんぜん無関係な場合もある)、よいアクセントになっている。平谷さんは美術の先生でしたし、本篇の主人公はカメラが趣味なのだが、おそらく著者自身もそうなんでしょう、そういう「目」のよい人の小説だよなあ、と感じました。

 柴崎友香って、とんでもない作家なのではないか、そんな気がしてきました(>畏怖)。

 (註)むろん亮平の方に未練があり、会社を辞めてアパートの裏の家を借りて主人公が戻ってくるのを待っていたという可能性もあり得るわけですが、そういうのはあからさまなので、千花は近づかないのではないでしょうか? そんなロマンチックな話ではないと思います。それではまんま韓流になってしまいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドリーマーズ

2011年04月26日 22時58分00秒 | 読書
柴崎友香『ドリーマーズ』(講談社09)

 短篇集です。本書もなかなか面白かった。なかでも表題作が、書名に選ばれるだけあって一等よくできています。父親の一周忌で大阪に帰ってきた主人公は、(どこかで飲み会のあと)最終の地下鉄中央線で大阪港駅の妹夫婦のマンションに向かう。話は地下鉄が阿波座駅を出て地上に上がってくるところから始まります(ただし駅名等は明示されない。以下同じ)。車内の描写がすごくいい。いかにも最終電車らしく、酔っ払って少年隊の決めポーズのような格好で、反り返ったまま寝ている男。やはり酔っ払っているのだろう、吊革につかまって体を浮かしながら奇声を発している男。それらを眺めて笑っている、チアガールの衣装の上にウィンドブレーカーを羽織っている女……。ちょっと不思議な連中を乗せて最終列車は闇の中を走る。

 何度も言及しておりますように、乗り物で(幻想世界に)到着するのが幻想小説の基本パターンであるわけですが、本篇も例に漏れません。この車内の奇妙奇天烈な連中の描写は、いかにも幻想小説(軽ファンタジー?)の開幕にふさわしい。というか、実は主人公が地下鉄に乗った段階で、すでに《幻想世界》は始まっているのです。それが証拠に、地上に出て最初に止まった駅(だから九条駅でしょう)で、若いカップルが降り、次の駅、弁天町駅で吊革男ともう一人が降りる。この駅が弁天町駅であるのは、その駅を出発した電車の「窓の外の景色は、黒い闇の部分が増え、そこに見える白い光の点々は、低いところに、遠いところに、私たちから離れていった」という描写から明らか。となれば、その次の駅は朝潮橋駅のはず。なのですが、地下鉄は一気に、大阪港駅へと到着する。
 どうやらこの世界に、朝潮橋駅の存在しないようなのです(笑)。単に省略しただけだろうって? 弁天町から大阪港まで、おそらく6分以上あるはず。ところがその間の会話といえば、「今、好きな人いますか」/「うん」(即座)/「私も!」(155p)だけ。あとは停車のための減速で空き缶のようにゴロンと進行方向に転がった少年隊の描写があるだけ。やはり朝潮橋は存在しないんです!

 これは何を意味するのでしょうか。本篇の《小説世界》が、以下にも述べますが、リアル世界とまったく同じ世界ではない(幻想世界である)ということを表わしているに違いありません。しかし、それについてはあとで述べます。
 とまれ、電車は減速を始めた。主人公は降りるために立ち上がる。しかし、ふと見るとチアガールは座ったまま。あれ、と思ってすぐ気がついた。この地下鉄路線、「長い間次の駅が終着駅だった」のだが「何年か前にわたしがちょうどこの街を離れたころに路線が延伸した」(156p)ことを思い出したのでした。港町ですから、ここで行き止まりなのです。その先は海しかない。だから「何十年も終わりだった」のです。ところが今やそれが「途中になり」、線路はここから海へ潜って、埋立島へと至っているのです……。たしかにリアル世界ではそうなのですが、主人公は「もしかしたら、線路は下降して海に潜るのではなくて、空に向かって昇っていくのでもよかったよかったかもしれない」(157p)と考える。ここでも、この世界が、リアル世界とは少しずれているかもしれないということが、ほのめかされていると看做せなくありません。
 さて、大阪港駅で降りた主人公。(天保山の)大観覧車の照明も、はや消えていて、明るいのはローソンだけ。そんな時間。「金曜日と土曜日の境目だった」(158p)。妹夫婦のマンションに辿りつきます。

 この妹の造形がとてもよい。主人公も含めて、本篇の登場人物は概ね夢見がちな、だらりんとした人間ばかりなのだが、この妹・沙織だけは常に忙しく立ち働き、まるで潔癖症のように片付けまくっている。「沙織はだいたい複数のことを並行してやっている」(166)。この沙織、古井由吉の描く女たちの同類なんですよね。沙織の夫のマサオはいたって暢気で、どうも年下っぽい雰囲気。なので釣り合いが取れているようですが、一歩間違えば『聖』三部作の女です(笑)。そういう対蹠的な女を配置することで、一種対位法が効いて、小説世界を引き締めています。沙織がいう。「夢? わたしは見いへん」/廊下からマサオの/「夢は見よう」/という声が聞こえた。(182p)

 実は本篇の主たるモチーフは《夢》なのです。マンションに辿り着き、飲み会での酔いが今更のように襲ってきて、炬燵でうつらうつらした主人公は夢を見ます。この夢が、なんと、眠っているのだけれども耳から入って来たらしい、テレビの音声と室内の会話から合成されたものだったことが起きてから分かる。マサオも同じように炬燵でうたた寝していて夢をみるのだが、これまた右に同じで大笑いとなる。「目は閉じれるけど、耳は閉じられへんねんなあ」(175p)
 マサオの見た夢は、金本の偉業(安打に関する記録らしい)を称えるテレビの報道番組と、イラク戦争のドキュメンタリーから構成されたものだったんですね。金本の安打の記録といえば、これは二千本安打しか思いつきません。検索したら、金本の記録達成は2008年4月12日(ちなみにイラク戦争は2003年から)。ですから本篇で描かれるこの話の時間は、2008年4月12日もしくは13日未明のこと、ということになります。4月初旬ですから、当然部屋には炬燵がまだあるわけです。

 でも――よくよく調べてみると、金本が2000本安打を達成した2008年4月12日は、土曜日なんですよね! ところが上記のように、小説世界の時間は、「金曜日と土曜日の境目だった」(158)。だとすれば金本の偉業は翌日の試合で達成されるので、この時点では未達成のはず。やはりこの世界は、リアル世界そのままではない。朝潮橋では空間でしたが、ここでは時間も少しずれていることが、それとなく示されているのです。
 更に細かいことをいいますが、大阪港駅がテクノポート駅とつながり、終着駅から通過駅になったのは1997年なのです。小説内の「今」の《時点》が2008年だとしたら、とても「何年か前」どころではない。でも中央線に編入されたのは2005年なので、そこに着目すれば3年前となり、「何年か前」は妥当な表現となります(158pに「二歳から三年前まで住んでいた部屋」という記述があり、これを裏付けます)。上記に従っていえば、本篇の世界では、OTSテクノポート線の歴史は存在せず、2005年に初めて中央線が延伸した、ということになる(笑)。

 ……と、もちろん考えてもいいのですが、むしろ著者において非常に強い印象があったに違いない、終着駅が途中の駅になってしまったという、一種のセンス・オブ・ワンダーをどうしても言い表したくて、97年に感じたそれを、小説内に摂り込むため05年に持ってきたというのが(小説作り上の)舞台裏なのではないかと私は推理しますが、これは余談でした(笑)。

 以上だらだら書いてきたのは、結局何を言いたいかというと、著者はリアルな回想記を書いているのではないということの確認です。リアル世界とは少しずれた世界として、いわば幻想世界として、構築している(その意味では先回の『ビリジアン』の読みは、初読で情報が少なすぎたせいもありますが、私小説的なリアルにひきずられすぎたかな、という気が今はしています)。
 上述のとおり本篇では、(まさにタイトル通り)各人の夢がライトモチーフとして語られるのですが(但し妹の沙織以外)、その中で、主人公の見た夢には亡き父が現れる。夢の中で父は、自分が死んでしまっていることに気づいていないようなのです。もう一晩泊まった次の夜の(つまり土曜の夜の)夢にも父が現れて、やはり死んだことに気づいていないように、主人公には思われて仕方がない。夢の中で、事実を告げてあげるべきなのか、主人公は悩む。言ってあげなければ、一周忌も数日後に控えて、成仏できない(とは書かれてませんが)のではないかと気がかりな一方で、ずっといてほしいという気持ちも。

 その気持を、主人公は携帯電話で、付き合い始めたばかりらしいボーイフレンドに語る(上記の「うん」私は即答した。聞いてくれてうれしかった。(156p)の、彼ですね)。聞いてもらって、聞いてもらえただけで、主人公は何故か安心します。そもそも本篇は一周忌で帰ってきたことで始まる。その意味で、ここで主人公は、ボーイフレンドを受け手に、フロイトのいわゆる「喪の仕事」(モーニングワーク)を完結させたといえる(cf『フロイト思想のキーワード』)。魂鎮めとは一義的には死者の魂(霊)がふらふらと迷い出さずにきちんと成仏させることですが、実はそういう儀式を行なうことで、むしろ自らの心を、死者への気持ちを断ち切って安定させるものなのです。だとすれば、まさに「喪の仕事」とはそのことを差します。
 つまりここで主人公の心から、ずっと尾を引いていたものがいったんリセットされる。で、ラストの「結婚祝いやな」(205p)が効いてくるのです。死の反対は生ですが、結婚は「生」に比定できる。上記の言葉は直接には友人の「結婚祝い」ですが、主人公のうちでは自身の「結婚」が含意されているわけです。一周忌を目前に「藻の仕事」で一定の決着をつけた主人公の新たな「生」の予感で、物語は終わります。

 後は簡単に。
 「寝ても覚めても」は、ラスト一行がめちゃくちゃ面白い。この1行のためにストーリーがある。
 「束の間」は、大晦日という「カテゴリーの中間領域」に、つかの間開けた無時間地帯に、主人公が入り込む、一種トワイライトゾーン風。構造論的にいってカテゴリー間の隙間に魔が宿りやすいのは言うまでもありません。
 「夢見がち」は焼肉を食べに、福島駅から環状線に乗った主人公たちの、鶴橋駅までの間の車内での会話が描かれるだけ。ところがそれが一種百物語になってしまう。オモロイなあ。究極の環状線小説(^^;。
 「クラップ・ユア・ハンズ!」も一種の怪談で、これも怖いのか可笑しいのかよく判らん、変な小説でよかった(^^)
 「ハイポジション」でも夢がラストのオチに効果的に利用されています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビリジアン

2011年04月20日 17時24分00秒 | 読書
柴崎友香『ビリジアン』(毎日新聞社 11)

 著者はわが高校の後輩とのことで、以前から気になってはいたのですが、ネットであらすじなどをチラ見するに、最近の純文学に多い、ゆる小説みたいな感じがどうも予感されて、手を出しあぐねていた。でもこのたび上板された本書は、主人公の小学校高学年、中学、高校、予備校での話とのことで、これはいけるかもと手にとった次第。はたして正解。全然ゆるい小説ではありませんでした!
 本書は眉村さんの『沈みゆく人』をちょっと連想させる連作集で、さながら大阪軽幻想小説集の趣きがあります。そして、たぶん――というのは主人公の「わたし」が、どの程度著者自身をなぞっているものなのか、初柴崎ゆえに見当がつかないからですが――眉村作品と同様の意味で、《私ファンタジー》と考えて差し支えなさそうです。
 10ページから20ページ程度の短い短篇――頁当たり文字数が少ないので20枚前後。掌篇というべきかも――20篇で構成され、主人公の小中高予備校での出来事が、点描式に、主人公自身が何十年かのちになって思い出すままに、時系列も自在にいったりきたりしながら、回想的に綴られたものという形式の連作集です。
 先にも書きましたが、舞台はまさに大阪、それも、どうやら主人公は大正区に住んでいるらしく(眼鏡橋の近く)。主たる舞台は、明示はなされませんが、大正区、港区、それからミナミで、丁度ミナミを交点にして眉村ワールドの西隣に広がっているという感じ。
 そういう場所柄当然ですが、作品世界には常に「川」があり、「橋」がある。川の上を高速道路が走り、環状線が横切る。渡し船が「本土」との間を結んでいる……と書くと、いかにも地域性丸出しみたいですが、さにあらず(私がその辺をよく知っているだけ)、どこの誰が読んでも大変面白い、そういう一般性を充分に獲得し得ている。それらの風景や事物は、あたかもモニュメントのように、或る陰影を帯びて読者に示される。一種不気味といえなくもない雰囲気が全体を覆っている。その結果、独特の色調を帯びた、柴崎ワールドと云ってもよい《ランズケープ》が現出させられているのです。すなわち風景が単に脊髄反射的に直接に描写されるのではなく、いわば心象風景に昇華されてから提示されているわけで、それがとても好ましく感じられました。
 その一方で、大阪弁の効果でそこはかとない可笑しみが全体を包んでもいる。なぜか環状線にマドンナが乗っていて、主人公と会話する。
 マドンナは網タイツの足を組み替えた。/「映画? なに見るん?」/「ドグラマグラ」/「あー、枝雀が出てるやつや。おもしろいらしいで、あれ」
 ちなみにジャニス(ジョプリン)やボブ(マーリイ)も出てきます。そのように作中で突然有名無名の外人が出現して主人公と会話するのも本篇の特徴で、あるいはひょっとして、マドンナやジャニスやルー・リードに語らせている言葉(大体が主人公より高次から語られる)は、当時の、その時点の主人公(≒過去の著者)に対する、執筆時点の(現在の)著者の想い(批評)が反映されているのかも知れません。マドンナたちは、仮託された著者自身なのかも。《私ファンタジー》という所以です(ただし最初のピーター・ジャクソンは実在で事実でしょう)。受験生の主人公が環状線を降りると、ホームで待っていた中学生の主人公が乗り込んでくる。『沈みゆく人』を直に彷彿とさせられるシーンですね。
 話は飛びますが、冒頭の「黄色の日」で、黄色い空が描写される。これはなにか意味深で象徴的と思われるかもしれませんが、大阪市内では実際、と云っても最近は知りませんが、まっ黄色な空になることが年に一回か、数年に一回、あった。私も中学校の時、教室の窓から毒々しいまっ黄色な空を見ていた記憶があります。
 眼目の高校時代の話も何篇かあるが、実際に高校が出てくるのは「アイスクリーム」。ただし私の卒業後、ほぼ完全な改築がなされたため(かつての裏門に正門が作られ、正門が裏門になった)、本書に出てくる高校はほとんど馴染みがないのでした。ただ「スロープの前は裏門で、格子の向こうはバス通りだった(……)道路の向こう側の中華料理屋の赤い暖簾が揺れた」とあるその中華料理屋が、唯一私の知る風景で、よく利用した店でしたが、現在ではガソリンスタンドに変わってしまっており、著者の知る高校も、既に記憶の中にしかないものかもしれません。
 ――と、最後は邪道読みになってしまいましたが、いや面白かった。もっと読んでみようかな。

 追記。タイトルは色名で、緑色の一種らしい。青春時代という含意なのかな。私は、主人公がマラソン大会でダントツのビリッケツだったところからきているのではないかと邪推しているのですが(^^;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈みゆく人

2010年12月19日 20時24分00秒 | 読書
眉村卓『沈みゆく人』(出版芸術社10)

 170頁の表題作中篇と、あと30頁に満たない短篇3本を収録。著者はあとがきで、本書を「私(わたくし)ファンタジー」と位置付けている。たしかに各篇の主人公の名前こそ、それぞれに違うけれども、住んでいる地域や、何年か前に妻を亡くした男やもめであることなど、いかにも著者自身を髣髴とさせる設定になっているのは間違いない。とはいえ「私小説」ではない。リアリズム小説ではないからだ。

 「沈みゆく人」の主人公である「私」は、ひょんなことで自費出版本と思しい本を贈呈される。それは読む者の内面を反映してストーリーが変化するというもので、読者がストーリーに同調してしまうと、本の中にとり込まれてしまい、あとには「抜け殻」が残されるようになってしまうというものらしい。
 試みに読み始めた主人公だったが、最初はストーリー(エピソード?)も短く、読者である主人公に完全にフィットするものではなかった。が、読み返すごとに物語は変化し、次第に主人公に同調した話になっていく。ストーリーも長くなり、詳細にもなっていったのだ。

 この作中作というべき(太字で表現された)ストーリーというかエピソードがなかなか面白い。とりわけ作中の「私」がXYZの3人に分裂してしまうエピソードは実にもって興味深い。

 そうこうするうちに主人公は、本の文字の色が少し薄くなっていることに気づく。――ここまでが、いわゆる序破急の序にあたる部分といえよう。そして破がくる。すなわち、次に主人公がその本を開けたとき、文字は消え去って白紙になっていたのだ……。

 本が白紙になってしまったということは、要するに読者が本の中にとり込まれてしまったということなのだろう(説明はいっさいない)。なぜなら、それまでは、主人公はかつて結婚していて、妻は既に亡くなっているけれども、子供は海外で暮らしているという設定だったはずなのに、ここに至って突然、子供はいないという設定に変わっており、やがて結婚もしていないとなる。そしてなぜか、とうに亡くなった妻がいたという「偽記憶」がありありと身に迫ってきて、主人公を当惑させる。
 かかる相転移を見逃すと(ガイドする説明はいっさいないので。というかそのような変化がサインになっているのだが)、著者がうっかりミスしているのではないかと誤認してしまう方が、万一いないとも限らないのでご注意。なお、更に蛇足を重ねるならば、本の中に飛び込んだ主人公の抜け殻が、現実世界に残されて日常生活を送っているはずなのだが、それは本篇では描かれていない。

 さて、その世界で主人公は、体の調子も思わしくなく、死がすぐ間近にせまって来ているような予感をいだいている。そしてなぜか世界そのものも、終末を迎えようとしている風なのだ。かくのごとく作品の背景には、最初から通奏低音のように「滅び」の予兆がひしひしと漲っている。主人公はなかば傍観者の態度で、ときおり「はは」と薄く笑うのだが、それはまさに主人公と世界の間の離人症的乖離感を表現している。 
 私はこのへん、ヴォネガットに非常に近しい《世界への構え》を感じないではいられなかったのだが……。

 ともあれかくのごとく本が白紙になって、主人公はいつのまにか、現実とそっくりながら、少しずつ違う世界に放りこまれている。その世界では、若者は不思議なファッションに身を包み、世界はガンマ線バーストやら小惑星の衝突やらが目前に迫っているらしい。そんな世界で、主人公は「偽記憶」として現われる「現実の」記憶の、ありありとした「現実」らしさに当惑する。それはまるでディックの現実崩壊的悪夢世界を想起させるものだ。

 全てにおいて生き生きとした現実感を失った主人公は、そのときくだんの、白紙になった本を思い出す。もしここに自分自身が物語を書き込めばどうなるのか? 主人公が書き込んだのは、無限の砂漠にまっすぐに伸びた一本の道だった……

 私はこの安部公房的な開示に、ちょっと違和感を持った。ここはやはり(著者がいくつかの著書で繰り返し還っていった、戦後の、あの)「原っぱ」が展けているべきではないのか。
 しかし、あとがきを読んで私は、私のその疑問が浅はかなものであったことを知る。「原っぱ」では畢竟過去への逃避でしかない――そう気づかされたのだ。一本の道は、まっすぐ「未来」へと伸びているのだ。だから「原っぱ」ではいけない。あとがきで著者は、「エイやん」は挽歌だったと述べている。では本篇は? そう「始まり」「出生の歌」なのだ。あるいは「再生」の歌。 
 ――「終末」の暗い予兆に満ちた本篇は、しかし最後に「未来」への一条の光を見いだして幕を閉じる……
 引き締まった傑作だ。

 あとの短篇も、それぞれ面白い。とりわけ「板返し」の繰り返しのアイデアは、一見「しゃっくり」の後追いみたいだけれども、観念性はぜんぜん別ものである。私は思うのだが、著者はこれを書いているとき、ラストの暴力シーンでは、いったいどちらに思い入れして書いたのだろうかと。私は加害者の方だと思うのだが。
 「じきにこけるよ」は、最初と最後が対応する短篇小説の教科書のような佳篇。「住んでいた号室」で、主人公がテレポートしたのは一体どこだったんだろう?

 以上、4年ぶり待望の新作である本書は、まさにその期待を裏切らない、期待にこたえて余りある秀作集であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語

2010年11月22日 01時59分00秒 | 読書
ゾラン・ジフコヴィッチ『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』山田順子訳(黒田藩プレス10)

 著者はバルカン半島ユーゴスラビアのSF作家。解説によれば、既訳にSFマガジン82年4月号掲載の「琴座計画」があるそうで、そういえばタイトルをうっすらと覚えている(つまり読んでない(^^;)。
 そういうわけで本書が作家の初読なのだが、するりと僅かな時間で読みきってしまった。実は解説部分を含んでも140ページ、しかも1ページあたりの文字数も一般的な小説本にしては少なく、ほぼ400字詰め1枚に換算できる。つまり全部併せても140枚の小さな本なのだ。数時間で読了できて当然なのであった。
 これぐらいのボリュームがいいですね。私のような遅読者でも一気に読み切れるちょうどよい分量。当然軽いから、読んでいて腕も疲れない。そもそもわが国の読書環境は、安楽椅子でゆったりと読書するイギリスとは違う。一般的な読者の多くが、通勤時間を主たる読書タイムにしていると考えてあながち間違いではない。そういうお国柄(読書環境)なのに、日本の書籍はどんどん分厚く、重くなって来ているのではないか。
 いったい、満員電車で片手は吊革で塞がれ、もう片方の手だけで本を持って無理やり読書している読書人の姿(シーン)を、出版社は想像したことがあるのだろうか。自分たちの都合(部数減を頁数の増化と過剰な付加価値(>豪華本化)による単価アップで補うこと)ばかり考えて、読者の読書環境などまったく顧慮していないのではあるまいか。
 ちょっと話がそれるが、私が以前勤めていたのはチェーンストア業界なのだけれども、そこで口を酸っぱくして教えられたのは、客を抽象的な消費者としてみず、具体的な(生身の)生活者として想像しなさい。食品部門ならば台所と食卓にいる客を、そのシーンにおいて想像しなさい、ということだった。たとえば食品のパッケージが、ここ数十年来の傾向として多品種少量化してきていることは、皆さんも常日頃感じておられるでしょう。しかしながら、少量化・多品種化がお題目・新たなる抽象化になってしまうことも、場合によっては起こりうるのですね。大数観察的にはそれは正しい方向であるに違いない。しかし100%正しいとは限らないのです。チェーン店の長所であり欠点は、日本全国同じパッケージが並ぶこと。少量パックは核家族化に対応している。ところがいったん少量化したパッケージが標準化すると、いまだ大家族主体の地域の店においても、同じ売場同じ品揃えになってしまいがちなのだ。
 かれこれ二十年前、私はそのような、当時まだ所謂<新住民>の流入が少ない地方都市の店に配属されたことがある。品揃えは地域の特性に見合っていないように思われた。そこで私は、流れに逆行する、業務用品並の大容量パッケージ(量目が増えるので価格は見かけ上がるけれども、定量当たり単価は下がる)を実験的に扱わせてもらった。すると、それらの品目が大好評で成績も上がり、その後そのような特性の地域の店では、大容量品の品揃えがパターンとして商品部に取り入れられたのだった。いや自慢する訳じゃないですが(>しとるよ)(^^;
 ともあれチェーンストアに限らず、民間企業ではこういうのは当たり前の発想といっていいのではないか。どうもそういうCS的発想が、出版業界では機能していないのではないだろうか。本の購入者を「読書人」として捉えるならば、本来の流れは、単行本はソフトカバー化(片手で曲げて持てる)、文庫はズボンのポケットに入る厚さにとどめる(上着の内ポケットにならkindleだって入るんです(だそうです)。書籍はとりあえず何でもいいからkindleに出来ないことを目指さなくては)ことだと私は思うのだが。それができていないということは、出版社が、いまだ民間企業たりえていないということなのではないだろうか。

 おっと、前置きが長くなってしまいました(^^;。

 本書は作品集で、短篇が三本収録されている。
 「ティーショップ」(05)は、乗ってきた列車が遅れたため乗り継ぐべき列車が出発してしまい、乗換駅で次の列車を待たなければならなくなった女性が主人公。これまで何度も言っているように、「小説世界への到着」は幻想小説の重要な契機であり、往々にしてそれは「列車での到着」となる。本篇もまたそのモチーフを踏襲している。このように同じ(似た)モチーフが、伝播関係の認められない別の作品にそれぞれ独立的に現われる現象は、『夢の遠近法』の感想でも再三言及した。そのときはまだ思いついていなかったのだが、そのようなモチーフ群を、レヴィ=ストロースの<神話素>に倣って、<幻想小説素>と名づけてはどうだろうか。そしてその源泉は、おそらく諸個人の無意識の深奥で通底している集合無意識に求められそうだ。

 とまれ主人公は「到着」した。到着したそこは、一体どんな幻想界だっただろうか? 主人公は2時間半の待ち時間をどうつぶすか、考えあぐねる。読んでいた本は残り80頁しかなく、それは旅の最終区間に見合う量なのであって、今ここで読み切ってしまうわけにはいかない。このことから主人公が読書好きの婦人であることが分かるであろう。主人公は、ふと目に止まった喫茶店で、時間を潰すことを思いつく。店のメニューには変った名前のお茶が並んでいた。そのなかでもとびきり変わっていて目を引いたのは<物語のお茶>! 主人公はそれを所望する。すると――

 注意>ここから先は、まず実作を読まれることをおすすめします(^^;

 いやー実に巧緻な作品になっているのですよ。オチ? うーんそうでもない。むしろ「趣向」というべきか。実はこれだけのほのめかしでも、読み慣れた鋭敏な読者は、その趣向に始読即気づいてしまうのではないか。そんな微妙な仕掛けなのだ。私自身は、最後の話者が語った男の顔の描写で、あっと叫んで最初に戻った。どんな鈍い読者も、ここで分かるように作者は仕掛けているわけだ(^^;。うまい!

 ところで結局、主人公は<小説世界>(物語の世界)に留まる、というか(おそらく積極的に)加わっていくのだろうと推量せられるのだけれども、それは単に読書好きだから、というだけの理由からだろうか。私は、そもそもなぜこの主人公は旅に出たのか、を重視したい。そう思ったのは、次の作品を読んだからなのだが……。

 「火事」(01)は本集中の白眉。<図書館SF傑作選>が編まれるならば、「バベルの図書館」と共にぜひ収録してほしい作品(笑)。
 主人公は図書館の司書。不思議な建造物が焼亡する嫌な夢を見た朝、気分がすぐれないけれども、いつものように夫の車に便乗して図書館に出勤する。この間(かん)、長年連れ添った夫との間に会話はない。主人公はこれを夫婦生活の安定のしからしめるところ、一種の「阿吽の呼吸」と考えている。
 図書館でコンピュータを立ち上げていると、変な映像が現われる。それはなんと今朝、夢に見た建造物だった。夢ではそれと気づかなかったが、今ははっきりと分かる。それはかのアレキサンドリア大図書館なのだった(解説による)。当時世界中の書物という書物(当然紙の本ではなくパピルスの巻物)を蒐集したと謳われる、古代世界最大の図書館だ(但し解説者は勘違いして「ギリシャの」と記している。もちろん所在地は「アレキサンドリア」)。しかし勿論その「映像」があるはずがない。主人公が見守るうちに、図書館は(夢に見たとおり)火災を起こし焼亡する(現実のアレキサンドリア図書館もそう)。――と、前作同様、作中世界とコンピュータが映し出す古代世界がシームレスに繋がり……
 (SF的に解釈するならば、未来ではこの古代図書館の蔵書を、(時を超えて)「利用」できるようになっており、なんらかの理由で、たまたま主人公のコンピュータに混線してしまったのかも。しかしそのような説明は一切ない。説明過多なSFとは一線を画すものといえる) 
 主人公はこの不可思議な体験を、帰宅の車の中で、夫に語ろうとして、結局已めてしまう。会話がなくても大丈夫なように、カーラジオもすでに夫によってつけられているだった。……

 ――という具合に、主人公は合理化してしまっているけれども折々挿入されるのは倦怠期の夫婦の図なのだ。会話のない夫婦。それは一面では安定であるが、他面、それまで保っていた引力が斥力に負けつつあるのかも。そして斥力が引力にまさったとき、主人公は<旅>に出ることもあるのではないだろうか。
 そういう意味で、本集の構成は、本篇を巻頭に持ってきて、次に「コーヒーショップ」を並べたほうが、私はよかったように思う(実際本篇のほうが「コーヒーショップ」より発表も早い)。しかし切れ味のあざやかな「コーヒーショップ」を先頭に配置した編者(訳者?)の考えもよく分かる。

 「換気口」(03)は、最近はやりの<多元宇宙>テーマ。事故で頭を強打した少女は、その結果、目をつぶると、光の線が無数に撚り合わさった太い光束が見えるようになる。それは未来へと伸びるこの世界の<可能性>の束なのだった。その無数の光の線のうちの一本が、次第に太く強く輝きだし、未来がひとつに確定する(てことは<多元宇宙>ではないのか(^^;)。ではどういうメカニズムで、未来は確定するのか? 偶然なのか? それとも神の御手か? そうして少女は、怖しい事実に気づく……
 これは珍しく、SFの王道を行くテーマに著者は挑戦している。が、もとより一筋縄の筋立てではない。全体の色調は、戦前の変格探偵小説を髣髴させるもので、一種異様な感覚が楽しめた。

 以上、ユーゴスラビアの(SF)作家ゾラン・ジフコヴィッチの奇妙で魅力的な作品集『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』山田順子訳(黒田藩プレス)読了。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アントンと清姫

2010年08月06日 23時30分00秒 | 読書
 「SFマガジン2010年9月号」より、まずは巻頭の高野史緒「アントンと清姫」を読みました。もちろん元ネタは「アントンと点子ちゃん」です。嘘です。道成寺の方です。ド、ド、道成寺、道成寺の鐘は♪……のあの道成寺です。違いますね。それもいうなら証城寺の庭は、ですね。どうも昨日の熱がまだ下がりきってないようです。

 一説によると、古いパルプ雑誌をぱらぱらと捲っていたら、そこに載っている作家の名前を何となく入力して検索したりしてしまうのが普通なんだそうです。日本人の94%くらいはそうらしい。ホンマかよ(^^;。少なくとも私はしませんけどね。そのかわり小説を読みながら検索したりすることはあります。ただしやる場合とやらない場合がある。それは作品が要求するんですよね。本篇も(というか著者の小説はだいたい)そういう類の作品といってよく、読者は事前に、安珍清姫伝説あたりはざっと検索しておいたほうがよいと思われます。よりいっそう面白さが広がること請け合いです。
 道成寺伝説くらい知ってるよとおっしゃるかも知れませんが、意外にヴァリアントが多様なのです。私も初めて知りました。本篇はそういうヴァリアントも巧みに組み込まれているように思います。

 本篇の基本設定は、長篇『赤い星』とたぶん同じです。いわば『赤い星』から派生した番外編といえ、江戸時代が現代までつづき、旧ソ連を継いだロシアが日本に対して強い影響力を持っているという世界のようです。今回はその世界観に切れ目が入れられ、そこに「道成寺伝説」が嵌めこまれます。

 現実の安珍清姫は紀州の伝説ですが、この<小説世界>では実際に起った歴史的事実となっています。安珍ならぬアントンというソ連人スパイと江戸に住む清姫の、どろどろした愛憎は同じですが、こちらは逃げるように帰国したアントンを、燃える蛇体に変身した清姫がモスクワまで追いかけて、(道成寺の、じゃなくて)クレムリンの大鐘に隠れたアントンを鐘ごと焼き殺してしまうのです! 「少なくとも日本とロシアではよく知られていた」(13p)実話だったという設定です(蛇体に変身するのに、ですよ!)。
 しかもなお、主人公オレグスの叔父さんはアントンの友人だったということですから、2010年(と断定するのはツイッターが出てくるからです)の江戸から見ればたかだか20年前(というのはソ連崩壊は<こちらの世界>と同じみたいなので)、ほとんどつい最近の、旧ソ連時代の出来事であったことが読者には容易に推測されるのであります。いかんせん長篇『赤い星』においても、時間の流れは物理法則に従ってなかったこととて、こういうことも起こりうる世界なんでしょう。

 以上はメインのストーリーではなく、本篇を成り立たせる前日譚です。本篇の舞台は、21世紀の江戸、すなわち異形の東京に固定されている。まさしく本篇もまた、先般「ひな菊」で述べた「場」の小説というべきです。

 まえがきが長くなりました。本篇のメインの筋は、大学の研究者として江戸に暮らしている叔父さんの下宿に、主人公であるオレグスが短期に逗留しています。ふたりはラトヴィア人。オレグスはさほどではないが叔父さんは筋金入りのロシア嫌い。日本とラトヴィアでロシアを両面から攻めようといつも言っているほど。しかし上記のようにアントンとは親友だった。アントン清姫悲話で常に悪者になるのはアントン。叔父さんはこれが気に入りません。で、つくばの高エネルギー加速器を使って叔父さん発明の「時間砲」(!)を作動させ、アントンと清姫が出遭わなかったように歴史を微修正しようと狙っていたのです。おりしも大江戸は桜満開で、しかも奇しくもアントンの命日でもあったこの日、加速器の使用が認められ、叔父さんは勇躍つくばに向かったのでしたが……

 と書くと、まるでノダコウさんかヨコジュンの世界かと思われます。実際少しだけそんなケがあるのです。いつもの高野史緒よりも、ちょっと筆の伸びしろがある。そこはかとないユーモアも漂っています(だいたい安珍がアントンですから)。
 たとえば、13p下段で、オレグスが遅い時間に起きてくると、下宿の大家さん一家が花見の準備に大童。「和食の重箱弁当は余所者が手伝う余地はなく、オレグスは出かけることにした」とありますが、このあっさりした記述から、私には2メートルの大男のオレグスが弁当準備を手伝おうとして失敗を繰り返し、お母さんや娘さんから「もうオレグスさん、逆に邪魔なんだってば。どっか出かけてきて」と追い出された末の「オレグスは出かけることにした」なのだろうな、というのがありありと目に浮かんでくるのです(笑)。ヨコジュンならばこの場面で10枚ほどのドタバタにしてしまうにちがいないところを、さすがに著者の筆は抑制が効いている。にもかかわらず、その裏に上記の情景が目に浮かぶのは、筆の伸びがよいからにほかなりません。ここにも「ひな菊」で書いたのと多少関連しますが、著者の「進化」を感じたのでした。会話文も常よりも多めの気がします。

 えーと、これ以上だらだら書いて興を削ぐのはやめます(依代としての主人公にも触れたかったのですが)。最後に一つだけ。叔父さんが翌日消沈して帰ってきます。時間砲計画は失敗したのだと。しかしそうなのでしょうか? オレグスは「拒否」されたと解釈していますが、もし時間砲が成功していたとしたら……。当然微修正がなされたのは1990年以前のはずです。つまり2010年時間線上で、叔父さんにその変化がわかるはずがないのです。修正は既に20年前に完了している。成功し(てい)たからこそ、<小説世界>上の「いまここ」があるのではないか。ただしその微修正は、叔父さんが想像したものではなかったのは確かなようですが(^^;。
 ラストの大家さんちの情景がとてもよい。新境地を開く快作でした(^^)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする