ほぼ是好日。

日々是好日、とまではいかないけれど、
今日もぼちぼちいきまひょか。
何かいいことあるかなあ。

竹の子三昧!?

2006-04-27 | 食べること。
結婚して18年になりますが、この家の嫁となって体得した主婦の知恵、といったものがあります。いや、そんなたいしたことではないのですが
それは・・・竹の子と柿は買わない!ということです。

真冬でも真っ赤な苺がスーパーに並ぶ昨今ですが、いまだにその季節にしか味わえない貴重な農産物もあります。たとえば皮付きの竹の子や柿。季節のはじめに店頭に並んでいると、主婦としてはつい買ってしまいたくなるのですが・・・ここでがまん!

もう少し待てば、必ずおとーさんが採ってくる、おばあちゃんがたくさんもらった、と言っておすそわけしてくれる。

そうなんです。もう、うんざりするほど食べなくてはならない時がくるのです・・・。今年もそろそろその兆候が・・・。

今年は寒かったので、おとーさんもまだ竹の子採りには行っていないのですが、実家の父が田舎で見つけたと1本持ってきてくれました。おお、初物!とこのときは喜んで、まず若竹煮。数日前、義母からもらいものだと2本頂きました。これはきのう土佐煮にし、今晩竹の子ご飯にするつもり。

すると、また義母が2本持ってきてくれたのです。それをゆでながら考えます。かたいところは竹の子寿司用に味付けして冷凍しておこう。たぶん家族は竹の子カレーを食べたいって言うだろうな・・・。

そう、竹の子の入ったカレーって知ってます?私も教えてもらったときびっくりしたのですが、山ほど竹の子をもらったとき試してみたら、その歯ざわりのいいこと!スーパーに年中売っている真空パックのではだめなようで、今の時期しか食べることができません。以来、我が家ではこの時期の定番になりました

さて。連休に入ったら、たぶんおとーさんが竹の子採りに行くだろうな(親戚の山にあるのです)。このころから毎日竹の子攻め。煮物、天ぷら、細く切ってきんぴら風、炒め物、それから、それから・・・。木の芽和えは子どもが苦手だし、このあたりで、また若竹煮に戻り、たぶんもう一度カレー。当分、我が家の献立は竹の子中心になるわけです

竹の子の場合はまだいろいろな料理に使えていいのですが、柿がたくさんなった年は大変です。あちこちから柿を頂いて、去年は柿ジャムまで作りました。

それでも年によっては不作の年もあり、今年は物足りなかったね~と淋しい思いをすることもあるので、贅沢は言えません。
今のうちに、料理の本や雑誌から竹の子料理を探してレパートリーをふやしておかなくては











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『読む力は生きる力』

2006-04-26 | 読むこと。
 
『読む力は生きる力』
脇 明子


いつも絵本のことを書いておられるrucaさんのブログでこの本を知りました。
私は絵本が大好きで多少絵本とも関わっているのですが、今の子どもたちがあまり本を読まない、読んだとしてもイマドキの読みやすい本しか手にとらない状況にどことなく危機感を抱いていたので、この本に興味を持ちました。

この本の著者であり児童文学者の脇明子氏は、大学で「本が嫌いなのはあたりまえ」「読まないのがふつう」と言う学生が目立って増えてきていること、しかもその多くが小学校や幼稚園の先生をめざしている人たちであることを放っておけず、本を読むことの大切さについて考え続けてきたそうです。

本を読むということは、いったいなぜ必要なのか。
なんとなくわかっているようで、でも、つきつめて考えたことなんて一度もない、というのが正直なところです。そのくせ世の大人たちは子どもに向かって「本を読みなさい」って言うんですよね。そんなこと言わなくても、大人が本を読んでおもしろそうにしていたら、子どもだって興味を持つと思うのですが。

この本には、子どもが本を読むことの意味、大人がほんとうにいい本を手渡すことの大切さについて、わかりやすく書いてあります。私自身漠然と感じていたことに、きちんと説得力のある説明がなされていて、子どもに関わる人たち、親とか先生には是非読んでもらいたい本です。


ただ、私にはどうしても納得できない、というか、ひっかかる部分がありました。それは第3章の「絵本という楽園の罠」からです。
この章に、絵本の読み聞かせが普及し、学生たちも絵本を読み聞かせてもらって育ち、それを幸せな思い出としていながらも、「本を読むのは苦手」「読もうとしても頭に入ってこない」「自分で読むのはめんどう」などと言う人たちが、目立って増えつつあるという現状が書いてあります。そしてその原因として、最近の絵本のきらびやかさが子どもたちの想像力の妨げになっている、というようなことが書いてありました。「絵本を見る」のは好きでも「文字だけの本は苦手」ということになってしまうというのです。

最近の絵本は印刷の技術も発達し、また絵本作家という魅力的な職業が定着してきたせいもあって、初期の頃に比べたらありとあらゆる多彩な絵本が出版されています。確かにその中には首をかしげたくなるようなものもあります。
しかし、だからといって黒一色やせいぜい2、3色しか使っていない昔の絵本が子どもの想像力を育て、色鮮やかで細かいところまでていねいに描きこんだ今の絵本が子どもの想像する楽しみを奪っている、というのはどうでしょうか。

私はけっして今の絵本がわるいとは思いたくありません。“きらびやかな絵本”というのがどんな絵本をさしているのかわかりませんが、バーバラ・クーニーやいわむらかずおの丁寧に書き込まれた絵本にはそこにしかない独特の世界があります。
絵本というのは絵と文章のコラボレーションであり、その両方がうまく合わさったとき素晴らしい作品になります。そのため描き手はそのおはなしにより添った絵を描く努力をしているのであり、絵ばかりが主張している作品はもともと絵本としてなっていないのだと思うのです。

著者もメディアの弊害について触れておられますが、今の若い人に「文字を読むのが苦手」という人が多い原因は、やはり小さい頃からテレビやゲームがあたりまえのように生活に定着していたからではないのでしょうか。
いくら読み聞かせをしてもらっていても、日々テレビやゲームの誘惑にさらされ、受身であることに慣れてしまうと、自分から本を読むというめんどうな作業を避けてしまいます。想像力を働かせなくても、自分の想像よりはるかにすごい映像を与えられるわけですから。
それに加えてテレビやゲームは、友達とのコミュニケーションに欠かせない重要な共通点なのです。どんなにおもしろい本を読んでも、そのことを一緒に語り合える友達がまわりに何人いるでしょう(経験者は語る)。だから、絵本から読む本へと移行する時期に、テレビやゲームの方へ行ってしまうのではないでしょうか。

親として、ひとりの大人として、子どもには美しいものに触れてほしいと思います。絵本との出会いはその第一歩です。たくさんある絵本の中からどれを選んだらいいのか悩みますが、「これでなくてはいけない」というのではなく、子どもの撰んだ本も尊重しながら、自分の好きな本や名作といわれる絵本も読んであげたらいいんじゃないかと私は思います。

そして物語の本を読む年頃になったら、著者がいうようにはじめのうちはめんどうでも読み聞かせてあげたらいいと思います(大変ですけど)。私も小学校のとき、終わりの会で先生が毎日少しずつ本を読んでくださったのを今でも覚えています。テレビやゲームもおもしろいけれど、本はもっとおもしろい、という経験があれば、子どもたちは自ら本への扉を開けようとするのではないでしょうか。











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花もよう

2006-04-25 | 日々のこと。


もうすぐGWだというのに、こちらではまだ薄ら寒い日があったり天候が安定しません。今日も青空が顔をのぞかせたと思うと突然雨が降ったり
それでも春の花が賑やかになってきました。

ようやく満開になった椿が、ここ数日の強風で枝は折れるし花は散ってしまうし散々でした
チューリップもななめに咲いています。 風の強い日は車庫の中に避難させていたのに。
その隣のラナンキュラスも咲き始めました。
フリージアはまだ蕾。
ブルーベリーが可愛い花をつけています。
 
ここには写っていませんが、クリスマスローズは今年は4月に入っても寒い日が多かったので、まだ元気。
ムスカリも咲いています。
先日あまりの可愛さについ買ってしまった姫石楠花も、小さな花をたくさんつけています。高山植物らしいので、夏の暑さを乗り切れるか心配。

先日ローズマリーの苗を買いました。おとーさんが一時期ビーフジャーキー作りに凝ったことがあって、そのとき生のローズマリーが手に入らなかったので植えてみることにしたのです。

去年種を蒔くのが遅かったのであまり実をつけなかったワイルドベリーが、冬を越し花を咲かせました。小さいけれど甘い実をつけるので、今年は株分けをしてふやしたいなと思っています。ブルーベリーのようにほとんど鳥に食べられてしまうかもしれませんが

今年のGWも、子どものクラブのスケジュールが合わなくてどこへも行けそうにありません どうやら夏の花の苗を植えたり、ずっと放ったままの古い土のそうじをしたりして過ぎていきそうです。
そういえば冬物のセーターや毛布もまだ洗濯していないし、子どもたちの小さくなった服の整理もしなきゃ・・・
せめてGWにはTシャツ1枚で過ごせるくらい暖かくなってくれますように。
春の花は咲いたけど、私、まだ冬物のババシャツ着ていますぅ
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突然の便り

2006-04-20 | 日々のこと。
それは昨日の昼休みにかかってきた一本の電話でした
「・・・○○(私の名前)さんですか?私、大学で同じサークルにいた△△ですけど・・・」
正直言って一瞬「えっ!?」と、とまどいました。大学のサークルなんて、二十年以上前のこと。もう長い間記憶の奥底に埋もれていたことなのに、彼女の言葉に突然いろんな思い出が怒涛のように甦り・・・「ええ~っ!!」

なつかしい、と感じる前にまず緊張してしまいました。数年前、なつかしい友達から電話があったと思ったら、学生時代の親友の訃報の知らせだったから・・・。
でも今度は違いました。驚いたことに同窓会のお知らせ わざわざ実家に電話をして今の連絡先を尋ねてくれたとのこと。今度こそ、なつかしさがじわ~っと湧き上がってきました

私は女子大にいたのですが、サークルはひょんなことから近くのK大に所属していました。土曜日、授業が終わると今は亡き友達とK大に通ったものです。あのころはまだ京都にも路面電車が走っていたような・・・。そんな遠い、遠い日(いや、ほんまに、すごい昔みたい)。

当時の私は、ちゃらちゃらした男の子に嫌気がさしていたので、そのサークルの気骨がある(ようにみえた)男の子たちがとても新鮮に映りました。もともと3人姉妹の末っ子で、中学・高校と気心の知れた数人の男の子としか話さなかったような私には、飲んで討論したり挙句のはてに殴り合いになる、という状況はかなりカルチャーショックだったのです。

そのサークルに所属していたのは正味1年数ヶ月ぐらいでしたが、とてもとても中身の濃い時期でした。たぶん、これが青春と呼べる時期だったんだろうなあ・・・(遠い目)。

そのころ好きだったさだまさしの曲に「主人公」というのがあります。

地下鉄の駅の前には「62番」のバス
鈴懸並木の古い広場と学生だらけの街
そういえば あなたの服の模様さえ覚えてる
あなたの眩しい笑顔と
友達の笑い声に
抱かれて 私はいつでも
必ずきらめいていた

ある土曜日の午後、みんなで昼食を食べに行った帰り道ふとこの歌を思い出し、いつかこんなふうに今日のことをなつかしく思い出すことがあるんだろうなあ、と思ったことがあります。今、あのときの風景やみんなの笑い顔や、風のにおいまで思い出せそう。なつかしいなあ・・・。


結婚して「誰々さんの奥さん」とか「何々ちゃんのお母さん」という立場になると、“喜び”とか“幸せ”というものが、自分の、というより家族のことでそう感じることが多くなりますよね。子どもが初めて歩いた、賞をもらった、病気が治った、仕事がうまくいった、というふうに。だから喜びや幸せが倍になって感じられる、というのはわかるのですが、じゃあ、自分個人のことで喜びや幸せを感じたことは?というと・・・。家族のことをのぞくと、たいしてないような気がするのです。
せいぜいおもしろい本を読んだ、とか、焼きたてのパンとおいしい紅茶で幸せ、とか(まあこの程度で幸せを感じられるわけですが)。それだって家族が健康で、何事もないからそんなささいなことでも幸せに感じられたりするわけです。

あのころはただ単純に自分のことで喜んだり、悲しんだりしていました。友達といろんな話をしたり、旅行したり、失恋したり、気に入った絵が描けたり、そんなことで一喜一憂していた自分が、なんだか愛しいなあと思います。
そして今、家族が一番大切なのは言うまでもないけれど、少し物足りなさも感じています。そろそろ自分自身の楽しみも見つけないとね。

ところで同窓会ですが。とてもとても楽しみではあるのですが、みんながどんなふうになっているのかを知るのはちょっと不安・・・ いや、私も他人のことは言えません。白髪は増えたし、ウエストはなくなるし とりあえずはダイエット、でしょうね。



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待つ、ということ

2006-04-17 | 日々のこと。
ようやくチューリップの花が咲きました。今年ほど球根を植えてから開花まで、長く感じられた年もありません。12月には大雪でプランターは雪に埋まってしまうし、少し暖かくなって蕾がふくらんできたと思ったらそこでとまったまま・・・。花が咲くまで、何色のチューリップを植えたかすら忘れてました

私は香りのする花が大好きなので、沈丁花が終わったら次はフリージアが楽しみです。でもこちらも今年は生育が遅れていて、温かい風にのって甘い香りがするのはもう少しさきになりそうです。

今でこそこうやって花を植え、季節ごとに咲く花を楽しむようになりましたが、実は結婚するまで植物というものに全く縁がありませんでした。というより植物の世話は苦手なんだ、とずっと思い込んでいたのです。

思い返せば小学生の頃。理科の時間にアサガオやへちまを植えました。しかしなぜか私のだけ芽が出なかった・・・という苦い記憶が残っているのです。それが事実なのか、あるいは芽が出るのが遅かっただけなのか今となってはわからないのですが、恐ろしいことに「私のだけ芽が出なかった」→「私は植物の世話が下手なんだ」と幼い頭に刷り込まれ、それからずっと園芸というものを避けて通ってきたわけです。

だからいざ花を植えようと思っても、どんな土にどうやって植えたらいいのかすらわかりませんでした。
はじめに興味をもったのはハーブ類。ハーブを使った料理をつくりたいなあと思っていたら、懸賞でハーブの種が当選。6種類くらいあっていろいろ植えてみましたが・・・ラベンダーは夏の暑さに枯れてしまう、バジルやカモミールは虫がつく、結局今でも残っているのはタイムだけ でも生のバジルとガーリックや松の実でこさえたスパゲティはおいしくて大好評でした。

次に保険屋さんからだったか、花の種の詰め合わせをもらいました。ひまわり、矢車草、ポピー、忘れな草、ダリア、わた・・・etc.。これもこわいもの知らずでいろいろ試し、わたの花も咲きました。

そして初めて球根というものに挑戦。チューリップだったかなあ。
ところが。秋に植えた球根は何の変化もないまま(ムスカリとかフリージアだったら早くから芽が出るのですが)。あれ~失敗したかなあ、と幼い頃の苦い記憶がよみがえります。はえてくるのは雑草ばかり・・・。

雪が降り、お正月がきて、忘れかけてたころ土の中からぽっちりと緑の芽!うれしかったな。あそれから毎日のようにプランターをながめては、大きくなったかなあ、早く咲かないかなあ、とその待ち遠しかったこと。

花によっても違いますが、苗や種とちがって球根は植えてから開花までが長いですよね。はじめのうちは、秋に植えて春まで待つ、というのがとてつもなく長く感じられたものです。でも長く待ったぶん、いっせいに花が咲いたときの喜びといったら!ああ、春が来たんだなあ・・・としみじみ感じます。


私はせっかちで、「待つ」ということが本来苦手です。子育てのときもそう。いつも心の中では、「早くしてよ~」と時間を気にしてばかりいたような気がします。

ある日球根に水をやりながら、ああ、子育ても同じやなあ、と気がつきました。ふたりの子どもの子育ての、長い長いトンネルのまだ途中でした。自分の時間なんかなくて、子どもにふりまわされていたころ。
だからといって毎日の生活が変わったわけではありませんでしたが。

秋に球根を植え、長い冬を過ごし、春になったら花が咲く。いつのまにかそういうシンプルな自然の摂理を、すんなりと自分のなかで受け止めることができるようになっていました。

毎年春になると桜が咲き、子どもたちは進級していきます。幼稚園、小学校、中学校、高校。そして気がつけば子どもと手をつなぐこともなくなり、休日の予定もみんなばらばらで、あれほど欲しかった自分の時間もできました。今では家族揃ってのお花見はあと何回できるのだろう、と淋しく数えています。

待っていれば、いつか花は咲くもの。
子どもたちは、これからどんな花を咲かせてくれることでしょう。


ところで。最近私は花木が好きで、我が家の植木鉢にも山茶花、椿、沈丁花、紫陽花、バンマツリ、ブルーベリーと種類が増えました。毎年花を咲かせてくれるのでうれしいのですが、置き場所が狭くって。それに季節の花のプランター。
願わくば庭のある家に住みたいのですが・・・。待ったら願いがかなうかな?
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