かれこれ6週間も、この本を借り続けています。
一旦は返却したのですが、「本日返却分」の棚に並んでいるのを見て、また手にとり、さらに次の2週間が過ぎて、同じことを繰り返してしまいました。
読み終わってはいるけれど、なんだか、大切なことを見落としているようで、手離すのが心許ない気持ちなのです。(だったら購入したほうがいい、と自分でも思うのですが)
『読む力は生きる力』
脇 明子・著
著者の脇明子さんは、 長年、大学生を教え、「子どもの本の会」を主宰してきた 方です。
「はじめに」のところと、目次(第1章から第7章まで)を読んだけでも、この本の奥深さと、子どもたちへの思いの細やかさが伝わってきます。
第1章は「読むことはなぜ必要なのか」
小さな見出しが 読書はほんとうに大切か 「本なんか読まなくても、立派に育った」時代 というふうに続いていきます。
著者はこの第1章の中で、子どもたちにとって大事なのは、本を読むという行為そのものではない、と言っています。なぜなら、その昔の子どもたちは本を読まなくても、共同体の中で、大人たちと生活文化を共有し、生きていく上で基本となる大切なことを、自然に学びとることができたからです。しかし、社会構造が変化し、共同体というものがほとん機能しない現代社会では、その代わりとしての「伝えていく」手段を、読書にゆだねるほかないので、読むことが必要になってきたというのです。
本文19ページから20ページに、こう書かれています。
身のまわりの物事を楽しみ、生活にちょっと手間をかけて彩りを添えることは、人間にささやかな自尊心を与えてくれます。そうやって手に入れた自尊心は、ささやかではあってもゆらぎはせず、積もり積もってしっかりしたものに育っていきます。それがあれば、勝ち負けに悩むことも他人を見下すこともなく、ゆったり構えていられますし、年を取ろうと、貧しくなろうと、逆境におちいろうと、自尊心をまるごと失ったりせずにすみます。それが文化というもののありがたさで、大人はその楽しみ方を子どもに手渡していかねばなりません。読書の楽しみも、そのひとつなのです。
そして、第1章は 自分がほんとうにいいと思う本を子どもに手渡し、楽しんで読めるように手を貸すことーそれが、生活文化を失った時代の私たちが、子どもたちのためにしてあげられる、数少ないことのひとつなのではないでしょうか。 と結ばれています。
この第1章の結びの言葉は、小学校での「読み聞かせ」に関わるものとして、胸に留めていなければならないことだと思います。心から納得し、読んでいる私の気持ちは、さっぱりと晴れやかでした。
しかし、第3章「絵本という楽園の罠」 を読んでいるうちに、気持ちはみるみる曇りだし、不安が募り始めました。そこには、いまの大学生たちの中に、絵本を読み聞かせてもらって育ち、それを幸せな思い出としていながらも、「本を読むのは苦手」「読もうとしても頭に入ってこない」「自分で読むのはめんどう」などと言う人たちが、目立って増えてきつつある と言う事柄について書かれていたからです。そういう学生たちは、絵や写真のある本を見るのは好きだが、文字だけの本は見る気がしないと言い、さらに、本についても「読む」ではなく、「見る」という表現を使うのだそうです。
なぜ、そういう現象が起こるのか。「絵本のあまりのきらびやかさ」を著者は一因に挙げています。美しい絵、画家がその手腕を思う存分発揮した絵本が増えている現状に、大人が「踊らされてしまい」、本来の目的「絵本は子どものためのものであり、絵は、お話の世界へ入っていく手助け」ということを、忘れていることを指摘しています。大人が自分自身の楽しみのために見る絵本と、子どもが想像のアンテナを伸ばし、物語の世界へ入っていくのを助ける絵本とは、別のものだと認識していなければならないのです。
私は私に尋ねます。「自分が楽しい、おもしろいというだけの理由で、絵本を選んでいなかっただろうか」
私は私に問いかけます。「今年10歳になる娘は、物語の世界へ続くドアに手をかけ、中に入っていくことができるだろうか。あるいはもう、ドアを開け、そこに広がる世界を知っただろうか」
物語を読む楽しさ。読むことによって、自分の頭の中にひろがっていく世界。読書のそんな醍醐味を私はよく知っています。
前述の大学生たちは、ドアの前に立っただけで、中へ入っていかなかったのです。ただドアだけ見ていたのでは、少しもおもしろいことなんかありません。誰もドアの開け方を教えてあげなかったのか、あるいは、その子自身に、好奇心という力がわかなかったのか。いずれにしても、とても残念なことであり、とてもこわいことだと思います。
本を開けば、ドアを開いて別の部屋へ行くように、物語の世界は常にそこにはあり、それはどんなによくできている映画でも越えることはできません。いくら原作に忠実で、どんな技術を駆使しても、それは所詮誰かが考えた、誰かの映像なのですから。
もしも今、私の娘が「ドアの前」に立っているのなら、さあ早く、「外」の世界(それは同時に「中」の世界でもあるのですが)へ、という気持ちでいっぱいです。代わりにドアを開けてあげることができるのなら、すぐにでもそうしてしまうかもしれません。けれど、ドアの開け方を教えることはできても、自分のドアを開けるのは、自分自身しかいないということを知っているので、私は側でただ見ています。
「待ってるからね」。
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何かモヤモヤ考えていたことを的確に教えて
もらった感じがして、本当にすっきりしました。
さすがですよね~、脇先生。
絵本の読み聞かせが一ブームで終わらず、
個人の読書の楽しみへとつなげていけるよう、
考えていきたいなぁと思います。
『おかぐら』という絵本もよんだことがあります。
興味をもったので、早速図書館に予約しておきました。
色々と考えさせられますね。
読んでみたいです。大事なことが沢山書かれていそうです。
私も自分の感覚を頼りに選書していますが
こちらに書かれているようなことまで考えてはいなかったので
これからの絵本生活に、少なからず影響を与えてくれたように思います。ありがとうございます。
この本は、ほんとうに大切なことが満載の本でした。
もやもやしていたこと、漠然と思っていたことがすっきりした点もあるのですが、漠然と不安に思っていたことが、さらに不安に思えてきたりもして。
なんだか一筋縄ではいかないような、本当に、深い本でした。いろんなこと考えてしまいました。
気にとめて見ると、脇明子さんのお名前は、いろんなところで目にしてきたことがわかります。
先日、福音館書店のHPで『まどのそとのそのまたむこう』が復刊されるいうニュースを見ていたら、その訳者も脇明子さんでした。図書館で何度も借りていたのに、ちっとも気付かず読んでました。
『おかぐら』。今度探してみようと思います。
小学校の「読み聞かせ」での選書については、それなりの心構えで臨んでいるし、またそうしなくては、と言い聞かせてもいるのですが、自分の家となると、果たしてどうだったのだろう?と首をかしげてしまいます。
まして、一人しかいない自分の娘は、絵本からやっと物語の世界への入口に立ったばかり。とっても心配になってしまったのです。きいろちゃんのように、絵本の世界の人となる喜びを、早く知ってくれたらなあと、やはり願わずにはいられません。
とりあえず読んでみて感想を書いたのですが・・・。なんだか疲れてしまいました~。もう一度じっくり読んでみたいのですが、読みたい本がたまってて。
rucaさんのこちらのページ、勝手にリンクさせて頂きました。
コメント頂いて、すぐにそちらの記事も読ませて頂き、TBしたまではよかったのですが、その後が今頃になってしまいました。
くっちゃ寝さんも御自身のページでご指摘されている通り、「きらびやかな絵本」とは、具体的に何を(どれを)指しているのかなあと、私も疑問には思いましたが、でも、『もりのなかへ』などのモノクロでしずかなお話の絵本は、子供が自分から手にしない現状なども考えると、やはり筆者の憂慮している現実が確実に存在するのだと、思わずにはいられませんでした。
その後、色々考え、ちょうど映画が公開されていたこともあり、春休みに『ナルニア国ものがたり』を全巻買ってみたんです。もし、娘が読まないのなら自分で読むからいいやと思って。(実は私ナルニア未読なんです)そしたら、新しい本の魅力なのかなんなのか、自分から読んでみたいと言い、毎日少しづつですが読んでいます。やっぱりよい本は残っていくのだなあと思うこの頃です。