ほぼ是好日。

日々是好日、とまではいかないけれど、
今日もぼちぼちいきまひょか。
何かいいことあるかなあ。

思いがけないところで

2006-11-27 | 日々のこと。
あちこちで紅葉が見ごろを迎えているようです。
毎年、金剛院というところへ紅葉を見に出かけるのですが、今年はおとーさんの仕事が忙しいし、子どもは期末テスト前だし、おまけに日曜日になるたびにお天気もわるくてさっぱり。

土曜日に子どものインフルエンザの予防接種に近所の病院へ行く途中、公園で1本だけ紅葉している木を見つけました。子どもが小さい頃、よく遊びにつれてきた公園ですが、桜が見事なのは知ってたけど(その名も桜ヶ坪公園です)、こんなにきれいに紅葉している木を見たのは初めて。

きのうウォーキング帰りに立ち寄って撮りました。曇り空だったので、土曜日に見たときほどきれいではなくて残念ですが・・・。

今朝FM京都で、土曜日の京都は紅葉狩りの観光客がすごかった、駅のプラットホームが人であふれかえっていた、なんて言っていました。学生のころ、授業をさぼって大原に行ったら、平日なのに観光客が多くて驚いたことがあります。古知谷あたりへ行くと人気もなくて淋しいくらいでしたが(ここにあるお寺には、即身成仏したミイラが収められています。だからちょっとコワイくらい)。

まあ、人ごみで紅葉を眺めるより、ぽつんと立ってる1本の紅葉をひとりで愛でるほうが、よっぽど風流だよね・・・って、言い聞かせてるわたしです・・・






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ゲド戦記Ⅴ アースシーの風』

2006-11-26 | 読むこと。


         『アースシーの風』


『帰還 ゲド戦記 最後の書』から11年後、作者ル・グウィンは第5巻となるこの作品を発表しました。『帰還』が「最後の書」となっていたので、この『アースシーの風』が出たことに驚きましたが、その時は、ああ、またゲドの新しい世界に浸ることができるという期待でいっぱいでした。
しかし、ゲドのシリーズを最後に読んでから数年経っていたので、2003年にこの本を初めて読んだときは、物語に入っていくのに少し戸惑ってしまいました(単に、物忘れがひどくなっただけかもしれませんが・・・)。

この作品のゲドは、もう初老の農夫といったイメージです(ちょっと悲しい)。新しく登場したハンノキの悩みを聞き、彼にハブナーの王のもとへ行くようにとアドバイスします。おりしも、そこでは竜の問題を解決するため養女テハヌーが呼ばれ、テハヌーとともにテナーも同行していたのです。

この巻では、生と死、あるいは竜と人間について描かれており、最初読んだときはただもう難しくて、これは1度読んだくらいでは手に負えない話だなあ、と感じました(最後のほうの魔法使いたちの会話は、禅問答のようでした)。で、今回、1~4巻を読んだ勢いで、やっとこの5巻が手に入り読み始めたわけです。

難しい問題はさておき、この巻では今までになく若い女性が次々と現われ、きらびやかな雰囲気さえします。4巻で竜の娘であるとわかったテハヌー、カルガドからレバンネンの王妃にと送られてきたセセラク、そしてテハヌーと同じ竜のカレシンの娘アイリアン。彼女たちの存在の、なんと自由で、しなやかで、美しいこと!
それに比べて、ロークの魔法使いたちはもとより、若いレバンネンですら既成概念に縛られ、窮屈な世界に住んでいるように思えます。

このことからもわかるように、ここアースシーに変化が、新しい風が起きようとしていたのです。
最後の章で、生と死の境である石垣をみんな(竜、王、魔法使いたち)で壊す場面は圧巻でした。そしてそれを成し遂げたあと、テハヌーは黄金色に輝く竜となり、カレシンやアイリアンとともにもうひとつの風に乗り飛んで行きます。解き放たれたテハヌーは美しく、読んでいてとても感動的でした。

そしてまた、この巻には様々な愛も描かれています。
はじめは意志の疎通すらできなかったレバンネンとセセラク。異文化に育ちハブナーに送られてきたセセラクは、ここに登場した女性たちの中でも特に際立つ存在でした。ずっと反感すら抱いていたレバンネンですが、どうやら先入観を捨て一人の女性としてセセラクを見て、初めて彼女の素晴らしさに気づいたようです。ふたりの物語は始まったばかりですが、レバンネンの態度に私までテナー同様イライラさせられていたので、やれやれと胸をなでおろすことができました(まるで、おせっかいなおばさんですね)。

そして4巻で(やっと)結ばれて以来、穏やかな愛に満ちたゲドとテナー。このふたりは私の理想。
一人の女性としての生き方を選び、これまで常に誰かを「待つ身」であっただろうテナーが、一仕事を終えてようやくゲドの待つ崖の上の家に戻ってきます。そして、これまでのことを少しずつゲドに話し、最後に尋ねるのです。

「ねえ、わたしが留守の間、何してた?」テナーはきいた。
「家のことさ。」
「森は歩いた?」
「いや、まだ。」ゲドは答えた。

このふたりの会話で物語は終わるのですが、なんだかいい感じだなあと、とても気に入っています。
もう魔法使いではないゲドに、物語の表舞台から遠ざかってしまったゲドに、少し淋しさも感じていたのですが、魔法使いでなくなったおかげで、彼はとても自由な生き方をできるようになったのではないか、とさえ思えるようになりました。
人生の後半で、こんな穏やかで、幸せに満ちた余生を送れたらいいなあ・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

灰谷 健次郎さん

2006-11-24 | 読むこと。
灰谷 健次郎さんがお亡くなりになりました。

灰谷さんの作品をそんなにたくさん読んだわけではありませんが、大人になって初めて読んだ児童文学が『兎の眼』だったので、とりわけ印象に残っているのです。
大学生の頃だったか、働き出してからだったか、どういういきさつでこの本を読もうとしたのか、もうすっかり忘れてしまいましたが、とにかく泣きながら読んだ初めての本でした。

その後大阪で勤めていたときに、同僚のYさんから『ひとりぼっちの動物園』をいただきました。部署も違って、それほど親しくもなかった彼から、これもどういういきさつでこの本をもらったのか忘れましたが(まあ、飲み会でそんな話が出たのだろう、とだいたい想像はつきますが)、これも読んでいるうちに泣いてしまい忘れられない一冊になりました。(この本は今でも本棚にあります。Yさんにはお返しに、シルヴァスタインの『ぼくをさがしに』を贈りました)。

そして次に読んだのが『太陽の子』。この頃になると、児童文学というものが子どもだけのものではないのだなあ、とうっすらと気づき始め、今江祥智さんなど好んで読んでいました。そして、森絵都さんの『カラフル』に出会い、それから児童文学、ファンタジーへとのめりこんでいき今に至っているわけです。

だから、灰谷健次郎さんは私にとって児童文学の入口になってくださった方、と言えるかもしれません。
児童文学が、単に道徳や勧善懲悪を教えるものではなく、また子供向けに現実をオブラートに包んだような中途半端なものでもなく、生きることの厳しさや、命の大切さ、人々のやさしさを、子どもにも大人にも理解できるよう表現したものなんだ、ということを教えてもらったような気がするのです。

子どもたちが次々と自ら命を絶つこの時代に、灰谷さんの作品はもっともっと読まれるべきなのかもしれません。そういう私も、子どもたちにはまだ1冊も彼の作品を薦めたことがありません。私自身もそうですが、どうしても現実を忘れさせてくれるワクワクした本を読みがちで、真正面から「生きること」を描いた作品には手を出しにくいのです。
でも、これからいろんなことを経験していくであろう子どもたちには、ぜひ読んでほしいと思っています。

『ひとりぼっちの動物園』を開いたら、こんな文章に出会いました。


あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生が
かけがえのないように
あなたの知らない人生も
また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ


ご冥福をお祈りします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気を取り直して、フルーツケーキ

2006-11-21 | 食べること。


週末から天気がわるくて、冷たい雨が降りました。
このあたりでは今の時期、晴れていても急に曇ってきて雨が降り出したりします。
こちらでは「うらにし」と呼んでいて、「弁当忘れても、傘忘れるな」と、子どもの頃からよく言われたものです。
そしてどんより曇りがちな日々が続き、冬に向かっていくのです。

今日は天気予報も「晴」ということで、子どものパジャマやシーツまで洗濯したのに、いつまでたっても晴れてくれませんでした。
さすがに雨は(降りそうで)降りませんでしたが、洗濯物は湿ったまま
大きなシーツを2枚抱えて、どうしよう、と

きのうは1日中雨降りで、一歩も外へ出ませんでした。
気分転換に林檎のフルーツケーキを焼いたので、気を取り直し、3時のおやつにいただきました。
天候に愚痴っても、仕方ありませんものね。ぶつぶつ。
・・・こうやって、この時期余分なお肉がついていくわけです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空の祈り メテオラ

2006-11-20 | 観ること。
きのう久しぶりにTBSの「世界遺産」を見ました。
ナレーションがオダギリからへーちゃん(中村勘太郎さん:いまだに大河「新選組!」の役名で呼んでしまいます 藤堂平助の役でした)に代わってから、さすがに眠い目をこすってまで起きてられなくて、ずっと見ていなかったのです。
それに、へーちゃんのはきはきした美しい声より、ぼそぼそとしゃべるオダギリの声の方が好きでした・・・。

でも、きのうの世界遺産はギリシアのメテオラ

初めてこの不思議な光景を見たのは、いつのことだったでしょう。
断崖絶壁に立つ修道院。いったい、誰が、何のために、どうやって建てたのか。名前すら忘れてしまったのに、その不思議な光景を画面で見たときに受けた衝撃だけは、ずーっと記憶の底に残っていました。
最近NHKの「世界遺産」でもメテオラを取り上げていて、そのとき初めてそれがギリシアにある修道院で、世界遺産になっていることを知ったのです。

海底が地殻変動で隆起し、長い間に侵食されてできた奇岩群。その頂上に、世俗から邪魔されない祈りの場をつくろうなんて途方もないことを、誰が思い立ったのか。修道院建設に必要な物資を、人の手でどうやって運んだのか(取り外しができるはしごの跡が残っているそうです)。そして、気の遠くなるような時間をかけて建てた修道院で、どんな生活を送り、何を祈ったのか。
信じる神を持たない私には、想像もつかない世界です。

仏教系の大学にいたので、毎週宗教学の時間があり、「宗教」というものにも少しは興味を持ちました(教えは難しくてよくわからなかったけど)。でも残念ながら今まで「神」とか「仏」というものを信じようとか、仕えようと思ったことはありません。神というものを信じて、すべてを投げ出して生きていけたらラクだろうなあ、と思ったことも(長い人生には)ありましたが。

また若い頃、比叡山で法話を聞いたり、座禅や写経をしたこともあります(夏安吾という催しがあったのです)。そのとき、いまだに不眠不休などの修行をしているお坊さんがいるということに驚きました。そんなことをして、世の中のどんな役に立つのだろう、と素直に(?)疑問に思ったものです。

そんな私なので、神を信じ、すべてを(人生や命すら)捧げる人々の信仰心というものが理解できなくて、一種の狂気のように感じてこわくなってしまうのです。初めてこのメテオラを見たときに感じた衝撃というのも、信仰心だけでこんな不可能に近いことを成し遂げてしまえる人間への「怖さ」だったのかもしれません。

それなのに、どうしてこの風景にこんなに惹かれてしまうのでしょう。

少し前まで、ここの修道僧たちは修道院への昇り降りに網を使っていたようです。網で自分の身体を包み、上から巻き上げ機を数人がかりで回して、引っぱりあげてもらうのです。そのときに使うロープは切れるまで使っていたとか。いつ切れるかは、神のみぞ知る・・・。

今は観光地にもなっていて、一般の旅行者も見学できるようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする