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ほぼ是好日。

日々是好日、とまではいかないけれど、
今日もぼちぼちいきまひょか。
何かいいことあるかなあ。

女は戦う 〈とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起〉

2013-10-26 | 読むこと。



この本を読んだのは、まだ残暑厳しい9月。
すでに一ヶ月以上経ってしまいました。
読み終えたときの衝撃を忘れないうちに書きあげようと思いつつ、
あれやこれやでこんなに日が経ってしまっておりました


 
      ・・・     ・・・     ・・・



この本は『閉経記』を図書館で借りたとき、ちょっと気になったので
Amazonで購入しました。
私は『閉経記』のほうを先に読みましたが、書かれたのはこの『とげ抜き 
新巣鴨地蔵縁起』の方が5~6年先になります。
つまり、寝たきりのお母さまも生きておられて、まだ小さな三女を連れ
カリフォルニア~熊本間を往復されていた当時のこと。
それだけでも、いかに大変な時期であったかがわかります。

う~ん、この本は何と言ったらいいのでしょう。
文庫本のあとがきに上野千鶴子さんが書いておられるのですが、

そして彼女は、他の誰もまねのできないまったくオリジナルな
文体に到達した。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』・・・これはひとつの達成だ。
詩でもなく散文でもなく、フィクションでもノンフィクションでもない。
「作品」というほかないものだ。


そうなんです。
書かれてある内容は確かに比呂美さん自身の話。
脳梗塞になった母親の介護とひとり暮らしの父のこと、
イギリス人のご主人のこと、心の病で大学に行けなくなった娘のこと、
飼っている犬のこと、自分の病気のことなどなど・・・

けれど、登場する娘の名は彼女の娘のものではありません。
なのでこれまで読んだエッセイのようではなく、かといって小説かというと
やはりどこか違う。
おそらく実体験であろうことを書きながら、だんだんと暗喩に満ちてきて
読み手にはどこまでが本当のことやらわからなくなってしまうのです。
しかも私の場合、だんだん自分の体験とシンクロして、覗き込んだ
深~い深~い穴の中に堕ちていくような、そんな感覚でした。

というのも、彼女の文章は古事記や宮沢賢治や中原中也や謡曲や・・・
いろんなものを取り入れて、独特の節回し・リズム感で、
何とも言えない不思議な世界を作り出しているからでしょう。

内容は容赦なく過激です。
介護する母と娘の関係や、ユダヤ系イギリス人のご主人との文化的差異から
生じる(それだけではないでしょうが)夫婦喧嘩。
どれも生々しく、ここまで書いていいの?と心配になるほどですが、
夫婦のことは途中から古事記のイザナギ、イザナミの話と重なって
ちょっとブラックでコミカルな感じもします。

一方ご両親のことは、読んでいてとてもつらくなります。
病院で寝たきりの母親と、ひとり家で暮らす父親。
そんな両親を日本に残し、夫のいるアメリカへ帰らなければならないつらさ、
心苦しさ。
アメリカへ帰ったら帰ったで、律儀に親に国際電話をかけて
何度も同じことを繰り返す親の話を聞き、これまた同じ返事を繰り返す。
このしんどさは経験したものでないとわからないかもしれませんが、
彼女はそれを続けているのです。
ひとり娘とはいえ、そこまでやれることに頭が下がりました。

次々と襲いかかる様々な困難や葛藤を、彼女は書くことによって、
書いて吐き出すことによって、これまでの壮絶ともいえる人生を
乗り越えていけたのでしょう。
こんな文章がありました。

月一回の締め切りは、まるで月経です。
・・・(中略)・・・それならば、月1回、「群像」に出す「とげ抜き」も、
おなじやりかたで迎えればよいと考えまして、終わらぬ月経を先へ先へ
つなげていくような心持ちで語りついでいくうちにふと気がついた。
 母の苦、父の苦、夫の苦。
 寂寥、不安、もどかしさ。
 わが身に降りかかる苦ですけれど、このごろ苦が苦じゃありません。
降りかかった苦はネタになると思えばこそ、見つめることに忙しく、
語ることに忙しく、語るうちに苦を忘れ、これこそ「とげ抜き」の、
お地蔵様の御利益ではないか。



親の老いや病に向き合い、文化も宗教観も食べ物も違う夫と向き合い、
それだけでも大変なときに今度は娘の危機が訪れます。
そのときの彼女の悲痛な叫び。


老いの話どころではなくなりました。子どもが危機です。
しのびないのは子どもの苦。
自分の身にふりかかる苦は。
あさましい暗闇をひとりでのたうちまわっておれば、やがて抜けていくのです。
親の身にふりかかる死の苦は。
粛々と受け止めていくしかありません。
しかし子どもの苦はちがいます。
・・・(中略)・・・
苦しむ子ども。
ほんとを申せば、見たくありません。
見てるふりをして見ないでいられるものならそうしていたい。
でも、目をそむけてはいられないのです。
子どもは「見て」「見て」と。そして「助けて」「助けて」と。
この身を投げ出してても助けてやりたい。
でも、見ててやるしかないことがあるのです。
他人は見てくれませんからせめてたらちねの
母が見よう。
子どもの苦しむありさまは。
せつなすぎて涙もでません。
・・・(略)・・・



読んでいて、こちらまで胸が痛くなります。
そして、いろんなことが重なって
泣きっつらに蜂というのは、昔の人がこの日のわたしのために
作り置きしたことばかと思えた日
彼女はとうとう声を出して泣くのです。


 あゝ怖かった怖かった。
 わたしは声に出していってみました。
 あゝ怖かった怖かった。
 たらちねの母といえども生身であります。
 むかしは小さな女の子でありました。
 怖いときは泣いてました。
 父や母や夫や王子様に、助けてもらいたいと思っておりました。
 何べんも何べんも助けてもらいました。
 父にも母にも、夫や王子様にも。
 でも今はだーれもおりません。
 父は老いて死にかけです。
 母も死にかけて寝たきりです。
 夫や王子様には、もう頼れません。
 このごろじゃすっかり垂れ乳で、根元からゆあーんよゆーんと
揺すれるほどになりまして、
 足を踏ん張り、歯をくいしばり、
 ちっとも怖くないふりをして、
 苦に、苦に、苦に、
 苦また苦に、
 立ち向かってきたんですけど、
 あゝあ、ほんとに怖かったのでございます。



ここまで読むと、もうこちらまで泣きたくなってしまいます。
そう、年を重ねた女性なら誰しも、もう誰も頼れないんだと悟って
足を踏ん張り、歯を食いしばり、怖くないふりをして生きていますよね。
今でこそ私もこうやってのほほんと、あるいはふてぶてしく生きていますが、
ある時期は私なりにしんどい時期がありまして。
比呂美さんほど壮絶な経験ではありませんが、やはり親を看ている時期というものは、
まるで孤立無援のような日々、ひとりで空回りしているような状態でした。
この本を読んでいると、自分のそんな時期が蘇ってくるのです。
普段はそんなこと意識してなかったのに、ここを読んで、
ああ比呂美さんが自分のかわりに泣いてくれたんだー
と思ってしまいましたよ。


こんなふうに、書かれてある内容は女の感情むき出しの過激さがありながら、
常につきまとうのが「死」のイメージです。
それも物理的な死というより、黄泉の国や西方浄土といった日本的あるいは
仏教的なイメージ。
そもそも題名からして地蔵縁起ですものね。
若いときからずっと闘い続けた比呂美さんも、苦のとげを抜くお地蔵様に
救いを求めたということでしょうか。

このあと、比呂美さんは般若心経の現代語訳を出されたようですが、
できるならまだまだ悟ってほしくはないですよね。
私たちの先輩として、この先老いてもなお生々しく、戦う女の姿を見せてほしいものです。





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女は戦う 〈閉経記〉

2013-10-09 | 読むこと。



夏をいまだに引きずっているような今年の秋、出かけるのが億劫になっていた私を
図書館へ駆り立てたのがこの本、伊藤比呂美さんの『閉経記』です。

『良いおっぱい 悪いおっぱい』、『おなか ほっぺ おしり』などで、
悩み多き子育ての時代のよき先輩であった伊藤比呂美さん。
彼女も私たちと同じように年を重ね、そしてあたりまえのことだけど
全く違った選択(彼女の場合、離婚・再婚)をしながら人生を歩んでこられました。
そして、この『閉経記』に至ります。

私たちの年代の女性なら、誰もが経験するであろう更年期。
若いころはなんとか突っ走ってこれた自分にも、体力の衰えや、今までにない
身体の変化を感じるようになる・・・そんな時期です。
なんとなく不安で不調なこの時期、自分に向き合うだけで精一杯なのに
親は年老いて介護を必要とする高齢者になっていく。
結婚して家族がいたらいたで、例えば子どもの問題にも頭を悩ませなくちゃいけない。
長年見て見ぬふりをしていた夫婦間の微妙なズレが気になりだして
ストレスを感じてしまう・・・
この年代の女性は、大なり小なり似たような状況にいるのではないでしょうか。


この本の帯にはこう書いてあります。

老いと戦い、
からだと戦い、
家族と戦い、
世間と戦い、
平穏な日々は
やってくるのかしら?


まさに彼女の人生は戦ってばかり。
その戦いっぷりを、エッセイの中で小気味よいほど真正面から正直に語られます。
時には「ここまで書いて大丈夫?」とこちらが心配するほど(笑)
この戦いの断片を読み、自分の気持ちを代弁してもらったり共感したりして、
私たちは元気をもらっているのかもしれません。

このエッセイの中でも、比呂美さんは自分の身体のことだけでなく
家族のこと、犬のこと、親の介護のことが書かれています。
介護といっても、彼女の場合ハンパじゃありません。
彼女がいるのはアメリカのカリフォルニア、父親が住むのは熊本。
イギリス人の夫と子どもをアメリカに残し、自分は月1回
介護のためその間を往復するわけです。
それだけでも、精神的・肉体的・経済的にどれほど大変なことか・・・
そのことを雑誌に進行形で書いておられたわけです。
書かずにはいられなかったのか、それとも苦しみながら書いておられたのか、
あるいはその両方だったのか・・・

彼女のことだから、一切きれいごとは書かず、生々しく赤裸々に
家族や介護や自分のことを書かれるわけですね。
だからこそ、その中の文章に同じ経験を持つ私たちは胸を打たれるのです。

たとえば、

 犬には言葉がない。憎まれ口は一切たたかない。口答えもしない。
説明も言い訳もない。ことばがあると思うから、気持ちを伝えたくなる。
たいてい言わなくていいことだ。言ってもしかたのないことだ。
実は、犬には期待もしていない。だから言わない。
 ことばがあるから、あたしたちは親の老いを悲しむ。


これまで老いた親に「言わなくてもいいこと、言ってもしかたのないこと」を
どれほど言ってきたことか。
その時は、言わずにはいられなかった。
何でこんなふうになってしまったの、と言わずにはいられなかった・・・
それが老いた犬なら、「おお可哀想に」と何も言わず介護できたのでしょうか。

このエッセイの途中でお父様は亡くなられます。
お母様のときから続いた遠距離介護が終わりほっとされたかと思いきや、
糸の途切れた凧のようになってしまった比呂美さん。
最後にこう書かれていました。


あたしたちは満身創痍だ。昔からいっしょにやってきた女たちも、新しく知り合った
女たちも、みんな血まみれの傷だらけ。子どもがいりゃ子どものことで、親がいりゃ親のことで、
男がいりゃ男のことで、男がいなけりゃいないということで、ぼろぼろになって疲れはてて、
それなのに朝が来れば、やおら立ち上がって仕事に出ていく。
ふだんは自分が傷ついていることなんか気づいてもない。
 女友達に声を届けたい一心で、あたしは書きつづけてきたような気がしておる。
熊本にいる。東京にいる。カリフォルニアにもベルリンにもチューリヒにもいる。
世界中に散らばっている。港港に女友達だ。まだ会っていない読者も、
ひとりびとりがみんなあたしの女友達だ。声が、届きますように。



この文章が本当に胸にずしんとこたえたのは、もう一冊彼女の本を読んだあとでした。
それは『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』。
その本についてはまた次回に・・・


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想像ラジオ

2013-09-21 | 読むこと。



台風が過ぎてから、ずっと気持ちのよい青空が広がっています。
今のうちにと、義母宅の布団部屋にしまいこんである布団を
ぜ~んぶ引っ張り出してきて干しました。
お日さまにあたってふかふかになった布団の気持ちいいこと!
そのかわり、くしゃみと鼻水が止まらず耳鼻科へ行くハメになってしまいましたが

こんなふうに、台風のあとも私のまわりではいつもと変わらない日常です。
しかし、近隣の市や同じ市内の中でも浸水の被害にあった地域は、いまだに
泥だらけになった家や職場の後片づけにおわれているようです。
毎年お米を分けてもらっている主人の知り合いが、実家は床上浸水したものの
かろうじて新米は無事だったと、一昨日その新米を届けてくださいました。
でも、まわりの農家では田畑が水につかったり、稲が流されたりして
農作物にも大きな被害で出ているそうです。



こんな身近で自然が猛威をふるうのを目の当たりにした今、たまたま
手にしたのがこの『想像ラジオ』でした。
新聞の書評を読んでずっと気になっていたいたのですが、先週久しぶりに行った
図書館で見つけ読み始めたところだったのです。
震災のことを描いた小説として話題になり、読まれた方も多いと思います。
軽快な語り口で読みやすく、それでいて書いてあることはとても深い。
たぶん、読んだ人それぞれに深く感じる部分があったのではないでしょうか。


津波にあった赤いヤッケの男DJアークが、杉の木のてっぺんに引っかかり
仰向けになったまま軽快なおしゃべりを放送する・・・
というちょっとありえない状況で話は始まります。

そもそもDJアークは自分の妻や息子がどうなったのかを知りたくて
「想像ラジオ」を始めたのですが、リスナーがどんどん増えていくにもかかわらず
二人からはなんの連絡もありません。
一方でリスナーからは、それぞれ自分の状況や思いが淡々と伝えられていきます。
それを読み進むうちに、どうやら彼は津波に流されて死んでしまったこと、
同じように亡くなった人たちがリスナーであること、
そして、それが生きている人たちにも届いているらしいこと、
などが読み手にもわかってきます。
そう、彼は死者の声を想像力という電波にして放送していたのです。

別の章では、その噂を聞き、自分もその声を聴きたいと願っている作家S、
「亡くなった人の声が聴こえるなんていうのは甘すぎるし、
死者を侮辱してる」と訴えるボランティアの青年、
鎮魂のイベントをしたヒロシマで、亡くなった子どもたちの声を
聴いたことがあるというカメラマンのガメさんなど、
東北にボランティアへ行った彼らがその死者の声のことを話題にします。

生者と死者の両方から語られる「想像ラジオ」。
死んでしまった人たちの思いと、生きている者たちの思いが綴られます。
ボランティアを終えて帰る途中の車内での彼らの会話は、
私たちのそれぞれの思いを代弁しているようにも思えました。


大切な人を突然失ったとき、私はどうなってしまうのだろう。
災害や事故や事件がニュースになるたび、そんなことを考えてしまいます。
泣いて、泣いて、この世に絶望して、生きる意欲を失って、
それでも生きていかなきゃいけなくて・・・
もう一度会いたい、声だけでも聴きたい、ずっとそう願いながら
どうやって立ち直っていくんだろう、と。

あるいは、逆にもし自分の命が突然奪われてしまったなら?
何で自分が!?まだやりたいことはいっぱいあるのに。
残された家族を思うとまだまだ死にたくないのに。
そんな無念や家族への思いを、誰にどうやって伝えられるのだろう。

私が自分なりに思うのは、せめて自分がこの世に存在したということを
誰かに覚えておいて欲しい、そして時々思い出して欲しい、
ということにつきます。
それが自分の生存していた証であるような気がして。
だから思うのです。
世代が変わって誰も私のことを覚えてる人がいなくなった時点で
私は本当にこの世からいなくなってしまうのだろうな、と。

この作品でSがこんなことを恋人に話します。

「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。
だって誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて
思わないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。
決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、
ふたつでひとつなんだ。」


「・・・生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を
送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに
存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。・・・」


ああ、そんなんだ・・・
でも、こんなふうにある意味前向きに考えられるようになるのは、
たくさんの涙を流し、ぽっかりとあいた心を抱いてひとりで気の遠くなるような
時間を過ごしたあとなのでしょうけれど。


この作品を読んでいて、私が何ともいえない気持ちになったのは、
死んでいく人たちの恐怖、悲しさ、そしてどうしようもない悔しさが
伝わってきたことなのですね。
何でこの人たちが死ななきゃいけなかったんだろうという
理不尽な思いをを強く感じたのです。
それはこの震災のことだけじゃないですよね。
日々、事件や事故に巻き込まれて亡くなっていく人たちがいる。
いつか、家族や、友人や、あるいは自分もそうなるかもしれない。
突然自分の命が奪われる恐怖、憤り・・・
どんなに悲しんだって、誰かを罰したって、もう二度と生き返ることの
できない人たち。
その人たちのために、一体何ができるのか・・・

大きな事件も、甚大な被害をもたらした災害も、人は忘れていきます。
その時は悲しんだとしても、直接かかわっているのでなければ
自分の生活に、自分の抱えている問題に精一杯で、過去の事件や
災害のことにまでなかなか思いをはせる余裕などないのです。
だからこそ、写真や映像や文章で訴え、残していかなければならないのでしょう。
そういう意味でも、この作品は私にとって衝撃的な1冊となりました。

忘れないために、気になった箇所をここに書き留めておこうと思います。


死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、
まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。
この国はどうなっちゃったんだ。


「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。
まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。
でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて
耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。
死者と共に」


今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正解で、本当は悲しみが
電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、
今みんなに聴こえている僕の声そのものなのかもしれない。
つまり、悲しみがマスメディア。テレビラジオ新聞インターネットが
生きている人たちにあるなら、我々には悲しみがあるじゃないか、と。




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春過ぎて夏来たるらし・・・

2013-06-27 | 読むこと。
しばらく飛鳥を彷徨っておりました。

といっても、近鉄電車に乗って奈良へお出かけてしていた、というわけではなく・・・
私が彷徨っていたのはこちらです↓




           『朱鳥の陵』
            坂東眞砂子



           『日輪の賦』
            澤田瞳子



読みたい本はたくさんあれど、年のせいか読むペースが遅くなり、
やっと読み終えるとすぐに次の本を手にとってしまうものだから、
最近本のレビューも滞っておりますが・・・
この作品は名前や歴史的背景を忘れてしまわないうちに、覚書を書いておこうと思います


どちらも讃良(ささら・さらら)皇女つまり持統天皇を扱った作品です。
もともと私は古代~奈良時代に興味があって、これまでもいくつかの歴史物を読んできました。
が、なんせこの時代、人間関係がややこしい!

まず、今と呼び名が違うでしょ。
持統天皇の名は日本史でおなじみでも、作品では当時の名前の讃良皇女。
天武天皇が大海人皇子ぐらいならわかるけど、馴染みがないとわかりづらい。
あと役職名で出てくると、それが誰だったのかわからなくなくなってしまう。

それに天皇にはたくさんの皇子・皇女がいて、その名前もいちいち覚えきれない。
しかも似たような名前だし。
その皇女たちを自分の兄弟や孫、あるいは豪族に嫁がせるので、
その利害も絡んできて人間関係がすごく複雑。

たとえば、この作品を読み始めたときも、
天智天皇の皇女である讃良は天智天皇の弟である大海人皇子(つまり叔父さん)と
結婚し、その子どもである草壁皇子は異母妹である阿閇皇女〈あへのみこ〉と結婚。
阿閇皇女の姉の御名部皇女は大海人皇子の皇子のひとりである高市皇子と結婚してて・・・???

ねっ、わかりづらいでしょ?
で、とうとう本を横に置いて、子どもの日本史の資料を引っぱり出してきました。
ついでにネットでも調べて、おおまかに歴史の流れと自分なりの相関図をつくる、
というところから始めました。ふぅ~
面倒だけど、ある程度は歴史や人間関係を知っておいた方がさくさく読めるし、
面白いこと間違いなし!


さて、同じ持統天皇を扱ったこの二つの作品ですが、イメージは全く違います。
片や夫や息子まで毒殺してしまう、妖しくてすさまじいまでに強い女帝。
片や新しい国づくりに自らを捧げる孤高の女帝。
父・天智天皇と夫・天武天皇の意思を引き継ぎ、自ら天皇となって
国の礎を築いた讃良という女性に、作家は想像力をかきたてられ
自分なりのイメージができあがるのでしょうね。


『朱鳥の陵』では、夢解きをする力を持った白妙が貴人の夢解きを頼まれ、
いつのまにかひとりの少女・讃良の心の中を覗いてしまう、というところから
話が展開していきます。
その少女こそ後の持統天皇。
讃良の中に入り込んでしまった白妙は、彼女の恐ろしい事実を知ってしまいます。
また、讃良も自分の中に入り込んだ白妙の存在気づきはじめ・・・

ちょっとおどろおどろしい感じのストーリー展開ですが、
文章に訓読みの大和言葉が多く使われているせいか、今の時代とは
明らかに違う雰囲気を醸し出しています。
妖しくて神秘的で・・・そう、どこか異世界に迷い込んでしまったみたいな。

また、宮仕えをして帝紀旧辞を唱えていた白妙の兄の帛妙〈くろたえ〉が
後に教科書にも載る有名な人物だった、とか
持統天皇が詠んだ「春過ぎて 夏来るらし白妙の 衣干したり 天の香具山」の歌に
恐ろしい謎が隠されていた、などあっと驚くような仕掛けも満載。
歴史に興味がある方にオススメです。




一方、『日輪の賦』の讃良皇女ですが。
こちらは、父・天智天皇、夫・大海人皇子がこの国のために成しえなかったことを
自らを犠牲にしてまでやり遂げた孤高の女性として描かれています。

この作者の澤田瞳子さん。
私、『弧鷹の天』からの大ファンでして。
(『弧鷹の天』のレビューはこちら→
今回、仏師定朝を描いた『満つる月の如し』とこの作品と立て続けに読みました。
『弧鷹の天』もそうでしたが、新しい時代を築き上げようとする若者の真っ直ぐな思いが、
心の真ん中にストレートに入ってきます。

まだ「日本」という名さえなかったこの時代に、身内との権力闘争に明け暮れ、
国力が衰え、他国からの侵略を憂える人々が、律令の必要性を説き、
それを反対する古い勢力と立ち向かっていく姿が描かれています。
その中心となるのが讃良大王。

その一方で、地方から官僚を目指して京にやってきたひとりの若者・廣手の目線で
ストーリーは展開していきます。
この廣手をはじめ、男装の女官として讃良に仕える忍裳〈おしも〉、
滅亡した百済からの渡来人・高詠、壬申の乱で敗れた大友皇子の長子・葛野王など、
まわりに登場する人物たちが実に生き生きと描かれているのですね。
なので、遠い昔の出来事なのにすごく身近に感じられ、国を侵略される恐ろしさや
律令制度を整える意味などが、身をもって感じられるのです。
・・・というか、時代は違っても、今も似たような状況じゃない?と思えてしまうほど。


どの時代にも「この国をよくしたい」という思いを持つ若者が必ずいます。
そんな彼らが古い体制を打破し、新しい国づくりを模索していく中で
歴史って綴られていくわけですよ。
時の権力者が歴史を変えるんじゃない、ひとりひとりの熱い思いが大きなうねりとなって
時の権力者を動かし、歴史を動かしているんだな~とつくづく思います。



讃良が息子の草壁皇子を毒殺したという設定は、こちらにもあります。




         『丹生都比売』
          梨木果歩


こちらは不思議な美しさを感じる作品です。


讃良が排除した悲劇の皇子といえば、忘れてならないのが大津皇子。
こちらは大津皇子の蘇りを描いた作品です。



         『死者の書』
          折口信夫


若い頃、これを読んで何ともいえない衝撃を受けました。
私の持ってるのは古い文庫本なので、字は小さいし、旧仮名づかいも読みづらいのに、
どこまで理解できていたのやら。
もう一度読み直そうとして、数ページで頭が痛くなってしまいました~




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『炎路を行く者』

2013-02-01 | 読むこと。



今日は義母が110番通報したらしく、お巡りさんがやって来たのでびっくりしました。
先日から義母が失くしてしまった小さな金庫の鍵。
私も探したけれど見つからず、たいして大切なものは入っていないので
そのうち見つかるだろうとそのままにしていたら、いつのまにやら
義母は盗られたと言い出し、警察に連絡してしまったのです

私はお巡りさんに「母は認知症なんです。これまでもこんなことはよくあって・・・
申し訳ありません」と事情を話しましたが、110番で通報されたらそれなりに
調べなければいけないということで、鍵のなくなったいきさつを詳しく話し、
金庫のスペアキーを持って義母宅に行き、金庫を開けて紛失したものはないか確認し、
お巡りさんふたりと一緒にざっと部屋の中を探し、あとは私が探します、
見つかったら報告します、ということでお引取りしていただいたのでした。

この冬、認知症が一段と悪化した義母に、振り回されることが多くなりました。
実家の母からは、毎日毎日同じ電話がかかってくるし・・・
さすがにちょっとココロも疲れ気味。
こんなとき、現実逃避にはもってこいの本を偶然見つけました。
守り人シリーズの中で、幻の物語と言われた『炎路を行く者』です。

私も守り人ファンとして、「炎路の旅人」が出るらしいということは
ずっと前に聞いたことがありましたが、『天と地の守り人』が出てこの物語は
完結したものと思っていました。
このあたりのいきさつは作者があとがきにも書かれていますが、今こうやって
作品として世に出て、読むことができるとはファンとしても嬉しいかぎり。

この作品は、守り人シリーズの後半に重要な役割をもって登場するヒュウゴの
生い立ちを描いた中篇「炎路の旅人」と、バルサが15歳のときのエピソードを
描いた短編「十五の我には」が収められています。
たまたま上橋菜穂子さんの書かれる物語を続いて読むことになりましたが、
いつも感心するのは、ファンタジーといっても物語の世界観がしっかり
出来上がっていて、とてもリアルだということです。
それは登場人物にもいえて、それぞれの登場人物のそれぞれの人生が、作者の
頭の中にきちんと出来上がっているんだなあ、ということがよくわかります。
つまり、主人公ではないヒュウゴの人生も、作者の中には「炎路の旅人」として
もとは長編の物語になるほどしっかり出来上がっていたわけですね。

彼もまた主人公のバルサやチャグムと同じく、過酷な運命を生き、
自らの手で切り開いていく人物として描かれています。
そりゃあ、本編でも魅力的なはずですよね~




去年は本を読んでも途中まで書きかけて、そのままになってしまった記事が多くありました
今年はもう少しがんばって、短くてもレビューを書いていきたいと思ってはおりますが・・・
当分、現実逃避系(?)の本が多くなりそう。


そうそう、義母が盗られたと言っていた鍵はその後すぐに見つかり、
近くの交番へ行ってひたすら謝ってまいりました~
泥棒が入ったと、義母が警察に連絡したのはこれが初めてではないのに、
油断してた私も迂闊でした
丁寧に対応してくださったお巡りさん、申し訳ありませんでした



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