テニス錦織選手の活躍はめざましいものがある。是非はともかく、スケートの羽生選手のガッツにも驚かさせられる。錦織圭選手の場合、テニスについて何を知っているというわけでないが、画面を通じてフットワークを見ていると、今回のコートの状況が性に合っているのではないかと思っている。自分自身の足をスムースに運べるし、ボールの勢いもマッチしているのではないかと。そうであれば、決勝まで進み、一気に頂点へ立ってしまうこともあり得る。
バドミントンや卓球の場合も、体育館の大きさによって、自分の打球感に違いを覚える。こういった時に、やはりいろいろな所での場数を踏んでいると、感触が違っても、違ったなりに対応していける。目の前の勝ち負けだけにこだわらず、ある程度の時間の長さをもって考えた場合は、負けることも次につながっていくと考えれば、少しは気楽に臨めるものだ。
さじ加減という言葉。日本語として、日本風土として、非常に良い響きと意味のある言葉と思う。別の言い方に変えるならば、遊びがあるということにも通じると思う。人間はデジタルでないのだ。いいことも、わるいことも、その中間のことも、途切れなく、境目なくあるものだ。川の流れも決して、直線、直角ではないのだ。そこにこそ、人間味、人情が存在するのだ。
中国が抗日を表現するような施設を作ったり、韓国と連携を模索したり。さっくりで言えば、古今東西、戦争というものには、非情なことがつきもので、自分の足元で世論弾圧を行っていることをさしおいて他国の非難を繰り返すことには辟易してしまう。原爆投下に対する欧米人の大義や理屈も決して納得できるものでない。大量殺りくには違いないのだ。外国にはさじ加減というような風流なことはないのか?Reasonableも行き過ぎると、単なる、へ理屈、こじつけ、自己主張だけのためのものになり下がる。あくまでも人の為は偽りで、どこまでいっても自分の為だけしか残らぬというのが、世の中の真理などと信じたくはないが。