flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

炭焼沢

2016-12-16 00:00:00 | 水のほとり

(松本川 愛知県宝飯郡一宮町東上字炭焼 1998年5月5日)
 字松本で豊川に注ぐ松本川の旧名を炭焼沢という。炭焼は旧東上村の枝郷と呼ばれる地で、かつては炭焼が行われた本宮山麓の集落である。その炭焼沢の本流、本宮山の山肌を流れる小さな滝のある沢を滝沢と呼び、豊富な水で潤し続けている。

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赤堤砦

2016-12-15 00:00:00 | 城郭・城下町

(東京都世田谷区赤堤)
 赤堤砦は吉良氏世田谷城の北方の守りとして築かれたものである。砦は六所神社あるいは正徳五年(1715)創建の真言宗赤堤山善性寺付近に存在したとされ、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐まで世田谷城の砦として機能した。跡地は、伊賀服部氏の一族であり、呉服明神で神職を務めた服部貞信が、天正十二年(1584)徳川家康の伊賀越えで道案内の功から旗本となり、この地に陣屋が設けられ、元禄十年(1697)知行地替えになるまで陣屋が存在した。その貞信が武蔵国惣社六所明神より大国主神(おおくにぬしのかみ)を勧請し、六所神社を赤堤の鎮守として創建したという。
    
      善性寺

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日吉原

2016-12-14 00:00:00 | ご近所漫ろ歩き

(愛知県宝飯郡一宮町大木字山ノ奥 1998年5月5日)
 一宮町の西端の日吉原台地は、一部が陸上自衛隊日吉原演習場となっている。台地上には弥生時代後期の山ノ奥遺跡や、念仏塚古墳、森月(もりげつ)古墳、平安時代の布目瓦が出土する梵地池遺跡、遺跡等があり、今は人が人気のないこの台地も、中世以前は人々の営みがあった地ということが分かる。
  森月


(関連記事:梵地池

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世田谷東松原

2016-12-13 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区松原)
 京王井の頭線東松原駅を降りる。付近は松原地区の東部であり、西部に東急世田谷線松原があるため、東松原と称する。吉良氏臣であった松原佐渡守某がこの地を開拓したため、松原と呼ばれるようになったという。当初は荏原郡赤堤村松原であったが、江戸時代前期に松原村が成立した。東松原駅前の商店街は鎌倉街道中の道及び羽根木道の名残であり、どことなく街道特有の風情が感じられる。
    
  江戸時代末期に造営された丸彫りの石地蔵は、昭和に入ってから子どもに疫病が流行ったため小堂を建ててこの地に祀られ徳明地蔵尊と名付けられた
 菅原天神通り

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明智大正村

2016-12-12 00:00:00 | 街道・宿場町

(岐阜県恵那郡明智町 1998年5月4日)
 黄金週間のこの日、山間部の天気は変わり易く、曇、小雨、霧、晴れ間と次々変化していった。満々と水を湛えた奥矢作の峡谷を過ぎるとすぐ県境となり、間もなく明智町中心地へと差し掛かる。「日本大正村」は時期からか、思いの外観光客で賑わっていた。「村内」自体は単に懐かしい感じのする普通の町並みといった感じであるが、町起こしにより所々リメイクされており、大正風情復元途上といったところか。南北街道から横に入ったところの「大正村役場」は、明治39年(1906)明智町役場として建てられたもので、当時の資料が展示されており、その他、図書資料館、絵画館、小川記念館、大正ロマン館では美術品が展示されていた。「ロマン館」は初代大正村「村長」高峰三枝子、初代「議長」春日野清隆の記念館として平成6年に開館したもので、両氏の遺品記念品が展示されていて、その他、山本芳翆の絵画、大正時代の調度品が陳列されている。南北街道沿いの「大正村資料館」は明治時代末期の三つの建築、銀行繭蔵、町屋敷、表蔵から成り立っており、生糸の町の名残の銀行蔵は、木造百畳敷四階建てで手動式エレベーターが設置されている。現在は近代美術工芸の時計、蓄音機、人形、楽器等が展示され、町屋敷「大正の館」は当時の生活模様の再現、表蔵は土産品の販売がされていた。中馬街道沿いの天久資料館は一階が喫茶室、二階はガラス食器を陳列する展示室となっている。元々「カフェー天久」が京都に大正12年(1923)から営業していたものを、昭和61年(1986)閉店するにあたり、内装や什具と共に移転してきたものである。今回一番賑わっていたところは常盤町の南北街道、中馬街道交差点辺りであろうか。猿まわしや大道芸が開催されていた。東濃の国境い、人口八千余りのこの町は、町起こし及び観光事業を推進している。然し、商業に徹するほど情緒さロマンさが減少するような感じで、今一度客観視してほしい感じがした。最後に千畳敷から大正村、明智の町を眺め帰路についた。
  大正村役場
  大正ロマン館
   大正資料館
 南北街道町並み
 千畳敷から

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東大駒場キャンパス

2016-12-11 00:00:00 | 学びのやかた

(東京都目黒区駒場)
 松濤松見坂から西に歩を進めると駒場である。江戸時代、付近は将軍の鷹狩り場であり、その馬を留め置く場所であったことから駒場と名付けられたとされる。明治6年(1873)この地に駒場農学校が開設され、東京農林学校、東京帝国大学農学部を経て、昭和8年(1933)からは旧制第一高等学校となり、現存する近代建築はこの頃築造されたものである。戦後、新制東京大学教養学部となって現在に至っている。
    一二郎池
         

(関連記事:東京大学本郷キャンパス 旧東京帝国大学医学部附置伝染病研究所

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三遠南信天龍

2016-12-10 00:00:00 | 街道・宿場町

(長野県下伊那郡天龍村 1997年12月13日)
 長野県は隣接しているところでありながら、訪れたことがなかった。そこで飯田線全通60周年ということもあり、下伊那郡天龍村を訪れることにした。天龍村は“塩の道”でもあった秋葉街道筋の長野、静岡、愛知県境にある人口二千人弱のいわゆる“国境いの村”である。昭和31年までは、平岡村、神原村であった。この付近としては商店も多く比較的拓けていると思われたが、土地の人は「昔はもっと栄えていた」と言っていた。昭和14年(1939)に着工された平岡ダムにより過疎化が始まったが、近年は温泉掘削によって観光の村となった。玄関口平岡駅を降りたところにあるトラス橋と水量の少ない天竜川、そして発電所が見える風景は「中部天竜」によく似ている。
 天竜川に沿ってダムへ。昭和27年(1952)に完成した中電平岡発電所は電源開発佐久間ダムとは違い観光向きではない。それでも佐久間ダム完成までの4年間は東洋一であったという。またダム完成によってできた平岡湖は、元々「十方峡」と呼ばれた渓谷であった。
 川を離れ高所にある満島神社へ。この神社は観光地図に掲載されているわりには小ぢんまりしたお宮である。秋祭りのお練りが有名だそうだ。お宮からは「平岡」のまちが望める。南西面は民家が建ち並んでいるが北東面は大自然である。満島神社付近は公園となっていて、遥か彼方には遠山郷、南アルプスが望められる。この高所では水の響きが聴こえる。それは眼下の遠山川から水を引き揚げ、斜面に建つ家に供給しているからである。そのため至るところ水音が絶えない。
 この平岡、地名の文字と反し、平らなところが殆どなく、足腰が鍛えられた。
       

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駒沢

2016-12-09 00:00:00 | 漂い紀行

(東京都世田谷区駒沢)

 明治22年(1889)荏原郡上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町、深沢村が合併し、駒沢村となった。その駒沢の地名は下馬(駒)と野沢、深沢を合わせた地名である。目黒区との境に駒沢オリンピック公園があり、戦前は東京ゴルフ倶楽部であったこの地を昭和15年(1940)の東京オリンピックメイン会場として利用される計画であった。戦後は東映フライヤーズ本拠地の駒澤野球場となったが、昭和39年(1964)この地が東京オリンピックのサブ会場として利用されることになり、オリンピック閉会後は記念公園として整備された。

           

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三遠南信上市場

2016-12-08 00:00:00 | 国境いの村

(秋葉街道 静岡県磐田郡佐久間町浦川 1997年11月8日)
 奥三河東栄町から流れ大千瀬川へ注ぐ天竜川水系相川の斜面に面したこの地区は、典型的な“国境いの村”の様相を呈していた。川の辺を沿って歩いてみると、山間に彩りを見せる季節だけに、静の中に華やかさを見せていた。山の木々が映る水面。それを透して動く魚を見ていると、川に対しての思いを意識し始めた頃に戻った思いがした。
 日に乗降客が20人の上市場駅
 熊野神社
 相川

この後は出馬

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鎌倉通り

2016-12-07 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区)
 笹塚の南、渋谷区境の北沢から下北沢を経て代田淡島通りまでの細い通りを鎌倉通りと呼ぶ。かつての鎌倉街道の一部とされ、途中北沢川(現在は遊歩道暗渠化)には鎌倉橋と呼ばれる橋が架かっている。
 鎌倉橋南交差点
       北沢川と鎌倉橋
 詩人三好達治(1900-64)文学顕彰碑(近くに旧居があった)

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田原蔵王山

2016-12-06 00:00:00 | 漂い紀行

(愛知県渥美郡田原町浦字蔵王 1997年8月18日)
 凡そ二十年振りに渥美半島三番目の標高250m蔵王山に訪れる。以前訪れたときは昭和39年(1964)完成の三角屋根展望台であったが、平成6年に建て替えられた。山頂には山名の由来である平安時代末期創建と伝わる蔵王権現がある。
 大久保・黒河・赤羽根方面

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太子堂八幡神社

2016-12-05 00:00:00 | かみのやしろ

(東京都世田谷区太子堂 旧村社)
 三軒茶屋地区の北西斜面に鎮座する誉田別命(ほむたわけのみこと:応神天皇)を祀る神社である。社伝によると源頼義、義家親子は奥州平定に向かう行く途中で、この八幡神社に戦勝を祈願したと伝わる。文禄年間(1592-96)地名の由来である聖徳太子を祀る真言宗聖王山円泉寺が再興されたのを機に、同寺が別当寺(神宮寺)になったが、明治維新の神仏判然令によって分離されている。
 

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伊良湖岬

2016-12-04 00:00:00 | 海道・みなと

(愛知県渥美郡渥美町伊良湖 1997年8月18日)
 渥美半島先端、太平洋と三河湾、伊勢湾を結ぶ伊良湖水道に向けられて立つ伊良湖岬灯台を訪れた。昭和4年(1929)から変わらず照らし続けている。
 神島

(関連記事:伊良湖フラワーパーク 片浜十三里 日出の石門)

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目青不動

2016-12-03 00:00:00 | ほとけのいおり

(天台宗竹園山最勝寺教学院 東京都世田谷区太子堂)
 三軒茶屋地区の北側には、ひっそりと佇む堂宇がある。寺伝によると応長元年(1311)紅葉山に創建されたが、康正三年(1477)江戸城築城の際に麹町に移り、赤坂三分坂、青山南町移転を経て明治44年(1911)現在地に移されている。また、本尊の不動明王は江戸五色不動(目黒、目白、目赤、目黄、目青)の一つとなっている。

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五葉湖

2016-12-02 00:00:00 | 水のほとり

(大原調整池 愛知県新城市富岡 1997年8月17日)
 私が子どもの頃、新城八名地区で最初に訪れた山城、五葉城跡の麓にある豊川用水東部幹線水路の調整池である。当時はまだ調整池の築造前であり、恵廼(めぐみ)池と中の池、川谷池という小さな池が隣り合っていた。それら三つの池も「恵廼池」と刻まれた石碑だけが残り、調整池に取り込まれた。また、水面に浸かる砂防堰堤が見えた。これは二十年前五葉城に登城した際、調整池築造の前提となる砂防工事をしていたものであるが、現在は釣り人の足場となって活きていた。平成5年、十六年の歳月をかけ完成したロックフィルダムの調整池であり、灌漑(かんがい:供給)面積は1.9km2,満水面積18ha,貯水量2020千m3,堤高47.9m,堤長351mである。

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