flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

渋谷橋交差点

2016-04-15 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都渋谷区東・広尾)
 駒沢通り(都道416号古川橋二子玉川線)と明治通り(環状5号都道305号芝新宿王子線・都道416号古川橋二子玉川線)の交差点である。交差点名は西側の渋谷川に架かる渋谷橋からである。
 

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夏橋

2016-04-14 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県宝飯郡御津町下佐脇字花ノ木・郷中 1998年10月31日)
 昭和4年(1929)1月に架橋された、旧白川の町道橋である。現在は幅の広い白川が下佐脇集落の東側を流れるが、昭和8年(1933)に移設改修されるまでは幅が狭く、下佐脇集落中央を蛇行する危険な川であった。現在でも新白川橋上流から安藤川合流を経て、旧街道筋である音羽川御所橋上流まで旧河道が運河のように残されている。

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三原小路

2016-04-13 00:00:00 | ろうじ

(東京都中央区銀座)
 銀座の裏路地である三原小路は、三原通りとあづま通りの間に位置する小路を指す。その両通りに通じる三原小路のあづま通り側の傍らに「あづま稲荷」があり、関東大震災や空襲を経験した銀座が、これ以上火災等の災害に遭わないよう、鎮守の神として戦後に祀られたものである。三原通りから袋小路になっている三原小路がある。そこには戦後間もなく建てられた2階建ての「田村ビル」があり、かつて質商江島屋の田村藤兵衛の土地であった名残である。

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豊田稲荷塚古墳

2016-04-12 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊田市下林町 1998年10月25日)
 市街地の中にある現状直径14m,高さ2.4mの円墳である。周囲が削られ、横穴式石室の石材が露出している。出土する須恵質埴輪から6世紀築造と推定される。また、名前は古墳に置かれた江戸時代後期の「稲荷塚」の石碑からで、昭和50年(1975)墳丘上に生えていた「おどりがねの松」が枯死した後に、古墳が立入禁止となった。

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渋谷区立広尾小学校校舎

2016-04-11 00:00:00 | 学びのやかた

(東京都渋谷区東 国登録有形文化財)
 渋谷の高台には景観の優れた建物がある。昭和3年(1928)不審火により明治通りにあった校舎を焼失したため、昭和7年(1932)現在地の旧上智町(1966-東)に耐火構造で建造された、RC造3階建塔屋付、建築面積940m2の校舎である。また塔屋は渋谷消防署上智出張所の望楼を兼ねていたが、昭和22年(1947)に役目を終えている。広尾小学校は大正5年(1916)東京府豊多摩郡渋谷町立広尾尋常小学校として開校し、平成28年で100年を迎えた。
  

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屯倉水神社

2016-04-10 00:00:00 | かみのやしろ

(静岡県引佐郡細江町油田 1998年10月11日)
 浜名湖に注ぐ都田川の河口部左岸に鎮座する。元来は旧字大鳥居の屯倉(みやけ)神社と、旧字東岩崎の水(すい)神社という別々の神社であったが、永禄十一年(1568)屯倉神社地に堀川城が築かれることになったため、現在地に鎮座していた水神社に屯倉神社が合祀され屯倉水神社となった。因みに屯倉(みやけ)は、大化の改新以前の「大和朝廷」の直轄地を表す。付近の都田(みやこだ)の地域名は、この屯倉から変化したものと推定される。

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塙保己一史料館

2016-04-09 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(温故学会会館 東京都渋谷区東 国登録有形文化財)
 昭和2年(1927)に竣工した、RC造2階建塔屋付、建築面積184m2の建物である。館内には寛政五年(1793)から文政二年(1819)に造られた歴史学、国文学の叢書である群書類従の版木17,244枚(34,488頁分)が保管され国の重要文化財となっている。塙保己一(はなわほきいち 1746-1821)は江戸時代の全盲の国学者であるが、日本全国各地に散在する書物を集め、それを校訂し、種類ごとに分けて編纂したものが群書類従である。明治維新になると膨大な版木の保管が難しくなり、三代目の塙忠韶(ただつぐ)は版木を文部省博物館浅草文庫に寄贈した。その後、東京帝国大学の管理となったが、版木の存在は忘れられた。然し、明治42年(1909)文部省の倉庫から発見され、塙保己一の墓所のある愛染院(新宿区若葉)に版木倉庫を建設し移されたが、大正12年(1923)関東大震災により倉庫が倒壊。然しながら版木は無事であった。そして、耐震耐火の現在の建物を建設し移管された。

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陣座ヶ谷古墳

2016-04-08 00:00:00 | いにしえびとの睡

(静岡県引佐郡細江町中川 県指定史跡 1998年10月11日)
 都田川の南、かつての条里制遺構を望む丘陵頂に3基からなる陣座ヶ谷古墳はある。2号墳は5世紀後半の前方後円墳であり、全長55m,高さ5mで、外部施設に周溝、葺石、埴輪がある。大正4年(1915)に埋葬施設の一部が発掘され、変形獣文鏡や刀の破片が出土している。1号墳は円墳で2号墳前方部に隣接し、2号墳県史跡指定前年に滅失した。3号墳は2号墳の後円部に隣接し、直径12mの円墳で現存しているが、高さは1m足らずで低くなっている。
 遠望
 後円部
 後円部に建つ三界萬霊塔

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渋谷氷川神社

2016-04-07 00:00:00 | かみのやしろ

(東京都渋谷区東)
 渋谷のまちを東から見下ろす氷川神社は、南隣の天台宗慧日山薬王院宝泉寺を再興した住職実円が、慶長十年(1605)に記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のとき、当地に素盞嗚尊(すさのおのみこと)を勧請したとされる。その後、弘仁年間(810-24)慈覚大師円仁が宝泉寺を開基し、それより同寺が氷川大明神別当(神宮寺:神社を管理する寺)となったとある。然し、明治維新の神仏判然令によって各々別の管理となり現在に至っている。
   

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本宮山登山口付近開発

2016-04-06 00:00:00 | ご近所漫ろ歩き

(愛知県宝飯郡一宮町上長山字本宮下 1998年10月10日)
 本宮山の登山口に、本宮の森ふれあい交流館や健康福祉センター、将来的には公園を造成する工事が始まった。

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國學院大學博物館

2016-04-05 00:00:00 | 学びのやかた

(東京都渋谷区東)
 渋谷の東側の高台、かつて氷川裏御料地があったところには、大正12年(1923)に麹町区飯田町(千代田区飯田橋)から移転した國學院大學がある。その一角には博物館があり、昭和3年(1928)当時國學院大學の学生であった樋口清之氏が、自ら収集した考古資料を寄付し、考古学陳列室として始まったものである。昭和7年(1932)には「考古学資料室」と改称。鳥居龍蔵博士が創設した上代文化研究会(後の國學院大學考古學會)の拠点となった。昭和27年(1952)には、博物館法の指定する博物館相当施設に認定され、昭和50年(1975)には「考古学資料館」と改称されている。また、昭和38年(1963)「神道学資料室」が開設され、昭和53年(1978)「神道資料展示室」、平成2年には「神道資料館」と改称された。平成19年には、考古学資料室と神道資料館が合併し「学術資料館」となった。平成25年には、國學院大學博物館が発足され、10万点の資料を所蔵する学術施設となった。
 
 千葉県佐倉市 大篠塚2号墳箱式石棺

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三方原学園内7号墳

2016-04-04 00:00:00 | いにしえびとの睡

(静岡県浜松市有玉西町 1998年10月4日)
 直径30m,高さ2.3m,5世紀後半に築造された円墳である。頂には祠が置かれている。付近にはかつて160基の古墳があり、三方原及び千人塚古墳群と呼ばれた。

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喜多見

2016-04-03 00:00:00 | 漂い紀行

(東京都世田谷区喜多見)
 世田谷区の西端であるこの地は、江戸氏及び後裔の喜多見氏が開発、知行した地である。かつて東隣の成城も喜多見であったが、今は喜多見が西成城ということがある。
      

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三河大島遠望

2016-04-02 00:00:00 | 海道・みなと

(愛知県蒲郡市 三河湾国定公園 1998年10月3日)
 三河湾に浮かぶ周囲4kmの無人島。私は幼い頃訪れたようだが記憶に残っていない。

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三軒茶屋

2016-04-01 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区三軒茶屋・太子堂)
 大山道(現国道246号玉川通り)と登戸道(現主要地方道3号世田谷通り)の追分に三軒の茶屋があったことに由来する。この内の一軒「信楽」に坂本龍馬が宿泊したと伝わる。旧来の地名は太子堂及び馬引沢村であり、行政地名としては昭和7年(1932)世田谷区成立以降のものである。第二次大戦後、追分内側の「三角地帯」に闇市ができ、今もその面影を伝えているが、隣接して平成8年に27階建のキャロットタワーができ、ミスマッチという言葉が思い浮かぶ光景となった。
                 
      目青不動の天台宗竹園山最勝寺教学院

(関連記事:路電世田谷 桜新町 目黒大橋

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