◇ひな祭/今日の俳句◇
◇※第1211号※◇
2013年(平成25年)3月3日(日)
■
※今日の記念日※
3月3日
■ 上巳[じょうし],桃の節句。
上巳の節句は五節句の一つで、元々は3月上旬の巳の日だったが、後に3月3日に行われるようになった。旧暦では3月3日は桃の花が咲く季節であることから「桃の節句」とも言われる。
古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣があった。これが平安時代に日本に取り入れられた。後に、紙で小さな人の形(形代[かたしろ])を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して不浄を祓うようになった。この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
■ 雛祭り。
女の子の健やかな成長を願う伝統行事。女の子のいる家庭では、雛人形を飾り、白酒・菱餅・あられ・桃の花等を供えて祀る。
上巳の日には、人形に穢れを移して川や海に流していたが、その人形が次第に精巧なものになって流さずに飾っておくようになり、雛祭りとして発展して行った。
雛祭りは始めは宮中や貴族の間で行われていたが、やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の行事となった。
元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、端午の節句は菖蒲の節句とも言われることから、「尚武」にかけて男の子の節句とされるようになった。
○
■ 耳の日。
日本耳鼻咽喉科学会が1956(昭和31)年に制定。
「み(3)み(3)」の語呂合せ。また、三重苦のヘレン・ケラーにサリバン女史が指導を始めた日であり、電話の発明者グラハム・ベルの誕生日でもある。
■ 立子忌。
高浜虚子の子で『玉藻』を主宰した俳人・星野立子[ほしのたつこ]の1984(昭和59)年の忌日。
※ 星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。
虚子の一族でも特に評価の高い人物の一人である。
女流では中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに四Tと称された。
東京府麹町区富士見町(現・東京都)に生まれ、7歳のとき鎌倉に移る。
東京女子大学高等学部卒業。1925年に星野天知の息子・星野吉人と結婚。
『ホトトギス』発行所および文化学院に就職。1926年より父の薦めで作句をはじめる。
1930年、父の後ろ盾を得て、初の女性による主宰誌『玉藻』創刊。
句集に『立子句集』(1937年)『鎌倉』(1940年)『実生』(1957年)『春雷』(1972年)などがある。
虚子は子女のなかで、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)としている。
さらに虚子は『立子句集』(1937年)の序文で「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。
写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた感じる」と激賞した。
1935年ころからは、それまでの「明るい鏡に写しとつたやうな景色を写生した句」が「作者の感情に動くままに景色を描くといつた句になつて来た」(「玉藻」1925年11月号)と評している。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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■※今日の俳句※■
厨房に貝が歩くよ雛祭
秋元不死男
貝がらは縞の柄着て雛祭
鷹羽狩行
白き粥かがやく雛の日とおもふ
桂信子
【季語】
※ 雛・桃の節句・雛遊び・ひひな・初雛・内裏雛・紙雛・雛飾る・雛菓子・雛の灯・雛の客・雛の宴・雛の宿。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)3月3日(日)より転載】
■
※わが友に贈る※
■
生命を育む
女性の慈愛は
平和創出の源泉!
家庭に 社会に
励ましの光を送れ!
◇※3月3日※◇
■
◇※寸 鉄※◇
■
会長(SGI)は時代に左右されぬ普遍的視座を提示ー学者。新たな精神文明の太陽と
◇
大阪婦人部の日。常勝の母の祈りに勝る力なし。賑やかに師弟勝利の城を
◇
列島各地に春一番。さあ対話拡大の絶好機。弾む心で挑戦の一歩踏み出せ
◇
「蓮華と申す花は菓(み)と花と同時なり」。今を勝つ!決めて祈れば道が開ける
◇
糖尿病、1日1時間の運動で死亡リスク半減と。聡明な生活で人生を充実
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┌─── PR ───┐
携帯・PCから!!
朝、元気が出る!!
古今東西の名句・秀句を!
【和井弘希の文芸政談】まぐまぐ!
http://mobile.mag2.com/mm/M0095690.html
└────────┘
「和井弘希の文芸政談」に掲載した俳句集
http://u-736632kazui.hatenadiary.com/
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◇※第1211号※◇
2013年(平成25年)3月3日(日)
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※今日の記念日※
3月3日
■ 上巳[じょうし],桃の節句。
上巳の節句は五節句の一つで、元々は3月上旬の巳の日だったが、後に3月3日に行われるようになった。旧暦では3月3日は桃の花が咲く季節であることから「桃の節句」とも言われる。
古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣があった。これが平安時代に日本に取り入れられた。後に、紙で小さな人の形(形代[かたしろ])を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して不浄を祓うようになった。この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
■ 雛祭り。
女の子の健やかな成長を願う伝統行事。女の子のいる家庭では、雛人形を飾り、白酒・菱餅・あられ・桃の花等を供えて祀る。
上巳の日には、人形に穢れを移して川や海に流していたが、その人形が次第に精巧なものになって流さずに飾っておくようになり、雛祭りとして発展して行った。
雛祭りは始めは宮中や貴族の間で行われていたが、やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の行事となった。
元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、端午の節句は菖蒲の節句とも言われることから、「尚武」にかけて男の子の節句とされるようになった。
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■ 耳の日。
日本耳鼻咽喉科学会が1956(昭和31)年に制定。
「み(3)み(3)」の語呂合せ。また、三重苦のヘレン・ケラーにサリバン女史が指導を始めた日であり、電話の発明者グラハム・ベルの誕生日でもある。
■ 立子忌。
高浜虚子の子で『玉藻』を主宰した俳人・星野立子[ほしのたつこ]の1984(昭和59)年の忌日。
※ 星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。
虚子の一族でも特に評価の高い人物の一人である。
女流では中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに四Tと称された。
東京府麹町区富士見町(現・東京都)に生まれ、7歳のとき鎌倉に移る。
東京女子大学高等学部卒業。1925年に星野天知の息子・星野吉人と結婚。
『ホトトギス』発行所および文化学院に就職。1926年より父の薦めで作句をはじめる。
1930年、父の後ろ盾を得て、初の女性による主宰誌『玉藻』創刊。
句集に『立子句集』(1937年)『鎌倉』(1940年)『実生』(1957年)『春雷』(1972年)などがある。
虚子は子女のなかで、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)としている。
さらに虚子は『立子句集』(1937年)の序文で「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。
写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた感じる」と激賞した。
1935年ころからは、それまでの「明るい鏡に写しとつたやうな景色を写生した句」が「作者の感情に動くままに景色を描くといつた句になつて来た」(「玉藻」1925年11月号)と評している。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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■※今日の俳句※■
厨房に貝が歩くよ雛祭
秋元不死男
貝がらは縞の柄着て雛祭
鷹羽狩行
白き粥かがやく雛の日とおもふ
桂信子
【季語】
※ 雛・桃の節句・雛遊び・ひひな・初雛・内裏雛・紙雛・雛飾る・雛菓子・雛の灯・雛の客・雛の宴・雛の宿。
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※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)3月3日(日)より転載】
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※わが友に贈る※
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生命を育む
女性の慈愛は
平和創出の源泉!
家庭に 社会に
励ましの光を送れ!
◇※3月3日※◇
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◇※寸 鉄※◇
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会長(SGI)は時代に左右されぬ普遍的視座を提示ー学者。新たな精神文明の太陽と
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大阪婦人部の日。常勝の母の祈りに勝る力なし。賑やかに師弟勝利の城を
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列島各地に春一番。さあ対話拡大の絶好機。弾む心で挑戦の一歩踏み出せ
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「蓮華と申す花は菓(み)と花と同時なり」。今を勝つ!決めて祈れば道が開ける
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糖尿病、1日1時間の運動で死亡リスク半減と。聡明な生活で人生を充実
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携帯・PCから!!
朝、元気が出る!!
古今東西の名句・秀句を!
【和井弘希の文芸政談】まぐまぐ!
http://mobile.mag2.com/mm/M0095690.html
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「和井弘希の文芸政談」に掲載した俳句集
http://u-736632kazui.hatenadiary.com/
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