山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「王陵の谷」河内飛鳥を往く(その2)

2014年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

大和の史跡巡りを始めてから、石に出会うとパタッと立ち止まるようになった。今まで何も気に留めなかったのに、最近石を注視する変な(?)クセが。
道端の石材店の置き場に居並ぶ石像、燈籠などをしげしげと眺めます。オヤッ、「寝そべり地蔵さん」が・・・




 西方院(さいほういん)   


太井川沿いに太子町の中心へ進み小高い丘に登ると広々とした墓地が広がり、その向こうに叡福寺の塔や聖徳太子の眠る森が見えます。この墓地を管理するのが西方院。伝承によれば、推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した後に、三人の侍女(乳母)、月益姫(蘇我馬子の娘)・日益姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)は剃髪して仏門に入り、その名も善信・禅蔵・恵善と改め、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にお堂を建立して太子の冥福を祈ったのが西方院の始まりと伝えられる。そして太子の遺髪を納め、太子自作の阿弥陀如来尊像を本尊として祀ったという。日本最古の尼寺とされています。
寺の南側の墓地内には、この三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼) の墓と伝えられる三基の石塔が覆屋に囲まれて残されている。


西方院入口の右横に下りの階段があり、その先には聖徳太子の眠る森をバックに叡福寺の門が望まれる。
聖徳太子に仕えた侍女たちは、ここから向かいの太子御廟を礼拝し、太子を懐かしんだことと思われます。

 叡福寺(えいふくじ)  

西方院からの階段を降り道路を横切ると、広い駐車場があり「聖徳皇太子磯長御廟」という大きな石碑が立っている。正面には叡福寺への入口となる階段と南大門がひかえています。
叡福寺の始まりは寺伝によれば、太子の没後、伯母にあたる推古天皇が方六町の土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたこととされている。そして奈良時代の神亀元年(724年)に、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって大規模な伽藍が造営された、とされる。だが、この聖武天皇創建説には異論が多く、実際には太子信仰の高まりと共に平安後期に創建されたと考えられている。
いずれにしても、叡福寺は境内にある聖徳太子御廟を守る寺であり、奈良の法隆寺や大阪の四天王寺と並んで太子信仰の中心をなす寺です。

石段の上には、左右に金剛力士像が睨みをきかす南大門が建つ。現在の門は昭和33年に再建されたもの。門の額縁にはB級戦犯とおぼしき不埒の総理大臣名が・・・。額縁の真下を避け門をくぐると、叡福寺の境内です。通常、お寺は正面に本堂・金堂などが建つが、ここ叡福寺の真正面に対するのは聖徳太子墓になっている御廟です。寺の中心線は、あくまでも聖徳太子御廟で、その左右に伽藍が配置されている。


南大門をくぐった左側、境内の西側に、手前から多宝塔【国指定文化財】、金堂【府指定文化財】が並ぶ。
承応元年(1652)に再建された多宝塔には、東面に本尊として釈迦・文殊・普賢の三尊像が、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。昭和52年国の重要文化財に指定さる。

享保17年(1732)に再建された金堂は、止利仏師作の如意輪観音を本尊としています。高さ90cmの如意輪観音の坐像で、聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているという。

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