山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その 3)

2014年04月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 聖徳太子御廟(聖徳太子の墓、聖徳太子磯長廟)   


叡福寺の境内を真っ直ぐ進み、二天門をくぐると聖徳太子御廟(聖徳太子の墓) です。鬱蒼と茂る森をバックに三層の屋根が縦に並ぶ。陵墓でこんなの初めて見る。屋根の下には、阿弥陀三尊のご来迎を表した木彫りが掲げられている。聖徳太子が母や妻とともに葬られている「三骨一廟」を意味しているという。周囲は柵で囲まれ、正面の黒い門扉には菊の紋が燦然と光っている。宮内庁により天皇家の陵墓「聖徳太子磯長稜」に指定され管理されている。ということは叡福寺の境内ではない(?)。

聖徳太子は、父・用明天皇と母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)の間に生まれた(574年)。太子の両親は、ともに欽明天皇を父とする異母兄弟で、その母親同士は父、母を同じくする姉妹である。ややこしい近親結婚で複雑な家系図となるが、当時では普通なのでしょうか。それとも天皇家特有のこと?。日本史において聖徳太子ほど賛美され崇拝された人物はいない。推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階を制定、遣隋使の派遣など進んだ政治制度や文化を取り入れ、歴史上の重要な改革を行ったとされる。しかし資格がありながらついに天皇となる事はなく、推古30年(622)に49歳才で皇太子のまま世を去った。ある面では”謎の人物”でもあります。三ヶ月ほどの間に母、皇太子、妻と相次いで亡くなっている。こうした謎の残る経緯から、毒殺説、伝染病死亡説、自殺説などの憶説が広まることに。

御廟は叡福寺の背後にある磯長山の丘陵を利用し造営され、径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で「叡福寺北古墳」と考古学では呼ばれている。江戸時代までは誰でも石室内へ入ることができたようで、内部の様子が記録されている。内部は精巧な切石を用いた横穴式石室があり、3基の棺が安置されていたという。中央奥の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、手前左に膳部大郎女、右に太子と推定される棺だとされた。中世の人々はこの三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にした。誰でも中に入れたことから、太子信仰の高まりから後世に母と后の棺を追加し、無理やり「三骨一廟」としてのだ、という見解もあるが・・・。
明治12年(1889年)宮内庁の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまった。それ以後、内部を見ることができない。見られてはマズイいのか、とも勘ぐりたくもなる。

資料の少ない古い時代のことなので、いろいろな説が展開される。最初は聖徳太子の棺一つだった、さらには聖徳太子の墓ではない、など唱えられる。極めつけは「聖徳太子は存在しなかった」という説(真説、偽説、戯説、珍説?)まであるが・・・、真相は?

聖徳太子御廟の円墳左側に、背後の山へ登る階段が見える。この上にまだ何かあるんだろうか?、それとも展望台が、と息せきながら200mほどの登り道を上がると、広場になっっており中央に奇妙な塔が建っている。これは何だ?、と周辺を見渡すが、標識も説明もない。あの聖徳太子がお眠りになっているお墓の背後というのに。雑木林に囲まれ展望もなし、木立の間からチラッと見えるのは隣の霊園の墓場ばかり。息せき登ってきたのを悔いました。

 用明天皇陵(春日向山古墳)  


叡福寺を出て、太子町の中心地を東へ10分ほど歩けば用明天皇陵(春日向山古墳)がある。宮内庁治定の「用明天皇・河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)」です。

第31代用明天皇は、欽明天皇の第4皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)で、蘇我氏の血を引いた最初の天皇といえる。聖徳太子の父でもある。短命のため業績は無いが、歴代天皇の中で初めて仏教への帰依を表明されたことで知られている。その意思は推古天皇、聖徳太子などの蘇我系に引き継がれ、排仏派の物部氏との争いに発展していく。

 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)  


竹内街道を東へ進んでいくと、左側に石標と階段が見える。孝徳天皇陵への入口です。小高い丘の上が「王陵の谷」最後の王墓で、宮内庁が孝徳天皇「大阪磯長陵」に治定し管理ている。別名「うぐいすの陵」と呼ぶとか。考古学的には「山田上ノ山古墳」という径32mの円墳です。

この孝徳天皇には「悲憤のうちに薨去」「哀れな末路」「失意の内に病死」の見出しが付けられる。
第35代・皇極天皇の代、飛鳥板蓋宮で起きた「乙巳(いっし)の変」(645年6月)と呼ばれるクーデターで蘇我本宗家は滅ぶ。女帝の皇極天皇は退位し、有力者に皇位を譲ろうとしたが、激動の時期誰も引き受けようとしない。結局は皇極帝の実弟であった軽皇子が周囲から天皇位に押し上げら第36代孝徳天皇として即位することになる(在位645 - 654)。足が不自由で、しかも気が弱く凡庸な性格であることを自覚していた皇子は、天皇の器ではないと幾度も固辞したが押し切られた。クーデターの翌々日のことで、軽皇子はすでに50歳の老人であった。
大化改新で人心を一新するため難波長柄豊碕宮に遷都し住む。自ら望んで皇位に就いたわけではない。実権はクーデターの首謀者・中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足が握り、クーデター後の「大化改新」と呼ばれる改新政治では蚊帳の外におかれた。ところが8年後の白雉4年(653)、反対する天皇を難波に置き去りにし、夫人の間人(はしひと)皇后、皇極上皇、中大兄皇子らは公卿大夫・百官らを引き連れ、ようやく造営が終わったばかりの難波の宮を捨て、さっさと飛鳥の河辺行宮に戻ってしまう。難波に置き去りにされ、悲痛のあまり病に倒れた孝徳帝は翌年59歳で薨去した。
蘇我氏滅亡後なのに、飛鳥と離れた蘇我系の王墓の谷に埋葬された。そういう意味でも悲運の天皇といえる。憤死説や毒殺説までも・・・。

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする