山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「王陵の谷」河内飛鳥を往く   (その1)

2014年04月14日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 「磯長谷(しながだに)」  


”山ごもれる”大和の国は、生駒山・二上山・葛城山によって大阪(難波、河内)と隔てられている。西国(吉備、北九州など)、さらには大陸の中国、朝鮮との交流にはこれらの山を越えなければならない。そのため山間の数少ない切れ目を利用し行き来していた。それが大和川の水運であり、日本最古の官道と云われる竹内街道(たけのうちかいどう)です。竹内街道が、二上山と葛城山とに挟まれた竹内峠を越えて河内に出た辺り、二上山山麓の西斜面の谷あいを「磯長谷(しながだに)」と呼んでいる。石川の支流の飛鳥川が流れる谷で、現在では大販府南河内郡太子町に属する。
この谷間は「王陵の谷」とも呼ばれ、蘇我氏と縁の深い用明天皇、推古天皇や聖徳太子などの王族が眠っている場所でもあります。今回はこの谷間の古跡を巡りながら、「近つ飛鳥風土記の丘」の梅林を見に行くのが目的です。

2014/3/3(月)8時半、出発地点の近鉄南大阪線・上ノ太子駅に着き、まず”源氏のふるさと”を目指して歩き始める。駅から飛鳥川を渡り、なだらかな丘陵地帯を登っていく。近くも、遠くも、この地域はブドウの産地。見渡す限りブドウ畑が広がり、山の斜面にブドウ畑の白いシートが陽光を反射しひときわ目立つ。まるで雪景色のようです。右上にかすんで見えるのが、二上山の雄岳(左)と雌岳。

 壷井八幡宮(つぼいはちまんぐう)  


なだらかな丘陵を超えると、住宅街の中に楠の木の巨木が茂る森が目に入る。これが壺井八幡宮です。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神として祀る河内源氏の氏神です。
誰一人訪れる人のいない寂しい神社。かっての源氏はどうなってしまったのでしょう?。そもそも「源氏って何?」

天皇は多くの后を囲い、やたら子供を生みたもう。天皇家といっても懐事情から、生みたもう子供らの全ての面倒を見切れない。そこで何人かの子には、皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめた”源”姓を与え、地方に土地を与え「その地で、自分の力で生きていけ!」と追い出す。これを歴史用語で「臣籍降下(しんせきこうか)」と呼ぶそうです。そしてその地に土着化して武士団となるものが多かった。56代清和天皇を祖とする源氏を「清和源氏」と呼びます。他に、嵯峨源氏、文徳源氏、宇多源氏など二十一流あるといわれる。「平氏」も似たようなもの。桓武天皇が孫を臣籍降下し、平安京にちなんだ”平”の姓を与えたもの(桓武平氏)。
「清和源氏」の流れをくむ源満仲の三男・頼信(968-1048)が河内守に任官し、「香炉峯(こうろほう)」といわれていたこの辺りに私邸を営む(寛仁4年(1020))。これが「河内源氏」の始まり。そして頼信の子・源頼義(988-1075)が私邸の東側に社殿を造営し、源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請し河内源氏の氏神としたのが「壺井八幡宮」です。
そして頼義の子・源義家(1039-1106、八幡太郎義家)の代に最盛期を迎える。源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経の活躍で起死回生し,ついには鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。この時、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮に移ってしまいます。脚光を浴びていく鶴岡八幡宮、忘れられていく壺井八幡宮・・・。鎌倉の鶴岡八幡宮に比べ、現在の壺井八幡宮の静けさ・寂しさはどうしたものでしょう?。

平忠常の乱(1028)での頼義の活躍を目にした相模守・平直方は、相模国鎌倉を持参金として自分の娘を頼義に嫁がせた。これが河内源氏と鎌倉との繋がりの始まりです。そして頼義が東国進出の際、壺井八幡宮を鎌倉に分社し鶴岡若宮を造った。源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し、改めて石清水八幡宮を勧請したのが鎌倉の鶴岡八幡宮の創始とされる。そうした意味で、壺井八幡宮は「元鶴岡八幡宮」なのです。もう少し脚光を浴びてもよさそうですが。

 通法寺跡と源頼義の墓  


壷井八幡宮から10分ほど歩いた所に通法寺跡がある。源頼義が源氏の菩提寺として居館の隣に小堂を建てたことから始まる。やがて源氏の隆盛と共に河内源氏の氏寺として栄えた。
しかし徳川幕府が崩壊し明治維新となると、廃仏毀釈によって廃寺とされ全てが破壊され消滅しました。現在、通法寺は門が唯一残っているだけ。この門とて戦後復元されたもの。

門を入ってすぐ左側の境内に、源頼義(988-1075)の墓が見えます。境内は頼義の墓以外何も無く、広々とした空き地になっており、廃仏毀釈の凄まじさ痛感させられます。通法寺の境内だったと思われる空き地の突き当たりに、河内源氏の居館があったようですが、現在はブドウ畑になっていて痕跡さえない。


 丘の上の頼信、義家の墓  



通法寺跡右側の竹薮の茂る小高い丘の上の頼信、義家の墓があります。
頼信、頼義の墓に比べこの義家の墓が最も大きく立派です。「八幡太郎義家」として活躍し一番有名になったためでしょうか。







最後に河内源氏の祖・頼信の墓。

この周辺には、壺井八幡宮・通法寺跡・河内源氏三代の墓など源氏ゆかりの史跡が残り、「源氏の里」と呼ばれている。
そしてこの河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出しているのです。


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