山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

三輪山と「山の辺の道」(その2)

2014年03月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 箸墓古墳(はしはかこふん)  

纒向遺跡に向かう途中。大池をバックに箸墓古墳(はしはかこふん)と三輪山が美しい。箸墓古墳に葬られた姫の元に毎夜通った男は、あの三輪山の神の化身だった。はるかいにしえの、「国のまほろば」を感じさせてくれる風景です。この一帯は初期大和王朝の発祥の地である。この周辺に邪馬台国はあったんだろうか?

墳長約280m、後円部径約160m、高さ約30m。全国で11番目に大きい前方後円墳。正面に回ると、宮内庁管轄の陵墓でおなじみの逢拝所らしき小さな鳥居(?)がある。守衛所らしき建物があり、明かりがともっている。絶えず監視してるんだろうか?。ものものしい注意書きもみられる。あまり長居するところではないようです。

正式の陵墓名は「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓(おおいちのはか)」。飛鳥・奈良時代に入るとこの纒向地域に市が発達し、大市と呼ばれた。そこから「大市墓」と名付けられた。一般的には「箸墓古墳」という名称の方が有名です。現在陵墓参考地として宮内庁が厳重に管理し立ち入りを認めていない。学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれたまま。
「日本書紀」にその被葬者名と構築の状況が記載された唯一の墓です。崇神天皇のオバ(第七代考霊天皇の皇女)に当たる「倭迹迹日百襲媛命」が被葬される経緯の説話が書かれている。崇神天皇十年の条に、概要「倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓 (はしのみはか)とよんだ。この墓は、昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が 大坂山(二上山)から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだ」と記されている。
「倭迹迹日百襲媛命」を卑弥呼とする説など話題が多い。卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって240~280年と数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。内部に入れないので、周辺の濠や壕から採掘した土器や堆積物などから築造年代を割り出そうと努力されている。その結果250年前後の築造とされるが、内部の調査でないので確実なことはいえない。被葬者は、卑弥呼説、台代説、男王説などにぎにぎしく、古代への想像力を膨らませ歴史への興味を沸き立たせてくれる。

2013/2/20日の新聞に「卑弥呼の墓? 箸墓古墳、20日に立ち入り調査」の見出しが躍った。ついに科学のメスが入るか!、と期待したのだが、よく読んでみるとがっかり。
日本歴史・考古学学会が2005年から要望書を提出していたのに対して、宮内庁が初めて許可した立ち入り調査の内容は、研究者ら数人の代表による目視のみによる観察だけ。地面を掘ったり、落ちている遺物を拾ったりすることは認められず、埋葬施設がある墳丘上部も最下段から見上げて観察するだけのようです。日本の先生方は宮内庁にナメられているんじゃないの!
宮内庁は「陵墓は尊崇の対象であり、静安と尊厳が何より優先される」とし、今回も制限を緩めない方針だとか。そもそも陵墓かどうか疑問視されているんだヨ、それを解明するのが先じゃないの(怒り!!)。その新聞には「箸墓古墳は「邪馬台国論争」にかかわる古墳として一般の関心も高く、陵墓の公開をめぐる議論が活発化しそうだ」と結んでいる。その後一年経つが、どうなったのか音沙汰無し。活発な議論も聞かれない。アア嘆かわしヤ!!。
 纒向遺跡(まきむくいせき)  

箸墓古墳から300mほど北に進むとJR巻向駅があり、その周辺一帯が現在注目されている「纒向遺跡(まきむくいせき)」の場所です。現在無人駅となっている巻向駅のホームに立つと周辺が全て見渡せる。ホーム東側は住宅街になってしまっているが、西側は広々とした空き地のまま。ところどころ住宅が点在するが、これ以上の開発はストップされている様子だ。遺跡範囲はここJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルの広範囲に及び、あの箸墓古墳も含まれる。
三世紀初めから中頃のものとみられる、国内最大規模の大型建物跡が発見された。ちょうど卑弥呼の時代に重なり、大型建物は「卑弥呼の居館」ではないかと俄然注目を集める。まだ発掘調査は10%にも及んでおらず、今後何が飛び出してくるのか、大いに期待される遺跡です。2013年6月21日ここ纒向遺跡は国の史跡に指定されました。古墳とは?、邪馬台国か?、ヤマト政権発祥即ち日本のクニの始まりは?、大王(天皇)の始まりは?、など多くの鍵を握っている遺跡と思われます。

なお「纒向」の名前は、日本書紀に垂仁天皇の「纒向珠城(まきむくたまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(まきむくひしろ)宮」とみえる。そこから明治38年の町村合併時に「巻向村」とされ、遺跡や古墳の名称は昔の漢字をそのまま使っているそうです。

IR巻向駅を西方に300mほど行くと纒向小学校があります。この小学校を取り囲むように幾つかの小さな古墳が点在する。石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳で、纒向古墳群と呼ばれている。これらは三世紀前半の築造とされ、箸墓古墳より古い。「弥生時代の墳丘墓」だという意見もあるが、前方部に不完全だが短いホタテ貝のような形をした墳丘部をもつのが特徴。そこから「ホタテ貝型前方後円墳」または「纒向型前方後円墳」と呼ばれている。箸墓古墳のような定型化した前方後円墳が造られる前の段階の墳丘形式と考えられる。それらの「纒向型前方後円墳」が築造された三世紀前半から中頃の時期は、ちょうど卑弥呼が活躍した時期と一致する。そして卑弥呼の死(248年)と、本格的な大型前方後円墳の始まりである箸墓古墳築造の時期が符合する。こうした点から否が応でも、纒向遺跡・古墳と邪馬台国・卑弥呼とを結び付けたくなる。しかし現状はまだ推測の段階に過ぎない。箸墓古墳に考古学的なメスを入れる必要性を痛感します。そのためには宮内庁解体の必要性も・・・。

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