山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

三輪山と「山の辺の道」(その1)

2014年03月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて
昨年(2013年)五月、二日間に渡って歩いた古道「山の辺の道」(奈良県)の写真が未整理になっていたにで、この度1年ぶりにまとめホームページにアップしました。その一部を紹介します。
大和盆地の東山麓沿い、三輪山の山裾を南北に通ずる「山の辺の道」周辺は、古代ヤマト政権の源流の地でもあり、また卑弥呼の邪馬台国との関連も指摘されている地域です。それを示す数々の遺跡・古墳が残っています。箸墓古墳を始めとする巨大な前方後円墳、大神神社や石上神宮などの古社が「山の辺の道」に沿うように散在している。現在は「山の辺の道」として整備された歴史散策道に、さらに「東海自然歩道」という政府認定ハイキングコースの一部になっています。JR桜井駅から出発し北上し、天理市までの記録です。

JR桜井駅から街中を北東へ20分位歩くと、目の前が開け大和川(初瀬川)と三輪山が現われる。「三輪王朝」とも呼ばれる古代ヤマト政権を象徴する神の坐します三輪山、その山裾のこの一帯は、古代「海柘榴市(つばいち)」と呼ばれ、交易の中心地として市が栄えた。それはここが古代において交通の要衝だったからです。
北へは「山の辺の道」で奈良・京を経て北陸・日本海へ。東へは初瀬(はつせ)街道が通り伊勢を経て東国へ。南へは磐余(いわれ)の道・山田道から飛鳥を通じて紀伊の熊野へ。さらに横大路から竹之内街道を通って河内・難波へも通じている。特に重要なのが大和川の水運で、物資を運ぶのには舟便が一番よかった。大和川は難波・大阪湾から瀬戸内を経て大陸へ繋がっている。そこからシルクロードの終点とも云われる。こうした街道、川筋の交わる場所として市や宿場が栄え賑わった。
推古16年(608)、遣隋使として中国・隋へ派遣された小野妹子が帰国した時も、難波津から大和川の舟運を利用し海柘榴市へ上陸する。日本書紀に「唐ノ客ヲ海柘榴市ノ衡(こう)ニ迎エ」とある。そのとき来日した隋使裴世清(はいせいせい)は海柘榴市から陸路(上ツ道)、飾り馬75頭を仕立てて推古天皇が待つ小墾田宮へ入る、と日本書紀に書かれている。聖徳太子が飾り馬を仕立て大パレードで歓待したものと想像される。またここは「仏教伝来(538年)の地」ともされています。

橋を渡り山裾に入っていくと、第十代崇神天皇の磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)に出会う。初代神武天皇から九代までは作り話(神話)とされているので、実質、崇神天皇が初めての天皇と考えてよい。ということは、この地が日本初の天皇の住居(皇居)となる。これ以後、天皇ごとに大和、難波、近江などへ転々と移り、平城京・平安京へと歴史を刻んでいく。ここがその出発点です。ぜひ立ち寄ってみたいポイントです。
この地域の鎮守「志貴御県坐神社(しきのみあがたにます)」という神社の境内で、正面に見える社のすぐ裏に、柵で囲まれた宮跡が残されている。志貴は「磯城」でもある。>

さらに三輪山の裾まで入ると森に囲まれた大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座する。”神”とかいて”みわ(三輪)”と読む。本殿はなく拝殿のみ。御神体が三輪山だからで、その三輪山には大物主の命が坐しておられる。そのため本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居をとおして大物主の命の宿る神体山・三輪山を信仰する。 しかし残念ながら「三つ鳥居」は外からは見る事が出来ません。神様はどこまでも神秘なのです。現在の拝殿は寛文四年(1664年)四代将軍家綱が再建したもの。

傍に大神神社の摂社「狭井(さい)神社」があります。「さい」とはヤマユリことで古代にはこの地にユリがたくさん咲いていたようです。
古くから「三諸(みもろ)の神奈備(かんなび)」と称され、神の宿る神体山として崇められてきた三輪山に入山参拝(登山ではありませんゾ!)するには、この神社で受付をしなければならない。

狭井神社の境内に入山受付所がある。そこで簡単な作法の説明があり、入山者カードに氏名、住所、電話番号を書き、三百円支払う。そして「三輪山参拝証書」と書かれた白いタスクをもらいます。このタスキが登拝証になり、入山中は首に掛けていなければならない。山中では、飲食、喫煙、写真撮影が禁止され、下山してからも山中での見聞・出来事を他人に話してはいけない。どこまでも神秘で厳粛な山です。これ以上書けないナ!・・・・。でもチョットだけ書けば、高さ467mなので初心者用の山になる。しかし見くびってはいけない。距離は短いが、かなり急勾配の箇所もあり、年配者には辛いかもしれないが、そこは信仰心で・・・。途中、一箇所だけ簡易トイレ付き休憩所があります。ただし見晴らしは全くきかない。物見遊山するところではなく、信仰で登る山なんです。首に掛けたタスキには鈴が付いていてチリンチリンと音が鳴る。なにかお遍路さんのような気分に。
頂上は「奥津磐座(おくついわくら)」といわれ、巨石が沢山転がっている。巨石は御幣付きの注連縄で囲まれ、みなさん順番に並んで手を合わせて帰っていかれる。「磐座」とは神様が鎮座される岩のことです。(こんなことも書いてはいけなかったのかナ・・・)
タスキをかけない人、写真を撮る人、誰一人見かけなかった。一人ぐらいは掟破りが・・・、と思ったのですが。そうさせない雰囲気がこの山にはある。頂上の注意書きの最後に「大神さまはいつも御覧になっておられます・・・」と書かれていた。監視カメラは設置されていないだろうけど、霊なる御眼で監視されているのかも。サァ、早く下山しョ。下山したら、案内所で下山報告をし、タスキを返却する。

三輪山内では全く展望がきかなかったが、狭井神社を西方向に下って行くと「大美和の杜(おおみわのもり)」展望台があります。周辺の雰囲気に似つかわしくない「恋人の聖地」などという名前が付けられている。
三輪山を含め「山の辺の道」で見晴らしの良い場所はほとんど無く、唯一こだけが大和平野の眺望を楽しめます。はるか彼方にかすかに見える山並みは、右端から二上山、その左方向に葛城・金剛の山々が続く。その手前にポッコリ飛び出た小山が、右から耳成山・畝傍山・香具山の大和三山。大神神社の大鳥居も見えます。恋人がいなくても十分堪能できますゾ。

「山の辺の道」は「東海自然歩道」に組み込まれており、東京都八王子市の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市の「明治の森箕面国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ 1697kmの長距離自然歩道(ハイキングコース)の一部になっている。
さすが日本を代表する古道だけあって道標や案内図は各所に設置されている。しかし山中の一本道とは違い、住宅街や田畑、雑木林の中を脇道に入ったり、裏道にまわったりして進んでいく。結構入り組み分岐が多く、広い道、狭い道、砂利道、土の道、舗装道と変化に富んでいる。時々、この道でいいんだろうか?と不安になることが度々あった。ハイキング姿の人とすれ違うと「間違ってなかった!」とホッとする。要所に設けられている案内標識を見落とさないように歩こう。
桜井から天理に通ずる「山の辺の道」沿いには、ほんとに多くの果樹園が見られる。ミカン、柿、桃、イチゴ・・・。遺跡地域特有の法的な縛りでもあるんだろうか?。

鬱蒼とした森の中に檜原神社(ひばらじんじゃ)が現れる。特殊な形態の神社で、拝殿も本殿もない。正面に鎮座するのは「三ツ鳥居」と呼ばれる鳥居だけ。中央の鳥居の両側に少し低い小さな鳥居が連なり、三つの鳥居が一組になった独特な姿をしている。この「三ツ鳥居」は大神神社と同じ形で、三輪山を御神体としていた。しかし現在は 山中の磐座(いわくら)が御神体だそうです。

傍の案内板に神社の詳しい由緒が書かれている。
「日本書紀(崇神紀)」によると。天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)が宮中に「同床共殿」で祀られていた。ところが神様同士の仲が悪い。やむをえず第十代崇神天皇の六年に、倭大国魂は娘の淳名城入姫(ぬなきのいりびめ)に預け、天照大神は倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を建て皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託した。その倭笠縫邑がここ檜原の地であるといわれる。

その後豊鍬入姫命は、天照大御神の祀り場所を求め各地を巡幸され、最後に第11代垂仁天皇の時、伊勢の五十鈴川の上流に定められた。これが伊勢神宮(内宮)の創祀と云われる。こうしたことからこの檜原神社は「元伊勢」と呼ばれるそうです。また倭大国魂神は、変遷を経て現在、大和神社に祀られている。
神社横には「豊鍬入姫宮」が建てられている。伊勢神宮の初代の斎王になられた崇神天皇の皇女豊鍬入姫命を祀っている。斎王とは天皇に代わって天照大神にお仕えする役目で、皇室関係の方のご奉仕で現代まで続いているそうです。