山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

醍醐寺の桜見、そして醍醐山(上醍醐)へ (その 3)

2016年07月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2016/4月/9日 (土)、京都の桜の名所として知られる醍醐寺を訪れる。今回は上醍醐の紹介です。

 上醍醐登山口にあたる成身院(じょうしんいん、女人堂)  



回転扉を出て下醍醐とお別れ。数十mほど真っ直ぐ進めば、突き当りが上醍醐登山口にあたる成身院(じょうしんいん)です。醍醐寺の塔頭寺院の一つで、山上の准胝観音の分身が祀られている。

ここはかって女人結界の場所で、女性はこれ以上の立ち入りが禁止されていた。同じ真言宗の高野山と同じです。女性達は成身院の准胝観音を拝み、さらに山上へ向かって手を合わせたことと思われます。そのため成身院は、通称「女人堂(にょにんどう)」と呼ばれている。現在の本堂は江戸初期の再建だそうです。
右側の家は入山受付所で、ここで入山料600円支払って入ります。入山料を徴収するようになったのは、焼失した准胝堂を復興するためで、再建されると徴収されないという話です。
入山は一年を通じてできるようですが、入山受付時間が変わるようです。通常は午前9時~午後4時までですが、冬期(12月第1日曜日の翌日~2月末日)は午後3時まで。また午後5時までには下山するように、との注意書きもありました。
西国第十一番霊場は、標高450mの醍醐山の山頂にあり、約2キロ近い山道を40分ほどかけて登らなければならない。西国三十三ヶ所霊場の中でも、最難所とされています。

最初は歩きやすい緩やかな坂道が続きます。山道というより参拝道なので、歩きやすいように整備がされている。
道脇に丁標石(ちょうしるべいし)が見えます。これは一丁(約100m)間隔で建立され、おおまかな現在地の確認に利用できる。登山路の入口には「一丁」が建っていた。十五丁まではずっと登りで、そこから下った上醍醐境内の入口には十九丁が建っていた。

 秀吉花見の場所:槍山(やりやま)  


しばらく登ると「醍醐の花見」の槍山案内板に出会う。女人堂から15分ほど登ったところです。ここが慶長3年(1598年)に秀吉が催した有名な「醍醐の花見」のメイン会場「槍山」のようです。下醍醐から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本が植えられ、要所には八軒の茶屋が設けられた。そしてこの槍山にはこの日のために豪華な花見御殿が建てられていた。この花見御殿は、現在三宝院内に「純浄観(重要文化財)」として残されている。女人禁制もなんのその、北政所(ねね)、淀君、その他女房衆を引き連れて登ってきたのでしょうネ。花見御殿で眼下に広がる桜風景や、自ら再興した下醍醐の伽藍や三宝院を一望しながら、女衆に囲まれ宴に酔いしれたことでしょう。
私も同じ場所で一望してみたかったのだが、残念ながらロープが張られ立ち入り禁止になっていた。危険な箇所でもあるのでしょうか?。
普通、桜といえば下から見上げるのですが、秀吉の花見は山の中腹から見下ろす。
秀吉は「醍醐の花見」の4年前の文禄3年(1594)の春に、徳川家康・前田利家・伊達政宗ら武将・公卿五千人を引き連れ吉野山で盛大な花見を催していた。その跡地は、今でも「豊太閤花見塚」として残されています。その場所は、吉野町とは谷間を挟んだ反対側の山の中腹で、下千本・中千本・上千本全体を眼下に一望できる見晴らしの良い場所でした。
3年前(2013/4/12)に訪れたのですが、雑草が生い茂り、ベンチが朽ち、荒地になっていた。今では、観光地図にも、地元の観光案内にも載らない忘れられようとしている跡地です。ここに立った時、”さすが秀吉!”、とうなったものです。

 登り道  


秀吉花見の場所から先へ進みます。勾配のきつい所もなく山登りというほどハードな道ではない。雑木林の中をハイキング気分で登ってこれます。
八丁あたりから道は少し勾配が大きくなり、そのためか階段が設けられている。階段はこの先ずーっと続きます。女性や年配者は、この辺りからキツク感じられてくるかもしれません。階段の中央にはロープが張られている。登りと降りを区別するためでしょうか?。区別しなければならないほど登山者(参拝者)は多くないのだが・・・。

山登りでは、すれ違った人と挨拶を交わすのがエチケット。参拝道といえ山登りなので、「こんにちは」「ご苦労さま」などと言葉を交わします。なかには「まだかなりありますか?」などと尋ねる方もいます。その気持ちよく分る。俺も聞きたかったが我慢した・・・。九丁の標識が見えるので半分は越えている。
九丁の標識の先に小さな祠が見えます。「不動の滝」と書かれ、祠の辺りからチョロチョロと水が落ちている。一休み用のイスも用意され、中間地点あたりなのでここで一服するのに丁度良い。

案内標識には「←准胝堂・観音堂 約1.1K 徒歩30分」「三宝院駐車場 約1.7K 徒歩33分→」と案内されている。


十五丁の標識の先に「醍醐寺」の案内板が見えてきた。どうやら上醍醐にたどり着いたようです。登り始めて40分くらいかかったでしょうか。簡単な腰掛も置かれているので、ここで一休みです。
特に急勾配の坂道もなく、歩きやすいよう階段状に整備されているのでそれほど苦にはならなかった。巡礼のための参道なので、他の登山道のような険しさはありません。ただ階段がズッ~と続くので、”まだかな、まだかな”という気持ちにはなります。
道は下りとなり、数分歩くと十八丁石とトイレが見えてくる。登山中にはトイレはありませんでした。
次の十九丁石に「上醍醐寺務所」と表札のかかった門が見えます。下醍醐とは別に上醍醐にも寺務所が置かれ、寺務関係者が常駐されているようです。上醍醐で何か異変でもあった場合、下からすぐ駆けつけるというわけにはゆきませんからね。
寺務所の門の左横の参道を進む。ここから上醍醐の境内になるようです。

 醍醐水井戸と清滝宮拝殿・本殿  


上醍醐の境内に入るとまず清滝宮の拝殿に出会うのですが、その拝殿横に寺名の起こりとなった醍醐水の井戸を覆った祠があります。閉ざされているので中は見えませんが、霊水は今も湧き続けているそうです。
貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子だった聖宝理源大師がここで一人の老人と出会う。その老人はこの地の地主神・横尾明神で、湧き出ている水を飲み『ああ醍醐味なるかな、この土地をあなたに差し上げよう』と言ったと伝えられている。理源大師は泉のほとりの柏の木で准胝観音、如意輪観音の両観音像を刻み、小堂宇を建立して安置した。これが醍醐寺の起源とされている。ここ笠取山も「醍醐山」と呼ばれるようになった。

醍醐水井戸の左横に上へ登る階段がある。階段途中の左側に清瀧宮本殿が、階段を登りきった上に准胝観音を祀った准胝堂があります。

醍醐水の祠の左に清滝宮拝殿が、拝殿奥の一段高くなった山腹に本殿がある。

山腹を削り、狭い場所に鎮座するのが清瀧宮本殿。祀られているのは醍醐寺の総鎮守神・清瀧権現(せいりゅうごんげん)。清瀧権現はインド神話に登場する八大龍王のひとつ。弘法大師(空海)が、唐・長安の青龍寺の守護神であった清瀧権現を勧請し、高雄山麓に祀った。それを醍醐寺開基の聖宝が真言密教の守護神として、西暦900年頃に醍醐山に祀るようになったとされる。本殿は、昭和32年に再建された新しいもの。

本殿の下、上醍醐の入口近くに建つのが清滝宮拝殿(国宝)。この拝殿も山の斜面に建てられているので、前面が崖にさしかかる懸造り(かけづくり、舞台造り)の構造になっています。拝殿は室町時代に再建されたものがそのまま残っているので国宝に指定されている。
下醍醐の五重塔前にも清瀧宮本殿・拝殿があり、上醍醐の清瀧宮本殿に祀られていた清瀧権現の分身を、永長2年(1097)に下醍醐に移し祀ったもの。

 准胝堂(じゅんていどう、准胝堂跡)と薬師堂  


醍醐水横の階段を登りきると、広い空き地にでる。この空き地が准胝堂のあった場所で、醍醐寺発祥の地です。
貞観18年(876)、聖宝理源大師が柏の霊木から准胝観世音菩薩を彫り、お堂を建ててお祀りしたのが准胝堂の始まりとされている。
そこに安置された本尊・准胝観音坐像は一面三目十八臂(ぴ)の木像。母の慈愛の心をあらわす観音さまで、安産や子育てにご利益があるとして信仰を集めてきた。“西国三十三霊場第十一番札所”となっている。

創建後、幾度かの火災により焼失したが、昭和43年(1968)に再建された。ところが平成20年(2008)8月24日未明の落雷によりまた焼失してしまったのです。落雷が予想される山上で、その防止策がなされていなかったのでしょうか?。現在、跡地にはロープが張られている。焼失から8年ほど経っているが、現在再建の気配は全くみえません。まだ再建費用が集まりきれていないのでしょうか?。

本尊・准胝観音坐像も焼失してしまったが、一回り小さい分身像がドイツの「醍醐寺展」に出陳されていて難を逃れた。そこで上醍醐の准胝堂が再建されるまでの間、下醍醐の大講堂を観音堂と改称して分身像を安置し、西国三十三所第十一番札所の御朱印、納経等が行われている。今は、キツイ山登りをしなくても札所巡りできるんです。再建しないで、下醍醐の観音堂を准胝堂としたらどうだろう。

准胝堂からさらに奥へ進むと薬師堂が現れる。低い石垣の基壇上に、入母屋造・檜皮葺き・正面5間・側面4間の落ち着いた佇まいをみせ、安定感があります。
延喜7年(907年)、醍醐天皇の勅願により聖宝理源大師により創建された。現在の建物は保安2年(1121)に再建されたものだが、上醍醐寺では最古の建物で、平安後期の貴重な建物として国宝に指定されている。

薬師堂には、薬師如来坐像と脇侍の日光菩薩・月光菩薩からなる醍醐寺の本尊「薬師三尊像」が祀られている。どれも国宝です。平成13年、山下の霊宝館に平成館がオープンした時、そこに移された。火災、盗難など想定したら、山頂に国宝を置いておくのは危険なのでしょうね。

 五大堂・ 如意輪堂・開山堂  


薬師堂からさらに奥の五大堂や如意輪堂を目指します。ちょっとばかり距離があり、山道を上ったり下ったりしますが、ハイキング気分で歩けます。

五大堂は延喜7年(907年)に醍醐天皇の勅願により創建された。その後、何度も焼失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和15年(1940)に再建されたも。五大堂は、密教の五大明王を祀るお堂。不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王で、五体一組で国の重要文化財に指定されています。

五大堂の前に佇むブロンズ像は、中央が醍醐寺の開基・理源大師聖宝、左が醍醐寺一世座主・観賢僧正、右が修験道の祖・役小角です。

五大堂から戻り、分岐道を右へしばらく歩くと如意輪堂と開山堂の二つの大きな建物が見えてきます。どちらも慶長11年(1606年)豊臣秀頼が再建した建物で、国の重要文化財になっている。

手前の、崖に半分せり出した懸造りで建てられているのが如意輪堂。
如意輪堂は、貞観18年(876)、醍醐寺開山の理源大師聖宝が上醍醐を開いた際、准胝堂と共に最初に建てた建物です。理源大師は自ら彫った如意輪観音をこのお堂に祀った。如意輪観音は現在霊宝館に展示中ですが、建物前の案内板に「本尊は二臂如意輪観世音で、豊家ゆかりの女房衆の寄進になるものである」と書かれているが・・・。
奥の開山堂は、醍醐寺を開創した聖宝・理源大師を奉安したお堂。内陣中央には重要文化財に指定されている「木造理源大師像」が、左に弘法大師像、右には醍醐寺一世座主・観賢僧正像が安置されている。

 上醍醐陵・朱雀天皇醍醐陵・醍醐天皇後山科陵  


五大堂から如意輪堂・開山堂へ向かう山道の途中で、白河天皇皇后・皇女の上醍醐陵なる標識を見かけました。こんな山頂に陵墓が存在することを初めて知りました。地図などには載っていなかった。陵墓と聞けば、史跡めぐりの習性から訪ねないわけにはいかない。
開山堂横から見下ろせば、すぐ見えています。階段を降ればすぐ。ここは500m近い醍醐山の山頂なので、全国の御陵の中でも最難所の一つとされている。
御陵の被葬者として制札には、「白河天皇皇后賢子、白河天皇皇女?子内親王・令子内親王」が載っている。第72代白河天皇の中宮(皇后)だった藤原賢子(けんし、1057~1084)、その娘で堀河天皇の中宮になった?子内親王(やすこ、1076~1096)、賀茂の斎院になった令子内親王(れいし、1078~1144)の三人の母子。
陵形は円墳で、同域には鳥羽天皇第一皇女で、賀茂斎院を務め享年12歳で亡くなった禧子内親王(1122~1133)の墓もある。

陵墓の上醍醐陵を訪れたので、ついでに醍醐寺に近い朱雀天皇醍醐陵、醍醐天皇後山科陵も訪れることにしました。この二陵は天皇陵なので、いずれも地図に載っている。まず近くの朱雀天皇醍醐陵(だいごのみささぎ)を目指します。西大門(仁王門)前を北に進むと醍醐寺の北門です。この辺りは訪れる人も少なく閑散としている。白壁に沿って進み住宅地に出る。北門から真っ直ぐ進むが、途中で東側の住宅路に入り込む。これが判りづらいので住民の方に尋ねるのがよい。住宅に挟まれ、狭い参道が伸びている。入口には宮内庁の制札が掲げられています。御陵の正面拝所は、参道奥の突き当りを左に折れれば見えてくる。

第61代朱雀天皇(すざくてんのう、923~952、在位:930~946)は、第60代醍醐天皇の第一皇子で、母は関白藤原基経の娘の中宮藤原穏子(やすこ)。
延長8年(930年)、父醍醐天皇の崩御に伴い8歳で即位。伯父の藤原忠平(時平の弟)が摂政として政治を取り仕切っていた。治世中には、平将門の乱、藤原純友の乱が起こり、また富士山の噴火(937)や地震・洪水などの天変地異が続いた。自らには全く皇子女がいなかったので、その座を弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、早々と朱雀院に隠居してしまう。天暦6年(952年)に出家して仁和寺に入ったが、その年に30才という若さで崩御する。遺体は来定寺の北野(伏見区深草村付近)において火葬された。遺骨は父・醍醐天皇陵の近くに埋められ、祠が造られた。

幕末(1864)の改修によって拡張・整備され、直径6mの円形の盛土を中心とし、一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある。陵形は円墳、宮内庁の公式形式は「円丘」となっている。ここから少し北西に行けば父帝醍醐天皇の山科陵がある。そこから、古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていたそうです。

朱雀天皇醍醐陵から北西へ7~8分歩きます。広い車道の向かいに入口が見える。周囲は閑静な住宅地です。
ここが醍醐天皇後山科陵(のちのやましなのみささぎ)で、入口から入ると砂利を敷き詰めた真っ直ぐな参道が伸びている。参道脇の松や植込みが厳かな雰囲気をかもし出しているが、そのすぐ外側には新しい一戸建て住宅が並んでいる。ここは京都市伏見区の市街地なので、朱雀天皇醍醐陵にしても、この醍醐天皇後山科陵にしても窮屈そうです。
第60代醍醐天皇(だいごてんのう、885~930、在位:897~930)は、宇多天皇の第一皇子、母は藤原胤子(いんし)。36人の子宝に恵まれ、その中から第61代朱雀天皇、第62代村上天皇がでている。
13歳で即位したが、菅原道真と藤原時平が右大臣・左大臣として政治を取り仕切っていた。しかし昌泰4年(901)、天皇の廃位を謀ったという藤原時平の讒言により道真は九州の大宰府に左遷され、そこで亡くなる(延喜3年、903年)。
醍醐天皇の治世は、後に「延喜の治」と呼ばれ治世の鑑とされたが、と同時に醍醐天皇の身の回りで不吉な出来事が相次いで起こります。
道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていく。祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。そこで朝廷は道真の祟りを鎮めるため、京都に北野天満宮を建立し、道真を雷神(天神)として祀るようになった。それ以後、道真は天満大自在天神(天神様)として神格化され、全国各地に菅原道真を祀る神社が建立されていく。

醍醐天皇も道真の怨霊におびえながら、自らも病に伏すことになり、寛明親王(朱雀天皇)に譲位する。その数日後、46才で崩御した。醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下に埋葬された。ここは母の育った土地で、この土地に葬って 欲しいというのが醍醐天皇の遺言だった。「醍醐天皇」名は、その御陵が勅願寺醍醐寺の近くにあることから後で追号されたもの。

直径45mの円憤だが、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせたもの。宮内庁は「陵形:円形」と表している。天皇陵の多くは被葬者が不確かだが、この醍醐天皇陵は長く醍醐寺が管理と祭祀を継続して行ってきたので確実性の高い天皇陵の一つです。


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