山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 4)

2014年12月22日 | 街道歩き

 国見山  


掖上鑵子塚古墳をやり過ごし、これから国見山へ登ります。今まで国見山山頂への道は無かったそうですが、数年前から地元有志や市によって登山道が造られたそうです。山裾に沿って農道を進むが、入口がハッキリしない。案内や標識など期待できず、カンに頼るのみだ。ここだろうと思い入った道が間違っていて、進むに従い山笹と深い雑草で道跡は消えてしまった。これはヤバイと引き返し国見山登頂は断念することにした。引き返す途中に偶然に登山道を見つけました。杉木立に囲まれ薄暗く、見晴らしのきかない山道を20分ほど登ると山頂に着く。14時15分。
海抜229mの山頂は、雑木が伐採され雑草が刈り取られ、応急的な広場となっている。一番高い所に石碑が建てられ、その脇に木製の簡易椅子が設けられていた。休憩するもよし、国見するもよし。といってもそれ程見渡せない。南を望めば金剛山や大峰山系が、北を見れば、木々の間から大和三山がかすかに覗き見える程度。願わくば、秋津洲(御所市)を見渡せるようにして欲しかった。「蜻蛉の臀占」の様子を眺めてみたかったのですが・・・。

石碑には「?間丘」「神武天皇聖蹟傳説地」、裏側に「皇紀2600年」と刻まれている。

日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をされた,と書かれている。その丘がこの山で、後に「国見山」と呼ぶようになった。神武天皇はここで国見し「なんと素晴らしい国だ、蜻蛉の臀占のようだ」と感嘆されたそうです。日本古典文学大系『日本書紀』の頭注によると「蜻蛉(トンボ、秋津)がトナメ(交尾)して飛んでいくように、山々がつづいて囲んでいる国だなの意」だそうです。こうして日本を「秋津洲(あきつしま)」と呼ぶようになった、とされる。「?間丘」は、国見神社の案内板によれば「ほほまおか」と読むようです。

なお「国見山」という名前の山は、奈良県には幾つかあります。天理市の国見山(標高680m)、宇陀市の国見山(標高1016m)、吉野郡東吉野村の国見山(標高1248m)・・・。

 国見神社  


国見山から下山し、山腹の途中にある国見神社に寄る。本来、こちら側が国見山への登山ルートで道も整っている。私が登ってきた道は反対側で裏ルートまたは下山道だったようです。
山頂から国見神社までの高低差は100m位。15分程で神社に着きました。案内板によると、元々は山頂にあったようですが、いつの頃か東麓の現在地に移され、周辺地区の氏神として祀られているようです。
多くの石燈籠に守られ本殿が鎮座している。ここには主祭神として、天照大神の命により天孫降臨をした瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が祀られている。神武天皇の曾祖父ともされ、東征で大和を平定した神武天皇が、国見山に曾祖父を祀ったと伝えられる・・・神話ですが。

国見神社の参道を真っ直ぐ進むとJR掖上駅の方へ行ってしまうので、一の鳥居の所を左に曲がって行くと、最初に上り始めた場所へ戻れる。在所の住宅路や農道が入り組んでいるので、かなりややこしく一筋縄ではいきませんが・・・。迷いながらも、かろうじて元の入山道に戻ってこれた。手前の左に入る脇道が、正しい国見山への登山道。私は間違って、もう一本向こうの道から竹薮の中に迷い込み酷い目に会いました。これくらいの山に標識など期待できません。では何を頼りに・・・・

 孝安天皇玉手丘上陵(こうあんてんのうたまてのおかのうえのみささぎ)  


国見山へ向かった道を逆戻りし、秋津鴻池病院の裏にある道に入り山裾の道を北へ進む。左側に葛城・金剛の山並みを遠望しながら、平坦な道をのんびり15分ほど歩けば玉手山です。長い階段を登った上には、左に孝安天皇神社拝殿(孝安天皇社)、右手に琴毘羅神社(こんぴらじんじゃ)があります。目的の孝安天皇玉手丘上陵はどこだろう?。山上から北に少し下ると小石畳の整備された階段がある。階段を100mほど進むと整地された広場の奥に、城壁のような重々しい構えをした孝安天皇の玉手丘上陵が現れた。古墳のようですが、玉手山の北の丘陵部分を利用して築造された陵墓のようです。今まで多くの天皇稜を見てきましたが、これほど重厚な拝所を構えた陵墓もそう多くない。
第6代孝安天皇は、歴代天皇中最長の在位期間102年とされ、年齢も日本書紀によれば137歳、古事記では123歳という超長寿の方。この天皇様も「欠史八代」といわれ、その実在性が疑問視されている。それにしては、豪華な陵墓なこと・・・。

 役小角 たらいの森・杓(しゃく)の森  




玉手山を降り、200mほど北進すると広い県道116号線にでる。その国道116号線への出口で、チラッと右横を向くと、民家の一角に小さな石柱が立つ。「役小角 たらいの森」と刻まれています。
修験道の開祖、役小角はこの近くの寺で生まれたが、その誕生の時、産湯を浴せられたたらいを埋めた場所だという。土地の人はこれを「たらいの森」といい、安産祈願の塚として守っているそうです。森にしては貧相ですが・・・








県道116号線にでて、県道沿いを南側へ200mほどバックします。玉手山の裾に目をやると、大きな樹木の下に石柱が見える。これが「役小角 杓の森」です。役小角の誕生時に、産湯を汲んだ杓を埋めた場所だそうです。大きな樹木は棗(なつめ)の老樹で、この辺一帯は「棗ケ原」と呼ばれ、昔から棗の木が多く生い茂っていたという。







 吉祥草寺(きっしょうそうじ)  


16時、県道116号線沿いを北に進み、JR和歌山線の踏切を渡ります。この周辺は、高速道路や県道が交差し車の往来が激しく、「秋津洲の道」では一番の難所です。できたら避けて通りたい所。少し進むとコンビニがあるので、その北側にある脇道を左へ入る。すぐ吉祥草寺の正門です。「役行者 誕生所」の大きな札が掲げられている。寺伝によると役行者が生まれた時、葛城の山野に吉事の時にしか咲かない吉祥草(キチジョウソウ、スズラン科で蘭に似た花、花言葉は吉事・祝福)が咲き乱れたので、この寺名になったという。

この寺が修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)の生誕地といわれる。「役行者」とも呼ばれています。
役小角は、舒明天皇の代、蘇我氏全盛の時期(630年代、諸説あるが634年が有力)に葛城山東麓の大和国葛木上郡茅原(かつらぎのかみのこおりちはら、現在の御所市茅原)のここで生まれたとされる。「役(えん)」は姓(苗字)で、賀茂君(のちの高賀茂朝臣)の氏族の中の役君の家に生まれた。ただし「役」という苗字の人物は、歴史上「小角」しかおらず、不思議な苗字です。父の幼名が「大角」といったので、「小角」と名を付けたとか。

境内左に雑木林がある。その中に「役小角 産湯の井戸」が残されている。寺伝によれば、役行者御隆誕の時「一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水を吸みて役ノ小角を潅浴す、その水、地に滴りて井戸となる」という。
母の名は「白専女(しらとうめ)」とされるが、地元では今でも「とらめ」と呼ばれている。母は「月を飲んだと夢見て」「天から降ってきた金色の独鈷(とっこ)が口に入るのを夢見て」小角を身ごもったという話が伝わる。身籠った母の体から光明が放たれ、不思議な香りが漂うようになったという。そして生まれた小角は、手に一枝の花を握り「かつて願うところはすでに成就した。今は一切の衆生を化して、みな仏道に入らしめる」と語ったという。

怪物・役行者には判らないことが多い。出生もその一つ。修験道信仰の高まりと共に、その開祖・役行者には噂・伝承が付加されていき偶像化されていった。聖徳太子、弘法大師、菅原道真なども同じ類。

最期もまた凄い。朝廷は危険分子として捕まえるため母を人質にとると、「母を免れしめんために出頭し捕縛された。そして伊豆の島に流された。時に身は海の上に浮かび、海の上を走ること陸の上のごとくであった。また空を飛ぶことは、羽ばたき天翔る鳳(おおとり)のごとし。昼は天皇の勅命に従い島に留まり修行した。夜は駿河の富士の御嶽に往きて修行した」(日本靈異記)そうです。三年後(701年)、罪を許され故郷に戻った小角は、何処ともなく天に飛び去った、という。「役行者は、自らは草座に乗り、母は鉢に乗せて唐に渡った」とその最期を閉じられている。

「産湯の井戸」のすぐ近くには「役行者 腰掛け石」がある。各地の山々を踏み分けて修行している間にも、時々この茅原に戻り、この石に座して精神修行をされたという。有り難い石なので、皆様もこの石に座してみてください、とあります。丁度坐りやすいくらいの高さで、平べったくなっている。
京都祇園祭の山鉾に「役行者山」がある。室町通三条上ル役行者町で、そこにも「役行者神腰掛け石」があります。傍の立札には、吉祥草寺の立札とほぼ同じ内容が書かれています。ただ「役行者神は、この石に手を当て全身の凝りを解したとされています。皆様もこの石に手を当てて、役行者神の精神と御徳をいだかれ、全身の凝り、特に肩の凝りなどを解される事を心よりお祈り致します」が付加されている。私は特に凝りはないが、年が年なのでチョッと触っときました。

        「秋津洲(あきつしま)の道」~・~完

詳しくはホームページ
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