山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 2)

2014年12月10日 | 街道歩き

 秋津遺跡(あきついせき)・中西遺跡  



野口神社のある蛇穴の里からは、田園越しに葛城山・金剛山がよく見える。この周辺は、かって葛城氏、鴨氏、少し遅れて蘇我氏が展開した場所です。

次に目指すは秋津遺跡。迷路のような蛇穴の集落を抜け、田畑と民家,町工場の点在する道を南へ歩く。ガイド本によれば秋津小学校の東側辺りになっている。すぐ東側には高速道路が並行している。秋津小学校はすぐわかったが,遺跡はどこだろう?。空き地はあちこち見受けられるが,遺跡らしい場所はない。もちろん標識や案内などもない。

それらしい空き地を探していると,高速道路の下まで来てしまった。何やら工事中らしく,柵が設けられ,工事用の道が造られダンプカーが行き来する。警備員が近づいて「工事関係の方ですか?」と職務質問風の尋ねかたをする。姿格好を見れば工事関係者かどうかわかりそうなものだが。逆に「この辺りに遺跡を知りませんか?」と尋ねる。警備員は知るはずもないが,お話していると「時々,遺跡を捜してこられる人がいますネ」とか。
この辺りは,高速道路「京奈和自動車道」の新規建設工事の現場のようです。ちょうど秋津小学校の東側まで完成し,その先を建設中のようだ。金網の柵で囲われ,工事現場用のプレハブが立ち並び,盛り土があちこち見られる。そして各所に工事中を知らせる立て看板が目立つ。テロ警戒の看板まで見かけた。あちこちに警備員の姿も目につく。現場の雰囲気から,遺跡などかまってられるか!,といった雰囲気です。秋津遺跡の痕跡を見つけるのを断念することに。
秋津遺跡とは,京都、奈良、和歌山を結ぶ高速道路「京奈和自動車道」の建設工事に先立って,2009年(平成21年)から奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が行われ,それによって発見された遺跡です。付近一帯の古い村名「秋津村」に因んで「秋津遺跡」と命名された。
遺跡からは古墳時代前期(4世紀前半頃)の板塀跡が見つかり、その内側からは掘立柱の大型建築跡が見つかる。橿原考古学研究所は「祭祀や儀式の建物だった可能性がある」としている。さらに下層から弥生時代前期の多くの水田遺構が見つかった。さらにその下層の縄文時代晩期(約2800~2500年前)の土の中から、オスのノコギリクワガタの全身(約6.35センチ)が完全な形で発見された,というニュースもある。

弥生時代前期から古墳時代前期(4世紀前半頃)に続く遺跡は,「謎の4世紀」を含め古代史の解明に大いに期待された。しかし高速道路の建設現場を見渡せば,重機で掘り崩され、ブルトーザーに飲み込まれていくのを目にします。この遺跡はまもなく永遠に地上から消される運命に,それとも鴨都波遺跡のように”地下保存”されるんでしょうか。すぐ南の我国最大級の群集墳がある巨勢山丘陵を見れば,ポッカリと大きな穴が開いている。巨勢山古墳群の横穴式石室ではありません。高速道路がここまで繋がるのを待っている巨大トンネルです。懐古より生活が第一の世には,やむを得ないのかも。

秋津小学校の横の道を南に進むと,東西に走る国道309号線に突き当たる。西を見れば葛城山・金剛山が、その手前に室宮山古墳が横たわっている。道路を除けば、古の香りが漂いそうな情景です。秋津遺跡のすぐ南側に位置するこの辺りも「中西遺跡」と呼ばれ,弥生時代の遺物が見つかっている。弥生時代前期の埋没林が出土し,多くの水田跡が確認された。この中西遺跡と秋津遺跡をあわせ、現在まで日本最大規模の約1800枚の水田跡が見つかっている。これら全て”地下保存”・・・?(-_-;)

 寶國寺(ほうこくじ)  


国道309号線を西進し室ネコ塚古墳の傍を通って宮山古墳の西側に廻り込むと寶國寺がある。
寺伝に因るとその昔、弘法大師が高野山に向かう途中でこの地に立ち寄り,修行のため宮山古墳のお堀の岸に草庵を作ったのが始まりとされる。高野山真言宗のお寺で,「室のお大師さん」と呼ばれて親しまれている。また御本尊の弘法大師(空海)像は,人々の苦しみを身替りとなって背負って下さるということから「身替り大師」とも呼ばれ人々の信仰を集めています。境内には、触ると癌封じの御利益があるという「瓦岩」もある。

 八幡神社(はちまんじんじゃ)  


寶國寺から,室の集落の中をそのまま東へ歩いていると,池のある美しい公園に出る。「桜田池公園」の看板があり,すぐ北側の山が宮山古墳です。山裾を東側へ回り込むように歩くと,八幡神社にでる。宮山古墳へ登るにはこの神社の境内を通らなければならない。

境内に入ると左奥に「室宮山古墳 登り口」の標識がある。ここから1~2分で宮山古墳の後円部の墳頂に上れます。
その横に石碑「孝安天皇秋津嶋宮址」が建つ。第六代孝安天皇(日本足彦国押人尊)の「室秋津洲宮」はこの辺りだろうとの推定から,大正四年大正天皇の即位を記念して、奈良県が建立したもの。ここが本当に秋津島宮跡かの根拠は無い。さらには孝安天皇が存在したかどうかの根拠も・・・

トイレが有るかどうかが大問題。拝殿裏に見つけました。造りはあの野口神社と同じで,不安がよぎる。ドアのノブを引っ張ると開いたので、ホッとしました。

 室宮山古墳(室大墓古墳:むろのおおばかこふん)  


宮山古墳は,墳丘長238メートル、後円部径105メートル、高さ25メートル、前方部幅110メートル、高さ22メートル,三段築成の前方後円墳。案内板に「丘尾切断による墳丘」と書かれているので,すぐ南から伸びる丘陵部分を利用して築造されてたと想像される。古墳時代中期前半,5世紀前半の築造とされる。
大きさは全国で18番目の大きさ。周りに周濠が巡らされていたが,現在は大部分が埋め立てられ、畑や住宅地になっている。1921年(大正10年)3月に国の史跡に指定されている。

八幡神社境内の登り口から70段の階段を上ると1~2分で後円部の墳頂の上にでる。墳頂は樹木が伐採され整地された直径20m位の平地となっている。周囲は雑木で囲われ見晴らしは全くきかない。この古墳上から、葛城・金剛の山並みやヤマトの地を見渡たせたらナァ、残念ながらできません。

中央付近にポッカリと穴が開いている。これは後円部頂上に二つある竪穴式石室の南側の石室で,天井石が一枚剥ぎ取られ,内部が露出している。
覗き込むと,地中奥に向かって直径30cm位の穴が開いている。これは長持形石棺といわれ,その入り口左右に大きな縄掛突起の付けられている。これは全国で唯一、現地で実際に長持形石棺を見学できるのはここだけだそうです。降りて覗いてみたいが,下は狭くぬかるみ,なにか不気味なので,上から写真だけ撮ることにした。覗き込んで写真を撮っていると,胸ポケットの地図を落としてしまったのです。否応なしに降りるはめになり、ついでに長持形石棺の横穴の写真を撮りました。「内面に朱が塗られている」とのことだったが、そこまでは写っていなかった。
後円部頂上には,石室を囲むように二重の埴輪列が置かれていた。楯、靭、甲冑などの形象埴輪を外向きに並べ、その外側には倉庫や母屋などの家型埴輪が一列に置かれていたという。
露出石室の横に埴輪のレプリカが置かれている。高さ147cmの奇妙な形をしたもので,「靭(ゆき)形埴輪」と呼ばれている。
また明治年間,前方部の開墾時に木棺と三角縁神獣鏡など鏡11面、さらに玉類が多数出土しているという。


被葬者は誰であろうか?。かっては孝安天皇とか武内宿禰が唱えられたが,近年は古代の豪族葛城氏の祖・葛城襲津彦説が多い。五世紀代に長持形石棺を持つ古墳は、大王級の人物が被葬者とされることが多い。5世紀前半,この周辺に大きな勢力が存在していたことを示している。

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