山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 3)

2014年12月16日 | 街道歩き

 巨勢山古墳群(こせやま)  


宮山古墳からさらに東へ歩き,警備員が監視する京奈和自動車道建設予定地を越えて進むと、道の右側に「巨勢山古墳群」の案内板が立ち、すぐ南側に巨勢山丘陵が迫っています。巨勢山丘陵は御所市平坦部の南側にある大きな丘陵地帯で,南北2.5km、東西3kmの地域に総数約800基の墓が密集するという我国最大級の群集墳を形成している。五世紀~七世紀にわたり次々とお墓がつくられていった。前方後円墳4基があるが,多くは径十数メートル前後の円・方墳から成っている。
開発や土砂採取などで壊滅の危機にあったが、平成14年(2002)12月に国の史跡に指定され保護されることになった。


北の方向を眺めると、のどかな美しい田園地帯が広がります。弥生時代からの秋津遺跡が展開した場所です。まもなく高速道路が完成し、より美しい風景に生まれ変わることでしょう・・・(-_-;)。

写真の右端が「條庚申塚古墳(じょうこうしんづか、巨勢山642号墳)」。
「巨勢山古墳群」の案内板の概略図をもとに,案内板脇の横道を山側に入っていくと石灯籠があり,その横を登るとすぐ狭い平地にでる。中央に小さな祠があるだけで,周りを見回しても遺跡らしい痕跡は何も無い。さっさと降りました。
ところが後で分かったことですが,あの小さな祠が大変な意味をもっていたのです。祠は「庚申堂」で,古墳名にもなった。「庚申塚古墳」という名の古墳は全国に沢山あるので地区名の”條”を付ける。実はその祠「庚申堂」の下に口が開いており,そこから石室の一部が見れたという。
横穴式石室は,羨道部分と玄室の半分以上は石材が抜き取られているが,玄室の奥壁とわずかに側壁が残されているそうです。祠にダマされました。山ではよく見かける祠なので、よく観察しなかった。

写真の中央が「條大池古墳」で、南北二つの古墳からなっている。
條庚申塚古墳から降り,横の道を丘陵へ向かって上っていくと條庚申塚古墳の全景と「條大池」が見えてくる。写真では判りにくいが、右の條庚申塚古墳の背後に繋がっており、墳形がはっきりとは判別できないが二つの藪が見えます。右側(北)が「條池北古墳:巨勢山641号墳」で、左側(南)が「條池南古墳:巨勢山640号墳」。
現地の案内板より要約すると。荒廃のひどかった北古墳・南古墳は昭和59年の調査の結果、尾根・墳丘の変化も激しく、盗掘で横穴式石室は破壊され、大半の石材は抜き取られ、大きな窪地となっていたそうです。ここにある三古墳は「特異な石棺や優秀な馬具を持っているという事実等から、古墳群中でも葛城氏を支えた有力層の墳墓にふさわしい古墳と言うことができる」と案内板は結んでいる。

條庚申塚古墳の説明版から東へ200mほど所に小山がある。説明版が立てられているので「條ウル神古墳」(じょううるがみ・巨勢山658号墳)とすぐ分かる。古墳名は所在地「御所市條 字ウル神」からくる。

平成14年(2002)3月、新聞の一面に「蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する巨大な横穴式石室を発見」という記事が踊った。大正5年の報告書では「二百メートル級の前方後円墳」と記録されているが、現在の墳丘は開墾などで削られほとんど形状を残しておらず墳丘の形は不明だが、全長100m以上はあるだろうと推定されている。横穴式石室は東に開口し、泥がたまった状態で高さ3.8m、長さ7.1m、入り口の幅2.7m。石棺は全長2.7m、幅1.5m、高さ0.53mで、同時期の古墳の石室としては欽明天皇の見瀬丸山古墳、蘇我馬子の石舞台古墳につぐ最大級のものだそうです。被葬者は巨勢(許勢)氏の重要人物、許勢臣稲持や比良夫らが想定されている。
案内板末尾に、赤字で大きく「私有地につき立ち入り御遠慮下さい」と書かれているのがひときは目に付く。遠巻きに眺めて立ち去ることに。

 日本武尊琴弾原白鳥陵(やまとたけるのみこと・ことひきのはらしらとりりょう)  


條ウル神古墳から住宅路を北へ歩くと、国道309号線にでるので、真っ直ぐ東の国見山の山裾を目指して進む。交通量は多いが、汚くも広い歩道が設けられているので安心です。15分ほど歩くと、県道116号(大和高田御所線)と交わり、車の往来激しく危険地帯です。角にファミリーマートがあるので昼食と飲料を仕込む。

ここらは国見山の西麓で、富田という地区。民家の脇の細い路地の先に階段が見える。近づくと、白砂利の階段が敷き詰められ綺麗に整備された階段が続いている。さすが宮内庁管理の御陵だと感心する・・・、ところが登ってみて貧弱なのに驚いた。今年の5月に,羽曳野市古市の日本武尊白鳥陵(前の山古墳)の傍を通ったが,濠で囲われデッカク立派な古墳だった。それに比べここ御所市冨田の琴弾原白鳥陵はなんとお粗末なこと。民家の裏山の雑木林といった風で,手入れされている様子も無い。陵墓参考地といえ,他の陵墓と比べここの柵・扉・立て札はお粗末で,番小屋は無い。朝廷のお膝元であるはずの大和の地にありながら重視されているように見えない。何故なんでしょう?。日本書紀では三か所だが,古事記では能煩野から直接河内へ飛び,琴弾原には寄っていない。これが影響しているのでしょうか?日本武尊は死に臨んで大和への思いを詠んだのが
「大和は国のまほろば
     たたなづく青垣山 こもれる大和し美し」
美しい大和を望郷しながら、その大和からもさらに飛び立ってしまう、とはどういうことでしょうか?。

遥拝所の横が荒れた平地になっており、汚らしい木製のベンチが置かれていた。午後1時、ここでこれから登る国見山を眺めながら昼食のおにぎりを食べる。国見山は白鳥陵のすぐ裏なので,白鳥陵側からの登山道がありそうだ。ネットで調べてもの見つからない。御所駅前の案内所で尋ねても「ありませんネ」という返事。もしかしたら地元の人しか知らない裏道があるかもしれないと思い,白鳥陵の近くで地元の人に尋ねてみた。しかし”ないですネ”という返事。天皇が国見をした,という由緒ある山なのに、何故登り道がないのでしょうか?。不思議な気がします。ズーと北に回り,大回りして登るしかありません。

 掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづか)  


県道116号線(大和高田御所線)に戻り,北へ進む。左に葛城・金剛の山並みを見,右にはこれから登る国見山が見える。

右前方に秋津鴻池病院の大きな施設が見えてくるので,そちらの方向に曲がる。病院の脇の道路を森へ向かって東へ進む。山間に入り、峠のような所を越えていく。

山間を抜けると右の山側に入る脇道がある。その角に「鑵子塚古墳」の小さな鉄板プレートが架かっています。プレートはサビで名前がはがれ,悪戯なのかねじ曲げられている。地図で確認すると,この分岐路の位置にあるのが掖上鑵子塚古墳のようだ。一見,古墳のようには見えない。脇道にはいり,左手に古墳を眺めながら国見山の方向に向かうと、ようやく古墳らしく見えてきた。入り口もなく,標識も説明版も見当たらない。もしかしたら反対側にあるのかも。
全長約150m,後円部直径約102m、高さ17.5m,前方部幅約88m,高さ12m,後円部三段、前方二段の段築が認められる。宮山古墳に匹敵する規模を持ち,5世紀中頃から後半の築造とされる。被葬者は不明。
後円部中央に盗掘跡あり,過去の記録から竪穴式石室があり長持形石棺が収められていたと考えられる。多くの遺物があったとされるが,多くは盗掘によって散逸し明らかでない。国の史跡に指定されています。


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