山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 1)

2014年12月05日 | 街道歩き

前回は,葛城・金剛山系の山麓を通る「葛城古道」を北から南へ歩きました(2014/9/14(日))。その葛城古道の東側に広がる御所市内にも多くの古墳・古跡が存在しています。御所市では,その一部を「秋津洲の道」ハイキングコースとして宣伝しています。今回はその「秋津洲の道」を歩き、”秋津洲”の語源になった国見山に登ってみることにしました。
2014/11/10(月)、近鉄・御所駅からスタートし,鴨都波神社→秋津遺跡→室宮山古墳→日本武尊白鳥陵→国見山→吉祥草寺へと一周し,近鉄・御所駅へ帰ってくるコースです。近鉄が主要駅に置いている「てくてくマップ:秋津洲の道」、御所市観光協会の「秋津洲の道コース」の二つの地図入りパンフレットが大変役立ちます。近鉄・御所駅横の観光案内所に両方置いているので、是非立ち寄って下さい(早朝の7時半頃から開いてます)。

 鴨都波神社(かもつばじんじゃ)  


近鉄御所線の御所駅から、国道24号線を南へ歩き,柳田川に架かる柳田橋を渡ると鎮守の森が見える。そこが鴨都波神社です。駅から徒歩5分位。葛城山を源流とする柳田川が葛城川に流れ込む合流点に鎮座している。国道沿いに石の鳥居が建っているのでここから入るが,正確にはこれは裏門で,表参道は反対側の東側です。
神社の公式HPには以下のように書かれている。
「鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。」
 
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流し水の豊かなこの神社一帯からは,「鴨都波遺跡」と呼ばれる弥生中期からの多くの遺物が出土している。ここから南方にある高鴨神社付近を本拠としていた鴨氏がこの地に移り農耕に従事しながら「水の神」を祀ったものと思われる。
ずっと南にある高鴨神社を「上鴨社」,葛城御歳神社を「中鴨社」というのに対して、この神社は「下鴨社」と呼ばれる。また高鴨神社、鴨山口神社と並んで、葛城3鴨神社の一つ。高鴨神社とともに京都の上・下賀茂神社の本家にあたるともいわれる。

 鴨都波遺跡(かもつばいせき)  


鴨都波遺跡を探して鴨都波神社周辺を見渡すが,遺跡らしき場所も標識も案内も見当たらない。弥生中期からの大規模遺跡「鴨都波遺跡」は,現代において忽然と姿を消してしまったようです。神社境内で主婦の方を見かけたので,「遺跡はどこですか?」と尋ねると,「南の学校や警察,済生会病院を含めここら一帯です」とのこと。「何か残っていませんか?」と聞くと,「この辺りには残されていないが,病院の中にチョットあるようです」とのこと。
せっかく来たんだから鴨都波遺跡の痕跡ぐらいは見たい,と思い済生会病院まで後戻りする。病院敷地内を探すが見つけられない。正面入口の守衛さんの尋ねると,「この中ですヨ」と建物の中を指す。病院建物の中に入ると,待合ロビーの一角に,少しだけ遺物が展示され解説パネルが掛けられていた。さらに病院内の廊下を進み,奥の出口から建物の裏に出るとラセン階段脇に鴨都波1号墳の説明パネルがガラスケース入りで設置されていました。

鴨都波遺跡は、葛城山系に源流をもつ柳田川と金剛山麓より北に流れる葛城川の合流点に位置し、水に恵まれた場所です。鴨波神社を中心にして、周辺の奈良県立青翔高等学校(前身は県立御所高校)・高田署分庁舎・済生会病院を含む南北500メートル、東西450メートルにわたって広がっていた。弥生時代前期に始まり,中後期に最盛期を迎え、さらに古墳時代前期(4世紀)まで続く大遺跡。弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。

しかし現在は、病院内の説明パネルを除いて、何一つ痕跡すら残されていない。全て発掘調査後に埋め戻されてしまっている。「調査終了後埋め戻されて、現地で地下保存されている」(病院の説明パネルより)そうです。”地下保存”だそうです(-_-;)。

 孝昭天皇掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのかみのみささぎ)  


9:25分 済生会病院を出て、鴨都波神社から国道24号線沿いに南へ5分位歩くと,三室の集落があり右手の小山の脇に天皇陵の正面拝所が見えてる。少し離れているので注意して見ないと見落とすかも。国道から脇道に降りて近づいてみる。宮内庁管理の天皇陵なので,遥拝所,柵,番小屋,注意立て札などどこの天皇陵でも同じ造り。味気ないことこの上なし。
第5代孝昭天皇は、在位期間83年で,113歳(日本書紀),93歳(古事記)で崩御したとされる。いわゆる欠史八代の1人で、その実在性が疑問視されている。

 野口神社(のぐちじんじゃ)  


孝昭天皇陵からまた国道24号線を南へ行き、葛城川に架かる御所橋を渡る。国道から左(東方)を見渡せば平地に田畑が広がり,集落が点在している。その中に樹木が密集した場所がある。そういう所には神社やお寺があることが多い。”あの森が野口神社に違いない”と見当をつけ目指す。久しぶりに俺のカンが当たった。田畑の中の細道を歩く。ここらの地区名は「御所市蛇穴」となっている。正確に読める人はいないだろう。”さらぎ”と読む。『奈良の地名由来辞典』には「蛇が円くなり穴を作ることをサラキといい、土器をサラキというのも、土器は蛇が円くなるような過程をへて製作されるからであろう」と書かれているそうです。
町名変更などで由緒ある名称が消えていくこの時代、この名前を受け継がれておられる地区の住民の方には頭が下がります。
もともと御神体は木彫りの竜で、作物の収穫を司る水の神(龍神)を葛城川の岸辺に鎮め祀り五穀豊穣を祈願したのが始まりとされる。
縁起によると、神武天皇(神倭伊波礼毘古命、かむやまといはれひこノみこと)の御子・日子八井命(彦八井命、ひこやいノみこと)を祖神とする茨田連の子孫が河内国からここに移住、祖神を祀るようになり、御祭神は神倭伊波礼毘古命・彦八井命の二神になったという。
野口神社が有名なのは、蛇塚と「汁かけ祭り」です。
恋の狂気から蛇に変身した娘が閉じ込められた場所が現在の野口神社の地とされる。元々この場所には井戸があって、その中に蛇を埋めて塚になったと言い伝えられています。境内には井戸を模った石組みの蛇塚があります。そして毎年5月5日に、その娘の霊を供養するため「汁かけ祭り(蛇綱引き:じゃづなひき)」が行われる。十四mもある藁で作った蛇綱を地区の各戸を一軒一軒引き回し、邪気払い病除を祈願していく。そして巡行が終ると神社拝殿横の蛇塚に蛇綱をトグロに巻納め、行事が終了する。かっては、厄除けもため参詣者にワカメの味噌汁をかけていたが、近年はさすがに行われていないとか。

年をとればトイレが近い。民家が散在し見晴らしの良い田園地帯、脇道でという訳にもいかない。野口神社裏にありました。ホッとして駆け寄ったが、カギが・・・。近くて遠いのがトイレです。我慢、ガマン・・・。

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