山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

伏見城と明治天皇陵 1

2017年10月15日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)
夏も終わり、涼しくなってきました。そろそろ出かけることにした。今回は京都市伏見区にある伏見城跡と明治天皇陵を中心に歩いてみます。
豊臣秀吉が築き、徳川家康に引き継がれ数々の歴史を刻んだ伏見城です。しかし現在その姿を見ることも、城地さえうかがうこともできなくなっている。その城地の大部分が明治天皇夫妻の陵墓として宮内庁管理下に置かれ、一般人はおろか研究者さえ立ち入り禁止になっているからです。Google Earthを利用して空から偲ぶしかない。
姿の見えない伏見城ですが、明治天皇陵周辺から伏見丘陵(桃山丘陵)にかけて歩いてみます。そして最後は大岩山展望所へ登り、全体を俯瞰します。

 伏見城  



姿の見えない伏見城をGoogle Earthの空中写真で(数字は、私の歩いたコース順です)
1:大光明寺陵、2:乃木神社、3:230段の階段、4:明治天皇陵(伏見桃山陵)、5:昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)、6:旧伏見城の残石、7:桓武天皇への入口、8:治部池、9:桓武天皇陵と伏見桃山城運動公園へ分岐路、10:桓武天皇陵(柏原陵)、11:遊園地用伏見桃山城、12:伏見桃山城運動公園、13:清涼院、14:伏見北堀公園、15:黒田長政下屋敷跡、16:古御香宮社、17:仏国寺

秀吉の死、関が原の戦い、家康・秀忠・家光の将軍就任、大坂城攻撃の拠点など重要な歴史を刻んできた伏見城。しかし現在その姿を見ることができないどころか、詳細も判明していないという。廃城が決定すると、一部の建物、石垣は解体され他へ持ち去られ、残ったものは徹底的に破壊されて跡形も無くなっている。「幻の城」なのです。
その上伏見城の跡地は、明治天皇存命中から宮内省が占拠し、明治天皇死後「伏見桃山陵」として占領統治している。御陵内部へは、宮内庁職員以外、研究者を含め誰も立ち入りことができない。皇室聖地の「静安と尊厳」を守るためだそうです。伏見城の調査・究明などできるはずがない。空から見ても、青々とした樹木が繁るのみで、お城の痕跡さえ覗えない。

なお伏見城の遺構で、持ち出された代表的なものは以下。
本丸天守--→二条城
伏見櫓--→江戸城、福山城
大手門--→御香宮神社(伏見区)
唐門--→豊国神社、醍醐寺の三宝院、西本願寺
茶室--→高台寺

 伏見城の歴史  


★指月の城 <文禄元年(1592)~文禄5年(1596)>
文禄元年(1592)8月、豊臣秀吉(1536/1537-1598)は、関白の位と京都での居城であった聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自らの隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月(しづき)の岡(現在の伏見区桃山町泰長老辺り)に邸宅の造営を始める。これが後の伏見城の原形とされる。
この指月の地は、平安時代より観月の名所と知られていた。(指月の場所については「指月の地」参照)
文禄2年(1593)8月、嫡子秀頼が誕生すると、位を譲った秀次との関係が悪化したことから、翌文禄3年(1594)には隠居屋敷は本格的な築城に改められ,天守閣などの城郭施設をもつ平山城に造り替えられていった。これが指月城です。淀古城の天守や櫓を移築し、延べ25万人を動員し,わずか5ヶ月で完成、8月1日に秀吉が入城している。同時に城下町の整備も行われ、武家屋敷,寺社,町家などの町割が行われ、現在の町の原型が形づくらた。
ところが築城後間もない文禄5年(1596)7月、後に「慶長伏見地震」と名付けられた直下型の大地震が発生した。建物は倒壊し多数の犠牲者をだしたが、秀吉は無事で翌朝に北東へ1キロ離れたに木幡山(こばたやま、標高100m)に逃れ、そこで避難生活を送った。

★豊臣秀吉の築いた木幡山城(伏見城)<慶長元年(1596)~(慶長5年(1600)>
地震後すぐ、避難先の木幡山で築城が始まった。指月城の再利用できる資材を運び、昼夜を徹した築城工事が行われた。翌慶長2年(1597)5月までには本丸、天守閣が完成し、秀吉は秀頼とともに大坂城から移ってきた。
本丸を中心に、西北に天守閣があり、西方に淀殿の住した二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在したという。それらの周囲は堀(最大幅100m)、空堀、高石垣で囲まれていた。
全国各地から有力大名が集められ、大名・武家屋敷が連なり、さらに商工業者も住むようになり城下町も広がっていった。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉はここ木幡山伏見城で没する。秀吉の遺言により、秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭だった徳川家康が伏見城に入り政務を執る。

(「京都歴史散策マップ」を利用)
★伏見城の戦い(◆木幡山城の戦い)
慶長5年(1600)6月、家康は伏見城の留守居役に家臣・鳥居元忠を任じ、会津征伐に動き出す。この間隙をぬって、西軍の石田三成、小早川秀秋、島津義弘連合軍は伏見城を4万の兵で攻めた。鳥居元忠は、籠城し10日間持ちこたえたが、本丸で討死する。伏見城は炎上し、落城する。秀吉の築いた伏見城はこうして焼け落ちてしまった。この時の戦いで、立てこもっていた徳川家の家臣らの割腹の際の血染めの廊下板が、「血天井」として京都市の養源院、正伝寺などに遺されている。ただしその真偽は不明。この木幡山城の戦いが、この後の関ヶ原の戦い(1600年)の前哨戦とたった。

★徳川家康による木幡山城(伏見城)再築  <慶長5年(1600)~元和5年(1619)>
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は,翌年には藤堂高虎を普請奉行に命じ伏見城の再建を始めた。慶長7年(1602)には再建され、家康が入り大阪城の豊臣氏に対する西の拠点とした。翌年慶長8年(1603)2月,家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。その以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。

その後、駿府城が改築されると家康もそちらに移り、宝物や什器、備品など駿府城へ移された。慶長12年(1607)に松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番が行われた。元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では大坂城攻撃の拠点となる。

★廃城とその後 <元和5年(1619)~>
大坂の陣後、豊臣氏が滅亡し伏見城は城郭としての役割を終える。京都には二条城があるので、一国一城令の主旨からも伏見城の必要性はなくなり、元和5年(1619)に廃城が決まる。元和9年(1623)7月16日の三代将軍徳川家光の将軍宣下の式を最後に、廃城となる。五層の天守は二条城、また、福山城、淀城などに移された。建物、石垣などは京都の社寺や大名屋敷に移築されたともいう。城跡は徹底的に破壊されたとみられている。

廃城後の跡地は「古城山」と呼ばれ、桃の木が植えられた。そこから「桃山」と呼ばれるようになる。歴史用語に「安土桃山時代」「桃山文化」というのがありますが違和感を感じます。織田信長と豊臣秀吉の時代なので、安土城と伏見城から「安土伏見時代」とするのが正解じゃないでしょうか。丸暗記したものは、なかなか消えないでしょうが・・・。また「伏見桃山城」という名は、近鉄が遊園地内に建てた城の名称にすぎず、歴史用語ではありません。
桃山(伏見)丘陵は、現在は桜の名所ですが。

 指月(しげつ)の地  



伏見城は伏見桃山丘陵(木幡山)の上のほうにあったが、伏見城の元になった秀吉の隠居邸や指月城は「指月の岡」に造られたとされる。指月は「四月」とも書かれ、宇治川の中州に浮かぶ川の月、池の月、空の月、杯の月を一度に眺めることのでき、平安時代から月見の名所として知られた景勝の地であったという。
ところがその「指月の岡」が何処なのか長い間不明のままでしたが、最近の調査で少しずつ明らかになってきた。宇治川北岸で、現在の桃山町泰長老一帯を指すと推定されている。京阪電車宇治線・観月橋駅とJR奈良線・桃山駅に挟まれた地域です。現在は住宅地となっており、団地や近畿財務局桃山東合同宿舎が建っています。この周辺を歩いてみました。
京阪電車宇治線・観月橋駅を降り、200mほど歩くと月橋院(げつきょういん)というお寺に出会う。ここには応仁の乱後に創建された後土御門天皇勅願の般舟三昧院という寺があったが、秀吉の築城のおり上京・西陣へ移転する。その跡地に真言宗の円覚寺が開創されたのが始まり。この寺で、秀吉が月見の宴を催したことから「月橋院」となったという。現在は、「指月山」を山号とする曹洞宗のお寺。
境内に石柱「指月山月橋禅院」が立つ。この辺りが「指月」の地であったことをうかがわせます。

住宅路を丘陵方向へ向って真っ直ぐ進むと、JR奈良線に突き当たる。その手前を左折し150mほど行くと天皇陵・大光明寺陵(だいこうみょうじりょう)の入口が現れる。150mほどの参道を進めば拝所です。
この場所には、夢窓疎石(むそうそせき)が建立した臨済宗の大光明寺という寺があった。伏見城築城時に相国寺に移転する。この寺が北朝方の御願寺だったので、後に北朝方だった光明、崇光天皇の陵墓としたのでしょう。治仁(はるひと)親王の墓もある。この人は崇光天皇のお孫さんです。

ここは光明天皇(こうみょうてんのう、在位:1336-1348)と崇光天皇(すこうてんのう、在位:1349-1351)の御陵です。ところが宮内庁の陵墓一覧には載っていない。南北朝時代の北朝の天皇さんだからです。
南朝、北朝に分裂した争いは、1392年(元中9年/明徳3年)南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合体した。そして北朝方の天皇の系統が現在まで続いている。だからどちらが正統かといえば、北朝となる。事実、江戸時代まで北朝正統論が主流だった。
ところが明治維新後は南朝正統論が台頭してきます。南朝の後醍醐天皇が、幕府を否定し天皇親政を実現しようとした倒幕運動が、明治維新を成しとげた尊皇イデオロギーと結びついたのでしょう。学会で論争になり、帝国議会までもが紛糾する。事態を憂慮した明治天皇はついに明治44年(1911)、「南朝を正統とする」旨を決定しました。北朝系の明治天皇も誰かに言わされたのでしょう。歴史教科書でそれまで使われていた「南北朝時代」という歴史用語も、”北朝”を含むと問題視され、「吉野朝時代」に変えられてしまったという。

この明治天皇の裁定は現在でも有効で、北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5人は、歴代天皇に含まれないことになった。そのため宮内庁の陵墓一覧に載っていないのです。ただし、歴代には数えないが、正式な天皇として認め、祭祀なども天皇としておこなわれているそうです。系統的には明治天皇以降平成天皇までも北朝系です。しかし正式に正統とされているのは南朝のほうです。おかしな話ですネ。こうした天皇制の微妙なところは誰も手をつけようとしない。天皇制は妖怪です。
公式陵形は円丘。現在の天皇の直系の先祖にしては、ちょっとお粗末な陵墓に見えます。

 乃木神社  



JR奈良線のガードを潜り、突き当りを右折し坂道を上るとすぐ正面に乃木神社が見えてくる。すぐ傍に桃山小学校があり、生徒達の明るい声が飛び交っている。地名は「桃山町板倉周防」で、伏見城時代には武家屋敷があった。

乃木希典(のぎ まれすけ、1849-1912) は長府藩士で、西南の役、日清戦争、日露戦争と明治期の戦争に従軍した軍人。後に陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵となり、「乃木大将」「乃木将軍」などと呼ばれた。
明治天皇が崩御すると、大葬の列を見送って帰宅した後、赤坂の屋敷にて皇居に向い静子夫人とともに自害する。
この乃木夫妻の死は、天皇への忠心「殉死」として美化される。時の権力によって宣伝流布され、天皇へ身をささげる犠牲の精神の高揚へと利用されていった。乃木希典の本望だったか、否か・・・。「殉死」として美化されるにつれ、全国各地に乃木神社が建立されていったのです。

楠木正成を祀る湊川神社を模して造られたという本殿には、乃木夫妻が神として祀られている。北にある明治天皇陵に向いて建てられています。
本殿前左右には二頭の馬が跳ねている。左が日露戦争後にロシアのステッセル将軍から贈られたアラビア産の牡馬。「壽号(すごう)」といい、乃木の愛馬であった。右は、壽号の子馬で「璞号(あらたまごう)」と呼ぶ。


本殿脇に村野山人像が建つ。村野山人(むらのさんじん)とは乃木神社を創建した方です。案内板を要約すると。
村野山人は薩摩の人で、九州、関西などの各電鉄会社の取締役を歴任し、また衆議院議員も二期務めている。明治天皇の大葬の際は京阪電車の会社代表として参列。翌日、乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。乃木夫妻の1周忌にあたる1年後、会社を辞め全ての身代を投じて、明治天皇の奥津城たる伏見桃山陵の傍らに乃木夫妻を祀る神社創建に尽力する。ここの土地はもともと皇室の御料地だったが、村野山人をはじめ政財界人や軍人の努力や、時の政府の力添えによって建設が許可され、大正5年(1916)9月に創建された。

境内には、長府(山口県)生家を復元した建物、日露戦争時の旅順・第三軍司令部だった建物、軍艦吾妻の主錨など、乃木将軍に関係するものが置かれておる。その中に「さざれ石」というのがありました。国歌の”さざれいし”が石のことだと初めて知った。直接、乃木将軍とは関係ないのですが、さすが国威発揚の地です。

 明治天皇陵(伏見桃山陵)1  


乃木神社を出て鳥居をくぐり北へ少し進むと三叉路になる。右に折れ、青々とした樹木に囲まれた車道を歩く。天皇陵へ通じる道らしく森厳な雰囲気に満ちている。涼しく気持ちいい。左の森は宮内庁統治の占領地となっており、頑丈そうな柵で囲われ何人も入れない。
車道は二手に分かれる。天皇陵へは左の道に入る。右の道は下って宇治方面への向かっている。

すぐ左手に噂の230段の石段が現れる。この辺り、静かさの中に厳粛さが演出されています。
伏見城の本丸や天守閣は、ちょうど階段の上方にあったと想定されている。この階段辺りには何があったのでしょうか。大手門?櫓?。この広場は、内堀だったかもしれない。いろいろ想像してしまう。

石段前の広場には、さらに奥へ続く参道がある。この参道は昭憲皇太后陵への緩やかな坂道となっている。そして昭憲皇太后陵から明治天皇陵へつながっているので、この回り道を利用すれば230段の石段は回避できます。

階段はかなり急で、登り応えがあります。23段ごとに幅広段となり、全部で10区切りされている。

室生寺の鎧坂、神護寺の金堂前の階段を思い出し、紅葉や桜で覆われた階段をイメージしてしまった。230段もあるので、その色鮮やかな風景に、シーズンには見物客が押し寄せることでしょう。しかしここは皇室の聖地、静安と尊厳を乱してはなりません。階段横の樹木を見るが、色鮮やかさを演出するような樹木は見当たりません。
この階段は粛々と登るためだけのものです。それと若人、中年をとわず健康増進の鍛錬場となっている。さすがに後期高齢者には無理かも。それより、明治・大正生まれの人って、まずここまで来れないでしょう。

230段の石段をようやく登りきると、目の前に厳かな明治天皇墓が次第しだいに姿を現します。天皇崇拝者にとっては感動的な瞬間と思われます。私は、天皇墓より階段上からの景観のほうに感動したという、不敬者です。伏見南部から宇治市、遠くに生駒山から連なる山々が見渡せる。後ろの山上に建っていた伏見城天守閣からは、大阪城も見えたかもしれない。


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