山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

伏見城と明治天皇陵 2

2017年10月22日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 明治天皇陵(伏見桃山陵)2  


230階段を登りきると現れる壮大な明治天皇御陵。仰げば尊し、感激のあまりひれ伏すか、230段に疲れはてヘタリ込むか。
鳥居後方の山上に、伏見城の本丸や天守閣がそびえ立っていた。その壮大な姿が浮かんできます。秀吉はそこで亡くなった。明治天皇墓の後方上に秀吉の墳墓を造ってはどうでしょうか。

明治天皇陵の正面拝所。明治天皇(1852~1912)は京都・中山邸で生まれ、父・孝明天皇の崩御により慶応4年(1868)16歳で第122代天皇に即位されました。大政奉還、王政復古から鳥羽・伏見の戦いという激動の時期です。即位すると京都を離れ東京の皇居に住まわれた。そして明治45年(1912)7月30日、宮中で崩御された。61歳、在位46年間でした。

天皇は生前「朕が百年の後は必ず陵を伏見に営むべし」という御遺志を残されていた。生誕の地であり少年期を過ごした京都に愛着があったのでしょうか。何故、伏見になったのか?。陸軍大演習の時、明治天皇はこの丘陵で統監され、この地が大変気に入ったとされる。そのため、東京でなく京都の伏見に葬られることになった。用地は生前より取得され、造営も行われていたという。

大正元年(1912)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の明治神宮外苑)で大喪の儀が行われた。翌9月14日午前1時40分、天皇の遺骸は青山仮停車場の霊柩車両に移御され、午前2時に発車し京都に向う。翌9月15日午後5時10分、遺骸は伏見の桃山仮停車場に到着。八瀬童子(後醍醐天皇以降、天皇の輿丁を担ってきた集団)104人の輿丁(よちょう)に担われ、午後7時35分に御陵の祭場殿に到着。皇族が隣席するなか、霊柩は玄室に奉安され葬られた。午後9時55分に奉葬の式が終了する。

宮内庁の正式御陵名は「伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)」で、陵形は「上円下方」。

Wikipediaを引用すれば「墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという。」という。
大化の改新を断行した天智天皇陵を模したものだが、その後天智天皇陵は八角形墳だったことご判明している。
円墳には堅牢さを保ち、雑草を生えさせないためにさざれ石が葺かれ、コンクリで固められている。この「さざれ石」こそ日本国歌の”さざれいし”なのです。

Google Earthで上空より俯瞰(右は昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵))
天皇の葬制については、中世では天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。南北朝時代中頃から泉涌寺(京都市東山区)で天皇の火葬が行われるようになった。しかし江戸時代初め頃から天皇家の葬礼が土葬に戻り、天皇の葬儀場だった泉涌寺で葬儀が行われ、そのまま埋葬された。それが泉涌寺の月輪陵で、15人の天皇が眠っている。陵墓は石造塔形式の簡単なものです。宮内庁は陵形「九重塔」と表現している。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇(明治天皇の父)が崩御されると、月輪陵の裏山を切り開き整形し、大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。古墳時代に逆戻りしたのです。
明治天皇の陵墓も父を踏襲し、伏見城跡の山を削り整形し、父をもしのぐ大規模な陵墓が造られ、土葬された。大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も規模こそ小さいが、同様に「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘が造られ土葬された。

平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)。それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

 昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)  



明治天皇陵拝所前広場の東側に、下っていく参道がある。200mほど下っていくと、明治天皇の夫人・昭憲皇太后陵の拝所が見えてくる。ここは伏見城の名護屋丸跡に位置するようです。

昭憲皇后(一条美子、1849-1914)は藤原道長を遠祖とする藤原家の分家である一条家出身。大正3年(1914)4月11日崩御。中国の古式に則って、夫の天皇陵の東に造営されることになった。宮内庁の正式名称は「伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)」。明治天皇と同様に大きな上円下方墳。規模はやや小さいが、ほぼ同じ作りである。三本鳥居をもち、並みの天皇陵より大きな構えだ。

ところで陵名は「昭憲皇太后」となっている。なぜ「昭憲皇后」でないのか。天皇の夫人は「皇后」、前天皇の皇后、つまり天皇の母親が「皇太后」です。だから明治天皇の夫人を「皇太后」とするのは間違い。何かの手違いで「昭憲皇太后」と天皇に上奏され、その裁可を得て決定されてしまった。天皇の決定は覆すことができないという。アア、不条理・・・
この周辺は、おじさん、おばさんのよい散歩道となっている。

 伏見桃山御陵参道  



昭憲皇太后陵から明治天皇陵前の広場に戻る。写真の左が230階段、前方奥にも参道がある。この参道は、伏見の大手門商店街、京阪電車・伏見桃山駅や近鉄・桃山御陵前駅から真っ直ぐ伸びるなだらかな道です。天皇陵の脇に出てくるので「脇参道」のようですが、ひょっとしたらこちらの方が表参道かもしれない。この参道を歩き、桓武天皇陵(柏原陵)へ向います。この参道の入り口には、桃山陵墓監区事務所とトイレがあります。

参道の中ほどの脇に、20個ほどの大きな石が置かれている、というか展示されているようでもある。御陵の工事中に出て来たものを集めたのでしょう。旧伏見城の石垣に用いられた残石だそうです。
残石には、文様や傷跡など、当時の生々しい痕跡を残しているものもあります。数少ない伏見城の残滓の一つです。

鬱蒼とした杉や檜に囲まれ、厳かな雰囲気を感じさす広く綺麗な参道を歩く。ただ、砂利がばら撒かれているだけなので、ズルズルして歩きにくい。どこの天皇陵も、その陵域は高さ1m以上もある頑丈な柵で囲まれ護られている。ところがここは柵とはいえないほどの低く簡単なもので、入ろうと思えば簡単に入れてしまう。そしてどの天皇陵にも張られている「犬の散歩は・・・」「犬のフンは・・・」の注意書きが見られない。
下っていくと左右の道と交わる。左は乃木神社方向へ。右の道が桓武天皇陵(柏原陵)へ続く参道となっている。
真っ直ぐ伸びた参道の遠くには、電車が通過し、その先に伏見の町並み見える。

右へ折れ桓武天皇陵の参道に入る。やがて、柵越しに小さな池が見えてきます。内堀の跡と推定され、数少ない伏見城を偲ばせる遺構です。この辺りには、かって石田三成の屋敷があり、三成の官名「治部少輔」から「治部少丸」と呼ばれていた。この池も「治部池(じぶいけ)」と名付けられている。ここの町名も「桃山町治部少丸」です。
柵の向こうの雑木林の中にチョコッと見えるだけです。案内板など何も無いので、予備知識がなければ見のがすかもしれない。

 桓武天皇陵(柏原陵)  




治部池のある所から100mほどで、交差路になる。真っ直ぐ行けば桓武天皇陵へ、右に曲がれば伏見桃山城運動公園です。この辺りの道は「京都一周トレイル」の中の「深草トレイル」コースで、よく整備されています。

入口の交差路から2~3分も歩けば桓武天皇陵(柏原陵)の拝所に着く。宮内庁はここを第50代桓武天皇の御陵「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」と治定している。陵形は円丘。
ここの地名が「伏見区桃山町永井久太郎」。伏見城時代に,永井直勝と堀久太郎(秀政)のお屋敷があった場所らしい。

この場所が桓武天皇の真の埋葬地かどうかは、大いに疑問視されている。Wikipediaを引用すれば
「在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。」

要するに、伏見城築城の影響を受け、判らなくなったしまったのです。明治天皇陵の西北にあった伏見城二ノ丸跡説というのもある。幕末に谷森善臣という学者が、現在の地にあった高まりを桓武天皇陵だと主張した。これを受け、当時の宮内省が明治13年(1880)に「桓武天皇柏原陵」と決め、現在まで引き継がれている。考古学的な考証など行われておらず、全く根拠がない。今の宮内庁も信じていないのか、伏見丘陵の東北にある古御香宮社周辺を”ひょとしたらここかも”と「大亀谷陵墓参考地」として押えています。

桓武天皇は、都を奈良から長岡京に遷し、さらに10年後に京都の平安京へ遷都した。同じ伏見の丘陵に、京都に都を移した天皇と、1200年後に京都から東京に都を移した明治天皇が、枕を並べるように眠っておられるのは単なる偶然でしょうか。


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