山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鳥羽・伏見の旧跡巡り 1

2017年11月07日 | 名所巡り

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。
鳥羽・伏見の地は京都の南にあり、水路,陸路ともに交通の要所を占め、大阪・奈良からの「京都への玄関口」にあたる。そのため歴史的な名所、旧跡が沢山残されています。前回、伏見城と明治天皇陵を訪れたのを機に、ちょっと興味が湧いてきたので、改めて訪れました。

 京阪電車・中書島駅から伏見入り  



今回の街歩きは、京阪電車・中書島駅から始まり、北上して鳥羽離宮跡まで往きます。中書島駅を降りまず目につくのが、改札口を出て直ぐの所に置かれている酒樽と坂本龍馬の立姿。伏見の町を象徴した観光案内です。

かって、この地は南は宇治川、西は濠川、北と東は宇治川支流に囲まれた島だった。川幅も現在と違って広かったようです。「中書島(ちゅうしょじま)」の名称について、Wikipediaは「文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった」と記しています。
中書島駅近くには、「南新町」「東柳町」「西柳町」といった色町を想像させる町名が残っているように、元禄の頃より京都でも代表的な中書島遊郭があった。京と大阪を結ぶ地点にあり、十石舟や三十石舟が往来する港町として交通の便が良く人々の往来が多くなると、そこに色町ができる。酒と女の街だった。川一つ隔てて寺田屋がある。龍馬も遊んだのでしょうか?。

 長建寺(ちょうけんじ)  



東柳町の川沿いに長建寺(ちょうけんじ)がある。朱塗りの土塀に竜宮造りの山門が鮮やかで、色町のお寺らしい。長建寺の由緒について、案内板によれば。
「元禄12年(1699)、伏見奉行であった建部政宇(たけべまさのき)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた」という。現在は、東光山と号し真言宗醍醐派に属する。本尊は「八臂弁財天(はぴべんざいてん)」。京都では、ご本尊として弁財天を祀る寺はここしかなく、一般に「島の弁天さん」の名で親しまれている。

伏見十名水の一つ「閼伽水(あかすい)」。「閼伽」とは貴賓または仏に御供えするもので、特に水をさす。
大きな手洗石は元のお寺、平安時代中期の即成院の多聞院にあったものを移したもの。

 月桂冠大倉記念舘  



長建寺の前はすぐ濠川が流れ、対岸には酒蔵が並ぶ。月桂冠大倉記念舘の裏側で、ここの川と柳と酒蔵の風景は、伏見を代表する写真スポットとなっている。弁天橋を渡り月桂冠大倉記念舘へ向う。

(図は月桂冠サイトより借用)月桂冠は日本を代表する酒造メーカー。辛口として知られ、私も愛用している(時々ですが)。その起源は、寛永14年(1637)、初代大倉治右衛門が京都南部の笠置からここ伏見に出て酒屋「笠置屋(かさぎや)」を開業したのに始まる。最初の酒銘は「玉の泉」だったという。勝利と栄光のシンボル「月桂冠」の銘柄が出るのは明治38年(1905)。

月桂冠本社ビル(左)と月桂冠大倉記念館(右)
同じ白壁だが、対照的な建物が道を挟んで並ぶ。左は現在の月桂冠本社ビルです。平成5年(1993)に建てられたビルだが、本瓦葺の大屋根、酒蔵風の窓など、一帯の景観との調和がはかられている。
この一帯は、1997年に京都市の「重要界わい景観整備地域」に指定され、電柱など見当たらず、建物、街路など景観を考慮したものになっている。間の道を進めば記念館の入口へ、右へ行けば大倉家本宅です。

月桂冠大倉記念館の入口です。月桂冠大倉記念館は、明治42年(1909)建造の酒蔵を改装し、昭和57年(1982)に伝統的な酒造工程やその用具・資料などを展示する博物館として開設されたもの。京都市有形民族文化財に指定されている。
家屋の壁脇の竹細工は「犬矢来(いぬやらい)」と呼ばれ、「やらい」は追い払うという意味をあらわし、犬や馬が家の壁を傷めないようにするため取り付けたものだそうです。

【開館時間】9:30~16:30
【休日】盆・年末年始(8/13~8/16、12/28~1/5)
【料金】大人300円
受付で入場料300円支払うと、お土産として清酒超特選180mlの小瓶をくれます。ついヤボったいことに「月桂冠ですね?」と聞いてしまった。ここで大関をくれるかってよ・・・。

入ると、まず中庭へ案内される。その中庭の入口にあるのが、名水「さかみず」の井戸。”さかみず”とは「栄え水」のことのようで、現在でも湧き続け酒造りに使用されているそうです。
樽に入った水はお酒のようにみえました。皆さん”美味しい”といって飲んでおられたので、私も飲んでみました。大阪の水道水と同じくらいに美味しかった。

中庭は、展示室と酒造場との間の空間。煙突が立ち大きな酒桶が置かれ、酒造場には神木である杉の葉を束ねて球状にした大きな「酒林(さかばやし)」が吊るされている。酒屋の軒先でよく見かけるものです。

酒の発酵に木桶が使われていたので、雑菌を防ぐため何度も熱湯で洗い日干しにして乾燥さていたという。そのため蔵の前にこうした広いスペースが必要だったようです。

中庭の隣に展示室が2棟あります。室内は「酒造り唄」が流れ、酒造りの用具類が並び、古き良き時代の酒造りの雰囲気を体感できます。これらの酒造用具類6120点が、1985年に京都市有形民俗文化財の指定を受けている。また創業からの歴史や、歴史を物語る書画・ポスター・写真などを展示。酒の器や酒まわりの用具類も陳列されている。

通りを挟んで月桂冠本社の西側に大倉家本宅があります。その落ち着いた佇まいは歴史を感じさせてくれます。初代大倉治右衛門が酒業を創業した土地に、文政11年(1828)第8代目当主が建てた酒蔵兼居宅。幕末の争乱時には、周辺の多くの家屋が戦災に遭ったが、幸いこの本宅は免れ現在までその姿を残している。
内部は非公開なので、月桂冠のサイトを引用すれば
「内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残しています。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られます。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されています。」

本宅前の道はL字形に曲げられている。これは東方にある伏見奉行所を敵軍から見通せないようにした遠見遮断の道だそうです。

大倉家本宅とL字形に並ぶ家屋が、大正8年(1919)に建てられた月桂冠旧本社。平成5年(1993)まで月桂冠・本店として使用されていたという。床面は道路より1mほど高く、正面には階段が設けられている。これは宇治川氾濫による水害に備えたもの。ここにも壁の足元を守る犬矢来がみられます。
現在は、NPO法人・伏見観光協会の「伏見夢百衆(ふしみゆめひゃくしゅう)」として、お酒を中心とした伏見土産販売・観光案内所となっている。お茶、お酒を飲食できるコーナーもあります。

 十石舟遊覧  



月桂冠大倉記念舘の裏、弁天橋の近くに十石舟乗り場がある。この川は、豊臣秀吉が伏見城を築城した際、宇治川の水を引き込み城の外濠として築いたもの。宇治川派流だが「濠川(ほりかわ)」と呼ばれている。かつて大坂から京に入る玄関口として三十石船が発着、船宿が軒を並べ、旅客でにぎわっていた。また酒蔵の多くは、この濠川沿いに建てられ、明治の終わり頃まで、伏見の名酒や米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石舟で運ばれていたという。現在、その十石舟が再現され観光用に運行されています。

運航期間/3月25日~11月26日(16便)、11月27日~12月3日(14便) 
※運休日は6月~9月の毎週月曜(祝日は運航)、8月は11日~16日のみ運航
出航時間:
 10:00~11:20・・・20分間隔で5便
 13:00~16:20・・・20分間隔で11便
料金:大人1200円、小人(学生)600円、幼児300円
往復約1時間弱の船旅。ただし三栖閘門の見学をしなければ約40分。
 定員20名。予約が入っているため乗れないこともあるので、事前に(075-623-1030)で確認したほうがよい。

月桂冠の酒蔵を見上げ、蓬莱橋を通過すると直ぐ、寺田屋の二階と屋根が一瞬だけ見えます。舟頭さんが案内してくれるが、一瞬なので見逃しやすい。

京橋から濠川本流に合流するまでが、柳など緑が多く一番舟旅を堪能できます。桜や紅葉の季節はどうなんでしょうか?。でも、舟と青い水面には緑が最も合いそうです。

突き当たりです。ここで濠川本流と合流し、左側へ舵をきる。ここの橋は「であい橋」と呼ばれている。濠川本流と出会うからか、それとも人の出会いがあるからか・・・。

突き当たり地点に「角倉了以水利紀功碑」が置かれている。京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい、1554~1614)は京都の河川開拓工事に着手、とりわけ京と伏見を結ぶ全長約11キロの高瀬川の開削に功績を残す。この高瀬川によって、伏見は京都へ通じる港町としていっそう賑わったという。開削費用は全て私財を投じたが、運河航行の使用料を徴収することで莫大な利益を得たといわれます。

肥後橋、京阪本線の鉄橋を潜ると、左手に「伏見港公園」が見えてくる。この辺りに河川港として伏見港があった。秀吉の時代から昭和の初め頃まで「伏見の浜」と呼ばれ淀川舟運の拠点となり、大変な賑わいだったようです。その後、東海道本線や京阪電車が走り、陸上輸送の発展による水運の衰退とともに港も衰退し、1960年代に埋め立て現在の公園になったようです。体育館・テニスコート・相撲場・プールなど備え、市民の憩いの場となっている。

三栖閘門(みすこうもん)の赤い2つのゲートが見えてきました。このゲート内に終点の舟着場があり、約20分間の往き舟旅は終わります。ここで2つの選択がある。1つは、今来た舟でそのまま出発地点まで引き返す。これなら往復40分間ですむ。もう一つは、三栖閘門資料館(無料)を見学し周辺を散策して、20分後にやって来た次の舟便で帰る、という方法です。これだと約1時間かかる。

舟着場の直ぐ上に三栖閘門資料館はある。係員が、舟から降りた観光客をまとめて資料館に案内し、模型を使って三栖閘門(みすこうもん)の仕組みを丁寧に解説してくれます。

三栖閘門は、水位の違う宇治川と濠川の間を船を通させるため昭和4年(1929)に建造された施設。仕組みはいたって簡単。船をゲート(門)の中に入れ両方の門を閉めます。門内の水位を、増水(濠川に入る)又は減水(宇治川に出る)し、向う側の水位に合わせてから出口側の門を開ける、というもの。”閘”の字は、門を開けたり閉めたりすると云う意味だそうです。規模こそ違いますが、原理はパナマ運河と同じです。

道路や鉄道の発達で船運の利用は減ったため、昭和43年で閘門の機能は終了し、現在は「昭和初期の土木遺産」として観光名所化されている。

宇治川側の門のある堤に上がってみると、雄大な宇治川の流れが展望できる。門から宇治川へ繋がる部分は、水が流れないので底石がむき出しの状態になっていました。係員の説明によると、宇治川の川ざらえや上流にできた天ヶ瀬ダムのために宇治川の水位が下がり、濠川との段差は年々大きくなっているそうです。確かに、濠川の水面よりかなり下に宇治川の流れがあります。

やって来た次の便で引き返す。月桂冠の酒蔵の裏辺りに三十石船が停留されている。十石舟より少し大きいくらいでしょうか。この三十石船も観光客を乗せ遊覧している。ただし、運航は春と秋の特定日だけなので(075-623-1030)で確認すること。定員30名、料金は1200円。コースは十石舟と同じで、往復40分。乗り場は、寺田屋の前にある寺田屋浜。

お疲れ様、約1時間の観光でした。次は坂本龍馬で有名な寺田屋です。


詳しくはホームページ

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