山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 3)

2014年12月16日 | 街道歩き

 巨勢山古墳群(こせやま)  


宮山古墳からさらに東へ歩き,警備員が監視する京奈和自動車道建設予定地を越えて進むと、道の右側に「巨勢山古墳群」の案内板が立ち、すぐ南側に巨勢山丘陵が迫っています。巨勢山丘陵は御所市平坦部の南側にある大きな丘陵地帯で,南北2.5km、東西3kmの地域に総数約800基の墓が密集するという我国最大級の群集墳を形成している。五世紀~七世紀にわたり次々とお墓がつくられていった。前方後円墳4基があるが,多くは径十数メートル前後の円・方墳から成っている。
開発や土砂採取などで壊滅の危機にあったが、平成14年(2002)12月に国の史跡に指定され保護されることになった。


北の方向を眺めると、のどかな美しい田園地帯が広がります。弥生時代からの秋津遺跡が展開した場所です。まもなく高速道路が完成し、より美しい風景に生まれ変わることでしょう・・・(-_-;)。

写真の右端が「條庚申塚古墳(じょうこうしんづか、巨勢山642号墳)」。
「巨勢山古墳群」の案内板の概略図をもとに,案内板脇の横道を山側に入っていくと石灯籠があり,その横を登るとすぐ狭い平地にでる。中央に小さな祠があるだけで,周りを見回しても遺跡らしい痕跡は何も無い。さっさと降りました。
ところが後で分かったことですが,あの小さな祠が大変な意味をもっていたのです。祠は「庚申堂」で,古墳名にもなった。「庚申塚古墳」という名の古墳は全国に沢山あるので地区名の”條”を付ける。実はその祠「庚申堂」の下に口が開いており,そこから石室の一部が見れたという。
横穴式石室は,羨道部分と玄室の半分以上は石材が抜き取られているが,玄室の奥壁とわずかに側壁が残されているそうです。祠にダマされました。山ではよく見かける祠なので、よく観察しなかった。

写真の中央が「條大池古墳」で、南北二つの古墳からなっている。
條庚申塚古墳から降り,横の道を丘陵へ向かって上っていくと條庚申塚古墳の全景と「條大池」が見えてくる。写真では判りにくいが、右の條庚申塚古墳の背後に繋がっており、墳形がはっきりとは判別できないが二つの藪が見えます。右側(北)が「條池北古墳:巨勢山641号墳」で、左側(南)が「條池南古墳:巨勢山640号墳」。
現地の案内板より要約すると。荒廃のひどかった北古墳・南古墳は昭和59年の調査の結果、尾根・墳丘の変化も激しく、盗掘で横穴式石室は破壊され、大半の石材は抜き取られ、大きな窪地となっていたそうです。ここにある三古墳は「特異な石棺や優秀な馬具を持っているという事実等から、古墳群中でも葛城氏を支えた有力層の墳墓にふさわしい古墳と言うことができる」と案内板は結んでいる。

條庚申塚古墳の説明版から東へ200mほど所に小山がある。説明版が立てられているので「條ウル神古墳」(じょううるがみ・巨勢山658号墳)とすぐ分かる。古墳名は所在地「御所市條 字ウル神」からくる。

平成14年(2002)3月、新聞の一面に「蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する巨大な横穴式石室を発見」という記事が踊った。大正5年の報告書では「二百メートル級の前方後円墳」と記録されているが、現在の墳丘は開墾などで削られほとんど形状を残しておらず墳丘の形は不明だが、全長100m以上はあるだろうと推定されている。横穴式石室は東に開口し、泥がたまった状態で高さ3.8m、長さ7.1m、入り口の幅2.7m。石棺は全長2.7m、幅1.5m、高さ0.53mで、同時期の古墳の石室としては欽明天皇の見瀬丸山古墳、蘇我馬子の石舞台古墳につぐ最大級のものだそうです。被葬者は巨勢(許勢)氏の重要人物、許勢臣稲持や比良夫らが想定されている。
案内板末尾に、赤字で大きく「私有地につき立ち入り御遠慮下さい」と書かれているのがひときは目に付く。遠巻きに眺めて立ち去ることに。

 日本武尊琴弾原白鳥陵(やまとたけるのみこと・ことひきのはらしらとりりょう)  


條ウル神古墳から住宅路を北へ歩くと、国道309号線にでるので、真っ直ぐ東の国見山の山裾を目指して進む。交通量は多いが、汚くも広い歩道が設けられているので安心です。15分ほど歩くと、県道116号(大和高田御所線)と交わり、車の往来激しく危険地帯です。角にファミリーマートがあるので昼食と飲料を仕込む。

ここらは国見山の西麓で、富田という地区。民家の脇の細い路地の先に階段が見える。近づくと、白砂利の階段が敷き詰められ綺麗に整備された階段が続いている。さすが宮内庁管理の御陵だと感心する・・・、ところが登ってみて貧弱なのに驚いた。今年の5月に,羽曳野市古市の日本武尊白鳥陵(前の山古墳)の傍を通ったが,濠で囲われデッカク立派な古墳だった。それに比べここ御所市冨田の琴弾原白鳥陵はなんとお粗末なこと。民家の裏山の雑木林といった風で,手入れされている様子も無い。陵墓参考地といえ,他の陵墓と比べここの柵・扉・立て札はお粗末で,番小屋は無い。朝廷のお膝元であるはずの大和の地にありながら重視されているように見えない。何故なんでしょう?。日本書紀では三か所だが,古事記では能煩野から直接河内へ飛び,琴弾原には寄っていない。これが影響しているのでしょうか?日本武尊は死に臨んで大和への思いを詠んだのが
「大和は国のまほろば
     たたなづく青垣山 こもれる大和し美し」
美しい大和を望郷しながら、その大和からもさらに飛び立ってしまう、とはどういうことでしょうか?。

遥拝所の横が荒れた平地になっており、汚らしい木製のベンチが置かれていた。午後1時、ここでこれから登る国見山を眺めながら昼食のおにぎりを食べる。国見山は白鳥陵のすぐ裏なので,白鳥陵側からの登山道がありそうだ。ネットで調べてもの見つからない。御所駅前の案内所で尋ねても「ありませんネ」という返事。もしかしたら地元の人しか知らない裏道があるかもしれないと思い,白鳥陵の近くで地元の人に尋ねてみた。しかし”ないですネ”という返事。天皇が国見をした,という由緒ある山なのに、何故登り道がないのでしょうか?。不思議な気がします。ズーと北に回り,大回りして登るしかありません。

 掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづか)  


県道116号線(大和高田御所線)に戻り,北へ進む。左に葛城・金剛の山並みを見,右にはこれから登る国見山が見える。

右前方に秋津鴻池病院の大きな施設が見えてくるので,そちらの方向に曲がる。病院の脇の道路を森へ向かって東へ進む。山間に入り、峠のような所を越えていく。

山間を抜けると右の山側に入る脇道がある。その角に「鑵子塚古墳」の小さな鉄板プレートが架かっています。プレートはサビで名前がはがれ,悪戯なのかねじ曲げられている。地図で確認すると,この分岐路の位置にあるのが掖上鑵子塚古墳のようだ。一見,古墳のようには見えない。脇道にはいり,左手に古墳を眺めながら国見山の方向に向かうと、ようやく古墳らしく見えてきた。入り口もなく,標識も説明版も見当たらない。もしかしたら反対側にあるのかも。
全長約150m,後円部直径約102m、高さ17.5m,前方部幅約88m,高さ12m,後円部三段、前方二段の段築が認められる。宮山古墳に匹敵する規模を持ち,5世紀中頃から後半の築造とされる。被葬者は不明。
後円部中央に盗掘跡あり,過去の記録から竪穴式石室があり長持形石棺が収められていたと考えられる。多くの遺物があったとされるが,多くは盗掘によって散逸し明らかでない。国の史跡に指定されています。


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秋津洲(あきつしま)の道 (その 2)

2014年12月10日 | 街道歩き

 秋津遺跡(あきついせき)・中西遺跡  



野口神社のある蛇穴の里からは、田園越しに葛城山・金剛山がよく見える。この周辺は、かって葛城氏、鴨氏、少し遅れて蘇我氏が展開した場所です。

次に目指すは秋津遺跡。迷路のような蛇穴の集落を抜け、田畑と民家,町工場の点在する道を南へ歩く。ガイド本によれば秋津小学校の東側辺りになっている。すぐ東側には高速道路が並行している。秋津小学校はすぐわかったが,遺跡はどこだろう?。空き地はあちこち見受けられるが,遺跡らしい場所はない。もちろん標識や案内などもない。

それらしい空き地を探していると,高速道路の下まで来てしまった。何やら工事中らしく,柵が設けられ,工事用の道が造られダンプカーが行き来する。警備員が近づいて「工事関係の方ですか?」と職務質問風の尋ねかたをする。姿格好を見れば工事関係者かどうかわかりそうなものだが。逆に「この辺りに遺跡を知りませんか?」と尋ねる。警備員は知るはずもないが,お話していると「時々,遺跡を捜してこられる人がいますネ」とか。
この辺りは,高速道路「京奈和自動車道」の新規建設工事の現場のようです。ちょうど秋津小学校の東側まで完成し,その先を建設中のようだ。金網の柵で囲われ,工事現場用のプレハブが立ち並び,盛り土があちこち見られる。そして各所に工事中を知らせる立て看板が目立つ。テロ警戒の看板まで見かけた。あちこちに警備員の姿も目につく。現場の雰囲気から,遺跡などかまってられるか!,といった雰囲気です。秋津遺跡の痕跡を見つけるのを断念することに。
秋津遺跡とは,京都、奈良、和歌山を結ぶ高速道路「京奈和自動車道」の建設工事に先立って,2009年(平成21年)から奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が行われ,それによって発見された遺跡です。付近一帯の古い村名「秋津村」に因んで「秋津遺跡」と命名された。
遺跡からは古墳時代前期(4世紀前半頃)の板塀跡が見つかり、その内側からは掘立柱の大型建築跡が見つかる。橿原考古学研究所は「祭祀や儀式の建物だった可能性がある」としている。さらに下層から弥生時代前期の多くの水田遺構が見つかった。さらにその下層の縄文時代晩期(約2800~2500年前)の土の中から、オスのノコギリクワガタの全身(約6.35センチ)が完全な形で発見された,というニュースもある。

弥生時代前期から古墳時代前期(4世紀前半頃)に続く遺跡は,「謎の4世紀」を含め古代史の解明に大いに期待された。しかし高速道路の建設現場を見渡せば,重機で掘り崩され、ブルトーザーに飲み込まれていくのを目にします。この遺跡はまもなく永遠に地上から消される運命に,それとも鴨都波遺跡のように”地下保存”されるんでしょうか。すぐ南の我国最大級の群集墳がある巨勢山丘陵を見れば,ポッカリと大きな穴が開いている。巨勢山古墳群の横穴式石室ではありません。高速道路がここまで繋がるのを待っている巨大トンネルです。懐古より生活が第一の世には,やむを得ないのかも。

秋津小学校の横の道を南に進むと,東西に走る国道309号線に突き当たる。西を見れば葛城山・金剛山が、その手前に室宮山古墳が横たわっている。道路を除けば、古の香りが漂いそうな情景です。秋津遺跡のすぐ南側に位置するこの辺りも「中西遺跡」と呼ばれ,弥生時代の遺物が見つかっている。弥生時代前期の埋没林が出土し,多くの水田跡が確認された。この中西遺跡と秋津遺跡をあわせ、現在まで日本最大規模の約1800枚の水田跡が見つかっている。これら全て”地下保存”・・・?(-_-;)

 寶國寺(ほうこくじ)  


国道309号線を西進し室ネコ塚古墳の傍を通って宮山古墳の西側に廻り込むと寶國寺がある。
寺伝に因るとその昔、弘法大師が高野山に向かう途中でこの地に立ち寄り,修行のため宮山古墳のお堀の岸に草庵を作ったのが始まりとされる。高野山真言宗のお寺で,「室のお大師さん」と呼ばれて親しまれている。また御本尊の弘法大師(空海)像は,人々の苦しみを身替りとなって背負って下さるということから「身替り大師」とも呼ばれ人々の信仰を集めています。境内には、触ると癌封じの御利益があるという「瓦岩」もある。

 八幡神社(はちまんじんじゃ)  


寶國寺から,室の集落の中をそのまま東へ歩いていると,池のある美しい公園に出る。「桜田池公園」の看板があり,すぐ北側の山が宮山古墳です。山裾を東側へ回り込むように歩くと,八幡神社にでる。宮山古墳へ登るにはこの神社の境内を通らなければならない。

境内に入ると左奥に「室宮山古墳 登り口」の標識がある。ここから1~2分で宮山古墳の後円部の墳頂に上れます。
その横に石碑「孝安天皇秋津嶋宮址」が建つ。第六代孝安天皇(日本足彦国押人尊)の「室秋津洲宮」はこの辺りだろうとの推定から,大正四年大正天皇の即位を記念して、奈良県が建立したもの。ここが本当に秋津島宮跡かの根拠は無い。さらには孝安天皇が存在したかどうかの根拠も・・・

トイレが有るかどうかが大問題。拝殿裏に見つけました。造りはあの野口神社と同じで,不安がよぎる。ドアのノブを引っ張ると開いたので、ホッとしました。

 室宮山古墳(室大墓古墳:むろのおおばかこふん)  


宮山古墳は,墳丘長238メートル、後円部径105メートル、高さ25メートル、前方部幅110メートル、高さ22メートル,三段築成の前方後円墳。案内板に「丘尾切断による墳丘」と書かれているので,すぐ南から伸びる丘陵部分を利用して築造されてたと想像される。古墳時代中期前半,5世紀前半の築造とされる。
大きさは全国で18番目の大きさ。周りに周濠が巡らされていたが,現在は大部分が埋め立てられ、畑や住宅地になっている。1921年(大正10年)3月に国の史跡に指定されている。

八幡神社境内の登り口から70段の階段を上ると1~2分で後円部の墳頂の上にでる。墳頂は樹木が伐採され整地された直径20m位の平地となっている。周囲は雑木で囲われ見晴らしは全くきかない。この古墳上から、葛城・金剛の山並みやヤマトの地を見渡たせたらナァ、残念ながらできません。

中央付近にポッカリと穴が開いている。これは後円部頂上に二つある竪穴式石室の南側の石室で,天井石が一枚剥ぎ取られ,内部が露出している。
覗き込むと,地中奥に向かって直径30cm位の穴が開いている。これは長持形石棺といわれ,その入り口左右に大きな縄掛突起の付けられている。これは全国で唯一、現地で実際に長持形石棺を見学できるのはここだけだそうです。降りて覗いてみたいが,下は狭くぬかるみ,なにか不気味なので,上から写真だけ撮ることにした。覗き込んで写真を撮っていると,胸ポケットの地図を落としてしまったのです。否応なしに降りるはめになり、ついでに長持形石棺の横穴の写真を撮りました。「内面に朱が塗られている」とのことだったが、そこまでは写っていなかった。
後円部頂上には,石室を囲むように二重の埴輪列が置かれていた。楯、靭、甲冑などの形象埴輪を外向きに並べ、その外側には倉庫や母屋などの家型埴輪が一列に置かれていたという。
露出石室の横に埴輪のレプリカが置かれている。高さ147cmの奇妙な形をしたもので,「靭(ゆき)形埴輪」と呼ばれている。
また明治年間,前方部の開墾時に木棺と三角縁神獣鏡など鏡11面、さらに玉類が多数出土しているという。


被葬者は誰であろうか?。かっては孝安天皇とか武内宿禰が唱えられたが,近年は古代の豪族葛城氏の祖・葛城襲津彦説が多い。五世紀代に長持形石棺を持つ古墳は、大王級の人物が被葬者とされることが多い。5世紀前半,この周辺に大きな勢力が存在していたことを示している。

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秋津洲(あきつしま)の道 (その 1)

2014年12月05日 | 街道歩き

前回は,葛城・金剛山系の山麓を通る「葛城古道」を北から南へ歩きました(2014/9/14(日))。その葛城古道の東側に広がる御所市内にも多くの古墳・古跡が存在しています。御所市では,その一部を「秋津洲の道」ハイキングコースとして宣伝しています。今回はその「秋津洲の道」を歩き、”秋津洲”の語源になった国見山に登ってみることにしました。
2014/11/10(月)、近鉄・御所駅からスタートし,鴨都波神社→秋津遺跡→室宮山古墳→日本武尊白鳥陵→国見山→吉祥草寺へと一周し,近鉄・御所駅へ帰ってくるコースです。近鉄が主要駅に置いている「てくてくマップ:秋津洲の道」、御所市観光協会の「秋津洲の道コース」の二つの地図入りパンフレットが大変役立ちます。近鉄・御所駅横の観光案内所に両方置いているので、是非立ち寄って下さい(早朝の7時半頃から開いてます)。

 鴨都波神社(かもつばじんじゃ)  


近鉄御所線の御所駅から、国道24号線を南へ歩き,柳田川に架かる柳田橋を渡ると鎮守の森が見える。そこが鴨都波神社です。駅から徒歩5分位。葛城山を源流とする柳田川が葛城川に流れ込む合流点に鎮座している。国道沿いに石の鳥居が建っているのでここから入るが,正確にはこれは裏門で,表参道は反対側の東側です。
神社の公式HPには以下のように書かれている。
「鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。」
 
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流し水の豊かなこの神社一帯からは,「鴨都波遺跡」と呼ばれる弥生中期からの多くの遺物が出土している。ここから南方にある高鴨神社付近を本拠としていた鴨氏がこの地に移り農耕に従事しながら「水の神」を祀ったものと思われる。
ずっと南にある高鴨神社を「上鴨社」,葛城御歳神社を「中鴨社」というのに対して、この神社は「下鴨社」と呼ばれる。また高鴨神社、鴨山口神社と並んで、葛城3鴨神社の一つ。高鴨神社とともに京都の上・下賀茂神社の本家にあたるともいわれる。

 鴨都波遺跡(かもつばいせき)  


鴨都波遺跡を探して鴨都波神社周辺を見渡すが,遺跡らしき場所も標識も案内も見当たらない。弥生中期からの大規模遺跡「鴨都波遺跡」は,現代において忽然と姿を消してしまったようです。神社境内で主婦の方を見かけたので,「遺跡はどこですか?」と尋ねると,「南の学校や警察,済生会病院を含めここら一帯です」とのこと。「何か残っていませんか?」と聞くと,「この辺りには残されていないが,病院の中にチョットあるようです」とのこと。
せっかく来たんだから鴨都波遺跡の痕跡ぐらいは見たい,と思い済生会病院まで後戻りする。病院敷地内を探すが見つけられない。正面入口の守衛さんの尋ねると,「この中ですヨ」と建物の中を指す。病院建物の中に入ると,待合ロビーの一角に,少しだけ遺物が展示され解説パネルが掛けられていた。さらに病院内の廊下を進み,奥の出口から建物の裏に出るとラセン階段脇に鴨都波1号墳の説明パネルがガラスケース入りで設置されていました。

鴨都波遺跡は、葛城山系に源流をもつ柳田川と金剛山麓より北に流れる葛城川の合流点に位置し、水に恵まれた場所です。鴨波神社を中心にして、周辺の奈良県立青翔高等学校(前身は県立御所高校)・高田署分庁舎・済生会病院を含む南北500メートル、東西450メートルにわたって広がっていた。弥生時代前期に始まり,中後期に最盛期を迎え、さらに古墳時代前期(4世紀)まで続く大遺跡。弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。

しかし現在は、病院内の説明パネルを除いて、何一つ痕跡すら残されていない。全て発掘調査後に埋め戻されてしまっている。「調査終了後埋め戻されて、現地で地下保存されている」(病院の説明パネルより)そうです。”地下保存”だそうです(-_-;)。

 孝昭天皇掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのかみのみささぎ)  


9:25分 済生会病院を出て、鴨都波神社から国道24号線沿いに南へ5分位歩くと,三室の集落があり右手の小山の脇に天皇陵の正面拝所が見えてる。少し離れているので注意して見ないと見落とすかも。国道から脇道に降りて近づいてみる。宮内庁管理の天皇陵なので,遥拝所,柵,番小屋,注意立て札などどこの天皇陵でも同じ造り。味気ないことこの上なし。
第5代孝昭天皇は、在位期間83年で,113歳(日本書紀),93歳(古事記)で崩御したとされる。いわゆる欠史八代の1人で、その実在性が疑問視されている。

 野口神社(のぐちじんじゃ)  


孝昭天皇陵からまた国道24号線を南へ行き、葛城川に架かる御所橋を渡る。国道から左(東方)を見渡せば平地に田畑が広がり,集落が点在している。その中に樹木が密集した場所がある。そういう所には神社やお寺があることが多い。”あの森が野口神社に違いない”と見当をつけ目指す。久しぶりに俺のカンが当たった。田畑の中の細道を歩く。ここらの地区名は「御所市蛇穴」となっている。正確に読める人はいないだろう。”さらぎ”と読む。『奈良の地名由来辞典』には「蛇が円くなり穴を作ることをサラキといい、土器をサラキというのも、土器は蛇が円くなるような過程をへて製作されるからであろう」と書かれているそうです。
町名変更などで由緒ある名称が消えていくこの時代、この名前を受け継がれておられる地区の住民の方には頭が下がります。
もともと御神体は木彫りの竜で、作物の収穫を司る水の神(龍神)を葛城川の岸辺に鎮め祀り五穀豊穣を祈願したのが始まりとされる。
縁起によると、神武天皇(神倭伊波礼毘古命、かむやまといはれひこノみこと)の御子・日子八井命(彦八井命、ひこやいノみこと)を祖神とする茨田連の子孫が河内国からここに移住、祖神を祀るようになり、御祭神は神倭伊波礼毘古命・彦八井命の二神になったという。
野口神社が有名なのは、蛇塚と「汁かけ祭り」です。
恋の狂気から蛇に変身した娘が閉じ込められた場所が現在の野口神社の地とされる。元々この場所には井戸があって、その中に蛇を埋めて塚になったと言い伝えられています。境内には井戸を模った石組みの蛇塚があります。そして毎年5月5日に、その娘の霊を供養するため「汁かけ祭り(蛇綱引き:じゃづなひき)」が行われる。十四mもある藁で作った蛇綱を地区の各戸を一軒一軒引き回し、邪気払い病除を祈願していく。そして巡行が終ると神社拝殿横の蛇塚に蛇綱をトグロに巻納め、行事が終了する。かっては、厄除けもため参詣者にワカメの味噌汁をかけていたが、近年はさすがに行われていないとか。

年をとればトイレが近い。民家が散在し見晴らしの良い田園地帯、脇道でという訳にもいかない。野口神社裏にありました。ホッとして駆け寄ったが、カギが・・・。近くて遠いのがトイレです。我慢、ガマン・・・。

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「葛城古道」北から南へ (その 4)

2014年11月21日 | 街道歩き

 葛城の道・歴史文化館へ  




14:40分、蜘蛛塚を探して林の中に入っていくが見つけられない。諦め、次の高鴨神社へ向かう。下りの坂道となり階段が続く。これは高天彦神社への参拝道だったのでしょうか。20分ほど下れば出口が見えてきました。

高天原のある高台から降りてきました。それでもヤマトの地が美しく見下ろせる。車道に出て、高鴨神社のある森を目指します。

高鴨神社のすぐ手前に「葛城の道・歴史文化館」があります。好天の日曜日なのに、私以外誰も見かけない。開店休日?の様です。
施設の半分は食堂,休憩室で、奥に葛城の道を紹介する展示室がある。床一面に空中写真が敷き詰めてあり、これが唯一の見ものか。財団法人日本宝くじ協会の助成により、財団法人日本ナショナルトラストが建設したヘリテイジセンターとか。もちろんトイレもあり。

入館無料 /開館時間 午前9時から午後4時 /閉館日 毎週月・金曜日/電話 0745-66-1159

 高鴨神社(たかがもじんじゃ)  


歴史文化館の脇に立つ一の鳥居(朱塗)を入ると、厳粛な参道です。右に社務所、左に池を見て進むと二の鳥居です。鳥居をくぐり石段を登ると、境内正面に拝殿(三間社入母屋造瓦葺)、その背後の石垣の上、透塀にに囲まれた神域内に本殿が、それぞれ南面して鎮座する。本殿(国の重要文化財に指定)は三間社流造り・檜皮葺(ひわだぶき)。室町時代の天文12年(1543年)の再建という。主祭神として味耜高彦根神(阿治須岐詫彦根神,あじすきたかひこねのかみ)が祀られている。大己貴命(大国主命)の子で迦毛大御神とも称される。
高鴨神社の由緒について公式HPには
「この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります」とある。
参道の左手は氷室池。鯉ならぬ「鴨」が泳いでいるというが見つけられなかった。池上に張り出した舞台が設えられている。観月演奏会,雅楽奉納,コンサートなどが行われているようです。
参道を挟んだ反対側には社務所があり、その横に空鉢の並んだひな壇がある。ここに4月中旬頃~5月上旬頃,咲き誇った日本サクラ草が並べられ公開される。
由緒ある古社だが,それ以上にここが有名なのは日本桜草の名所であること。ここの宮司さんは全国屈指の日本さくら草の栽培者で,明治末期より父子三代に亘って蒐集栽培されてきたそうです。現存している桜草の品種のほとんど、約500種類をここで保存、育成されている。

 風の森峠と志那都彦神社(しなつひこ)  


高鴨神社から終着地・風の森峠を目指す。ゆるやかな下り坂を進むと,周辺はのどかな広々とした田園地帯。田の一角に標識「風の森 志那都彦神社」が建てられている。背後の葛城山・金剛山の吹き降ろし風から田を守っているように見受けられる。


小さな森と集落の中へ入っていくが,標識も無くどっちへ行ったらいいのか途方にくれる。あっちへ行ったり引き返したり,尋ねようにも人影が見えない。ようやく,庭先で農作業されている農婦の方に出会い,風の森バス停を教えてもらった。バス停の近くにあるという「風の森神社」を探しながら歩いたが,いつにまにか風の森バス停に出てしまった。また引き返し,さっきの農婦の方に尋ねると,すぐ近くだった。

この神社を自分だけで探し当てるのは大変だと思う。風の森バス停から風の森神社までの道順です。
バス停から西側に入っていく緩やかな坂道を200mばかり進む。民家が現れた辺りに最初の右に入る道がある。そこを入ると50m位で右手にお寺の石垣が見え,その真ん中あたりに小さな階段がある。階段を登ると正面にみすぼらしいお寺がある。お寺の左を見れば・・・ここまで来ればもう迷うこともない。

薄暗い雑木林の奥に,小さな祠が薄気味悪い雰囲気を漂わせ鎮座しておられる。「風の森」という銘柄の清酒が御供えされている。風の森神社といっているが,正式には「志那都彦神社(しなつひこ)」という。古事記・日本書紀の中で風の神として記されている「志那都比古神(しなつひこのかみ)」が祀られている。
「風の森峠」とはこの周辺をさすのだろうか。地図を見れば,この地は南から大和盆地への入り口に当たる。ヤマトへ進入する南風を防いでくれる神様ということでしょう。

境内看板には、
「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置しています。御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神に因んだ事柄が記載されています。又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつられています。日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月には、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」とあります。

御所市から五条市へ通じる国道24号線がはしっている。かっては京、大和方面から高野山へ向かう参詣道「高野街道」で,さらに紀伊地方とを結ぶ道でもあった。峠の近くに風の森バス停があり,葛城古道の終点,もしくは出発点ともなっている。

志那都彦神社を出てバス停へ。まだ四時なので船宿寺まで足を伸ばそうかと思いガイド本を開いているとブレーキ音がした。1時間に1本しかやって来ない定期バスがドンピシャのタイミングで止まってくれたのです。もう乗るしかありません。近鉄・御所駅へ。

       ~「葛城古道」北から南へ ~(完)

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「葛城古道」北から南へ (その 3)

2014年11月17日 | 街道歩き

 極楽寺へ  


長柄の町並みを通りすぎ、右を眺めると葛城山・金剛山がはっきり見えてくる。よくみると葛城山・金剛山を背にした大空に数台のハンググライダーが舞っているではないか。葛城山の山頂?山腹のどこかにハンググライダーの基地があるようで、そこから大空を飛行し、手前の平地に着地しているようだ。役行者のように大空を舞い、空からヤマトを見下ろしてみたいものです。

次の目的地・極楽寺を目指します。春日神社、高木神社、住吉神社の傍を通り、緩やかな坂道を金剛山の方向に登ってゆく。後ろを振り向くと、巻向山、音羽山、竜門岳などを背にヤマトの地が広がる。右端は高取山だろうか?。古道としては「山の辺の道」に劣るが、展望という点では遮るものが少ない葛城古道のほうがはるかに優ります。周りは柿園だ。まだ小さく青い柿の実だが、ハイカーが簡単にもぎ取れそうな位置にある。渋柿でしょうか?。やがて県道30号線(御所香芝線)に突き当たる。

県道を10分ほど歩くと右手高台に鐘楼が見えてくる。坂道を登ると鐘楼の下を潜り境内に入るようになっている。鐘楼が山門になっているのは珍しく、初めての体験です。浄土宗知恩院派のお寺で,正式には「仏頭山法眼院極楽寺」という。
寺伝によれば,天暦5年(951)興福寺の名僧一和(いちわ)が創建した寺と伝えられている。心静かに修行修学できる地を探していた一和上人は,金剛山の東麓に、毎夜光を放つものを見た。不思議に思った上人がその場所を探し訪ねると,そこから仏頭(弥陀仏の頭)が見つかった。これこそ有縁の地と考へられ 「仏頭山」と呼び見つかった仏頭を本尊として草庵を結び、法眼院と名付けたという(御所市観光協会HPより)。

境内は広くないが綺麗に手入れされ、ベンチやトイレも設けられ一服するのにちょうど良い。高台にあるので見晴らしも良いはずですが、塀でよく見えなかった。探せばどっかあったでしょうネ。

 橋本院から高天原  


極楽寺からもとの県道30号線(御所香芝線)に戻り、南へ少し進むと右へ入る入口がある。「橋本院 →」の標識があるのですぐ判ります。山側へ向い登って行くと、山中に入る手前にイノシシ避けの柵が設けられている。ここからが葛城古道で最大の難所です。見晴らしのきいたのどかな遊歩道は一変し、険しい山道に突入します。杉木立に囲まれた薄暗い山道が階段状に続く。といってもこの山道は20分ほどでしょうか。

山道から平坦な道になると前方が開け,橋本院が見えてきた。庭園風の境内の中に入る。庭園というより、雑然とし何やらいろいろ植えられている農家の裏庭といった感じです。中央に池があるが,これもため池に見えてしまう。「瞑想の庭」と書かれた立て札がある。見て楽しむより,目を閉じ瞑想した方がよさそうな庭園です。時期が悪かったのか目に付く花は見られなかった。
手元のガイド本では,葛城古道のコースはこの橋本院の境内を通り抜けなければならないようになっている。その割には訪れる人も少ないようで,静かな境内です。その分手入れもゆき届いていないように見受けられる。一抹の侘しさを感じる一風変わったお寺さんです。歴史は古く、養老年間(715年~724)に元正天皇の勅により僧行基が開いた「高天寺」(たかまでら)というお寺が、金剛山中腹の高台にある高天原といわれる神話の地に創建された。その後、戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残る。 こうして残った一院が池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになったという。
橋本院の山門を出ると開けた田園が広がる。ここが「高天原」と呼ばれる神話の舞台です。

日本神話では,皇祖神天照大神が治め神々が住む所を「高天原」という。ここから瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向の高千穂の峰に降臨したとされています。
金剛山を昔は「高天山(たかまやま)」と呼んでいた。その中腹の原に神々が集った「高天原」があったということでしょう。
「葛城王朝説」を唱える鳥越憲三氏は
「遠く葛城族が住む背後の山が、ならぶ二上山や葛城山よりも高くそびえているのを見て、その山を高天山(タカマヤマ)と名づけた。そして、その中腹のひろい台地に神々が集い、そこで神遊びが行われると感じたのは、当時の思考ではあたりまえのことであった。そして、その神々のいます広い台地を高天原と呼んだのであった」(「神々と天皇の間」(1970))と書かれている。

「高天原」の所在地については古来より諸説あるようです。wikipediaが取り上げているものだけでも以下のごとく。
・葛城山中腹のこの地 - 奈良県御所市高天
・後ろに高千穂峰がそびえる宮崎県高原町(たかはるちょう)
・宮崎県高千穂町(たかちほ)
・阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町
・蒜山(ひるぜん) - 岡山県真庭市
・生犬穴(おいぬあな) - 群馬県上野村
・常陸国多賀郡(茨城県)-新井白石説
・長崎県壱岐市
・氷ノ山(ひょうのせん)西麓 - 鳥取県八頭郡若桜町舂米(つくよね)
・霊石山・伊勢ヶ平 - 鳥取県八頭郡八頭町
・和歌山県の高野山
・海外だが中国南部説もあるそうです。

橋本院本堂の瓦屋根が見え、「史跡高天原」の石柱の前に広がる景色は、どこの田舎にでも見られる田園風景です。天照大神をはじめ神々が集った地とは想像すらできない。石柱の横には駐車場が設けられ,その奥に綺麗なトイレが見える。ここまで来たら,記念に”神々のふるさと高天原で用をたす”のも悪くない。

天上の国が地上にあるのも不思議な気がするが・・・・。神話とはそういうものでしょう。
ところで「たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら」どれが正解でしょうか?。

 高天彦神社(たかまひこじんじゃ)  


高天原からは平坦な道が続き,やがて集落の中に入っていく。橋本院から10分ほど歩けば高天彦神社です。
葛城王朝を築いた葛城一族の祖神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祀る神社です。「白雲峯」(694m)と呼ばれる背後の美しい円錐形の山をご神体とするため本殿は無い。現在,社務所もなく宮司さんもおられず,高鴨神社のご神職が管理なされているそうです。だから高天彦神社のお守りや御札などは高鴨神社で授かる。

高天彦神社一の鳥居の外側に,鬱蒼と茂った杉の巨木に挟まれた狭い参道が50mほど続く。その参道の入り口近くに「鶯宿梅(おうしゅくばい)」といわれる梅の古木があります。
奈良時代に、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなり その師が嘆き悲しんでいると、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、 「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」 と鳴いたという伝説があるそうです。

鶯宿梅からさらに進むと「蜘蛛窟」があるという。それらしき方向に歩くが,いっこうに見つからない。どっかで入り口を見落としたのだろう。諦めて次の目的地・高鴨神社を目指す。後でネットで調べると,葛城古道で最も見つけられないのが高天彦神社の「蜘蛛窟」だという。納得しました。

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「葛城古道」北から南へ (その 2)

2014年11月12日 | 街道歩き

 葛城坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬし)  


九品寺から次の綏靖天皇高丘宮跡を目指したが、どこでどう道を間違えたのか県道30号線(別名を御所香芝線)に出てしまった。車の往来を眺めながら、俺はどっちへいったらよいんだ?、と狼狽。葛城の道は迷い道です。近くで作業中の農婦の方にお尋ねする。車道を歩き、ロータリーから県道30号線の下をくぐるトンネルを出ると、石鳥居のある細い参道と一般道が並列している。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」はズッーと東の長柄の集落にありました。

参道正面の50段の石段を登ると、狭苦しい境内に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。祭神は一言主大神と大泊瀬幼武尊(わかたける、雄略天皇)とが合祀され、全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社となっている。一言主神は、地元で「一言(いちごん)さん」「いちごんじんさん」として親しみをこめて呼ばれ、願い事を一言だけ叶えてくれる神様として有名です。そのせいか葛城古道の中でもここが一番の人出でした。しかし一言主神の出自や実体は謎に包まれているようです。

「一言」の云われとなった神と雄略天皇の出会いの場を、記紀によりアレンジ再現すると
・・~・・~・・~・・~・・~・・~
雄略天皇がお供を従えて葛城山で狩をしている時、天皇らと全く同じ姿格好をした一行(神)と出会った。
天皇「この国には自分をおいて王はないのに、同じ格好をしたお前は何者だ!」
神「この国の王は私だ、同じ姿のお前こそ何者だ!」
天皇「無礼者!、矢を撃つぞ!」
神「「そちこそ無礼者!、矢を撃つぞ!」
天皇「それではお互いに名乗り合おう、まずそちから」
神「吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大なり」

この後が記紀で若干ニュアンスが異なる。
古事記では、それを聞いた天皇は弓矢を捨て「恐れおおいことだ、大さまとは気づかなかった」と申して、自分の太刀や弓矢を始めお供の衣服をも脱がせて一言主神に献上し、拝礼された。一言主は悦んで献上品を受け、天皇が帰るときは、泊瀬の山の入口まで見送られた。
日本書紀(雄略紀)では、二人は共に狩を楽しみ、日が暮れて狩が終わると、神は天皇を久目川(現曽我川)まで送って行ったという事です。
天皇家の正史・日本書紀の立場として、天皇が葛城の神にひれ伏すことなどできなかったのでしょう。事実、この周辺を本拠とした葛城氏は雄略天皇によって滅ぼされている。
さらに後世になれば、一言主神は惨めな神として扱われている。『続日本紀』(平安時代初期の797年に編纂された)や『釈日本紀』(鎌倉末期の書紀註釈書、13世紀末頃)によれば、「一言主神が雄略天皇と獲物を競いあい、天皇の怒りに触れ、一言主神は土佐国に流刑された」と記紀とは異なる内容となっている。そして天平法宇8年(764)、葛城氏の末裔・高賀茂朝臣田守らが、由緒ある一言主神を戻してほしいと願いで、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたという。それが現在の一言主神社です。高知市には流刑された「一言主神」を祀る土佐神社が現在も存在しているそうです。

さらに『今昔物語』には、役行者が一言主神を呪によって縛り上げ、谷の底に置くという逸話がある。流刑されたり、縛りつけられた神様など聞いたこともない。謎に包まれた哀れな神様のようですが、私も両手を合わせ、一言だけお願いしました。もちろん、一言分のお賽銭で・・・。

一言願掛けとともにこの神社を有名にしているのが、拝殿前の大銀杏の御神木。「乳銀杏(ちちいちょう)」と呼ばれている。幹周:4m、樹高:25m、樹齢1200年と言われる古木で、県の保護樹木に指定されている(平成9年7月18日指定)
樹の前にある説明板には「幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ており、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれている。この木に祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられており古くから親しまれてきた」と書かれている。見上げると大木の樹皮がめくれ、お乳のようなものがたくさん垂れ下がっている。これは樹皮のコルク質が発達し表面が柔らかくなって出来たもので、銀杏の古木に見られるという。
この大銀杏に手を合わせ、さらに一言主神様に「お乳がたくさん出ますように!」とお願いすれば、絶対間違いなし、ですネ。

この神社には土蜘蛛伝説による蜘蛛塚が残されている。
『日本書紀(神武紀)』に「高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長く、侏儒(シュジュ、小人の意)に似ていた。磐余彦尊(いわれひこ、後の神武天皇)の軍は葛(かづら)の網を作り、覆い捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城邑(かつらぎむら)とした」と書かれている。
これは神武東征のおり、葛城山裾を平定した時のお話。「葛城」の名称の始まりでもある。日本最初の正史とされる天皇家の歴史書は、皇軍に反抗した在地土着の民たちを、「土隠(つちごもり)」する獣の如く”土蜘蛛”と蔑称し、後世に残した。天孫降臨族が地の国の先住民を獣を押し潰すごとく制圧していく英雄創として描く。その後、この土蜘蛛の話は陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など各地の風土記にもでてくるそうです。
その後「土蜘蛛」は都(朝廷)を脅かす「怨霊」や「妖怪」とみなされ、神楽・能・歌舞伎・狂言・謡曲など古典芸能の題材となり現在まで語り継がれている。
神楽の口上で、土蜘蛛は「大和の国は葛城山に住む土蜘蛛である」と謡われ、歌舞伎の「土蜘」では「汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの」と語る。こうした演目が語り継がれているのは、”わが恨みを忘れるな!”という地の声か、それとも妖怪退治でカタルシスを得ている支配族の自己満足か。征服者・天皇族は後世になっても虐殺・略奪していった民の亡霊に悩まされてきたのでしょう。

神武天皇は土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足の三部分に切断し別々に埋めたという。ここ一言主神社境内には、それを供養するためか三カ所に土蜘蛛塚が残されている。胴の部分は拝殿右脇に、頭は本殿の下に、足は参道入口の鳥居脇に置かれている。

 綏靖天皇高丘宮跡(すいぜいてんのうたかおかのみや)  


一言主神社入口の階段右横に山側に入っていく道があり、そこからハイカーが下ってくる。どうやらこの道が九品寺から綏靖天皇高丘宮跡伝承地を経て一言主神社へ続く「歴史の道・葛城古道」らしい。私は入口を見失い、高丘宮跡を経ずに別の道を通って一言主神社へたどり着いてしまった。
せっかくだから、逆コースながら綏靖天皇高丘宮跡へ行ってみることにした。人家の散在する坂道を通り過ぎると平坦な道となり視界が開け、田畑が広がる。所々に杉林の茂みが見える。ガイド本によると高丘宮跡は杉林の中だと書かれている。農道のような畦道のような道を不安を抱きながら進むと、前方の杉林の一角に石碑が見えてきました。

「日本書紀」によれば、初代神武天皇の第三子だった神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、神武崩御後、異母兄の反乱を鎮圧し、ここ葛城高丘宮で第二代「綏靖」天皇として即位したという。しかし現代の歴史学では、「欠史八代」などと呼ばれて、二代綏靖天皇から八代開化天皇までの実在性が疑問視されている。
それよりもここ「高丘宮」の地は、仁徳天皇の后となった磐之媛(いわのひめ)の望郷の歌で有名です。
「あおによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ  我が見が欲し国は 葛城高宮吾家のあたり」
この辺りは葛城氏の根拠地でもあった。磐之媛は、葛城氏の実質的な祖・葛城襲津彦(そつびこ)の娘。16代仁徳天皇の皇后となり、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の母でもある。気性の激しい女性だったようで、夫・仁徳帝の浮気を許さなかったようだ。仁徳帝が磐之媛の留守中に別の皇女を妃にしたので、これに怒り宮に帰らず山城の筒城に篭ってしまったという。この時、生まれ故郷の「葛城高宮」あたりを懐かしんで詠んだ歌なのでしょうか?。

石碑から少し先へ行ってみました。イノシシ避けの柵が設けられていた。「イノシシはヤマトに入るな!」ということでしょう。この畦道が本来「葛城古道」で、この道を通って高丘宮跡に入ってくる予定っだったのですが・・・。真っ直ぐ伸びる畦道の先に”ヤマトの国”が広がっている。磐之媛もこの風景を眺めながら育ったのでしょうか。

 長柄神社(ながらじんじゃ)  


11:30 一言主神社に戻り、参道からトンネルをくぐり東へ長柄の集落を目指して歩く。500mほど行くと集落内に大きな鳥居が現れる。これが一言主神社の「一の鳥居」で、神社前にあったのは「二の鳥居」。この一の鳥居から一言主神社の参道になるのでしょうか?。
鳥居をくぐると突き当たりになるので右に曲がって進むと、長柄の民家が並ぶ。長柄神社の案内板に「長柄」の名称の由来として次のように書かれている。「長柄の地名は、長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり、音読して長柄(ながら)になった。長江はゆるやかく長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる」。ところが何故か現在の地名は「名柄(ながら)」と書く。天理市の長柄町と混同されるので、「名柄」にしたという説もあるが、歴史ある名称なのに残念です。

長柄の街中をさらに南に進むと、左角に古く由緒ありそうな鐘楼と白壁が印象的な「浄土宗・龍正寺」が建つ四つ辻に出る。今歩いてきた南北の道が「長柄街道(旧高野街道)」で、かって京都・奈良の人々が吉野川沿いに五條を通り高野山へお参りする道でした。東西に交わる道が、かっての「水越街道」。河内から大和葛城山と金剛山の間の水越峠を越えて大和に下りて来る街道です。現在は国道309号線となり、水越トンネルが開通している。こうした交通の要衝に発達したのが長柄の街で、その中心にあるのが長柄神社。龍正寺の角を左に曲がると、すぐ長柄神社です。


ケヤキの巨樹に覆われた長柄神社境内はそれほど広くない。日本書紀には、天武天皇が境内で流鏑馬(やぶさめ)をご覧になったと記されているが、当時は馬が疾走できるほど広かったのでしょうか?。
現在の境内には、一服できるベンチが置かれ、子供の遊び場なのかブランコが垂れ下がっている。かって天皇が行楽された場所が、今は庶民の憩いの場になっており、親しみを感じさせてくれる神社です。

拝殿奥に鎮座する本殿は、一間社春日造・檜皮葺・丹塗り、創建年代は不明。奈良県の重要文化財に指定されている。祭神は下照姫命(したてるひめのみこと)。地元では「姫の宮」と呼んでいる。出雲大社に祀られている「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の娘にあたる神様です。また高鴨神社の神様「阿治須岐高日子根命(あじすきたかねひこのみこと)」の妹でもある。安産の神様のようです。

筆でガッポリ稼がれたのか、神社入口に「堺屋太一 建之(池口小太郎)」の新しく立派な石灯籠が。実家の池口家はすぐ近くです。

 長柄の旧家  




長柄の集落に入って最初に目にするのが、かっての大庄屋「末吉家」住宅。母屋は江戸中期に建てられたもの。どっしりと落ち着いた古風な佇まいの家構え。それ以上に屋敷内の巨木(ケヤキかクスノキ?)に歴史を感じさせられる。現在、家人は裏に新宅を建て、住んでおられるそうです。





長柄神社のある辻から、さらに数軒南に進むと江戸中期の建物「本池口家」がある。ここはあの元国務大臣で著作家の堺屋太一さんの実家でもある。堺屋さんの本名は「池口小太郎」。Wikipediaには「大阪市生まれ。本籍地は奈良県」とあるので、もしかしたら父の実家なのかも?。近くには同様に古い作りの「池口家」もありました。



本池口家の南隣が「中村家住宅(国重文)」。表札もかかっていない。これだろうかと自信なかったので、通りがかりの方に尋ねると「コレですヨ」とおっしゃる。

江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に建てられた長柄を代表する旧家。御所市内で最も古い建物で、中世の吐田(はんだ)の城主吐田越前守の子孫にあたる中村正勝が建てたと推定されています。中村家は長柄で代々郡山藩の代官を務めた家柄なので、代官屋敷のような造りになっている。
白壁と黒褐色の格子戸・板の色合いのバランスが美しい。昭和47年8月から同49年8月まで、奈良県教育委員会により改体修理が行なわれたようで、そのせいか他の旧家と比べて新しく感じた。現在でも個人の私有なので、内部は非公開となっている。しかし奈良県を代表する旧家で、国の重要文化財・観光スポットにもなっているので案内板くらいは置いて欲しいものです・・・。

中村家住宅と道を挟んだ南隣が「葛城酒造」で有名な「久保家」。元々は、大宇陀町で元禄年間(168~1704)から酒造りをされていた老舗だが、明治20年にここに分家された造り酒屋さん。この辺りは葛城山からの良質の伏流水があるため大和でも有数の地酒の産地という。家の軒先には、酒造業のシンボルともいえる杉玉がぶら下げられています。代表銘柄は「百楽門」で、ネットで注文できます。


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「葛城古道」北から南へ (その 1)

2014年10月28日 | 街道歩き

歴史の道「葛城古道」は、奈良盆地の西南端に位置する奈良県御所市にあり、葛城・金剛山系の麓を南北に結ぶ全長約15kmの道。天孫降臨の高天原、葛城王朝など、ミステリアスな古代史に包まれた場所。葛城氏・鴨氏・尾張氏・巨勢氏などの豪族の本拠地でもあり、道の周辺には、数々の神話が残り、古社・遺跡も多い。

大和盆地東の「山の辺の道」に対抗して,近年「葛城古道」として地元でもアピールに力を入れている。2014/9/14(日)、近鉄・御所駅から風の森峠まで、「葛城古道」のほぼ全コースを北から南へ歩くことにした。

 崇道神社  


御所駅から西方の葛城山の麓を目指して緩やかな坂道を歩く。葛城山ロープウェイ駅への車のコースとなっているので、時々車に出会う。道路脇に崇道神社への矢印が見えるので寄ってみることに。民家の間の細い道を50mほど入ると、大きな楠の木に覆われ、小さな古ぼけた神社が鎮座していました。神社より楠の巨木のほうが印象的でした。
入口の案内板によれば、光仁天皇(四十九代)の子で桓武天皇(五十代)の弟の早良親王は不遇の死を遂げる。その後、京の都に種々不幸や悪疫も流行すると、早良親王の祟りだと恐れられた。その怨霊を鎮めるため、即位もしていないのに「崇道天皇」の称号が与えられ、各地に崇道神社が建てられたようです。ここもその一つ。

 鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)  


次に出会うのが鴨山口神社。
鳥居をくぐった正面は社務所です。社務所前の右手に二の鳥居があり、それをくぐると瓦葺きの拝殿がひかえる。拝殿奥に一間社春日造の本殿が覗き見える。
大和の各地に(畝傍山、耳成山など)山口神社が存在するが、ここが本社だと神社は自讃される。「山口」とは“山の登り口”を意味し、山口神とは、皇居舎殿造営のための用材を切り出す山に坐す神をいうそうだ。さらに山は水の源なので、雨乞いの神即ち水の神・農の神でもある。

 六地蔵(ろくじぞう)石仏から「葛城の道」へ  


鴨山口神社から葛城山へ向かってなだらかな坂道を歩き、県道30号線(葛城山の東斜面を南北に走る県道30号線は、別名を御所香芝線という。)を横断し上っていくと「六地蔵石仏」の巨石が鎮座する。
道路のほぼ中央にどっしりと腰を据える巨大な花崗岩は高さ 約2m、幅 約3mもある。伝承によれば、室町時代に葛城山が崩れ土石流が発生し、岩石がここまで流されたといわれる。こんな巨石がここまで流されてくるので、大災害だったんでしょう。人々は仏様にすがろうとし、六体の地蔵様を彫り込みお祈りした。
六体の地蔵様は仏教の六道を表し、向かって右から天上道(日光菩薩)人間道(除蓋障菩薩)修羅道(持地菩薩)畜生道(宝印菩薩)餓鬼道(宝珠菩薩)地獄道(壇蛇菩薩)だそうです。

「葛城の道」はこの石仏から左に折れる。真っ直ぐ進む道は、葛城山ロープウェイ駅への徒歩での近道になっている。
六地蔵の角には、「至 駒形大重神社 九品寺」「至 鴨山口神社」の標識が。また「近畿自然歩道」の標識も見える。ここから本格的な古道「葛城の道」が始まる。車道から別れ、葛城山の山裾を田畑の香りを浴びながらのんびり歩く。
山裾の道は、左に行ったり右に分岐したり、かなりややこしい。一本道ではないのです。要所には標識が設けられているとはいえ、かなり惑わされました。「葛城の道は 迷い道」です。ただ見晴らしは良いので、それなりの見当をつけながら歩く。

 九品寺(くほんじ)  



右には葛城山の山肌が迫り、左を見渡せば御所の街並みから、その先には大和三山・三輪山を含む大和の地が展開する。その昔、こちらの山裾には豪族・葛城氏が、向こうの山裾には天皇家の祖先が対峙し睨み合った時代もあったことでしょう。
駒形大重神社を過ぎ、山裾の道をヤマトの地を見渡しながら南へ歩くとすぐ九品寺です。9時35分。
小さいが趣のある山門をくぐると、参道の両側に「十徳園」という庭園があります。左側は中央に池を配した池泉回遊式の庭園となっている。右側の庭には多くの石仏が配置されている。これは西国三十三ケ所霊場の御本尊を模した石仏観音さんだそうです。
庭園に挟まれた短い参道の正面に石段があり、それを登ると本堂が控える。どの堂宇も新しい。平成に入ってから改築されたようです。正式名は「戒那山九品寺」と呼ばれ、戒那山(かいなやま)とは葛城山の別名です。
浄土宗の教えで”品”というのは人間の品格のことで、「上品・中品・下品」がある。またそれぞれに、「上生・中生・下生」の三段階に区別され、全部で九つの品があるとされる。人は現世の所業によって、来世の浄土の世界で九品のどれかに分けられる。そして九品それぞれに阿弥陀仏がおられるという。宇治の平等院には9体の阿弥陀が祀られているが、ここは「上品上生」の1体だけが祀られている。本堂に祀られている御本尊の木造阿弥陀如来坐像です。

九品寺が有名なのは「千体石仏」。境内や本堂の裏山に石仏群が並べられ、その数1600~1700体といわれる。本堂裏手から緩やかな細い坂道をツヅラ折れ状に登っていく。その坂道の片側にリリーフ状に浅く彫りこまれた小さな石仏群がぎっしり並び、参拝者をお迎えしてくれる。
石仏の並ぶ折れ曲がった坂道を登りつめると、樹木に覆われ薄暗くなった平地に出る。正面を見ると驚かされる。小さな石仏が何層にも階段状に積み上げられ、まるでピラミッドのようです。中央には階段が設えられ登ってゆける。その上の平地にもたくさんの石仏がお迎えしてくれます。墓場のようなおどおどしさは無いが、さりとて平常心でもいられない。石仏一つ一つの表情を見て回りたいという気持ちと、さっさとこんな場所から逃げ出したいという気持ちが錯綜する不思議な世界が展開します。周辺を覆っているのは楓でしょうか?。紅葉に覆われたこの世界は、またどんな気持ちにさせてくれるんでしょうか?。

千体石仏を背にして東方を眺めれば、本堂の瓦屋根越しに見える風景がなかなか良い。大和三山を含め古のヤマトの原風景が浮かんでくるようです。

次に目指すのは九品寺と葛城坐一言主神社の間にある綏靖天皇高丘宮跡。葛城山の山裾を、遠く大和三山、音羽山、高取山などを眺めながら南に向かって歩く。「この地は、大和三山が最も美しく見える」と看板が立っている。また「この一帯は、秋になるとコスモスの花が一面に咲き乱れます」とも書かれている。彼岸花(満珠沙華)でしょうか?、ヤマトの地に鮮やかな色合いを添えています。

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竹内街道ひとり歩き (その 6)

2014年10月12日 | 街道歩き

 堺市(長曽根町・黒土町)  


5/11(日)に葛城市長尾神社から歩き始めて、堺市金岡神社までたどり着いた。夕方六時を過ぎており、時間的にも体力的にも限界でした。しかし竹内街道は大小路交差点までとされている。心残りだったので、日を改め9月7日(日)、残りの部分を歩くことに。地下鉄御堂筋線「なかもづ駅」を出て、前回の終了地点・御旅所近くまで来た。朝9時半です。

金岡神社御旅所前の広い通りから西側に入る道は何本かある。さてどの入口から西に向かっていいものやら。竹内街道の入口を探しウロウロするが、見つからない。周辺の喫茶店、ガソリンスタンドで尋ねるが知らない様子。かなりご年配のお婆さんがやってきたので尋ねると、「そこの道よ、竹内公園がすぐ出てくるワ」と教えてくれた。「SEKISUI HOUSE」の看板のある白い建物の角を西に入る。道標も案内も何もなければ、街道らしき雰囲気もない。「竹内街道1400年プロジェクト」と何なんでしょうか?。10時をまわっていました。
入口から200mほど行けば「長曽根竹之内公園」があった。「歴史の道」という案内板がおかれ、竹内街道が紹介されている。周辺は新興住宅街で、一軒家が建ち並ぶ。この道が竹内街道だと知らないで暮らしている人も多いのではないでしょうか。日曜日だというのに、街道ウォーカーもいなけれだ、散歩する人も見かけない。カメラを持って歩いている俺が異様に感じられてしまう。


地図を見れば、街道から北に少し外れた住宅地の中に長曽根神社があります。ここは長曽根町なので、町内の氏神を祀っているのだろうか。立ち寄ってみることに。
神社の詳しい由来などは不明ですが、明治末に神社合祀策により金岡神社に合祀されたが、戦後に地元に戻されたそうです。社務所はなく、地域の人達が管理しており、そういう意味でこれが本当の「氏神」さんでしょう。

この神社の境内にも何本かの楠の巨木が覆いかぶさっている。鳥居を入って左側の楠の木には「堺市保存樹木指定、樹高25m、幹周り4.12m」の石柱が建つ。

 堺市(向陵町)  


黒土町から向陵町に入る。住宅地の狭い車道を歩く。ほとんど車も人も見かけない。街道の雰囲気などないが、のんびり歩ける。やがて正面にマンションらしきビルが立ち塞がる。左側の道を覗けば「35号線、向陵東町」の道路標識が見え、車の往来が激しく、歩けるような道ではない。右側は35号線の裏通りっぽく、車も通っていない狭い一般道。頼るはカンのみ、こちらを選ぶ。こういう場所にこそ案内標識を設置して欲しいものです。

この道でいいのかナ?、と疑心暗鬼で歩いていると、やがて正面に広い大通りが見えてきた。「大坂中央環状線」です。竹内街道はここで大通りに合流し、合流地点には「竹内街道」の道標識と案内板が設置されている。

向陵中町の広い横断歩道を渡り、中央環状線沿いに進むと「ほそいけばし」と刻まれた橋が現れる。橋下を覗き込むと、電車が見える。そこはJR阪和線の「三国ヶ丘駅」でした。次の目的地・堺市役所目指して中央環状線沿いを歩く。交通量の多い騒々しい幹線道路だが、広く整備された歩道が設けられているので、歩きやすい。

やがて中央環状線は広い向陵西町交差点にでる。道路が縦横に枝分かれしているので”どっちへ行ったらええネン!”と困惑する。手持ちのマップも茫漠とした書き方なので、ハッキリしない。右斜め前方に堺市役所の高いビルが見える。あっちの方向へ行けば間違いないだろうと、広い横断歩道を横切ると、交差する道路の間に整備された遊歩道のような道が見える。その入口に「歴史のみち 竹内街道」の標識が設けられていました。道の奥には堺市役所が手招きしている。なお、この交差点のすぐ南側には、日本一の大きさを誇る前方後円墳「仁徳天皇稜」があるが、ビルに遮られて見えなかった。

 堺市(榎元町)  


竹内街道入口から榎元町の横筋に入れば、やっと大通りから解放され、街道らしくなってきた。太子町ほどではないが、カラー舗装され標識も設置されている。一本道なので迷うこともない。迷ったら堺市役所の高いビルを目指して歩くだけ。

天平15年(743)聖武天皇発願で行基によって創建されたと伝えられる向泉寺の史跡「向泉寺閼伽井跡」を過ぎると、竹内街道と西高野街道の分岐点で、道標が建てられている。写真は振り返って撮ったもの。左が今歩いてきた竹内街道、右が西高野街道で高野山へ向かっている。二つの街道を写真を見比べると、自治体の力の入れようが歴然としている。やはり「1400年プロジェクト」ですネ。

角に置かれた説明版には「西高野街道は堺から紀州の霊場・高野山に向かう信仰の道です。高野詣でが盛んだった平安末期から鎌倉初期にかけては船で堺に上陸した西国の人たちで賑わい、物資輸送にも盛んに利用されました。基点は堺の大小路で、河内長野で中、東の両高野街道と合流します」とある。また近くには地蔵堂があり、その横に「高野山女人堂十三」と刻まれた石柱が建っている。女人堂まで十三里を表します。
ここから西の大小路までは竹内街道も西高野街道も同じ道のようです。この辺り、高野山へ向かう人、長谷寺・伊勢詣での人々で賑わったのでしょうね。

 堺市役所から大小路へ  



竹内街道の目印の一つ「榎宝篋印塔(えのきのほうきょういんとう)」を過ぎ、数分歩くと堺市役所と手前の踏切が現れる。堺市内で街道らしく整備された道は、ここまでです。踏み切りを渡ると南海電車・堺東駅のある堺市一番の繁華街。その駅前にそびえ立つ堺一のノッポビル(と思う・・・)堺市役所がそびえる。

今日は日曜日なので役所はお休みだが、21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。360度パノラマ展望ができます。日本で最大の前方後円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、三番目の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、八番目の土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)を含む「百舌鳥(もず)古墳群」が眼下に一望できる。
ボランティアらしき年配ガイドさんが二人いて、展望しながら案内しておられました。軽い食事や喫茶もあり、休憩するのに格好の場所です。その割りには閑散としていた。



12時10分堺市役所を出て、市役所前の大通りを大小路交差点目指して西へ歩く。街道を意識してか、やたら広い遊歩道が設けられている。「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、毎年10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わう場所です。

大通りから南側(左)に入った所に、住吉大社ともゆかりが深い開口神社(あぐちじんじゃ)があります。すぐ傍なので寄ってみることに。
神社近くの路上には、白法被姿の若者達がたむろしている。聞けば、毎年9月中旬に行われる秋の例祭「八朔祭(はっさくまつり)」の最中らしい。今日は名物「ふとん太鼓」宮出しの最終日らしい。
布団太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺の各神社の祭礼で担がれていた大型の太鼓台。ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれ、厚みが下から上に順に厚く大きくなっている。
元々堺の祭礼は「だんじり」の練り回しが中心だったようですが、明治二十九年のだんじり騒動(道を譲れ!、譲らぬ!のだんじり同士の大喧嘩で死傷者がでる)が原因で、これ以後の堺市での練物曳行は一切禁止となったという。その後、布団太鼓の練り回しとして復活したようです。座布団ならぶつかり合っても危険は少ないからでしょうか?。
「ふとん太鼓」宮出しは午後三時から行われるというが、それまで待っていられない。12時半、開口神社を後にする。
開口神社から大通りに出て、西に少し歩けばそこが大小路の交差点です。広い道路が縦横に交差している。さっきまで堺市役所から歩いてきた道が「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、大小路交差点からさらに西に伸び、南海本線堺駅までつづいている。この道がかっての竹内街道や西高野街道といわれ、ここ大小路交差点が街道の起点とされる。

縦(即ち、南北に)に走る大通りが府道197号線で、「大道筋」とも呼ばれ、かっての「紀州街道」にあたる。幅50mの中央には、大阪で唯一残る路面電車、チンチン電車で親しまれている阪堺電車が走っています。
この大道筋を大小路交差点から南に100mほど行けば、歌集「みだれ髪」などで知られる女流歌人・与謝野晶子(1878~1942年)生家跡がある。生家跡といっても実際の生家は、現在のこの大通りの中央にあったようです。第二次大戦で焼け野原になり、戦後の道路拡張で跡形もなく消え去っている。傍の大道筋沿いに歌碑と案内板が設置されているだけです。紀州街道に面した裕福な老舗菓子屋・駿河屋の三女として誕生し、明治33年(1899)与謝野寛(鉄幹)と出会い結婚し上京する翌年までの23間、ここで過ごしていた。
歌碑には晶子26歳の時の歌
「海恋し潮の遠鳴り数えつつ
   少女となりし父母の家」
と刻まれている。当時はここまで潮騒の音が聞こえたのでしょうか。現在は、海岸線まで1キロ以上ありますが。
ここからさらに南に100mほど行けば堺が生んだもう一人の偉人・千利休の屋敷跡があるが、今回は堺の名所巡りではないので別の機会に。

1時8分、与謝野晶子生家跡を踏み越えてやって来たチンチン電車に乗って帰ります。

詳しくはホームページ
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竹内街道ひとり歩き (その 5)

2014年10月02日 | 街道歩き

 野中寺(やちゅうじ)  



竹内街道から北に100mほど外れるが、府道31号線に面して野中寺が建っている。

聖徳太子建立48寺院の一つとされ、「上之太子」叡福寺(太子町)、「下之太子」勝軍寺(八尾市)とともに「河内三太子」の一つで、「中之太子」と呼ばれ有名です。寺の伝承では、蘇我・物部の戦いで蘇我側につき参戦していた厩戸皇子(後の聖徳太子)が、休息をとったこの地に、その後太子が蘇我馬子に命じて建立させたとされている。ちなみに勝軍寺は決戦の行われた場所、叡福寺は太子が眠っている場所です。
寺伝の蘇我馬子創建説に対して、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説が有力になっている。中世以降に盛んになる太子信仰のなかで、聖徳太子と結びつけられるようになったのではないかといわれている。
 
朱塗り鮮やかな山門をくぐると、境内が広がる。飛鳥時代~奈良時代前半には、現在よりは大規模な伽藍が存在したようだ。南から南大門、中門があり、それに続いて西側に塔、東側に金堂が並び、正面北側に本堂・講堂を配置するという法隆寺式伽藍配置だったようです。ただし法隆寺と違い塔と金堂が向かいあっており「野中寺式伽藍配置」とも呼ばれ、国の史跡に指定されている。その後、戦火などにより多くを失い、創建当時の広い伽藍も、現在は境内参道の右手に金堂跡、左手に塔跡の礎石が残されているのみ。
境内の正面には本堂が佇む。この本堂の位置は、創建当時の旧講堂が建っていた場所だそうです。本堂はそれほど大きくないが、桁行五間、本瓦葺の落ち着いた構え。本堂正面には幔幕が張られ、人だかりがしている。聞けば、15分後の4時から餅まきが行われるそうです。グッドタイミングで訪れたものです。それまで境内を散策することに。

境内奥に、広い野中寺霊園がある。この霊園の中には,心中事件で歌舞伎・浄瑠璃にもなった「お染久松」のお墓があります。墓名石が立っていなければ分からないほどの、慎ましやかなお墓です。それでも墓参する人が絶えないせいか、新しいお花がたくさん供されていた。

豪商油屋の一人娘お染と丁稚久松が道ならぬ恋のはてに心中するという悲しい物語は歌舞伎・文楽浄瑠璃で演じ続けられ、お馴染みです。お染の父親天王寺屋権右衛門が十三回忌にあたる、享保7年(1722年)に二人のために建てたお墓。古色蒼然とした墓碑の表面には戒名「宗味信武士 妙法信女」が、裏面には「享保七年十月七日 俗名 お染 久松 大坂東掘 天王寺屋権右衛門」と刻まれている。なお、お染久松の供養塚は野崎観音(慈眼寺、大阪府大東市野崎2丁目)にもあります。
一通り境内を散策し、餅まきが始まる時刻なので本堂前に戻る。かなりの人が集まっているが、四時だというのに始まらない。地元風のおじさんに尋ねると「例年に比べ人の集まりが悪いので様子を見てるんでしょう」とのこと。ビニール袋を片手に、ご近所の人が集まってくる。四時十五分、いよいよ開始。壇上から一斉に、白紙に包まれた餅が投げ上げられる。うわ~という歓声とともに、背伸びして空を飛ぶ餅をキャッチしようとする人、ひたする地面を拾いまくる人など、騒然としてきた。私は冷ややかな目線で、この争奪戦の様子を写真に撮ること専念。横の「ヒチンジョ池西古墳の石棺」の台上で眺めていたが、やがて冷ややかではいられなくなった。ヨッし俺もと争奪戦の中へ参戦していった。飛んでくる餅を、誰よりも早くキャッチしようとジャンプするが、空をつかむばかり。それではと地面の拾いに専念する。ヨッし取れたと思ったら、横から素早く手が伸びかっさらわれる。地元の方は慣れているせいか素早く、まるでカルタ取りダッシュで引ったくり、ビニール袋の中に放り込んでいく。それでも辛うじて四個拾いカバンの中へ入れました。
例年は、取り合いが激しいので男女を分けて行っていたそうです。今回は集まりが少ないので、まとめてやったんでしょう。この餅まきって一体何の行事なんでしょう?。帰宅後ネットで調べたがよく分からない。聖徳太子のお墓がある叡福寺では、毎月11日にお太子さま月並法要が行われるという。これと関係あるんでしょうか?。

 羽曳野市西部から松原市へ  


野中寺を出て、羽曳野市西部を松原市目指して歩く。この辺りの街道沿いには古跡は無く、ただ住宅地が続く。竹内街道の面影は全くありません。高い金網フェンスが廻らされた「落ケ池」の横を進み、下町の込み入った市街路を歩く。ウォーカーが好んで歩くような場所ではない。学童もかわいそうです。しかしこれも竹内街道の一部なのです。

東除川に架かる伊勢橋を渡ると、10分ほどで「羽曳野市立 丹比コミュニティセンター丹治はやプラザ」です。地域の憩いと交流のための施設で、傍にはものものしく「官道第一号竹内街道」の真新しい道標が建つ。どこもかしこも世界遺産登録ブームのようです。大阪府と関係自治体は世界文化遺産登録をめざした運動を進めたが、平成25年8月に開催された国の文化審議会世界文化遺産特別委員会では推薦は見送られた。当然である。宮内庁の頑な態度により、内部が解明されていない遺産が、世界遺産に登録されるはずがない。「古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります」(堺市の公式HP)、「古墳は、日本史上において重要であるだけでなく、人類の歴史や社会を考える上でも極めて高い意義をもつ歴史遺産であり」(大阪府HP)。世界文化遺産登録よりもまず、内部の発掘調査により日本の歴史の1ページを解明し、高い意義をもつ歴史遺産にしてほしいものだ。

新ケ池を過ぎると、下町の工場地帯に突入する。今にも作業車が横から出てきそうです。できることなら避けて通りたい地域。工場地帯を抜けると今度は交通量の激しい府道31号線が待ち構え、その先では関西産業の大動脈である幹線道路「近畿自動車道」を越えなければならない。越えた先が松原市になる。この辺りは竹内街道で最悪の場所です。街道でなくてもよいから、迂回路でもあれば避けて通りたいが、それも無いようです。

近畿自動車道を抜けると、ようやく工場と車から解放され、住宅路になる。所々に、あの太子町でよく見かけた「竹内街道」と書かれた花壇が置かれている。しかしあの太子町ほどの熱意は感じられず、街道の雰囲気は無い。
しばらく行くと松原南図書館に出会う。その前が十字路になっており、古い石の道標が置かれている。

  右 ひらの 大坂 道
  左 さやま 三日市 かうや 道
 (逆の面には)
  左 さかい道
  寛政九年丁巳五月 いせこう中

傍の説明版には
「竹内街道・中高野街道の寛政九年道標
岡四丁目の現在地は、江戸時代、丹北郡松原村岡で、堺と大和とを結ぶ竹内街道と、京・大坂から狭山を経て高野山(和歌山県)へ向かう中高野街道(なかこうやかいどう)の分岐する所でした」とある。

 金岡神社(かなおかじんじゃ)  


松原市の岡公園を過ぎるとすぐ西除川に架かる西除橋に出会う。橋を渡るといよいよ最後の堺市です。
町工場や住宅が混在する堺の下町を歩く。この辺り、竹内街道を知らせる道標も案内図も何もありません。頼るのは手持ちの地図とカンだけ。時々、この道でいいのかナ?、と不安になります。時刻も五時半になり、夕陽もさしてくる。
目印の金岡中央病院を過ぎると、大阪府営の広大な大泉緑地が見えてきた。地図をみるとデッカイが、緑地沿いの道を歩けばそれ以上に大きく感じる。歩けど歩けど端にたどり着けない。次の目的地・金岡神社を目指すが、どっちの方向か判らなくなってきた。犬と散歩中の人に尋ねると、方向違いへ歩いていた。緑地沿いの道を直進していたと思っていたが、実際は緩やかなカーブを描いた曲線の道を歩いていたのです。あまりに広大な緑地なので、曲線を直進と錯覚していた。西へ行くところを、北へ向かっていたのです。金岡神社の方向を教えてもらい方向転換。竹内街道から大きく外れてしまった。

六時過ぎ、回り道をしてようやく金岡神社にたどり着く。街道ひとり歩きもここまでです。

案内板より
「当社の起源は、仁和年間(885年頃)と伝えられ、住吉三神、素戔鳴命、大山昨命などの神々に加え、平安時代前期の絵師・巨瀬金岡(こせのかなおか)をお祀りしています。社名の由来でもある巨瀬金岡は、日本画の祖とも言われ、唐風の絵画が主流だった当時に、日本独自の絵(やまと絵)の基礎を築いたとされる人物です。この辺りは、優れた絵や彩色などの技術を持つ河内絵師と呼ばれる人々が住んでおり、金岡はその中でも最高の位を極めました」とある。
この地域は、町名も駅名にも”金岡”が付く。そこにある神社なので「金岡神社」だと思っていた。どうもそうではなく、神社名も地名も平安時代の絵師の名前からきているようです。

両側に狛犬がにらむ紅い鳥居をくぐると、広くはない境内の正面に拝殿が控える。拝殿前左右には、樹齢900年と推定される御神木の楠の巨木が覆い、神社の風格をさらに増している。左側の楠は、高さ18m、幹周り6.1mもあり、堺市指定保存樹木に指定されている。

金岡神社の南側に、カラー舗装され整備された竹内街道が見えました。私は道を間違え、北側を大回りして神社へたどり着いたので、結局大泉緑地から金岡神社までは竹内街道を外れたことになる。距離にして3~4百mだが、歩き直す元気もありません。
この金岡の地は古来重要な地域だったようです。難波宮や四天王寺から真っ直ぐ南下する「難波大道」が、ここで竹内街道と交差し、東へ行けば大和から伊勢へ、さらに南下すれば高野山、紀伊方面へ行けます。

陽も翳ってきた。竹内街道を完歩できなかったが、金岡神社まで歩いたことに満足して、地下鉄御堂筋線の「なかもず駅」へ向う。その途中、またデッカイ楠の巨木に出会う。マンションや建売住宅と幹線道路との間の狭い一角で、「楠塚公園」と表示されている。
帰宅後調べると、この場所は「金岡神社御旅所(おたびしょ)」だったようです。正式名は楠の巨木の傍の石碑に刻まれている「金岡神社 頓宮・西之宮」。頓宮とは、お祭の時、ご神体を乗せた御輿で氏子の家々を廻る時に、一時的に休憩する場所をさす。金岡神社の西にある宮で、ご神体さまが御旅の途中にちょっと休息する所、という意味。

楠の木は、高さ18m、幹周り6.1mで、金岡神社のものと同じくらいの巨大さ。根元は竹柵で囲われている。これは昭和47年(1972)に火災に遭い、大きな空洞が出来たため、それを隠すためらしい。
なかもず駅に着いたのは18時40分でした。

詳しくはホームページ
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竹内街道ひとり歩き (その 4)

2014年09月07日 | 街道歩き

太子町の竹内街道周辺は「王陵の谷」と呼ばれ、見るべき多くの古跡が残されている。叡福寺,聖徳皇太子の墓,小野妹子の墓,そして推古・用明・孝徳・敏達の各天皇陵などです。
詳しくはホームページを見ていただくとして、省略します。

 羽曳野市駒ケ谷周辺  


「春日西」交差点を過ぎると,”美しすぎる”竹内街道は終わり,並みの車道に様変わり。「羽曳野市」の標識が現れ,やや行くと近鉄・南大阪線の踏み切りと上ノ太子駅が見える。上ノ太子駅は太子町でなく羽曳野市に入るようだ。

踏み切りを渡ったら,ズーっと古市駅まで近鉄線に沿ってその右側(北側)を歩くことになる。上ノ太子駅裏辺りには古い民家が密集し落ち着いた雰囲気がある。すぐ山側に入ると飛鳥戸神社があり,この一帯はかって渡来人が住み,その王を祀った神社のようです。
住宅街を抜けると,白いシートに覆われた農場が丘陵の上のほうまで広がっている。この辺りはブドウの産地で有名で,上ノ太子駅から駒ヶ谷駅にかけての沿線にはブドウ畑が広がっている。明治初期に駒ケ谷の農家が山梨県から甲州ぶどうを持ち帰り、ぶどう栽培したのが始まりのようです。ここのぶどうを使用した河内ワインも有名。梅酒で有名な「チョーヤ梅酒株式会社」は和歌山県にあるのかと思っていたが,ここ羽曳野市駒ヶ谷が発祥地で,元はぶどう酒を造っていたようです。現在も本社があります。
山の斜面に白いシートが陽光を反射し,見渡す限りの雪景色のようでもある。
 
白漆喰の壁が残る駒ケ谷の集落の中を杜本神社を探して歩き回る。竹内街道を外れた集落の中なので分かりにくかったが、やっと入り口の標識を見つける。背後に小高い丘が見えるのであの中らしい。

階段を登ると竹薮に挟まれた参道が続き,やがて社殿が現れる。元の社殿は織田信長によって焼かれてしまったので,江戸時代高津神社の古い社殿を譲り受けたものという。境内はそれほど広くはない。現在は駒ケ谷の氏神様です。
杜本神社から南へ進み,飛鳥川に架かる逢坂橋を渡った正面には近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅が見えます。この辺りから広い国道となり交通量も多くなる。
「駒ケ谷」の名前の由来として聖徳太子伝説が伝えられている。推古天皇の時代,聖徳太子は愛馬黒駒に乗って各地を周られた。この地にも立ち寄られ,そのとき黒駒をつなぎ止めた場所がある。「そのあたりでは、今も馬の蹄の跡がある不思議な石が出る。それは硯にすることもできる、青く硬い石で割るとしだいに蹄の跡が現れる。それゆえ、ここを駒ケ谷と呼ぶようになった」と案内板に書かれている。

橋近くの国道横に公園風の休憩所が設けられている。道しるべと「緑の一里塚」が設けられ,ここが旧街道であることを知ら示している。

 石川を渡り古市へ  


駒ケ谷の集落を抜け竹内街道を西に進む。街道といっても国道166号線なので,車の行き来が多く,ウォーキングの爽快さなどあったものではない。やがて大きな石川が目の前に現れる。川幅は広いが水量は少ないので,ほとんどが河川敷だ。
大きな橋が架かっている。「臥龍橋」とあり,これも竹内街道の一部となっている。交通量は多いが,幅広の歩道が設けられているので安心して渡れる。臥龍橋の周辺は「石川スポーツ公園」と呼ばれ,グラウンド風に整地され,ママさんたちの見守るなかで少年たちが野球やサッカーなどに興じていた。
石川を渡ると古市の市街地に入る。竹内街道沿いのこの周辺には、西琳寺(さいりんじ)、長円寺(ちょうえんじ)、西念寺(さいねんじ)、白鳥神社(しらとりじんじゃ)など古刹が多い。
この辺りは律令時代に『河内国古市郡』と名付けられ、「古市村」と呼ばれていた。”市”と呼ばれることからわかるように,竹内街道が東高野街道や石川と交差し,水陸あわせた交通の要衝として栄え大いに賑わった。
またこの周辺には,日本を代表する古墳群が広がる。「古市古墳群」と呼ばれ,日本で二番目の墳丘長を誇る応神天皇陵(誉田御廟山古墳)を筆頭に、墳丘長200mを超える巨大な前方後円墳が6基、100m以上の大古墳が9基をはじめ,総計120を超える古墳が集中している。四世紀後半から六世紀中頃にかけて造営されたと推定され,この地域に倭国を統一支配した「河内王朝」が存在したという説もある。
近鉄・古市駅横の踏切を渡り、羽曳野市の中心街に入る。この辺り、国道が交差し交通量も多い。竹内街道ってどこだろう?、ややこしい難所です。

国道166と国道170が交差する車の往来の激しい白鳥交差点に出る。はて,どっちへ行ったものか?。どこが竹内街道なのか,かいもく見当がつかない。やっと、国道の反対側に「日本武尊白鳥陵」の標識を見つける。そこを入っていくと綺麗に舗装された道があり、やがて鉄柵と満々と水を貯えた堀が見え,陵墓の厳かな森が姿を現した。記紀に記された白鳥伝説に基づいて、宮内庁が第12代景行天皇皇子の日本武尊の陵墓に治定し管理している日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)古墳(前の山古墳)です。

★日本武尊白鳥伝説
記・紀の日本武尊白鳥伝説によれば,日本武尊は天皇の命令で東国征伐に出かけた。その帰り道,伊勢の国の能褒野(のぼの-亀山市)で病に倒れ,「やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる やまとうるわし」と最期の歌を詠み亡くなった。天皇はその死を悼み、能褒野の陵に埋葬させた。
みなが嘆き悲しんでいると、陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり、大和の方へ飛んでいったといいます。そして大和の琴弾原(ことひきのはら,御所市)に舞い降りた後、そこから河内のこの旧市邑(ふるいちのむら)に飛来したといわれています。そして、ここからさらに白鳥は西をめざして丘の上を羽を曳くように飛び去った。そこから「羽曳野」の名称が生まれたとか。また白鳥の羽は羽曳野市の市章になっている。

能褒野,琴弾原,古市それぞれに墓が造られ,「白鳥三陵」と呼ばれている。

日本武尊白鳥陵から西に向かって歩く。国道170号線と交わる「軽里北」交差点をすぎ、縦横に走る交通量の多い市街路となる。この周辺もややこしい所。少し先に古墳風の森が見える。長い歩道橋を渡り終えると、そこが峯ヶ塚古墳です。この古墳を含む周辺一帯は「峰塚公園」として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの二段築造の前方後円墳。1992年(平成4年)の発掘調査で、頂上部から2m下で竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘抗から、大刀・鉄鏃などの武器、馬具、装身具、玉類など豪華な副葬品が大量に出土した。藤ノ木古墳に匹敵する豪華副葬品であることから、大王墓級の墳墓である可能性が高いとされる。


詳しくはホームページ
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竹内街道ひとり歩き (その 3)

2014年08月27日 | 街道歩き

 二上山登山口と鹿谷寺跡  



竹内峠を過ぎ、国道166号線を車に注意しながら下っていくと「二上山登山口」の道路標識が見えてくる。車道から少し入った所に登山口があった。
ここ「二上山登山口」はマイカー用の登山口です。近くに広い駐車場があり、喫茶や軽食もできる建物もあります。調べると「二上山登山口」はその昔、河内方面から二上山の岩屋峠を超え當麻寺へお参りする近道だったようです。そのためか案内標識や石仏があり、他の登山口よりしっかりしたものになっている。
私は二年前(2014)の九月、近鉄南大阪線の二上神社口駅から二上山に登ったのですが、當麻寺へ下山するはずが、どこでどう道を間違えたのか竹内街道側へ下山しそうになった。途中で気づき引き返したのですが、もし竹内街道側へ降りていたら、ひどい目に会っていた。帰る交通手段が無いのです。バスも、タクシーも見かけず、太子町の近鉄の駅までかなりの距離を歩かなければならなかった。
私が登った時は、雌岳の頂上はかなりの家族連れで賑わっていました。標高500m位の手ごろな高さで、大阪平野を見渡せる羨望もよい。大阪からも近く、休日のハイキングには生駒山とともに丁度良いのかもしれない。
登山口を少しばかり登ると国史跡「鹿谷寺跡(ろくたんじあと)」があるので、寄ってみることにした。丸太で区切られた階段状の坂道を登っていくと、岩がむき出しになり歩きにくい道になってくる。そして平坦な場所に出る。ここが鹿谷寺跡らしい。中国には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が残されているが、ここはそれを模して山尾根の一部を削り開き寺院建設をもくろんだものと思われる。

柵に囲われた十三重の石塔が建っている。高さ5.7mで、岩盤を削り取り十三重塔に造り上げたらしく、地盤と一体となっている。近くには、岩窟内に岩壁を削り、三尊仏坐像をを彫り込んだ跡も残されている。奈良時代の建造とされ、この周辺からは日本最古の貨幣といわれる和同開珎も出土しているそうです。日本では他に例をみない貴重な石窟寺院跡として、1948年(昭和23)に国の史跡に指定されている。

 太子町へ  


再び国道166号線に戻り、うっとうしい車を気にしながらただひたすら太子町の町並みを目指して下っていく。ガードレールで守られた専用歩道が現れる。人ひとりやっと通れるぐらいの狭さだが、安心して歩けます。やがて五人くらい並んで歩ける幅になる。こんな所に、これほど整備された広い歩道なんて無駄ではないだろうかと、ご疑問が湧くが、歩くものにとっては大変助かります。俺以外誰も歩いていない。太子町からハイキングで二上山目指したり、峠越えする人がどれだけいるんだろうか?。
山間を抜け、前方に大阪平野が開けてくる。飛鳥川に架かる「風鼻橋」というカゼを引きそうな名前の小橋を渡るとすぐ「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」です。大阪では二番目にできた道の駅とか。品揃えではコンビニには適わないが、地元で獲れた野菜や果物、特産品などが並べられている。

風鼻橋手前の右手にこぢんまりとした雑木林があり、その中に遊歩道のような道がある。ここが太子町の綺麗に整備された歴史歩道「竹内街道」の出発地点らしい。目立った案内標識が無いので気づかないままだったら、あのうっとおしい国道166号線を歩くところだった。
「道に駅」裏から太子町の整備された竹内街道に入っていきます。
石の道標や古い民家が並び、旧街道の雰囲気を漂わす。「大道町」の町名も見られ、古道をしのばせてくれます。日本書紀に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された日本最古の官道だからです。ここから同じ太子町の「春日西」交差点まで2キロほどがよく整備された「竹内街道」です。平成7年(1995)、「春日西」から葛城市當麻町の長尾神社までの約7.4kmの区間が、国によって歴史国道に選定された。その関係か、太子町内の「竹内街道」は”綺麗過ぎる”ほどよく整備されている。街道筋にはノボリが立てられ、花壇が並び、「竹内街道」と書かれた短冊が家々の塀、扉、植込みなどに吊るされ、風に揺らめく。歩きやすいように舗装された路面にはゴミひとつ落っこちていない。太子町の竹内街道を歩いていると、街道沿線自治体と住民の方々の”街おこし”へかける気概が痛いほど伝わってきます。古道にしては”美しすぎる”ような気がしますが・・・。
「道に駅」から5分ほど歩けば、街道から右に少し入ったところに太子町立竹内街道歴史資料館がある。
平成元年からのふるさとづくり事業の一環として竹内街道の整備とともに建設された建物で、平成5年3月3日にオープンしたもの(開館時間:9:30~17:00/休館日:毎週月・火曜日、祝日の翌日/入館料:一般は200円、高大学生は100円)。入ってみると、ひっそりとしていてあまり訪れる人もいないようです。歴史資料があまりに太子町内のものに偏り、竹内街道の全体像が浮かんでこない。太子町立なので仕方がないのでしょうか。お金をかけた立派な施設なのに、もったいない気がします。
私が印象に残ったものは、前庭に展示されているサヌカイト石と、館内に展示されていた聖徳太子御廟の石室模型。横穴式石室には3基の棺が安置されていたという。中央奥の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、手前左に膳部大郎女(妻)、右が太子と推定される棺。この三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にされたという。しかし近世まで誰でも中に入れたことから、太子信仰の高まりとともに後世に母と后の棺を追加し、無理やり「三骨一廟」としたのだ、という見解もあるが・・・。
明治12年(1889年)宮内庁の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまった。それ以後、内部を見ることができない。見られてはマズイい何かが・・・、とも勘ぐりたくもなる。

 「竹内街道・横大路ウォーキングマップ」  



しかし歴史資料館での最大の収穫は「竹内街道・横大路ウォーキングマップ」が入手できたことです。竹内街道・横大路の全コースがA4版14ページにわたり連続して載っている冊子です。館内を探しても見つかりません。案内の方に申し込めば奥から出してくれる。無料ですが、有料でも持参しておく価値がある。こんな有意義なパンフをどうして誰でも手にすることのできる位置に置いておかないのでしょうか?,不思議です。カンぐれば太子町立の館内に他自治体の紹介までしたくない,ということでしょうか。ちなみにこの冊子の発行主体は「竹内街道・横大路 1400年活性化実行委員会」で,構成団体は大阪市・堺市・松原市・羽曳野市・太子町・葛城市・大和高田市・橿原市・桜井市・明日香村となっている。


詳しくはホームページ
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竹内街道ひとり歩き (その 2)

2014年08月22日 | 街道歩き

 旧街道  



車を気にしながら国道を四、五百メートル歩くと、左手前方にフェンスが巡らされた「上池」という池があり、その横が分岐点になっている。併走しているので国道を歩いても同じだが、左側の山道に入っていく(8時35分)。これが本来の旧街道・竹内街道なのでしょう。これでうっとうしい車ともお別れだ。




旧道といっても路面は広く舗装され平坦なので、山道を歩くという感じはしない。周辺は雑木林や杉林に囲まれ、直ぐ横を小川が流れ気持ちよく歩けます。小川のせせらぎと、山間から盛んに聞こえる「ホー、ホケキョー」の鳴き声が清々しい。私以外誰一人見かけない。好天気の日曜日なのだが、竹内街道といえこんな所まで踏み込むハイカーはいないようです。近くを国道が平行して走っているので、時々車の音が聞こえてくる。




正面に階段とトンネルが見えてきた。標識を見ると、どちらも行き先は同じようです。左の階段を登れば近道のようだが、右側のトンネルをくぐりスロープを進んでみた。





短いスロープを抜けると、再び国道166号に出会う。この国道を横切った正面に小さな公園があり、一休みできるようになっている。花が植えられ、休息するベンチも用意されている。山越えするハイカーにとって丁度良い休憩場所になるようです。ただしトイレはありません。
公園の奥に細い道があり、右下の国道を歩かなくてもよいようになっている。ここは竹内街道を残し、右側を掘り下げて国道を建設したらしい。ところでこの公園が竹内峠なのだろうか?。なんかよく分からない、周辺図面でも掲げてほしいものだ、奈良県様!、大阪府様かナ?。

 竹内峠  


右下に国道を見下ろしながら少し進むと、道の傍らに三つの碑が並んでいる。手前の石碑には「鶯の関跡」とあり、
”我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関”
の歌が刻まれている。判読しづらいその文章内に「ここ竹内峠ほど歴史の余韻が漂う峠は少ない・・・」と書かれているので、ここが竹内峠らしい。古くは「鶯の関」とも呼ばれ、昔からウグイスの名所だったという。文によればこの峠を、古代には大陸の文物が、中世では大和武士たちが、近世では伊勢・長谷参詣の旅人が、そして松尾芭蕉が、吉田松陰が、天誅組が越えていったという。

真ん中の石柱には「従是東 奈良県管轄」とあるので、大阪府と奈良県の境のようだ。よってここで奈良県葛城市から大阪府の太子町に入ることになる。三番目の碑は全く判読できません。しかしこの後訪れた竹内街道歴史資料館に説明図があり、明治19年に建てられた「竹内嶺開鑿碑」のようです。「明治十年から十五年にかけて峠道は拡幅改修され昭和五十年県道から国道一六六号線に昇格・・・」とある。
竹内峠は二上山南麓にあり、標高289m。国道を跨いだ右側が二上山で、この峠を挟んで南側は平石峠、岩橋山を経て大和葛城山がそびえる。ここ竹内峠はこれらの山々を縦断する「ダイヤモンドトレイル」コースと交差する場所でもあります。


正面の道を下っていくと、旧道は消え、また国道166号線と合流する。「左 大和国 右 河内国」の新しい街道標識が建つ。ここから太子町の「道の駅」まで1キロ半ほどは、車の往来の激しい車道の路側帯を歩かされることになる(9時20分)。



詳しくはホームページ
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竹内街道ひとり歩き(その1)

2014年08月11日 | 街道歩き

 長尾神社から出発  


三月に太子町内の竹内街道を歩いたが、いつか全道を制覇したいと考えていた。日頃も良いので決行。通常は、大阪府堺市をスタートし、山越えから奈良県の葛城市を目指すのだが、逆コースをとることにした。全約30km、街道筋の名所旧跡を巡りながらだから体力的に、時間的にどこまで歩けるか見通しがたたない。堺市内よりは奈良県側を確実に歩きたい。堺市内は行ける所まででイイや、という理由で奈良県側の出発地・長尾神社より歩き始める。竹内街道の西の終点は紀州街道と交わる堺市大小路だが、さてどこまで行けるか・・・・。7時30分、ここ長尾神社をスタート、ひたすら西へ向かって歩きます。

近鉄南大阪線・磐城駅を出て少し南へ歩くと、住宅街の中に森が見える。ここが竹内街道の東の基点になる長尾神社です。
長尾神社の森の北側から西方の二上山へ向かって、綺麗に整備された道が伸びている。ここが竹内街道の東の基点になる。平成7年(1995)、ここ長尾神社から大阪府太子町の春日までの約7.4kmの区間が、国によって「竹内街道竹内峠」として歴史国道に選定された。この区間には「竹内街道」を示すノボリがはためき、道標が立てられている。

この辺りは、古き時代には竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝でした。大和盆地を横切る古代の大道「横大路」の西の基点。そしてここからさらに西へ竹内街道が伸び、海への出口難波津(大阪)へ続いている。長尾街道は、この交差点から南に行けば壺坂から吉野へ、逆方向の北へ行けば下田・王子を経て堺に通じている。交通の要衝であることから、長尾神社はこの街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様としても信仰されてきた。


長尾神社から真っ直ぐ西へ、二上山に向かって街道が伸びている。道幅も広く綺麗に舗装整備され、旧街道という風情は感じられない。新興住宅と田園の入り混じったのどかな散歩道です。すがすがしい気分でスタートしました。

正面には二上山が、左に眼を向けると葛城・金剛の山々が連なっている。ここ大和盆地からあの山々の峠を越え、河内の国へ一人歩き。どこまで歩けるか?


 竹内集落へ  


緩やかな坂道を進んでゆくと、古風な民家が建ち並ぶ筋になる。この辺りが竹内集落でしょうか。かって伊勢詣で、長谷寺詣での街道筋として賑わい、茶屋・旅籠が軒を連ねていたという。
ここ竹内に母の実家があったという司馬遼太郎(1923~96)が幼少年期を過ごした所。名著『街道をゆく』は、その頃の幼児体験がもたらしたものでしょうか。「竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである」と書いています。

竹内集落の街道筋に「綿弓塚」と看板のかかった旧家風の家がある。造り酒屋だった旧家を改造した民家は資料館兼休憩所になっている。資料といっても、竹内集落の旧家の写真や説明、周辺の遺跡の紹介、そして芭蕉の説明など。それほど多くない。それより、歩き疲れた体を休めるのに丁度良い休憩所になっている。囲炉裏風のテーブル脇には木製の腰掛がおかれ、もちろんトイレもあります。時間に関係なく常に開放されているらしく、戸も無くオープンな施設のようです。係員もおらず、もちろん無料で出入りできます。
この休憩所の奥に広くない庭園があり、芭蕉の句碑が建てられている。松尾芭蕉がここ竹内に10日ほど滞在し、その時よんだ句が「野ざらし紀行」に収められている。
  ”綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥”
芭蕉没後150年を経た文化6年(1809)、大和高田の俳人・西嶋紅園と脇屋愚口が、この句を記念して句碑を建てたものが「綿弓塚」として現在に残っている。
「綿弓」って何だろう?。ネットで調べると「繰り綿(=種をとっただけで精製していない綿)をはじき打って打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦として古くは牛の筋、のちには鯨の筋を張ったもの。弦をはじいて綿を打ち、不純物を除いた柔らかな打ち綿にするためのもの。唐弓(とうゆみ)。わたうちゆみ。」とあるが、ピンとこない。昔、農家で綿から糸にする作業で必要な道具なんでしょう。

芭蕉がひっそりとした竹林の奥に宿っている時、どこからともなく綿弓を弾く音が聞こえてくる。それが琵琶の音のようで、慰められたというのでしょう。
できることならば、休憩所の民家でその雰囲気を作り出して欲しい・・・。

綿弓塚を出、古い家並みの続く坂道を200mほどゆくと国道166号線に出会います。この国道166号線も竹内街道の一部です。この国道166号線が、竹内街道と併走し、あるいは街道をつぶして合体して建設され、大阪まで続いている。これが我が国最古の官道とされる「竹内街道」を解りづらくややこしくし、歩きにくくしている原因なのです。しかし車社会の現代で、古い街道筋をそのまま残すなんてできっこなかったのでしょう。ここからはしばらくアスファルト道を、車に注意しながらひたすら西へ向かって歩きます。


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