山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

竹内街道ひとり歩き (その 6)

2014年10月12日 | 街道歩き

 堺市(長曽根町・黒土町)  


5/11(日)に葛城市長尾神社から歩き始めて、堺市金岡神社までたどり着いた。夕方六時を過ぎており、時間的にも体力的にも限界でした。しかし竹内街道は大小路交差点までとされている。心残りだったので、日を改め9月7日(日)、残りの部分を歩くことに。地下鉄御堂筋線「なかもづ駅」を出て、前回の終了地点・御旅所近くまで来た。朝9時半です。

金岡神社御旅所前の広い通りから西側に入る道は何本かある。さてどの入口から西に向かっていいものやら。竹内街道の入口を探しウロウロするが、見つからない。周辺の喫茶店、ガソリンスタンドで尋ねるが知らない様子。かなりご年配のお婆さんがやってきたので尋ねると、「そこの道よ、竹内公園がすぐ出てくるワ」と教えてくれた。「SEKISUI HOUSE」の看板のある白い建物の角を西に入る。道標も案内も何もなければ、街道らしき雰囲気もない。「竹内街道1400年プロジェクト」と何なんでしょうか?。10時をまわっていました。
入口から200mほど行けば「長曽根竹之内公園」があった。「歴史の道」という案内板がおかれ、竹内街道が紹介されている。周辺は新興住宅街で、一軒家が建ち並ぶ。この道が竹内街道だと知らないで暮らしている人も多いのではないでしょうか。日曜日だというのに、街道ウォーカーもいなけれだ、散歩する人も見かけない。カメラを持って歩いている俺が異様に感じられてしまう。


地図を見れば、街道から北に少し外れた住宅地の中に長曽根神社があります。ここは長曽根町なので、町内の氏神を祀っているのだろうか。立ち寄ってみることに。
神社の詳しい由来などは不明ですが、明治末に神社合祀策により金岡神社に合祀されたが、戦後に地元に戻されたそうです。社務所はなく、地域の人達が管理しており、そういう意味でこれが本当の「氏神」さんでしょう。

この神社の境内にも何本かの楠の巨木が覆いかぶさっている。鳥居を入って左側の楠の木には「堺市保存樹木指定、樹高25m、幹周り4.12m」の石柱が建つ。

 堺市(向陵町)  


黒土町から向陵町に入る。住宅地の狭い車道を歩く。ほとんど車も人も見かけない。街道の雰囲気などないが、のんびり歩ける。やがて正面にマンションらしきビルが立ち塞がる。左側の道を覗けば「35号線、向陵東町」の道路標識が見え、車の往来が激しく、歩けるような道ではない。右側は35号線の裏通りっぽく、車も通っていない狭い一般道。頼るはカンのみ、こちらを選ぶ。こういう場所にこそ案内標識を設置して欲しいものです。

この道でいいのかナ?、と疑心暗鬼で歩いていると、やがて正面に広い大通りが見えてきた。「大坂中央環状線」です。竹内街道はここで大通りに合流し、合流地点には「竹内街道」の道標識と案内板が設置されている。

向陵中町の広い横断歩道を渡り、中央環状線沿いに進むと「ほそいけばし」と刻まれた橋が現れる。橋下を覗き込むと、電車が見える。そこはJR阪和線の「三国ヶ丘駅」でした。次の目的地・堺市役所目指して中央環状線沿いを歩く。交通量の多い騒々しい幹線道路だが、広く整備された歩道が設けられているので、歩きやすい。

やがて中央環状線は広い向陵西町交差点にでる。道路が縦横に枝分かれしているので”どっちへ行ったらええネン!”と困惑する。手持ちのマップも茫漠とした書き方なので、ハッキリしない。右斜め前方に堺市役所の高いビルが見える。あっちの方向へ行けば間違いないだろうと、広い横断歩道を横切ると、交差する道路の間に整備された遊歩道のような道が見える。その入口に「歴史のみち 竹内街道」の標識が設けられていました。道の奥には堺市役所が手招きしている。なお、この交差点のすぐ南側には、日本一の大きさを誇る前方後円墳「仁徳天皇稜」があるが、ビルに遮られて見えなかった。

 堺市(榎元町)  


竹内街道入口から榎元町の横筋に入れば、やっと大通りから解放され、街道らしくなってきた。太子町ほどではないが、カラー舗装され標識も設置されている。一本道なので迷うこともない。迷ったら堺市役所の高いビルを目指して歩くだけ。

天平15年(743)聖武天皇発願で行基によって創建されたと伝えられる向泉寺の史跡「向泉寺閼伽井跡」を過ぎると、竹内街道と西高野街道の分岐点で、道標が建てられている。写真は振り返って撮ったもの。左が今歩いてきた竹内街道、右が西高野街道で高野山へ向かっている。二つの街道を写真を見比べると、自治体の力の入れようが歴然としている。やはり「1400年プロジェクト」ですネ。

角に置かれた説明版には「西高野街道は堺から紀州の霊場・高野山に向かう信仰の道です。高野詣でが盛んだった平安末期から鎌倉初期にかけては船で堺に上陸した西国の人たちで賑わい、物資輸送にも盛んに利用されました。基点は堺の大小路で、河内長野で中、東の両高野街道と合流します」とある。また近くには地蔵堂があり、その横に「高野山女人堂十三」と刻まれた石柱が建っている。女人堂まで十三里を表します。
ここから西の大小路までは竹内街道も西高野街道も同じ道のようです。この辺り、高野山へ向かう人、長谷寺・伊勢詣での人々で賑わったのでしょうね。

 堺市役所から大小路へ  



竹内街道の目印の一つ「榎宝篋印塔(えのきのほうきょういんとう)」を過ぎ、数分歩くと堺市役所と手前の踏切が現れる。堺市内で街道らしく整備された道は、ここまでです。踏み切りを渡ると南海電車・堺東駅のある堺市一番の繁華街。その駅前にそびえ立つ堺一のノッポビル(と思う・・・)堺市役所がそびえる。

今日は日曜日なので役所はお休みだが、21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。360度パノラマ展望ができます。日本で最大の前方後円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、三番目の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、八番目の土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)を含む「百舌鳥(もず)古墳群」が眼下に一望できる。
ボランティアらしき年配ガイドさんが二人いて、展望しながら案内しておられました。軽い食事や喫茶もあり、休憩するのに格好の場所です。その割りには閑散としていた。



12時10分堺市役所を出て、市役所前の大通りを大小路交差点目指して西へ歩く。街道を意識してか、やたら広い遊歩道が設けられている。「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、毎年10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わう場所です。

大通りから南側(左)に入った所に、住吉大社ともゆかりが深い開口神社(あぐちじんじゃ)があります。すぐ傍なので寄ってみることに。
神社近くの路上には、白法被姿の若者達がたむろしている。聞けば、毎年9月中旬に行われる秋の例祭「八朔祭(はっさくまつり)」の最中らしい。今日は名物「ふとん太鼓」宮出しの最終日らしい。
布団太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺の各神社の祭礼で担がれていた大型の太鼓台。ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれ、厚みが下から上に順に厚く大きくなっている。
元々堺の祭礼は「だんじり」の練り回しが中心だったようですが、明治二十九年のだんじり騒動(道を譲れ!、譲らぬ!のだんじり同士の大喧嘩で死傷者がでる)が原因で、これ以後の堺市での練物曳行は一切禁止となったという。その後、布団太鼓の練り回しとして復活したようです。座布団ならぶつかり合っても危険は少ないからでしょうか?。
「ふとん太鼓」宮出しは午後三時から行われるというが、それまで待っていられない。12時半、開口神社を後にする。
開口神社から大通りに出て、西に少し歩けばそこが大小路の交差点です。広い道路が縦横に交差している。さっきまで堺市役所から歩いてきた道が「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、大小路交差点からさらに西に伸び、南海本線堺駅までつづいている。この道がかっての竹内街道や西高野街道といわれ、ここ大小路交差点が街道の起点とされる。

縦(即ち、南北に)に走る大通りが府道197号線で、「大道筋」とも呼ばれ、かっての「紀州街道」にあたる。幅50mの中央には、大阪で唯一残る路面電車、チンチン電車で親しまれている阪堺電車が走っています。
この大道筋を大小路交差点から南に100mほど行けば、歌集「みだれ髪」などで知られる女流歌人・与謝野晶子(1878~1942年)生家跡がある。生家跡といっても実際の生家は、現在のこの大通りの中央にあったようです。第二次大戦で焼け野原になり、戦後の道路拡張で跡形もなく消え去っている。傍の大道筋沿いに歌碑と案内板が設置されているだけです。紀州街道に面した裕福な老舗菓子屋・駿河屋の三女として誕生し、明治33年(1899)与謝野寛(鉄幹)と出会い結婚し上京する翌年までの23間、ここで過ごしていた。
歌碑には晶子26歳の時の歌
「海恋し潮の遠鳴り数えつつ
   少女となりし父母の家」
と刻まれている。当時はここまで潮騒の音が聞こえたのでしょうか。現在は、海岸線まで1キロ以上ありますが。
ここからさらに南に100mほど行けば堺が生んだもう一人の偉人・千利休の屋敷跡があるが、今回は堺の名所巡りではないので別の機会に。

1時8分、与謝野晶子生家跡を踏み越えてやって来たチンチン電車に乗って帰ります。

詳しくはホームページ


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