山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 6)

2015年09月26日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 ヒシアゲ古墳(第16代仁徳天皇皇后の磐之媛陵)  



市庭古墳(平城天皇陵)から東へ進むと大きな水上池に出会う。水上池の周囲には遊歩道やサイクリングロードなどが整備され、快適なレクレーション・憩いの場となっています。この時期、赤いツツジが咲き並び、出迎えてくれているようです。穏やかな池面越しに美しく眺められる緑の丘は、お墓だとは想像もできない。これから目指すヒシアゲ古墳(磐之媛陵)やコナベ古墳の遠景です。
全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6m、前方部を南向きにした三段築成の前方後円墳で、全国第23位の規模。築造時期は5世紀中葉~後半と思われる。

宮内庁により「平城坂上陵(ならのさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命陵(いわのひめのみことのみささぎ)に治定されている。
磐之媛は、5世紀に活躍した葛城襲津彦の娘で、天皇家との連携を強めるために仁徳天皇に嫁がされた。皇族以外から皇后となった初めての女性です。磐之媛が生んだ子供は、長男が父の跡をついだ第17代履中天皇、三男が第18代反正天皇、四男が第19代允恭天皇となる。三人もの天皇の母というのは他に例をみない。こうして葛城氏は天皇の外戚として権勢をもつようになった。

磐之媛は気性が激しく嫉妬深かった、として知られている。夫・仁徳帝が磐之媛の留守中に別の皇女を宮中に入れたことに激怒し、難波宮に帰らず山城の筒城宮(つづきのみや、現在の京都府京田辺市)に籠もってしまい、それきり夫の元に戻らなかったったという。天皇のいさめも聞き入れずに、その地で余生を送り、仁徳天皇35年夏6月に亡くなった。『日本書紀』に、二年後に奈良山に葬ったと、と記されている。
”奈良山”というだけで、この古墳を磐之媛命陵とするには無理がある。磐之媛命陵に比定されたのは明治に入ってからだが、それまでは若草山の上にある鶯陵が磐之媛命陵とされていたそうです。
それにしても夫・仁徳天皇や、天皇(履中・反正・允恭)となった三人の子供は、河内の堺や藤井寺に陵墓が治定されているのに、磐之媛だけが遠く離れた奈良の佐紀丘陵にひっそりと葬られているとは。夫のいる難波京に戻らなかった仕打ちか、それともこの丘陵なら、磐之媛が生まれ育った故郷・葛城の地がよく見通せるからとの温情からか。

神功皇后(仲哀天皇妃)、日葉酢媛(垂仁天皇妃)、そして磐之媛、夫の陵墓とは遠く離れた佐紀丘陵にそろって眠っているのには、何か意味があるんでしょうか?。

正面遥拝所の前は外濠で、紫色の美しい杜若(カキツバタ)が咲き乱れていました。その外濠に沿って東西に真っ直ぐ伸びる松並木の道が通っています。佐保・佐紀路で一番印象に残る道でした。

 コナベ古墳(小奈辺古墳)  


ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)南側の美しい松並木の道を東に進み、突き当りを南へ歩く。この辺りは民家も少なく緑に覆われ、癒しの空間になっている。この周辺は歴史的風土特別保存地区に指定され、生産や住環境の変更などに許可が必要で罰則もある。たまにやって来るよそ者にとっては快適な環境だが、そこに住んでおられる地元の人はどんな気持ちなのでしょうか。

周濠に囲まれたコナベ古墳(小奈辺古墳)が見えてきました。全長204m、後円部径125m、後円部高さ20m、前方部幅129m、前方部高さ17.5m、前方部を南方向に向けた三段築成の前方後円墳で、全国31番目の規模。築造は5世紀前半とされる。宮内庁は「小奈辺陵墓参考地」として管理しいます。まだハッキリしないが、皇族関係の人が葬られているらしい、とのことだろう。元正天皇とか、仁徳天皇の先の皇后イワノとかが推定されるそうです。

 ウワナベ古墳(宇和奈辺古墳)  


緑豊かな歴史の道を東へ歩いていると、癒しの空間に突如現れた異様な風景。守衛兵が立ち、物々しい警護の雰囲気。ここは航空自衛隊奈良基地で、この門は「航空自衛隊幹部候補生学校」の入口だった。説明版があり、1957年(昭和32年)山口県の防府基地から、ここ旧法華寺領内に移転されてきたという。

よりによって古都・奈良の風光明媚な丘陵の、それもあの名刹・法華寺領内に移って来なくてもよいのに。この周辺は歴史的風土特別保存地区なのです。保存地区指定の地図をよく見ると、基地の部分だけポッカリと穴が開いたように外されている。神功皇后(仲哀天皇妃)、日葉酢媛(垂仁天皇妃)、磐之媛(仁徳天皇妃)の御霊を御守りするためなのでしょうか・・・。
自衛隊基地を越えると、また歴史的風土特別保存地区になり癒される景観が戻ってくる。目の前に満々と水をたたえた大きな周濠が広がる。周濠としては今まで見てきた中では最大です。池の奥には、緑に覆われこんもりとした島が浮かぶ。これがウワナベ古墳(宇和奈辺古墳)で、主全長256m、後円部径129m、後円部高さ20m、前方部幅127m、前方部高さ20mの前方後円墳。全国でも13番めの大きさを誇る。多数の埴輪が見つかり、それから5世紀中頃~後半の築造とされている。

現在は、宮内庁の「宇和奈辺陵墓参考地」として抱き込み管理され、立ち入り調査さえできない。だから誰が眠っているのかさえ判らない。不確かなものに税金が・・・。
「コナベ・ウワナベ」は、現在地区名になっているが、古語でそれぞれ前妻・後妻の意味だそうで、大王の配偶者の可能性を示しているという。規模の大きさから仁徳天皇の皇后あるいはその皇子ではないかとの見方もある。

 元正天皇 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)  


佐紀盾列古墳群はウワナベ古墳で終りですが、さらに東の佐保丘陵にも奈良時代の天皇陵が有ります。ついでなので訪ねて見ることにした。
県道44号線を北上すると「奈良ドリームランド」跡地への入口が見えます。佐保丘陵一角の広大な敷地に、かって「ディズニーランド」があったのです。新宿歌舞伎座・大阪新歌舞伎座を経営していた興行師・松尾國三が、アメリカのディズニーランドを見て感激し、ディズニーの技術協力を得ながらそっくりな遊園地をここに作った(1961年)。東京ディズニーランド開園の20年前です。しかしディズニー側とこじれ、”ディズニーランド”の名称をもらえず「奈良ドリームランド」となった。その後、東京ディズニーランド(1983年)、USJ(2001年)の開園などで入場者激減し、2006年廃園に追い込まれる。現在跡地の再開発もままならず、ディズニーランドそっくりな遊戯施設を残したまま廃墟となっているそうです。2004年には同じ奈良市にあった近鉄あやめ池遊園地も閉鎖となっている。戦後復興期の夢の夢跡・・・、当時のキャッチコピーが”奈良の夢の国”だったとか。やはり奈良は「古都」にかけるべきでしょう。
廃墟入口を越えると、県道は下り道になる。地図によれば元明・元正の天皇陵は下った辺りだ。周辺にはそれらしき小山が幾つか見える。探しても標識も案内も無いのです。ウロウロしていると、左側(西側)に陵墓の垣根の一部がチラッと見えた。左側の道を入ると元正天皇陵はすぐだった。宮内庁の公式陵名は「元正天皇 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)」。
元正天皇(680~748、在位715~724)は、草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と阿閇皇女(元明天皇)の長女として生まれ、「氷高皇女(ひたかのみこ)」と呼ばれた。何故か結婚暦は無く、生涯独身だった。霊亀元年(715年)36歳の時、母・元明天皇から「次の天皇はあなたよ」と指名され、第44代元正天皇として即位する。5人目の女帝ですが、独身のまま即位した初めての女性天皇です。9年間の在任期間を大過なく務め、神亀元年(724年)皇太子・首皇子(兄・文武天皇の子)に譲位し、第45代聖武天皇として即位さす。退位後も後見人としての立場で病気がちな聖武天皇を補佐した。
天平20年(748年)4月平城宮寝殿で69歳の生涯を終えた。佐保山陵で火葬され、奈保山西陵に改葬されたという。永井路子さんの小説『美貌の女帝』の主人公。生涯独身で過ごされた女性天皇、その美しさが災いしたのでしょうか?。

 元明天皇 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)  


県道44号線を挟んだ元正天皇陵と反対側の山が元明天皇陵のはず。入口を探すが見つからない。県道の東側に一風変わった道が奥へ真っ直ぐ伸びている。幅の広さといい、雑草が生え直進しているこたから、生活路とか山道とは考えられない。100mほど直進し石垣で行き止まり。右側へ回り込む道を造ろうとした形跡がみられる。天皇陵への道を造ろうとしたのでしょうか?、不思議な道です。何も無いので引き返す。それでは元明天皇陵は一体どこだ!。
不思議な道の数十m南側にコンクリート道が山側に回りこんでいる。なにか手がかりがないかと、200mほど進んでみると拝所が見えてきました。宮内庁の公式陵名は「元明天皇 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)」。
第43代元明天皇(661~721 ,在位707~715)は、天智天皇の第四皇女で「阿閇皇女(あへのひめみこ)」と呼ばれた。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。19才(679年)の時、壬申の乱に勝利した天武・持統両天皇の子息である草壁皇子(甥であり従兄弟でもある)に嫁ぎ、軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)や氷高皇女(ひたかのみこ,後の元正天皇)をもうける。
持統11年(697年)、持統天皇の後を受け、息子・軽皇子が文武天皇として即位する。しかし慶雲4年(707年)、文武天皇は病に倒れ、25才という若さで崩御。文武天皇には後継ぎとして首皇子(後の聖武天皇)がいたが、まだ7才と幼かったため、中継ぎとして文武天皇の母が第43代元明天皇として即位することになった。息子の後を47歳の母親が継ぐという異例さで、皇后を経ないで即位した初めての女帝です。女性ながら平城京(奈良時代)の初代天皇さんです。
霊亀元年(715年)、55歳になった元明天皇は自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ14歳と若かったため、娘の氷高皇女を第44代元正天皇として即位さす。息子(文武天皇)から受け継いだ母が、今度は自分の娘へ譲位する、という日本の歴史上例を見ない継承劇が行われた。養老5年(721年)61歳で崩御する。

平成22年(2010)「平城京遷都1300年祭」で天皇皇后両陛下が奈良に来られた時、平城遷都した奈良時代最初の天皇という事でこの元明天皇陵に御参拝されたそうです。
県道44号線から真横に真っ直ぐに造られているあの不思議な道は、もしかしたら天皇皇后両陛下の参拝用に造られたのかも?。正面拝所の道を挟んだ反対側は、一段と高くなった丘で多くの民家が建ち並んでいる。ちょうど拝所を見下ろす位置になる。両陛下を見下ろされたら困るということで、横からの道を・・・。これも宮内庁の細やかな御配慮なのでしょうか?
県道を挟み東西に、母娘は仲良く並んで眠っています。それにしても何故、案内標識ぐらいは設けないのだろうか?。

 第45代聖武天皇・光明皇后 御陵  



次は聖武天皇ご夫婦の陵墓を訪ねます。
東大寺の転害門から一条通りを約400mほど歩けば、佐保川と斜めに交差した「法蓮橋」が架かっている。法蓮橋を西に渡りきると、山側に玉砂利を敷き詰めた真っ直ぐな参道が伸びている。この奥に聖武天皇ご夫婦の陵墓があります。真っ直ぐ進めば聖武天皇の南陵に突き当たる。宮内庁の公式陵名は「聖武天皇 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)」。考古学名は「法蓮北畑古墳」。

聖武天皇陵へ直進する参道の中ほどで、右へ折れる道が分かれている。この道が光明皇后の東陵へ至る参道となっています。距離にして200mほど。民家裏の山際の、今にも崩れかけそうな斜面に拝所が設けられている。
陵墓入口にある宮内庁の建てた制札板には「聖武天皇皇后 天平応真仁正皇太后 佐保山東陵」と書かれている。これが正式な尊号のようです。「光明皇后」というのは後世に名付けられた名称で、当時は「安宿媛(あすかべひめ)」、740年頃からは「光明子(こうみょうし)」と名のるようになったという。
安宿媛は藤原不比等の第三女として生まれ,16歳で首皇子(おびとのみこ、文武天皇の第一皇子、後の聖武天皇)の妃となった。第45代聖武天皇の時代は自然災害・疫病・反乱といった社会不安に見舞われ、天皇はしだいに仏教に依拠しようとします。諸国に国分寺・国分尼寺を建てたり、東大寺盧舎那大仏像の建立もすすめた。光明皇后もそうした夫を励まし、自らも仏教の慈愛の精神から慈善事業に取り組む。貧困者や孤児などを収容する悲田院(ひでんいん)や、薬草を集め貧しい病人に薬を与える療養所・施薬院(せやくいん)といった施設を建てた。天平勝宝8年(756)、夫の聖武太上天皇が崩ずると、天皇の遺品を「身近にあると思い出して悲しいから」と東大寺に献納した。これが正倉院の始まりといわれる。

天平宝字4年(760年)、病を得て崩御。夫・聖武天皇陵の脇の佐保山東陵に葬られた。情熱を傾けた東大寺も真近で良く見える場所です。しかし、中世にこの佐保丘陵に多聞城という城が築かれ、陵墓は破壊され城郭の一部に利用されたようです。そのため正確な陵墓の位置はわからなくなった、といわれる。確かに佐保山南陵を見れば、とりあえずこの山際に造ったという感じがします。

 5月3日、聖武天皇・山陵祭(さんりょうさい)  


東大寺や盧舎那大仏像の生みの親は第45代聖武天皇です。その聖武天皇は天平勝宝8年(756)5月2日、56歳で崩御された。同19日、佐保山陵に葬られたとされる。
毎年5月2日、命日法要「聖武天皇祭」が東大寺で行われる。毎年ゴールデンウィークと重なり、多くの観光客や参拝者で賑わいます。日ごろは公開されていない天皇殿を見学できたり、式衆・稚児などによる練り行列などが行われる。
翌3日は「山陵祭(さんりょうさい)」が行われる。山陵祭とは、東大寺の住職(別当)・僧侶さん達が、聖武天皇が眠っておられる佐保山御陵へお参りし、陵前で追善法要を行うことです。
午前8時半、大仏殿廻廊の西側にある一番北側の門から出発し、行列をつくり徒歩で佐保山御陵へ向かわれます。白の法衣をまとった僧侶さん達が一列に整然と並び、厳かに無言で歩いてゆかれます。宮内庁の衛士に先導され、大仏池の横を通り正倉院前から広い参道を転害門(てがいもん)へ向かう。転害門は、通常は柵止めされ通り抜けできないが、この日だけは柵が取り払われる。一般人もこの日だけは通り抜け御免と思い通ろうとしたら、厳しい顔で制止されました。東大寺の僧侶と関係者しか通れないようです。お寺に注連縄とは不思議ですが、これは境内にある手向山八幡宮の祭礼(転害会)のためのもので、4年に1回新調されるそうです。
転害門を出た一行は、真っ直ぐ西に伸びた「一条通り」を300mほど進み、法蓮橋から佐保山御陵へ入っていかれる。宮内庁先導のもと、住職、僧侶、関係者一同が一列になって黙々と陵前の階段を登って行かれる。

聖武天皇(しょうむてんのう、701~756、在位 724~749)は文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子。「首皇子(おびとのみこ)」と呼ばれた。霊亀2年(716)16歳の時、藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ,後の光明皇后)と結婚。母と妻が共に藤原不比等の娘であるという奇妙な関係になる。こうして藤原氏は天皇家に食い込んでいった。神亀元年(724)元正天皇より譲位され24歳で即位し、第45代聖武天皇に。
翌年(725年)平城京のある奈良周辺で大地震が発生。聖武天皇の治世中に地震・干ばつ・飢饉などの自然災害が相次ぎ、または疫病の流行で高級貴族や高官など多数が死亡する。待望の長子が誕生するが生後1年で夭折してしまう。その上、長屋王の変や藤原広嗣の乱などの政変が起こる。
天災や世情の混乱は天皇に人徳が無いからだとみなされた。精神的に追い詰められた天皇は、「呪われた都」から遁れるように、伊勢や美濃、近江などへ行幸を繰り返す。ついには奈良の平城京から恭仁京(現・京都府加茂町)→紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)→難波宮、さらに紫香楽宮へと遷都を繰り返した。その間も、天災は容赦なく各地で頻発していた。
最後は仏の慈悲にすがるしかなかったようです。鎮護国家のため、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を勧め(741年)、天平15年(743年)には東大寺盧舎那大仏像の建立の詔を出している。
天平17年(745年)再び平城京へ戻り、盧舎那大仏像の鋳造を始める。天平21年(749年)、娘の阿倍内親王へ譲位し第46代孝謙天皇とし、自らは東大寺造立に専念するようになる。そして、天平勝宝4年(752年)4月9日に盧舎那大仏像が完成し、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后らは東大寺へ行幸して、開眼供養を盛大に催した。その4年後の天平勝宝8年(756年)56歳の生涯を閉じ、東大寺に近いここ佐保山南陵に葬られました。

厳粛な雰囲気の中、陵前では長い読経が続いています。もう少しお参りや見物の人達がいるのかと思っていたが、それ程でもない。毎年の年中行事なので、もう珍しくもないのでしょうネ。この後一行は、すぐ右側の佐保山東陵に移動し、光明皇后さまの冥福もお祈りする法要が行われるそうです。

ここ佐保山御陵での法要が終わると、一行は再び東大寺に戻って午前11時より裏千家による献茶式が大仏殿内正面宝前で行われるそうです。その時、大仏殿東回廊で一般の人に抹茶がふるまわれるとか。
30分ほど見学していたが、終わりそうもないので、次の予定地・平城宮跡へ向かいました。



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