山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 4)

2015年08月25日 | 街道歩き

 近鉄電車と平城宮跡  



私は近鉄電車で奈良公園へ時々ウォーキング(遊び?)に行きます。奈良の街に入る手前に、広~い空き地が広がっているのは目にしていたが、これが平城宮跡とは知らなかった。数年前、この空き地の奥に、宮殿らしき建物が現れ、やっとここが平城宮跡だということを知りました。そして2010年平城京天平祭の時に、初めて宮跡内を歩いた。一番の印象は、歩いても歩いても端にたどり着かない”広すぎダァ~”だった。今は、電車の車窓から広場と大極殿の建物が見えてくると、やっと奈良に着いたゾ!という気分にさせてくれます。
ところが、平城宮跡内を私鉄が横切るのに異を唱える人がでてくる。2007年の奈良県知事選で、宮跡内の線路の地下化推進を公約に掲げた知事が当選された。国土交通省も、近鉄奈良線の移設・地下化を検討しているという。平城宮跡の両側の駅(大和西大寺駅、新大宮駅)も地下へ埋めてしまえ、という案もあるそうだ。
2010年奈良県は、平城宮跡内を横切る近鉄奈良線の移設の賛否を問うアンケート調査を実施した。その結果、「車窓から宮跡が見えて奈良らしさが感じられる」など肯定意見が512件(県民219件、県外観光客293件)
「電車が通過するのは見苦しい」など否定的な意見が398件(県民117件、県外観光客281件)
だったそうです。このアンケートだけみれば、それほど違和感はないようです。

大阪の上本町から「大仏さん」の奈良まで、大阪電気軌道(近鉄の前身)の路線が開通したのは大正3年(1914)。その当時、大極殿周辺は宮跡だと知られていたが、現在の近鉄路線の辺りは田畑で、まさか平城宮跡内とは思わなかったに違いない。それから百年、いまさら”見苦しい、消えろ!”と云われても近鉄さんは困ることでしょう。朱雀門へ行くのに踏切りを渡らなければならない、見苦しい、などといった問題はあるが、それらのデメリットをカバーするだけの広大さがここ平城宮跡にはあります。このバカデカイ空間にいれば、そんなの何とチッポケなことか。見方を変えれば、古代と近代がマッチし、一枚の絵にもなる。阪神電車や京都地下鉄の車両も乗り入れているので、電車マニアにはたまらん場所です。

 平城宮跡内の施設  


平城宮のことをより詳しく知ったり、発掘調査の過程や内容を見学できる施設が備えられている。
平城宮跡の西北端に設置されているのが平城宮跡資料館。奈良文化財研究所の約50年にわたる発掘調査をもとに、在りし日の平城京の様子をわかりやすく紹介している。天皇や貴族の暮らしぶり、役人の仕事の様子をジオラマで再現し、また木簡や土器、瓦などの出土品類の模型も展示されています。
2013年4月24日(水)からインターネット上のGoogleストリートビューで内部の展示を全て見て周れます。歩かなくてよいので楽チンですが、パソコンのモニター上で自由に移動できるには、かなりの歩行訓練が必要かも。

平城宮跡の北東隅には遺構展示館があり、掘立柱の柱穴の跡や溝などの遺構を発掘当時の状態で保存し、公開している。
資料館・遺構展示館とも独立行政法人国立文化財機構の運営で、入館は無料で、開館時間<9:00~16:30(入館は16:00まで)>、休館日<月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始休館>となっている。ボランティアガイドさんも常駐し、親切に説明していただけます。

朱雀門の西側、平城宮跡から一歩出たところに平城京歴史館があります。入口横には巨大な遣唐使船の復元模型が置かれている。ここは古代における中国大陸・朝鮮半島との交流を、アニメーションやストーリー仕立ての映像展示などを駆使して解説している。
平城宮跡の見学は全て無料と思っていたら、ここだけは入館料(一般)500円とあり、一瞬ためらった。せっかくだからと入館したが、あまりにもバーチャル過ぎて興ざめし、すぐに出口へ向かいました。同じような意味で、私は某局の「歴史ヒステリア」なる番組が大嫌いなのです。家族連れなら楽しいでしょうが、おじさん一人では・・・。ところでこの歴史館の運営母体は??。

 平城京天平祭(2015/5/3)  



「平城京天平祭」は毎年春・夏・秋に平城宮跡で催される。春は5月3日~5日(子供の日)まで催されるが、メインイベントは3日(祝日)の「平城京天平行列-平城遷都之詔」です。
その行列が行われる大極殿前の広場です。南側の朱雀門方向から第一次大極殿を眺めたもの。天平衣装を身にまとった奈良時代の天皇や貴族、文武百官などは、手前の朝堂院広場の南側に集合し、大極殿目指して真っ直ぐ北上するのです。
行列開始の11時が近づくにつれ人々が集まってくる。ここは大極殿の築地回廊の内側ですが、ここだけでもかなりの広さです。

午前11時、行列が入ってきた。警護の衛士隊を先頭に、伎楽隊、文武百官と続く。大極殿の前には四色幕が張られ、その前には四神を描いた四つの仗旗(四神旗)が立っている。即ち、青龍・白虎・朱雀・玄武です。両側にはお祭りを盛り上げようと大太鼓が、さらにスピーカーが設置されている。

続いて、いよいよ歴代天皇のご登場となる。即位順に行進されるので、先頭は710年に都を藤原京から平城京への遷都を宣言された元明天皇(げんめいてんのう)。
天智天皇の第四皇女で、息子・文武天皇が病に倒れると、母が「第43代元明天皇」として後を継いだ。時に47歳。平成の元明天皇さまは「第26代ミス奈良」さんです。宝冠を被り、白の礼服を着ておられる。

続いてのご登場も女帝さんです。元明天皇の娘で、霊亀元年(715年)36歳の時、母・元明天皇から「次の天皇はあなたよ」と指名され、第44代元正天皇として即位する。5人目の女帝ですが、独身のまま即位した初めての女性天皇です。永井路子さんの小説『美貌の女帝』の主人公。生涯独身で過ごされた女性天皇、その美しさが災いしたのでしょうか?。平成の元正天皇さまも独身なのでしょうか?、気になります・・・。

東大寺大仏像の産みの親:聖武天皇ご登場。
聖武天皇は藤原不比等の娘が生んだ子。そこへまた藤原不比等の娘が嫁ぐ(光明皇后)。母と妻が同じ男の娘という奇妙な関係。これでは藤原家に頭が上がらない。その上、自然災害や反乱などに見舞われ世情が混乱した時代。精神的に追い詰められノイローゼ気味になったこの天皇様は「呪われた都(平城京)」から遁れるように各地へ旅し、ついには平城京を捨てあちこち遷都を繰り返した。最後は仏の慈悲にすがるしかなかったようです。平城京に戻り東大寺を造立し、巨大な仏像を造り上げた。そして名を残した。この行列の聖武天皇は某**ハウスの奈良支店長さん。はたしてこの会社に、東大寺ほどの建物を建てる力があるだろうか?

続いては聖武天皇の妃・光明皇后。藤原不比等の第三女として生まれ、藤原氏の政略のため首皇子(後の聖武天皇)に嫁がされる。天災地変が相次ぐなか、気弱な夫・聖武天皇を支え東大寺大仏像の建立、興福寺・法華寺・新薬師寺など多くの寺院の造営や整備に関わり仏教の発展に寄与した。また悲田院や施薬院などをつくり、貧しい人や難病者の救済に努力された。そうした功績からか、皇后でありながら天皇の列に加わっていらっしゃる。
目の前の皇后様も美しい、そのはず松竹芸能の方です。
待ってました!孝謙女帝さまのご登場。
聖武天皇と光明皇后との一人娘。弟がいたが生後1年で夭折してしまったので、病気がちだった父・聖武天皇は娘に譲位,第43代孝謙天皇として即位しました(32歳)。 史上6人目の女帝さんです。しかし実際の政務の実権は母・光明皇太后と藤原仲麻呂が握っていたようです。10年後、母・光明皇太后を介護するという理由で退位し,淳仁天皇に譲位しました。
これで5人目だが、そのうち4人までが女性。ナント奈良時代は女性優位の時代だったことか。
紅白歌合戦の派手な舞台衣装のような姿でご登場されたのは、第25代ミス奈良でございます。

大極殿前には列席のご天皇様が、左から順に既に紹介した元正・聖武・光明皇后・孝謙の天皇様。
その右横が淳仁天皇。孝謙上皇との権力闘争に負け、淡路島に島流しされ幽閉されてしまう。「淡路廃帝」と揶揄された情けない御仁。某会社の奈良支店長さんが演じます。
さらに右横が淳仁天皇を廃位させ、再び第45代称徳天皇として復活した孝謙女帝その人です。だから、本来は淳仁天皇の左右の二人の女性は同一人物。女帝も40代の半ばで女盛り、なぜか僧・弓削道鏡と仲良くなってしまう。二度も天皇になった女性で、生涯独身を貫き、お坊さんとの色恋を噂され、後世に「淫乱な女帝」として小説の好材料を残してくれた。そういう意味では稀有な天皇さんで親しみをもてる。
最後が、紫の衣をまとった光仁天皇に扮する某大学付属幼稚園園長さん。

みなみな大極殿の前庭に整列し終えると、平城京天平祭・春のクライマックス「平城遷都之詔」の儀。第一次大極殿の前面壇上に姿を現した平城京初代の元明天皇が「平城遷都之詔」を読み上げます。

実際には、お傍の少納言(仲川げん奈良市長と知って、笑ってしまった・・・)が巻物を開き読み上げる。
内容は「方(まさ)に今、平城の地、四禽図(しきんと)に叶い、三山鎮を作す。亀筮(きぜい) 並びに従う。宜しく都邑(とゆう)を建つべし」(平城の地は、東西南北の四神に守護され、三方山々に囲まれた縁起のよい土地。占いに従ったものだ。さあ共に都づくりをしよう)

読み終わると、全員で「よろしく とゆうをたつべし」と三回合唱する。会場内の皆様もご協力下さい!、とあった。そんな合唱、聞こえんかったナ。

広場いっぱいに広がる艶やかな女官さんたち、奈良時代っていいナ!・・・??。奈良女子大学をはじめ地元高校・大学の女生徒たち。それと関連企業(協力金?)の女子社員さん。いっそう華やかさが増します。

天平衣装の百官は、階位によって装束の色が位の高い順に紫・緋色(赤)・緑・藍色(青)に厳密に区分されていた。皆、右手に板片を持っている。これは長さがほぼ1尺であるところから「笏(しゃく)」と呼ばれ、束帯着用時に威儀を正すための板片。実際は、裏に紙片を貼り付け、式次第などを書き記した備忘のためのメモ帳。高官のものは象牙製だったという。

平城宮跡西側のイベント広場「東市西市」では、食べ物・奈良の物産販売の沢山のブースが並び混雑している。また風車、綿菓子、折り紙、ネックレスなどの工房が有り、物づくりも体験できます。天平衣装体験も。
路上では、「足長お兄さん」など天平人の大道芸が楽しませてくれる。ところで「せんとくん」はどこへいったのでしょうか?。一度も見かけなかった(見たくもないが・・・)


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